BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« 『老子』 14 虚にして霊ありーー東洋的な無の思想 | トップページ | 老子のフェミニズムをどう考えるか。『老子』43 »

2015年10月24日 (土)

『老子』 73 天の網は大きくて目が粗いー人間の決断をみている

 一昨日22日、高校時代の山領先生にお願いして長谷川如是閑の『老子』を、借用に参上した。山領先生は如是閑の研究者。『転向』に如是閑論を書かれている。如是閑の『老子』は古書でもなく、窮余の一策。
 早速に役に立った。

 中学校の漢文でならった唯一の『老子』であるような気がする。漢文教育を復活した方がよいというのが私見だが、そのとき中学校では、是非、『老子』。

73 天の網は大きくて目が粗いーー人間の決断をみている理法

敢えてするに勇なるものは則ち殺。敢えてせざるに勇なるものは則ち活。此の両者は、或いは利に、或いは害なるも、天の悪む所は、孰れかその故を知らん。天の道は、争わざるをして善く勝たせ、言わざるをして善く応じ、召かざるに自ら来り、坦然として善く謀る。天網恢恢、疏にして失わず。

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。天之道、不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、坦然而善謀。天網恢恢、疏而不失*1。

 危機に直面したとき、行動を決断して「殺」となるか、自制を決断して「活」となるか。どちらに利があり、害があるか。天がどちらを否とするか、その理由は何か。それは、誰にも分かることではない。天の道は、ただ争わないものを善く勝たせ、言上げしないものに善く応え、求めないもののところに来て、坦然としたものに善く計らうというだけである。天から地を覆って理法の道を作っている縄網は、大きくて目が粗いのだ。しかし、そこでは、決して、実意ある決断が忘失されることはない。

解説
 本章冒頭の「殺」と「活」は名詞として読み下すのが良いという長谷川如是閑の読みに従った。「殺」「活」は、危機において決断した人間が、どうなったかという受動的な結果、状態を表現すると読むのである。これに対して、「殺す」「活かす」などと動詞として読むと、その主語が問題となって読みが混乱する。たとえば、もっとも多いのは、「殺す」「活かす」の主語を裁判者とする場合であって、武内義雄は「ここに一つの疑獄があって、果断なる人は殺すべしと判断し、遅疑する人は活すべしと判断する場合、この果断者と遅疑者の両方は倶に利害を謀り考えて判断するのであるが、かかる問題は利害の打算で定むべきものでないから、果断者・遅疑者のいずれもこれを知ることができない。いわゆる天意・天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われ、呼ばずして自ら従い来るもので、寛大ではあるがぬけ目のないものである。言い換えれば天が善を助け悪をとらえる網は大きくして網目はまばらであるが漏失することはないものである」と訳している*2。

 他の解釈の枠組みもほぼ同じであるが、「殺」「活」の状態となる人間、裁判者、さらには「天」の三者が短い文章のなかにでてきて、なかなか意味が取りにくい。そもそも、老子が裁判者の立場に立って問題を述べるということ自体に根本的に疑問がある。しかも、その実際の主張は、利害によって裁判を判断してはならないという、あまりに当然の結論である。そんなことを老子がいうかどうかである。また上記では「天の道は、争わざるをして善く勝たせ、言わざるをして善く応じ」と読み下したが、普通は、ここを「争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ」と読み下して、天道というものは争わずして勝ち、いわずして行われると解釈する。しかし天道が「争わずして勝ち」というのは意味がおかしいし、通りにくいのではないだろうか。私は、右のように現代語訳して、むしろ老子は決断の価値と必要性を認め、人生において決断することの意味を説き、我々を励まそうとしていると考えたい。

 とはいっても、実は、このような解釈は、最後の「天網恢恢、疏にして失わず」という有名な一節の解釈にかかわっている。つまり、この「天網」の「網」の字を紀綱・法と理解し、天の法はすべてを見ていて嘘を許さず、罪を許さないと解釈されている。天網とは「天が悪人を捕らえるために張りめぐらした網」(福永)のことだというのである。前記の武内の見解は、実際には、これにあわせて前半部分を解釈したために生まれたものなのである。老子は悪人を捕らえ、犯罪を罰するのは天に任せるべきであって、人為的な刑法の運用に賛成せず、威圧的な刑罰主義に反対する。これが法家と違うところなのだというのである。しかし、そもそも、天に悪人を見逃さない網があるのだというのは、実質的には法家より厳しい法規主義ではないだろうか。

 老子のいう「道」はもっとかけねなく無為自然のもの、「無の思想」そのものであるように思う。前項一四章でみた道は基本的には宇宙と天地の間に広がっていくエーテルのような理法であって、基本的に自然的なものであった。それが、ここでは人間の運命や決断に何らかの形でかかわる不可視の存在として登場していると考えればすむのではないだろうか。そう考える私は、この天網は、前項一四章のいう透明な縄が絡み合ったような不可視の「希夷」なる道の広がりのことをいうのではないか、虚空に広がる道の網そのもをいうのではないかと思う。道を象徴する縄が、見えず、聞こえず、触れることもできないまま世界に偏在していくというイメージである。その意味で、この「天網恢恢」を法規主義から完全に切り離して無の思想のなかに位置づけたいと思う。この無の天網が人間の決断を見ている、そして励ましているというのが、我々弱い人間に対する、老子の励ましなのではないだろうか。

« 『老子』 14 虚にして霊ありーー東洋的な無の思想 | トップページ | 老子のフェミニズムをどう考えるか。『老子』43 »

宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 『老子』 14 虚にして霊ありーー東洋的な無の思想 | トップページ | 老子のフェミニズムをどう考えるか。『老子』43 »