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2015年11月

2015年11月28日 (土)

歴史地震の呼称に元号を冠するのは適当ではない

ある地震学者に出した手紙です。前半省略、結び省略


 さて、「貞観津波」など、「歴史地震の呼称に元号を冠するのは適当ではない」という私見に御注目をいただきありがとうございます。

 このようなことを考えましたのは、「貞観津波」という用語に違和感をもってからです。つまり、貞観は太宗李世民の時代の中国、唐の年号として著名なもので、日本の清和天皇の元号、「貞観」はそれをまねたものです。清和は太宗の『貞観政要』を学んだことも知られています。これをそのまま津波の名称にするのは東アジア全体には通りがわるいのではないか、余計な誤解のもととなるのではないかと思います。なにしろ東アジア諸国の元号の全体の数は多く、将来、歴史地震研究が東アジアを視野におさめて人文学と理学のあいだで進む場合には、必ず、元号付きの固有名詞をどうするかが問題となるに相違ありません。

 私は、貞観津波については、基本的に9世紀日本海溝巨大地震とか9世紀奥州大津波などという用語を使うようになりました。年次をはっきり示す場合は「9世紀日本海溝巨大地震869)」でよいのではないかと思います。

 南海トラフ地震については、おのおの「7世紀南海トラフ地震」「9世紀南海トラフ地震」「11世紀南海トラフ地震(1096,99」「14世紀南海トラフ地震」「15世紀南海トラフ地震」「18世紀南海トラフ地震」「19世紀南海トラフ地震」「20世紀南海トラフ地震」ではいかがでしょうか。今のところ同一世紀での2回の発生はありませんので、これでよいのではないかと思います。必要な場合は西暦を括弧でつけることになります。なお、寛元の地震などは確定していない訳ですから「一二四五年(寛元三)年地震」ということになります。そして確定したら、「13世紀南海トラフ地震」と格上げされるということではないかと思います(ただ、元号付きの呼び方、たとえば貞観津波という言い方は専門家のあいだでは通用性がありますので、それを拒否するものではありません。自分でも必要な場合は使っています。しかし一般には、たとえば新聞や小学校の教科書などは9世紀日本海溝地震がよいと思います)

 これは歴史用語全体についての私見とも関係しています。私は、薬子の変については「平城上皇クーデータ事件」、保元の乱については「崇徳クーデター事件」、平治の乱については「二条天皇重婚事件」、治承寿永の乱については1180年代内乱(または源平合戦)、承久の乱については「後鳥羽クーデター事件」などの用語を使用すべきであると主張しております。これについては、そもそも「乱」だとか「変」などという言葉で歴史事件を表現するのは、一種の天皇中心史観で学術的にかたよったもので採用できないという問題があります。

 しかし、そこから離れても、歴史事件の名称は、できる限りその実態を表現できるものであることが望ましいと考えます。たとえば平治の乱の実態は後白川と二条の親子げんかが根っこにあり、それを表現するためには「二条天皇重婚事件」がよいという訳です。これは結局、「平治の乱」の本質理解に関わってきますので、研究によって決定されるほかない問題です。研究の進展が用語体系に変化をもたらすのは学術には一般的なことで、元号を使用するという「社会習慣」に、それが左右されるようなことがあってはなりません(ただし、「二条天皇重婚事件」という私見が正しいかどうかはいうまでもなく別問題です。これには当分のあいだ賛同はえられないようです)。

 このように考えますのは、用語記憶を偏重するような通俗常識は歴史意識のあり方として払拭していくことが歴史学の研究と教育の目標としてどうしても必要なことと考えるためです。これは歴史学界全体の共通意見ではありませんが、「歴史は暗記」という感じ方をなくすためには、歴史学自身が変わっていかなければならない、少しでも記憶の負担を少なくするようにしなければならないという考え方です。

 もちろん、「世紀」という考え方自体、西暦という考え方自身が西洋中心史観で本質的には採用すべきものではないとも思います。その意味では地質学者が使用する「Before Present」(BP)がもっとも納得でき、あるいは「核時代前」年号がよいと考えています。しかし、歴史学にとっては、時間のクロノロジカルな、客観的な進行を表記することは必須のことで、当面、世紀・西暦は次善の策として使用せざるをえない訳です。

2015年11月25日 (水)

『歴史学研究』。鹿野政直氏が学び舎の中学校日本史教科書

 Cci20151125_0001 『歴史学研究』が届く。鹿野政直氏が学び舎刊行の中学校日本史教科書『ともに学ぶ人間の歴史』について書いている。賛同するところが多い。
 とくに「パターン化した教科書は子供たちに歴史に対する受動性を養成する」というのは、その通りだと思う。それは教育を、社会的「常識」なる俗物的な偏見を子どもに感染させる営為にしてしまう。知識のゆがみを子どもにもたらし、教養を疎外させる営為である。私は、鹿野さんもひいている『歴史学と歴史教育のあいだ』(歴史学研究会編)に転載された論文(WEB頁「中世史研究と歴史教育」をみてください)で、教科書的歴史像を徹底的に突き崩すという考え方から、いわゆる「武士中心史観」の批判がどうしても必要だと論じ、その後、それにそって『平安王朝』(岩波新書)にいたる仕事をしてきた。しかし、こんな単純な目的意識もなかなか学界では普遍化はしない。自分の研究も日暮れて道遠しである。
 鹿野さんも書いているように、学び舎教科書では古代・中世・近世という区分は最初無かった。そもそもこの「古代・中世・近世」という区分が問題。学界では、その定義は曖昧である。言葉を付与すれば分かった気持ちになる。何かそこにあるのだという幻想を広めるばかりである。学び舎の教科書のよいのは時間感覚、時期区分を、歴史の切れ目にすべて地球史を入れる、差し込むことで作ってあること。これはいい方法だと思う。
 鹿野さんの意見でもう一つ共感するのは、教師も「ともに学ぶ」存在であるということ。学者も教師も子どもも学ぶという考え方である。
 これについては『歴史学と歴史教育のあいだ』(歴史学研究会編)に転載された論文で下記のように書いた。

 「(重要なのは)学者と教師は、職業としての学者や職業としての教師ということを越えて、両者とも知識人であり、何らかの分野の研究者でも教育者でもあるという事実であろう。学者であることと研究者であること、教師であることと教育者であることが閉ざされた一対一対応の関係にあるものでないことは当然のことである。だから、研究と教育の間では、各々の独自の分野を確認しながら、研究についても教育についても相互乗り入れしつつ付き合うべきことになるのだろう。現実にはこれは大変なことだろうが、それによってこそ歴史の学者と教師が生き生きとしたまとまりや社会的影響力をもちうるのだろう」。

 これを書いたのはもう40年近く前か。同じことを考え続けてきたことだけは感心する。
 いまでは、別の条件がある。教師と学者が、ネットワークで、ブログで、ツイッターで直接にむすびあうことだ。これは本当に推進してほしい。相互に学界のなかと教育界のなかを見通せるようにすることだ。


2015年11月24日 (火)

歴史学の研究書の世界。『日本史学』(人文書院)

 歴史学の研究書の世界というものがあって、これは一度入るとトラップのように人を捕まえてしまう力をもっている。一度はいるととはいっても、もちろん、半年ほどは集中して入らないと駄目だが、そのとき人をとらえる力は相当にあると思う。
 それは事実を組み立ててイメージが作られていて、それを復元する楽しみのようなものに頭脳がとらわれるからだと思う。それがなんらかの形で自分が直面している現在にふれてくると感じた場合は、さらに決定的なとらわれになる。躓きの石のようなものだ。

研究書の世界
趣旨
 歴史学の研究は研究書を読むことによって始まる。そして研究書は1冊ではすまない。研究を続けることになると、同じ著者の別の本、さらにその歴史家が前提としている他の歴史家の仕事も見えてくるので、そこを芋づるのように掘っていく。こうして地下茎のような研究史というものが目に入るようになると、歴史学の大地ともいうべきものの雰囲気が分かってくる。
 以下の8冊は各時代から撰んだもので、全体を読めば、ある種の「通史」のイメージがわくように工夫したつもりである。「通史」というよりも時代ごとの基礎的な歴史像といった方がふさわしいだろうか。その時代のもっとも大きな特徴というものはどういうものかについての具体性をもったイメージのようなものである。歴史学の仕事は、結局、これを前提として過去を見通していくための足場のようなものを作り、歴史の全体を本格的に考え、人類史の未来についての参照基準を作り出すことにある。現代の世界がもつ問題は深刻で複雑なものであるから、こういう仕事がどういう全体像に結果するか、まだ十分にはわからないが、しかし、歴史家は必死になって仕事をしており、私は、10年立てば、方向が見えてくるだろうと楽観している。
 なお、歴史学は、所詮、歴史家がつくるものである。それゆえに、研究を続ける上では、研究史の概説のような本を読むよりは、個々の歴史家の肉声を知っておくことの方が、ずっと力になると思う。たとえば、『証言戦後歴史学への道』(青木書店、2012年)は、歴史学研究会という在野学会が、その会誌『歴史学研究』の復刻版を出版した際の月報に載った歴史家の随想をあつめたもので、重複をのぞくと、九四人の各分野での代表的な歴史家の文章が集まっている。なまな研究のエピソード、学会の運営の実情をかたる裏話などからなる読み切りの文章なので、臨場感もあってたいへん読みやすい。強くお奨めする。
『日本史学』(人文書院)第四部の前書き。

2015年11月20日 (金)

「学際からの視野」が歴史学になぜ必要か。

 以下は『日本史学』(人文書院)の第三部のまえがきです。歴史学は精神衛生に悪いというのが中井久夫さんのご意見で、中井さんが、こう書いた『治療文化論』についても、この第三部で紹介しました。私は学際からの視野を系統的に確保することが、歴史学者の実践的姿勢のために、それゆえに精神の健康のために必要と考えています。

学際からの視野

趣旨

 歴史家は、矛盾する史料と史料が同じ確実性を持つ時の決定に、非常な努力ーー精神衛生にとくに悪い質の努力ーーを払う。いくら足を伸ばしても着底しない泥沼を進む思いが、歴史家には、あるのではないだろうか。また史料がない時の歴史家は空想の禁欲をみずからに強いて苦悶することがあるようだ(中井久夫『治療文化論』)。

 歴史学は学術のなかでもっとも非実用的な学問である。対象が歴史である以上は、現在史(Contemporary History)であっても、それはすでに動かせないものである。歴史家はそれに耐えなければならない。それはどのような場合も過去にむかう内省の組織であって、直接には現実を動かさない。あるいは動かしてはならない。過去は理解されるべきものであるが、現在はかならず理解できない部分をふくみ、本質的に実践と投企の対象だからである。

 それ故に、歴史学が現実に関わるのは、他のより実用的な学問を通じてのみである。私は2011年3月11日の東北東海岸地震の後に地震学・火山学の人々と議論をする機会がふえ、その中で、文理融合の研究がいかに重要かを実感した。歴史学が社会に開かれていなければならないということは、まずは諸学との学際的な関係を要請されているということだというのが実感である。

 そして私などは、それは歴史学と歴史学者の精神の健康のためにもどうしても必要なことだと思う。もちろん、一種の真面目さのあまり、狭い場所で耐え、学際的な場に出ていかない強さをもっている歴史学者も立派だとは思う。しかし、その場合は、歴史学の最大の喜び、つまり他の学問にまったく新しい方法を教えられ、また他の学問を支えているという実感の中で生きていくことはできない。上に引用した中井久夫の言葉にあるように、歴史学はなかなか辛い部分もふくむだけに、凡百の歴史家には、他分野の研究者からの啓発が必要だと思う。

2015年11月17日 (火)

北摂の遺跡を廻った。今城塚から新屋座天照御魂神社

Cci20151117


 日曜に、大山崎町歴史資料館で講演「崇道天皇から志多良神の行進まで」をすませた。ずっと以前に書いた論文で大山崎の材木木屋のことを論じたことがあり、その関係で福島館長から講演を依頼されたもの。忘れられた論文が記憶されているのを知って驚く。

 パンフレットの画像をかかげた。展示は11月29日までということである。平安時代初期を考える上では必見のもの。

 講演を終わって宝寺から天王山に登り、酒解神社に参詣。案内をしていただいた古閑さんに感謝。

 なお酒解神社の神輿倉の材木分析の結果、その造立が1180頃という光石氏の分析が報告された教育委員会の年報(2010)を寺崎さんからいただく。これもありがとうございました。
 
 翌月曜に高槻市を自転車でまわる。上宮天満宮→真上村→芥川→郡衙→阿久刀神社→今城塚古墳→宮田遺跡→目標の新屋座天照神社の順序ですすみ、さすがに疲労。

 目標は新屋座天照御魂神社である。神社の説明板には祭神を天照御魂神(天照国照彦火明命)とする。村井康彦氏の『出雲と大和』の主要な検討対象となった神である。村井さんの史料処理には無理な点があるのではないかと思うのだが、あの発想は相当に正しいというのが私見。歴史学の中では、神社と「神道」の分析が決定的に少なく、ともかくそれをみるためには畿内の神社をみなければならないが、その原点になるのが、一つはこの神社であろう。ただ、『延喜式』にでる「新屋座天照御魂神社三座」のうち今回行けたのは、一番西にある一社だけ、梅花女子大の近くにあるもう二社は、そのうちに行きたい。結論はなかなかでないが、菊地照夫「顕宗三年紀二月条・四月条に関する一考察」が考察の原点となる。

 北摂から山城南部はいわゆる西国国家論あるいは「河内王朝論」にとってはきわめて重要な場所にあることが確認できたように思う。先はわからないが、上宮天満宮にある野見神社に参詣できたことで今回は満足である。大山崎町歴史資料館で古閑正浩氏からいただいた「平安京南郊の交通網と路辺」(『日本史研究』)を読んでもそう思う。

 さて、これは最近の研究課題だが、私の世代的な経験では、原口正三氏が掘った宮田遺跡の場所を確認し、さらに河音能平さんの北摂武士団論の場である芥川と真上村を訪れたのが、ようやっとという感じの追体験であった。原口先生にははるか以前の若狭国でのサマーセミナーで宮田遺跡の村落の報告をうかがい、河音さんの論文はよく読んだものである。高槻はお二人の主要な活動場所なので、感慨深く通った。なにも知らずに、何も経験せずに勉強を続けてきてきた、河音さんがよくいう言い方では不明を恥じるということである。

 関西の中世を専攻する歴史家の強いところは歴史の文献資料のある現場で生活していることだと思う。現在の風景の一枚向こうに過去の風景を移したフィルムがあり、それと二重写しにしながら過去を考えるということをやっているのではないかと思う。それだけの数の豊かな文献資料が奈良・平安時代から鎌倉時代にあるのである。もちろん、私の住んでいる千葉ではそういう状況は戦国に下がらないと無理である。今回、これが(網野善彦さんがいう)関西と関東の「中世史家」の相違の基礎にあるのではないかという感を深めた。河音さんから、こういう御話をきくことをしなかったのを残念に思う。

 河音さんの畿内領主論には、領主の神主職への注目があるので、これは現在の私のテーマの神話から神道へという問題にも関わってくる。現在の文化政治状況からすると、神話と神道、そして神社的心情を歴史的に解析することがどうしても必要と考えている。これは歴史家のできることのうちで大きな位置があるのではないか。

 さて、最後に、今城塚古墳にもいった。

 今城塚は、墳丘のなかに入れるのが感動的である。堤から見ていた時は、墳丘にまで入れるとは思っていなかった。しかし、「墳丘の斜面を無理に登ったり、滑り降りたり市内で下さい」という注意が張ってあったから、墳丘に入ること自身は問題ないらしい。壕の路を歩いていくと、小さな階段があるので、登ると墳丘内部に縦横に道が通じている。この古墳は前方部の方が高いように思った。内側は植生といい、道の感じといい、ようするに神社の中のいわゆる「照葉樹林」の森(というより「杜」の雰囲気である。人が杜の中を歩くことによって維持されてきた杜である。壕のなかでは子どもたちの声が響くが、杜の中はしずかである。「蜂に注意」という板がはってあるから、子どもたちは入ってこないのだろう。

 各地の古墳(含む天皇陵)も、江戸時代にはこういう状態であったのだと思う。神社や神道や天皇制というものが少なくとも現象のあり方という点では共通することを考えさせられる。

 すべての古墳に必要な研究展示施設を敷設して、今城塚と同じように立ち入れるようにすることで、歴史文化は確実に伸びていくと思う。10年後、100年後には実現したいことである。

2015年11月11日 (水)

「災害予知」の概念と国家賠償

「災害予知」と国家賠償
 地震学界では「地震予知」という言葉の使用をやめて「災害予知」「地殻災害の予知」という用語によって、その社会的責務を考えようという動きがある。これは地震の自然科学的側面ではなく、災害をもたらす側面を「災害科学」として議論していこうとするもので、正しい方向であると思う。これによって1962年のブループリントのいう「地震予知」=「地震発生の時期・場所・規模の告知」という考え方が転換できればよいと思う。

 私見では、この「災害予知」という考え方の最大の意味は、実際上、政治と行政自身が、そこに責任をもつことを明示した点にある。つまりブループリントのいう「地震予知」=「地震発生の時期・場所・規模の告知」とは茂木『地震予知を考える』が強調するように、社会的には「警報・注意報」を意味する。そして地殻災害が自然現象hazardsであるというよりも社会基盤の脆弱性にかかわる社会現象Disastersであるということになれば、原理的にいって、「災害予知」の基本的な責任は、社会を代表する行政と政治にかかるのである。地震列島・火山列島といわれる日本においては、地殻災害を予知し、人命を最優先し、社会の持続的発展の条件をまもる防災行政を展開することは決して部分的な問題ではない。どのような行政行為も、かならず、人為的な自然の改変にかかわり、災害素因にかかわる以上、これは行政全体をつらぬく原則でなければならない。
 しかし、阪神大震災をうけて一九九五年に設置された地震本部において長く地震調査委員会長期評価部会の部会長をつとめた島崎邦彦が明瞭に指摘しているように、二〇〇〇年代に入ってから国家中枢に位置する中央防災会議の政策決定に責任を有する政治家と高級官僚は、無知・無責任な行動をとった。三・一一との関係で重大なのは、地震調査委員会長期評価部会は二〇〇二年に日本海溝についての長期評価を公表し、「三陸沖北部から房総沖の海溝寄りのどこかで次の津波地震が発生するものとし、その規模を明治三陸地震の・t8,2から、・t8,2前後(・t8,1―・t8,3)とした」。しかし、「中央防災会議は、津波地震に関する地震本部の長期予測を受け入れず、(中略)これが甚大な津波災害と原子力事故をもたらしたのである」*1。中央防災会議が二〇〇四年に専門調査会における島崎らの地震学者の反対を無視し、長期評価によらずにきわめて甘い決定を行ったのである。同専門調査会自身は東日本大震災後に「これまでの地震・津波の想定結果が、実際に起きた地震・津波と大きくかけ離れていたことを真摯に受け止め」「今回の災害と想定との食い違いへの反省」*2を表明しているが、このような決定に責任のある政治家と高級官僚からの判断の事実経過とその反省の記録は存在しない。このような行動は国家犯罪というほかないものである。ヨーロッパでならば厳しい賠償訴訟があって、免職その他の社会的サンクションは当然のことである。並べ、東日本大震災における2万人近い死者の発生と東京電力原発事故の発生は、一義的には中央防災会議と国家の防災行政の誤りに起因するものであることは国民的な常識とされなければならない。

 なおここら辺のことは添田孝史『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)を参照されたい。

2015年11月10日 (火)

米田佐代子さんのブログに「辺野古へ行ってきました」

 米田佐代子さんのブログ(yonedasayoko.wordpress.com/)に「辺野古へ行ってきました。カメラがこわれ、メモも取れず、でも記憶したいこと」とある。

 米田さん(先生)は、私の都立大の時代の先生。もう80歳を過ぎられたはず。

 ブログの写真をみおてもお元気そうだが、沖縄へ行って来られたのに驚く。

 『日本史学 基本の30冊』(人文書院)に米田さんのご本、『平塚らいてう―近代日本のデモクラシーとジェンダー』(吉川弘文館 2002年刊)を加えたので、それについても言及してくれている。「長い留守の間に献本していただいた本が届いていました」という書き出しで以下のように、私の紹介を紹介してくれている。


 わたしの本は10年以上前の刊行ですが、当時は「女性史」「女性運動」の視点からの批評を多くいただき、かなり手厳しい批判もありました。保立さんは、それらの批評があまり取り上げてくれなかった平塚らいてうの精神生活にとって原点ともういうべき自然・宇宙にたいする視点に注目、らいてうが20世紀に入ってから西欧でひろがった「神智学(霊知学)」に関心を持っていたのではないか、という点をとりあげてくださいました。それは霊的世界の存在を認める「反唯物論」であり、らいてうが戦時中「天皇は神」と書いたこととつながる彼女の思想の「弱点」であるかのようにみられてきたので「輝かしい女性解放運動」のさきがけであるらいてうにはふさわしくないように見られてきたのかもしれません。

わたしはらいてうをハイカラな近代主義者だとは思っていなかったので、この本でもそのことに触れ、その後1911年にらいてうが『青鞜』に発表した「高原の秋」というエッセイに出てくるのですが、「Devachan」という言葉(じつは著作集にはこれが誤植されて「Deyachan」となっていたため意味不明であった)が、霊知学では「この世を離れた霊が休息するところ」という意味の用語として使われていることを確認、それが彼女の「無限生成」という言葉に示された無限の生命観、『青鞜』から第一次大戦後の平和思想、戦後の平和運動に連なる宇宙観の出発点になった、という仮説を立てたのですが、あまり相手にされませんでした。そこを保立さんは取り上げてくださったのです。全体を読むと彼がこの本のなかで安藤礼二『場所と産霊』(これは鈴木大拙の禅の世界を通して考えた壮大な宇宙論です。わたしも読みました)や福田アジオ『柳田國男の民俗学』をとりあげている理由がわかるのではないでしょうか。とりあえず紹介しますから、関心のある方は(わたしの本のことだけではなく)どうぞ全部読んでください。

「Deyachan」の話はきわめて重要で、平塚らいてう著作集で、これがキーの言葉だというこよはわかったが、米田さんの論文(『日本史学 基本の30冊』で紹介した「青鞜の原風景」)を読んで初めて分かった。

2015年11月 9日 (月)

火山地震列島の国柄をうけとめる「災害法学」の課題について

 学術会議の関係で書いている文章から「災害法学」についてふれた部分。「火山・地震庁」の設置が必要であるという提言が、これに続く。もう締め切りが過ぎているので今日中に完成しないとならない。

 日本列島が災害列島、火山地震列島であるのは、この国の国柄ともいうべき事実であり、この国で災害、災害死を防ぐことは最大の社会的課題である。これは憲法の条文でいえば、まず第11条から13条および25条の基本的人権に関わる問題であり、とくに生存権を規定する13条について「国政の上で最大の尊重を必要とする」とされているのはきわめて重たいことである。第二は14条の法の下の平等の規定も、現実的な平等を災害に際しても維持するという趣旨を含むというべきであろう。国民の「社会的身分(social status)」という場合に、居住と生活の地域を含むと考えることには充分な理由がある。そして第三には、29条の財産権の条項も重要であって、とくに生存権に関わる不可侵の財産権が国家の不十分性によって侵された場合に、その財産権は公共の福祉のために犠牲にされたものであって、国家が補償をふくめた恢復措置をとることは憲法上の要請であるとしなければならない。

 国の根本法規である憲法の現実の解釈と運用が、このような方向で火山地震列島という国柄に対応するように深められるべきことは当然である。現実に東日本大震災とそれにともなう東京電力原発事故の経験をふまえ、この憲法の諸条項から、災害対策基本法、さらに大規模地震対策特別措置法、活動火山対策特別措置法などの全体を見直すことが重要な課題となっている。これは災害法学の領域に属する問題であるが、これらの諸法の全体を「災害予知」の概念に照らし合わせて点検し、必要な修正をくわえることが必要になっている。それだけでなく、この問題は国民共有の大地と自然、さらには無所有の大深度地下を法的にどう位置づけるかというきわめて広汎な裾野をもっている。たとえば日本学術会議地球惑星科学委員会の提言「地質地盤情報の共有化にむけて」二〇一三年一月三一日)は、副題に「安全・安心な社会構築のための地質地盤情報に関する法整備」とうたうが、これは企業が私的に保有するようなものをふくめて、地質地盤情報を共有化し、それによって地下を可視化し、多様な地殻災害や土壌汚染などに対応する基礎情報を管理し、さらには地下資源の合理的利用をはかるための全面的な提案となっている。これが成立すれば、すでに存在する「地理空間情報活用推進基本法」とあわせて、ブループリント以降、地震火山学界が営々と蓄積してきた様々な地殻情報は、法的な受け皿を確保し、学術情報の範囲をこえた法的情報となることになる。このような地盤情報の系統的な蓄積と完全な公開なしには、都市計画・国土計画も、防災計画もありえないことは自明のことであろう。

 政治と行政が災害予知と防災に固有の責任をもつべきことは憲法的な義務であって、それを法的に明瞭にしていくことはどうしても必要な仕事である。そして、これは方のみではなく、政府から自治体レヴェルにいたる防災計画・防災教育・災害避難などの実質や体制から、災害情報・避難防災環境に及ぶ問題である。その際、今回の東日本大震災における2万人近い死者の発生は一義的には防災行政の在り方に起因するものであることがとくに銘記されなければならない。もちろん、三月一一日の地震発生直後の警報が告知した津波高が低すぎ、修正情報も十分には伝わらなかったこと、また宮城県などで、用意された避難場所がマグニチュード九に対応する巨大津波に対する安全性をもっていなかったことなどの問題には狭い意味での行政のみに帰すことができない多様な問題がある。地震学者がマグニチュード九以上の巨大地震を前提として警報や避難態勢の必要性を強調してこなかったことへの自責と反省の念を表明しているように、そこには地震学界にも間接的な責任があるということができる。

 しかし、地震研究のなかでも三・一一の大津波については、八六九年のいわゆる貞観津波が広い浸水域をもつことは知られており、この時にM8,4以上の地震が発生したというモデルが二〇〇八年には発表されていた(佐竹ほか。二〇〇八)。またその前年に日本地震学会地震予知検討委員会の出版した『地震予知の科学』にも、「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」と明記されていた。その意味では、東日本大震災は決して想定外のものではなかったのである。

 情報化された民主主義国家であるのならば、これらの情報は、当然に、政府や自治体が積極的に蒐集し、独自な観点から、その防災計画に生かすべき責任があったことは明らかである。しかし、政治と行政における防災対策はそのような実質をもっていなかった。それをあまりに明瞭に示したのが、今回の東日本大震災における東京電力の原発事故の発生と、その前後のみじめで背信的な諸事情であった。この経過でとくに重要なのは、二〇〇九年六月に東京電力福島第一原発の耐震設計見直しを討議する保安院が開いた委員会において、貞観津波の痕跡を調査していた産業技術総合研究所の活断層・地震研究センターの岡村行信センター長が大津波の再来の可能性を指摘し、東京電力の想定を強く批判したにもかかわらず、これが結局生かされないままとなった事実である。残念ながら、このような諸問題をふくめていまだに根本的な反省と総括、そして改善の方途は立っていないこともいうまでもない。

2015年11月 2日 (月)

老子の清静と日本神道の清浄(第四五章)

 『老子』45章の通釈です。ちょうど書き終わった頃、伊藤克己氏がツイッターで神社の墓地運営をめぐっての情報を提供しているのをみて考えることが多い。私は日本社会を保守するためには神道と神社は大事だと考える。しかし、それに関わって歴史家としてやるべき仕事の多さに目が回る。


老子の清静と日本神道の清浄(第四五章)
大成は欠くるが若く、其の用は敝きず。大盈は冲(むな)しきが若く、其の用は窮(きわ)まらず。大直は屈するが若く、大巧は拙なきが若く、大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静は天下の正たり。

大成若缺、其用不弊、大盈若冲、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、靜勝熱。淸靜爲天下正。
 大成しているものは欠けるところがあるように見えるが、(その隙があるからこそ)その働きが尽きることはない。満ち足りているものは空しいところがあるように見えるが、(その影があるからこそ)その働きは窮まることがない。長大な直線は曲がっており、本当に巧みなものは拙ないままのところを残しており、雄弁は訥々としているように聞こえる。動作を躁しくすれば寒さは防げるが、静かにしていれば動かなくても熱さに勝つことはができる。淸く靜かな無為こそが世界にとってまず大事なのだ。

解説
 本章は有名なギリシャのソフィスト、ゼノンのアキレスと亀の話を背景に読むとよい。運動を静止の連続に置き換えるとアキレスは亀に追いつけないという例の話である。ゼノンは、運動と静止の矛盾を語ったのであるが、老子の趣旨も相似した議論であって、この時期、ユーラシアの西と東において同じような逆説が語られているのである。ただ、老子が強調するのは、運動と静止の矛盾において本源的なのは静止であるということのように思う。対立するもののうち無為で静かな方こそが大事だ。静止のなかにこそエネルギーが秘められているのだというのである。

 老子によるいくつかの例示のうち、日本でもっとも有名だったのは「大巧は拙なきが若く」であろうか。二〇世紀を代表する禅学者の鈴木大拙の「大拙」という号は、これに由来している。また徳川時代の画家、伊藤若冲の号は「大盈は冲しきが若く」からである。この句は具体的にいえば、満月にも必ず小さな影があるということだと思う。月影はつねに動いている以上、満月に影のない状態というものは抽象的にしか考えられず、極小であれ、実際には影があるからこそ月に盈ち虧けがあるのだということになる。管見の限りでは、そのような考え方はこれまでされていないが、満月と月の影というのはアキレスと亀の話と原理的にはまったく同じ話であることは明らかだろう。

 これを確認すれば、後半の「躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ」という部分も分かりやすくなる。この部分の意味が上の現代語訳で述べたような「動作を躁しくすれば寒さは防げるが、静かにしていれば動かなくても熱さに勝つことはができる」という趣旨だということは諸書でほぼ一致している。ようするに、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という意識と身体のあり方が大事だというのである。しかし、武内以降、これまでのほとんどの解釈は、この部分は、前半とのつながりが悪い、別の文章をもってきて引っ付けたなどという意見が多い。しかし、ゼノンに引き比べて、「躁」は運動、「静」は静止のことをいっているということで考えて何の問題もない。ただ違いは、ゼノンの議論や右の月の盈ち虧けの場合は、実際の空間での運動であるのに対して、ここでは人間の身体と心が対象になっているというのが違うだけである。それを入れて考えれば、本章の前半と後半の関係はむしろ論理明解であるというべきだろう。私は、テキストのままで話が通るならばテキストを変改してはいけないと思う。

 この「清静」というのは、静止にともなうエネルギーの蓄積というような趣旨の内面的な意味を中心に考えなければならない。最後の一句、「清静は天下の正たり」という言葉は、詳しく謂えば、「自分の心に集中したところから、周囲をみていくと、清静な心が、その世界の中心にあることを発見する」というような趣旨であるというべきであろう。普通、ここでいう「天下」は「国家=政治世界」の意味とし、「天下の正」を「天下の首長=王」という意味で解釈される。清静無為の道に従えば首長に成ることができるという訳であるが、これは間違いである。管見の限りでは、私見と同じなのは蜂谷の見解くらいであるが、「天下」という言葉をもっぱら「国家=政治世界」とすることは、後にも述べるように無理が多い(■■■頁)。

 また、この「清静」というのが、少なくとも『老子』が執筆され広まった春秋戦国時代の段階では、決して物理的あるいは衛生の意味での「清潔・清浄」ということではなかったことも注意しておきたい。そもそも『老子』には「清」という文字の登場例は少なく、三例しかない。その一つが本章なのであるが、第二の例は「天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧く」という天を清澄とする三九章の例であって、これは宇宙論にかかわる「清」の観念である。そして第三が「谷間の水の濁流が清まわることを待つ」ように清濁を併せ呑むという心的な態度を示す一五章の例であって、この「清静」は自然の循環を熟視するなかで心のエネルギーを豊かにする態度というようなことであろう。いずれにせよ、これらには物理的衛生の意味はほとんど含まれていないのである。もちろん、三世紀以降になって、『老子』の教えから派生した道教=神仙思想が、中国に流入した仏教のインド的な清浄思想の影響をうけると道教でも物理的な清浄を尊重するニュアンスが強まるが、結局、それは道教の中心をしめることはなく、やはり老子の教えという意味での道教のいう「清静」はあくまでも心的態度の意味が大きかったというべきであろう。

 さて、この関係で問題となるのが、日本の神道の「浄穢」の観念との対比である。これは『老子』の日本における受容の問題として、きわめて重要なので、少し詳しく説明すると、そもそも、神話時代は、奈良時代のころまで続いていた日本の神話時代には、厳格な浄穢の観念はなかった。本来の倭国神話のなかでは素戔嗚尊の行動をみればわかるように、「穢」というものは一種のエネルギーであって頭から拒否されることではなかったのである(西田長男)。もちろん、神話的な祭祀においては神への「物忌み」が重視されたが、それは老子のいう「清静」と似たようなものであって、そこには血や死を穢れとして排除する観念は希薄で、後のような女性の排除もなかった。

 しかし、神話から文明への移行のなかで、七・八世紀以降、中国(唐)から輸入された文明宗教、仏教や道教的な神仙思想が流行する。とくに王権と貴族社会の中枢では仏教が中心となり、以降、日本は徳川時代まで基本的には仏教国家というべき性格を帯びることになった。次項でみるようにだいたい九世紀以降、王権中枢を握った仏教は、「本地垂跡」、つまり仏教の神々こそが「本地」で日本神話の神々は、その神々が遠くまでやってきて「迹を垂れた」ものであるという理屈を作り出したのである。そして、この仏教が、上述の道教を基礎とする神仙思想を利用しながら、日本に「浄穢」の観念をもちこみ定着させたのである。

 その背景には、王朝国家の成熟にともなう都市の膨張のなかで疫病や災害に対する恐怖が強まり、衛生観念が肥大化していったことがあった。こうして、だいたい奈良時代後期以降、日本には「貴賎」の国家秩序が「浄穢」の衛生意識によって守られるというシステムが深く根付いていったのである。それは九世紀にできた二つの令外官、蔵人所と検非違使のもっとも主要な仕事が穢の除去、清目であったことによくあらわれている(蔵人所は天皇身辺の清め、検非違使は洛中の掃除)。これは各地にはるかに巨大な都城をもち、都市の運河や下水道を整備していた唐代の都・長安とは大きくことなっていた。こういう中で「穢は日本の事、大唐すでに穢を忌まず」(『小右記』万寿四年八月二五日条)といわれるように、浄穢の観念は日本において特に独自な展開を遂げた。この中で上位者や主人の穢を掃除し、清める下位者や従者は穢れた身分とされ、また穢の集中する被差別身分(「穢多・非人」)が都市的な場を中心として作り出されていった。黒田俊雄は、このような身分制が王権と宮廷を囲繞した仏教の下で系列化されたことを明らかにし、このような浄穢観念に貫かれた身分秩序を「種姓身分」制と呼んだ。「種姓」とはもとをたどればカーストを意味する仏教用語言葉であるが、この言葉で表現される身分制の実態もインドのカーストによく似たものということができる(保立「日本中世の諸身分と王権」)。

 「浄穢」というと、現在では神社に特有なものと思われがちであるが、むしろ、正確にいえば、それは、この時代に国家と仏教によって神社に押しつけられた役割であったという方が正しいであろう。拙著『かぐや姫と王権神話』で論じたように、日本の神道の地盤は、八世紀まで続いていた神話世界にあり、神話から引き継いだ「物忌み」の心意は神道の深層に持続していた。私は、そのような物忌みの思想は、日本社会において依然として重要な意味をもっていると考えている。しかし、文明の時代の到来とともに、日本の神道は「祭祀の礼務、潔にあり」などといわれるように、国家と宮廷の清浄の守り手という役割をおうことになった。甲乙丙丁などの様々に規定された穢が神社に及んだ場合、それによって神社の祭礼や儀式の中止がつねに問題となったのである。神社は国家と仏教の下で、浄穢のシステムを管理する、いわばリトマス試験紙のような役割を担うようになってしまった。神社は都市的な場の空間のなかで伝染し、肥大化する穢を増幅し、キャッチする神経網のような役割を負うようになったのである。

 こういう中で、『老子』の「清静」の思想が、カースト的な浄穢の身分制に対応する神道の「清浄」の理屈に読み替えられるという事態が生まれたのである。つまり、右にもふれたように、『老子』第三九章の「天は一を得て以て清く」というのは、宇宙論にかかわる「清」の観念である。ところが、これが伊勢神道を大成した度会家行の『類聚神祇本源』では「神を祭るコト、清浄ヲ先と為せ。我鎮に一を得るを以て念と為す也」という形で引用される。つまり、神を祭る勤めの「清浄」に転換されてしまっているのである。また高橋美由紀『伊勢神道の成立と展開』が指摘しているように、日本でもしばしば利用された『老子』の河上公注には、第一四章の注として「当にこれを受くるに静をもってし、これを求むるに神をもってすべし」とある。これは人間が道に悟入するには心を静寂にし、心の神明を働かせなければならないという内面的な意味であるが、それが伊勢神宮の経典に引用されると、「これを受くるに清浄をもってし」と変更されてしまうのである。「静」から「清浄」への変化である。

 日本の神道が『老子』の「清静」の内面的倫理を受け止めなかったというのではない。神道の中には、それに対応する「物忌み」の心意が維持され続けていたと思う。しかし、神社が仏教の下で、世俗的・身分的な「清浄」という国家的な儀礼秩序に稠密に組織されていったことは否定できないだろう。

 さて、最後に鈴木大拙と伊藤若冲の号の由来が、『老子』本章にあるという話に戻るが、大正時代までの人たちは、こういう種類の漢語をよく知っていて、それを人生訓として、人生観の支えとしていた。そういう漢語のうちでは『老子』がしばしば使われていたのであるが、現在では、それは忘れ去られてしまった。これは日本文化から奥行きを失わせたように思う。こういう文化の浅薄化は、神道の内部にあった「物忌み」、老子の思想に対応するような自然の尊重と一体感の重視が文化の中から失われるのと並行して進んだのではないか。大正時代までは、自我の意識は自然との間で一種の溶け合いの中にあった。そういうように、自然を観照しながら自己自身を内省するというのが、人生というものを考えるためには、もっとも健康なやり方だったのだろうと思う。これを「融即」などといわれることがあるが、たとえば夜の小川に飛ぶ蛍は自分の魂が流出したものではないかなどというのは、それなりに自然な感覚だったのである。そういうものをどうにかして取り戻すために、『老子』と日本の宗教・文化との関わりの省察は大きな意味をもつように思う。

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