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2015年11月 9日 (月)

火山地震列島の国柄をうけとめる「災害法学」の課題について

 学術会議の関係で書いている文章から「災害法学」についてふれた部分。「火山・地震庁」の設置が必要であるという提言が、これに続く。もう締め切りが過ぎているので今日中に完成しないとならない。

 日本列島が災害列島、火山地震列島であるのは、この国の国柄ともいうべき事実であり、この国で災害、災害死を防ぐことは最大の社会的課題である。これは憲法の条文でいえば、まず第11条から13条および25条の基本的人権に関わる問題であり、とくに生存権を規定する13条について「国政の上で最大の尊重を必要とする」とされているのはきわめて重たいことである。第二は14条の法の下の平等の規定も、現実的な平等を災害に際しても維持するという趣旨を含むというべきであろう。国民の「社会的身分(social status)」という場合に、居住と生活の地域を含むと考えることには充分な理由がある。そして第三には、29条の財産権の条項も重要であって、とくに生存権に関わる不可侵の財産権が国家の不十分性によって侵された場合に、その財産権は公共の福祉のために犠牲にされたものであって、国家が補償をふくめた恢復措置をとることは憲法上の要請であるとしなければならない。

 国の根本法規である憲法の現実の解釈と運用が、このような方向で火山地震列島という国柄に対応するように深められるべきことは当然である。現実に東日本大震災とそれにともなう東京電力原発事故の経験をふまえ、この憲法の諸条項から、災害対策基本法、さらに大規模地震対策特別措置法、活動火山対策特別措置法などの全体を見直すことが重要な課題となっている。これは災害法学の領域に属する問題であるが、これらの諸法の全体を「災害予知」の概念に照らし合わせて点検し、必要な修正をくわえることが必要になっている。それだけでなく、この問題は国民共有の大地と自然、さらには無所有の大深度地下を法的にどう位置づけるかというきわめて広汎な裾野をもっている。たとえば日本学術会議地球惑星科学委員会の提言「地質地盤情報の共有化にむけて」二〇一三年一月三一日)は、副題に「安全・安心な社会構築のための地質地盤情報に関する法整備」とうたうが、これは企業が私的に保有するようなものをふくめて、地質地盤情報を共有化し、それによって地下を可視化し、多様な地殻災害や土壌汚染などに対応する基礎情報を管理し、さらには地下資源の合理的利用をはかるための全面的な提案となっている。これが成立すれば、すでに存在する「地理空間情報活用推進基本法」とあわせて、ブループリント以降、地震火山学界が営々と蓄積してきた様々な地殻情報は、法的な受け皿を確保し、学術情報の範囲をこえた法的情報となることになる。このような地盤情報の系統的な蓄積と完全な公開なしには、都市計画・国土計画も、防災計画もありえないことは自明のことであろう。

 政治と行政が災害予知と防災に固有の責任をもつべきことは憲法的な義務であって、それを法的に明瞭にしていくことはどうしても必要な仕事である。そして、これは方のみではなく、政府から自治体レヴェルにいたる防災計画・防災教育・災害避難などの実質や体制から、災害情報・避難防災環境に及ぶ問題である。その際、今回の東日本大震災における2万人近い死者の発生は一義的には防災行政の在り方に起因するものであることがとくに銘記されなければならない。もちろん、三月一一日の地震発生直後の警報が告知した津波高が低すぎ、修正情報も十分には伝わらなかったこと、また宮城県などで、用意された避難場所がマグニチュード九に対応する巨大津波に対する安全性をもっていなかったことなどの問題には狭い意味での行政のみに帰すことができない多様な問題がある。地震学者がマグニチュード九以上の巨大地震を前提として警報や避難態勢の必要性を強調してこなかったことへの自責と反省の念を表明しているように、そこには地震学界にも間接的な責任があるということができる。

 しかし、地震研究のなかでも三・一一の大津波については、八六九年のいわゆる貞観津波が広い浸水域をもつことは知られており、この時にM8,4以上の地震が発生したというモデルが二〇〇八年には発表されていた(佐竹ほか。二〇〇八)。またその前年に日本地震学会地震予知検討委員会の出版した『地震予知の科学』にも、「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」と明記されていた。その意味では、東日本大震災は決して想定外のものではなかったのである。

 情報化された民主主義国家であるのならば、これらの情報は、当然に、政府や自治体が積極的に蒐集し、独自な観点から、その防災計画に生かすべき責任があったことは明らかである。しかし、政治と行政における防災対策はそのような実質をもっていなかった。それをあまりに明瞭に示したのが、今回の東日本大震災における東京電力の原発事故の発生と、その前後のみじめで背信的な諸事情であった。この経過でとくに重要なのは、二〇〇九年六月に東京電力福島第一原発の耐震設計見直しを討議する保安院が開いた委員会において、貞観津波の痕跡を調査していた産業技術総合研究所の活断層・地震研究センターの岡村行信センター長が大津波の再来の可能性を指摘し、東京電力の想定を強く批判したにもかかわらず、これが結局生かされないままとなった事実である。残念ながら、このような諸問題をふくめていまだに根本的な反省と総括、そして改善の方途は立っていないこともいうまでもない。

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