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2015年10月27日 (火)

日本の神道と神社を東アジアのなかで考えるために。『老子』39

 東アジアの中で神道について考えるには、道教の伊勢神道成立への影響を考えることが必要。もっとも「日本的」な神道に道教の影響が強かった。伊勢神宮は仏教から自律するために道教の思想に依拠したのである。

 これをもっともよく示すのが、以下の『老子』39章である。問題を神道史ではなく、『老子』のテキストの側から考えてみた。

谷の女神は太一を得て豊かに孕んだ(第三九章)

昔の一を得たる者、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く、神は一を得て以て霊に、谷は一を得て以て盈ち、万物は一を得て以て生じ、侯王*1は一を得て以て天下の正*2と為る。其の之を致むるや、天は以て清きこ
と無くんば、将に裂けるを恐れんとす。
地は以て寧きこと無くんば、将に廃くを恐れんとす。神、以て霊なること無ければ、将に歇むを恐れんとす。谷、以て盈つること無ければ、将に竭くるを恐れんとす。万物、以て生ずること無ければ、将に滅ぶを恐れんとす。侯王、以て貴高なること無ければ、将に蹶くを恐れんとす。故に貴は賤を以て本と為し、高は下を以て基と為す。是を以て侯王は自ら孤寡不穀と謂う。此れ賤を以て本と為すに非ざるか。故に誉を数え致むれば*3誉れ無し。琭琭、玉の如きを欲せず、珞珞、石の如し。

昔之得一者、天得一以淸、地得一以寧、神得一以霊、谷得一以盈、万物得一以生、侯王得一以為天下正。其致之也*4、天無以淸、將恐裂。地無以寧、將恐廃*5。神無以霊、将恐歇。谷無以盈、將恐竭。万物無以生、將恐滅。侯王無以貴高、将恐蹶。故貴以賤爲本、高以下爲基。是以侯王自謂孤寡不穀。此非以賤爲本耶、非乎。故致数譽無譽。不欲琭琭如玉、珞珞如石。

 本来、永遠に一であって恒常的なもの(これを太一という)が受け継いがれてきた過程は次のようなものだ。まず天は太一を得て清澄であり、地は太一を得て安寧である。そこに生じた神気は太一を得て霊威が強く、谷の女神は太一を得て豊かに孕んだ。そこから万物は太一を得て生じ、人を代表する侯王も太一を得て世界の長となった。しかしはっきりいえば、天は清澄でなければ破裂するし、地は安寧でなければ傾廃する。神に霊威が宿っていなければ心が動かなくなり、谷神が孕まなければ生命は尽きてしまう。万物が生じなければ滅亡することになり、侯王が人の代表にふさわしく貴高でなければすぐに躓いて倒れてしまう。こういう順序の中にいるのだから、侯王の身が貴であるというのは賤によって承認されたことであり、その地位が高いというのは下位者が認める限りのことなのである。そうである以上、侯王は、世界の孤児であり、寡であり、僕であるものとして存在しているのである。これこそ、賤しいものが根源となるということである。そうなのだ。だから王という誉れを数え致めていくと、それは誉れというべきものではなくなる。王の身分であるからといって美しい琭玉を欲するのは馬鹿なことだ。それは、本来、落ちている石のようなものなのだから。

解説
 『老子』の宇宙生成論はまず原初から続く恒遠なる名義のない混沌を措定し、それを強いて道と呼ぶことから始まった。そして、次に天と地が登場して欲求が生じると大地の地母神が生殖する谷間、「衆妙の門」から差異と名義をもった万物が生まれ、さらに王によって代表される人が登場するという流れをもっていた。それ故に、この世界は、道と天と地と人の四つの無限大からなっていると考えられていた。これらはすでに紹介した通りである(■■■頁)。

 本章も宇宙生成論である。本章では、宇宙生成の順序は天→地→神→谷→万物→侯王となっているが、これがほぼ同じ図式であることは明らかであろう。とくに重要なのは、天地と谷の間に神という存在があることが、若干、相違しているが、谷から万物に進むという順序は、この谷が、右に述べてきた「衆妙の門」「玄牝の門」が開く地母神の生殖の場であることを明瞭にしめしている。

 ただ、本章でのキーワードは道ではなく、「一」となっている。上記の私訳では、この「一」を「永遠に一であって恒常的なもの」と説明し、ただ、それでは長すぎるので、二度目からは「太一」と表記した。「太一」は、最近、郭店楚簡のなかに発見された「太一生水」という竹簡本による。そこでは、この「太一」が「道」に代わって宇宙の根源とされている。この竹簡本「太一生水」の冒頭にも宇宙生成論があって、それを紹介すると、「太一水を生ず。水反りて太一を輔け、是を以て天を成す。天反りて太一を輔け、是を以て地を成す。天地復た相輔け、是を以て神明を成す。神明復た相輔け、是を以て陰陽を成す」となっている。つまり「太一→水→天→地→神明→陰陽」ということになるが、陰陽とは女と男ということで「谷」における生殖に対応するから、(神明が介在していることを含めて)これは本章の図式そのものではないだろうか。郭店楚簡は湖北省郭天の楚墓から出土した竹簡で、この墓は紀元前三〇〇年頃の造営である。そのころには、いくつかの似たような宇宙論があったに違いないが、本章の「一」が、この「太一」と深い関係があったことは明らかだろう。

 実は、日本の伊勢神道でも、この太一は天御中主という伊勢神道の最高神と同一の神秘な存在とされている。これまで「太一」という言葉はそこまで古い言葉とは思われていなかったが、郭店楚簡の発見によって、『老子』の時代にさかのぼるものであったことがはっきりしたのである。伊勢神道を大成した度会家行の『類聚神祇本源』に「神を祭るコト、清浄ヲ先と為せ。我鎮に一を得るを以て念と為す也」とあって、この「一を得る」は本章の「天は一を得て以て清く」によったものである。これは神道の「清浄」観念と老子の関係を示唆する少ない史料であるが、伊勢においても「太一」と「一」は同じものであったのであろう。

 さて、本章の宇宙生成論は、直接に「侯王」論、王権論に接続されているのが大きな特徴である。『老子』は王権について極めて厳しい見方をしているが、宇宙生成の順序の中で成立した本来のあるべき王権については、下位者により承認され、その代表である限りにおいて、その存在の合理性を承認する立場にあったことがよくわかる部分である。なお、最後の「致数譽無譽」という部分は読みが難しい部分である。普通は「数しば誉むるを致さば誉無し」として「しばしば名誉を求めると名誉はなくなってしまう」(蜂谷)などとするが、ここでは「王という誉れを数え致めていくと、それは誉れというべきものではなくなる」と解釈した。老子のいうのは、王個人に対する倫理的な助言というよりも、王権というものが客観的にはどういうものなのかについての説明と考えた方がよい。その方が宇宙論から展開する文脈にのりやすいだろう。

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