BLOGOS

著書

twitter

講演・取材依頼

  • アドレスmihotateあっとまーくkk.alumni.u-tokyo.ac.jp

公開・ダウンロード可能論文

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 「災害予知」の概念と国家賠償 | トップページ | 「学際からの視野」が歴史学になぜ必要か。 »

2015年11月17日 (火)

北摂の遺跡を廻った。今城塚から新屋座天照御魂神社

Cci20151117


 日曜に、大山崎町歴史資料館で講演「崇道天皇から志多良神の行進まで」をすませた。ずっと以前に書いた論文で大山崎の材木木屋のことを論じたことがあり、その関係で福島館長から講演を依頼されたもの。忘れられた論文が記憶されているのを知って驚く。

 パンフレットの画像をかかげた。展示は11月29日までということである。平安時代初期を考える上では必見のもの。

 講演を終わって宝寺から天王山に登り、酒解神社に参詣。案内をしていただいた古閑さんに感謝。

 なお酒解神社の神輿倉の材木分析の結果、その造立が1180頃という光石氏の分析が報告された教育委員会の年報(2010)を寺崎さんからいただく。これもありがとうございました。
 
 翌月曜に高槻市を自転車でまわる。上宮天満宮→真上村→芥川→郡衙→阿久刀神社→今城塚古墳→宮田遺跡→目標の新屋座天照神社の順序ですすみ、さすがに疲労。

 目標は新屋座天照御魂神社である。神社の説明板には祭神を天照御魂神(天照国照彦火明命)とする。村井康彦氏の『出雲と大和』の主要な検討対象となった神である。村井さんの史料処理には無理な点があるのではないかと思うのだが、あの発想は相当に正しいというのが私見。歴史学の中では、神社と「神道」の分析が決定的に少なく、ともかくそれをみるためには畿内の神社をみなければならないが、その原点になるのが、一つはこの神社であろう。ただ、『延喜式』にでる「新屋座天照御魂神社三座」のうち今回行けたのは、一番西にある一社だけ、梅花女子大の近くにあるもう二社は、そのうちに行きたい。結論はなかなかでないが、菊地照夫「顕宗三年紀二月条・四月条に関する一考察」が考察の原点となる。

 北摂から山城南部はいわゆる西国国家論あるいは「河内王朝論」にとってはきわめて重要な場所にあることが確認できたように思う。先はわからないが、上宮天満宮にある野見神社に参詣できたことで今回は満足である。大山崎町歴史資料館で古閑正浩氏からいただいた「平安京南郊の交通網と路辺」(『日本史研究』)を読んでもそう思う。

 さて、これは最近の研究課題だが、私の世代的な経験では、原口正三氏が掘った宮田遺跡の場所を確認し、さらに河音能平さんの北摂武士団論の場である芥川と真上村を訪れたのが、ようやっとという感じの追体験であった。原口先生にははるか以前の若狭国でのサマーセミナーで宮田遺跡の村落の報告をうかがい、河音さんの論文はよく読んだものである。高槻はお二人の主要な活動場所なので、感慨深く通った。なにも知らずに、何も経験せずに勉強を続けてきてきた、河音さんがよくいう言い方では不明を恥じるということである。

 関西の中世を専攻する歴史家の強いところは歴史の文献資料のある現場で生活していることだと思う。現在の風景の一枚向こうに過去の風景を移したフィルムがあり、それと二重写しにしながら過去を考えるということをやっているのではないかと思う。それだけの数の豊かな文献資料が奈良・平安時代から鎌倉時代にあるのである。もちろん、私の住んでいる千葉ではそういう状況は戦国に下がらないと無理である。今回、これが(網野善彦さんがいう)関西と関東の「中世史家」の相違の基礎にあるのではないかという感を深めた。河音さんから、こういう御話をきくことをしなかったのを残念に思う。

 河音さんの畿内領主論には、領主の神主職への注目があるので、これは現在の私のテーマの神話から神道へという問題にも関わってくる。現在の文化政治状況からすると、神話と神道、そして神社的心情を歴史的に解析することがどうしても必要と考えている。これは歴史家のできることのうちで大きな位置があるのではないか。

 さて、最後に、今城塚古墳にもいった。

 今城塚は、墳丘のなかに入れるのが感動的である。堤から見ていた時は、墳丘にまで入れるとは思っていなかった。しかし、「墳丘の斜面を無理に登ったり、滑り降りたり市内で下さい」という注意が張ってあったから、墳丘に入ること自身は問題ないらしい。壕の路を歩いていくと、小さな階段があるので、登ると墳丘内部に縦横に道が通じている。この古墳は前方部の方が高いように思った。内側は植生といい、道の感じといい、ようするに神社の中のいわゆる「照葉樹林」の森(というより「杜」の雰囲気である。人が杜の中を歩くことによって維持されてきた杜である。壕のなかでは子どもたちの声が響くが、杜の中はしずかである。「蜂に注意」という板がはってあるから、子どもたちは入ってこないのだろう。

 各地の古墳(含む天皇陵)も、江戸時代にはこういう状態であったのだと思う。神社や神道や天皇制というものが少なくとも現象のあり方という点では共通することを考えさせられる。

 すべての古墳に必要な研究展示施設を敷設して、今城塚と同じように立ち入れるようにすることで、歴史文化は確実に伸びていくと思う。10年後、100年後には実現したいことである。

« 「災害予知」の概念と国家賠償 | トップページ | 「学際からの視野」が歴史学になぜ必要か。 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「災害予知」の概念と国家賠償 | トップページ | 「学際からの視野」が歴史学になぜ必要か。 »