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2015年10月24日 (土)

「権利ばかり主張して義務を忘れとる」という妄言について

権利という言葉を使い続けるかどうか。
 権利という言葉の使い方で「権利ばかり主張して義務を忘れとる」というのは、徳川時代まで「権」という字はイキオイという意味があり、それをそのまま前提にして、権利というのは勝手な主張という意味で造語された経過がある。当時の常識では「権」も「利」もあまりよいニュアンスではなかったのである。それに対して義務(正しい務め)が対置されたというのが、成沢光『政治の言葉』が明らかにしたことである。

 そもそも自然法の考え方では、個々人に本来的に存在する自然的なRightと、国家構成にともなうObligationはレベルを異にするものである。それを「権利ばかり主張して義務を忘れとる」というような形で、私人間のギブandテイク原則と混同するのは、根本的な間違いである。このような天を小学校のときに、権利という言葉の語源に踏み込んで教材化しておくことができれば、常識ある大人がふえるだろうと思う。


 さて、この成沢の仕事が講談社学術文庫で再版されたとき、私は成沢の要請で、その解説をかいた。その前提になっていたのが、『かぐや姫と王権神話』(洋泉社)という本で書いた下記の一節であった(この解説の一部を拙著『日本史学』での『政治の言葉』の紹介に使った)。


 成沢によれば、江戸時代まで「権」は「イキホヒ」と読まれ続けており、「権利」という言葉はこの「権(イキホヒ=個々人の恣意的な力)」と「利益」を合成した造語であり、それに対して「義務」という言葉は「正義の務め」という意味であったという。ここには権利は恣意であり、義務が権利を制約するのが当然という世俗的な考え方があらわれており、これは欧米語のRightが正しさという意味をもっているのとはまったく異なっているというのである。これがきわめて大事な指摘ではないだろうか。
 ただ、私なりに敷衍すれば、「権」の原義がハカリの錘にあるということになれば、それは正義観念とまではいえないまでも、衡平観念を含み、あまりに原理的にRightとの差を強調するのにも問題が残るように思う。「権利」という言葉を明治時代の用法から離れて、とらえ直してしまうことも可能なのかもしれない。いずれにせよ、「権」の二重の意味というのはきわめて重要な問題で、「権」の「ハカリ・ハカリゴト」の側面をだれにでもわかるように示す『竹取物語』の論述は、「日本国」において生活し、「権利」とか「義務」とかいう言葉を使わざるをえない人間にとって根本的に重要な古典としての意味をもっているということにもなるように思う。

 ここで紹介しておきたいのは、上記の引用部分の後半部である。問題は「権利」という言葉を我々の言葉として残すかどうかにかかわっている。私は、「権」という漢字には、本来は原義に「ハカリ」があることが大事だと思う。正義の女神は秤をもっているのだから、権利の権には正しいという意味もあるのだと教えることである。小学校(または中学校)で、「権利」について教えるときは、権利という言葉を使い続けることを決めた上でやるべきことと思うので。

 実は、これは『竹取物語』をどう読むかとか、黒田俊雄の「権門」体制論をどう読むかなどの歴史学固有の問題にかかわってくるのだが、それはここでは省略。上記の『日本史学』から私見はたどれる。歴史は奈良時代から現在まで関係しあっている。

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