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« 老子のフェミニズムをどう考えるか。『老子』43 | トップページ | 『老子』6。玄々とした地母神は、その門を谷間の奥に開く。 »

2015年10月25日 (日)

老子のフェミニズムと神話。老子1章、道の道たるは

 以下は『老子』でもっとも有名な第一章。「道の道とすべきは、恒の道に非ず」という章である。アーシュラ・K・ルグィンの英訳を掲げた。

1  万物を産む大地母神の衆妙の門ーー母性原理の神秘
道の道とすべきは、恒の道に非ず。名の名とすべきは、恒の名に非ず。名無し、万物の始め。名有り、万物の母。故に恒なるものは欲無くして*2、観るに以て其れ眇なり。恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり。此の両者、同じく出でて名を異にするも、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。

道可道、非恒道。名可名、非恒名。無名、万物之始。有名、万物之母。故恒無欲、以觀其眇。恒有欲、以觀曒*3。此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

The way you can go
isn't the real way.
The name you can say
isn't the real name.

Heaven and earth
begin in the unnamed:
name's the mother
of the ten thousand things.

So the unwanting soul
sees what's hidden,
and the ever-wanting soul
sees only what it wants.

Two things, one origin,
but different in name,
whose identity is mystery.
Mystery of all mysteries!
The door to the hidden.

 (道徳だとか、道義だとかいわれる規範としての)いわゆる道と、ここでいう恒遠の存在としての「道」はまったく違うものだ。また、(普通、名声だとか、有名だとかいわれる評判としての)いわゆる名も、ここでいう「名」、つまり名義分明な法則、理法とはまったく違う。そもそも万物の始めの段階では、名義分明な法則もないものだ。(天地が分かれ、陰陽、雌雄の違いとそれにもとづく欲求が生じ)、大地を母として万物が産まれる時に、はじめて名義分明な理法が顕現する。恒遠たるもの、「道」のなかに欲求がまだ生まれていないときは、全体の様子は混沌とした渺々である。その恒遠なるもののなかに欲求が生まれて、初めて名義が差異が分明(曒)に顕現するのだ。そして、恒遠たる道の渺々とした混沌と、名義の差異が分明な法則の両者は、名目は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、「道」と「名」の玄と玄が重なっている場所こそが世界万物がうまれる「衆妙の門(多数の妙なるものを生み出す門)」が開いている場である。


解説
 本章は『老子』の第一章であって、『老子』を読む人にとってもっとも印象的な章である。これについては、特別に原文に続けて、『ゲド戦記』『所有せざる人びと』のSF小説家、アーシュラ・K・ルグィンの英訳を掲げた。意味を取ることがきわめて難しいが、まずは、漢文を暗唱し、また英訳を参照して哲学詩として読むのがよいと思う。

 極端に省略されているが、ここに前提されているのは、やはり宇宙論である。つまり「無名、万物之始。有名、万物之母」という部分、ルグィンの英訳の「Heaven and earth begin in the unnamed: name's the mother of the ten thousand things」という部分を宇宙の始めから天地の生成について論じたものと読む。たとえば「万物の始めのとき、宇宙に動きがあって、ビッグバンが始まる。そこでは混沌が広がっていくだけで、宇宙の法則的な展開は明らかではない。しかし、ビッグバンの後、宇宙が形成され、星ができて物理法則が働き始め、地球にも天地が分かれてくると、そこに生態系が生じ、生物の繁殖にともなう雌雄と欲求の関係が生じると、万物が生まれ、それにともなって生態学的な法則が登場する」と読むのである。

 こういう宇宙論を援用するというのは、もちろん、『老子』を後知恵で読むことである。けれども、私の現代語訳に書いたように、「道」を恒遠な存在それ自体、「名」をそれをつらぬく法則=理法と考えれば、『老子』の筋道を大きく毀損することなく、話を通すことができると思う。

 そうすると、次の「故恒無欲、以觀其眇、恒有欲、以觀曒」の部分も万物の形成の論理を説いたものとして読めると思う。つまり、まずこの節の前半、「恒なるものは欲無くして、観るに以て其れ眇なり」という部分は、「無名、万物之始」ーー万物が名義分明な法則をもたない段階に対応するだろう。そこではまだ「恒なるもの」には欲求は内在しておらず、もっぱら渺々とした混沌があるというのである。それに続く「恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり」という後半部分は、明らかに「名有り、万物の母」という部分に対応している。つまり、通じて解釈すれば、万物の母の下で名義があるようになって、恒なるものの中に欲求が生まれ、初めて名義分明な理法が曒に顕現するのだということになる。

 もちろん、『老子』の議論をそのまま現代的な宇宙論そのものにもってこようというのではないが、以上のように読んでくれば、『老子』の本章が、恒遠な存在それ自体を意味する「道」と、それをつらぬく法則=理法を意味する「名」の両者を対応するものとして論ずるという明瞭な論理をもっていることは否定できないと思う。

 私が、以上のような解釈をする理由は、いわゆる上博楚簡のなかに発見された『恒先』という、これまで知られていなかった書物に「濁気は地を生じ、清気は天を生ず。気の伸ぶるや神なるかな。云云相生じて、天地に伸盈し、同出なるも性を異にし、因りて其の欲するところに生ず。察察たる天地は、紛紛として其の欲する所を復す。明明たる天行、惟お復のみ以て廃せられず」という一節があることを重視するためである。これは「天地の形成によって「気」が充満していき、その同じ気を発生源とする万物は、それぞれ性を異にしており、そこに欲求が生じ、その営みが繰り返される」と解釈することができるだろう。これを前提として『老子』第一章を読めば、天地の形成の後に、異なる性、つまり雌雄の関係において欲求が生まれたと解釈するのが自然であることになる。とくに重要なのは、この『恒先』という書物では宇宙の原初に存在するものが「恒」と呼ばれていることである。この点は「恒」なる存在の中に欲求が生まれるという『老子』に共通する論調であるといってよいのではないだろうか。『恒先』は『老子』とほぼ同時期に存在していたと考えてよいものであるから、それを参照として『老子』を解釈することは自然なことであると思う。

 従来、この「恒なるものは欲無くして、観るに以て其れ眇なり。恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり」という部分は、宇宙生成論として読まれることはなかった。たとえばもっとも一般的なのは「だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る」(福永一九九七)*1ということになる。これは右にかかげたルグィンの英訳も同じことである。ようするに、こういう考え方と解釈にもとづいて老子の思想は、一般に「無欲の思想」「無欲の哲学」といわれる訳である。

 率直にいって、これは老子の哲学を「無欲」をお説教するもにと矮小化することであって、その善意を疑うものではないが、老子の思想をおとしめるものではないだろうか。もちろん、それらと若干違う意見もある。それを代表するのは長谷川如是閑の「無において名づくべきもののない、絶対の境地(眇)を観、有において名づくべきもののある相対の境地をみる」などの解釈であって*2、そこでは無欲・有欲の両方が世界の認識において意味があるとされている。これらは、より冷静な見方であって、たしかに『老子』本章は、そのような人間の認識態度についての考え方を含蓄として含んでいることは否定できない。しかし、やはり、そこに還元してしまうのではなく、『老子』本章はまず宇宙生成論として読み切っておくことが必要であると考える。

 つまり、本章の解釈の最大の問題は、その最後の段「此の両者、同じく出でて名を異にするも、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり」である。私見のように、本章を宇宙生成論として読み切ることによってはじめて、この部分を宇宙と天地万物の生成にかかわる神話的イメージをベースとして筋を通して解釈することができるのである。この部分の現代語訳を次に再掲する。

そして、恒遠たる道の渺々とした混沌と、名義の差異が分明な法則の両者は、名目は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、「道」と「名」の玄と玄が重なっている場所こそが世界万物がうまれる衆妙の門(多数の妙なるものを生み出す門)が開いている場である。

 つまり、恒遠たる存在、混沌とした道それ自体とと、それを貫く差異を生み出す法則の世界は同根のものであって、そのような玄冥な実態と法則が重なる「衆妙の門」から万物が生み出されるというのである。これはいわば混沌したものから差異をもった万物が生まれる場、「衆妙の門」とは「万物の母」なるものの「門」であろう。この表現の背景には巨大な母なる神の神話的イメージが存在するのではないだろうか。

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