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2015年12月

2015年12月26日 (土)

歌舞伎『菅原伝授手習鑑』のパンフレット解説

 新橋演舞場の新春歌舞伎の車引(『菅原伝授手習鑑』)のパンフレット解説を書いた。

 下記は草稿。あわてて書いたので、文章がずるずるしている。頭から、もつれ、切れかかった糸を引っ張り出したという感じである。

 私は、道真配流事件のきっかけは宇多が斉世を兄の醍醐の皇太子にしようとしたことから始まったという説をもっていて、それにそって事件としての「車引き」の解説をした。この説は本来、論文にしなければならないもの。まぎれてしまってやっていないが、事件の概要の『平安王朝』に必要なことは書いた。これを、ここ20年ほどにでたすべての論文を読んで正確に記述し直すということは人生の時間との関係でできそうにない。

 道真は雷神であるのみでなく、地震神として吉野の地下にいた(『扶桑略記』)。そして本来吉野の地下にはオオナムチがいたのだから、道真はオオナムチに取って代わったのであると考えている(「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(アリーナ最近号)。 そういう意味でも、斉世は重要な人物であって、くわしく教科書でふれてもいいと思う。河音能平さんの仕事をそういう形で生かしたい。

 『菅原伝授手習鑑』を解説してみて、平安時代や室町時代の歴史を徳川時代の人びとがどう受け止めているかは歴史学にとってもきわめて重要な問題であることを実感した。『日本の近世2』の内山三樹子「演劇史のなかの天皇」によると、浄瑠璃歌舞伎では、上皇・法王と天皇の争いは描かれず、摂関が悪いか「悪王子」が悪いかという筋書きになっているという。これが日本の歴史常識や歴史の教科書などではいまだにつづいている訳である。ここから組み立て直さなければ日本の歴史文化はどうしようもない。

 藤原教通の従者同士が喧嘩した事件で殺された教通の従者が「車借の男」であった事実は、ずっと気になっていたが、ここで初めて活字になった(『本朝世紀』一〇一三年六月)。牛飼が車借であろうというのは網野善彦さんが西の京の論文で推定しているが、これが早い時期の史証である。

 以下のようなもの。
 

 宇多天皇の長男の敦仁親王の母・胤子は宇治郡司の娘で、藤原高藤が雨宿りしたときの一夜の契りから生まれたという女性である。それに対して醍醐の一歳下の弟の斉世親王は宇多の学問の師の橘広相の娘(おそらく宇多の最初の妻)で、母の家柄はかならずしも見劣りする訳ではなかった。ただ上皇という自由な立場にあこがれた宇多は、三一歳の若さで引退するにあたり、道真の献言を入れて、年令を尊重して長男の敦仁を即位させた(醍醐天皇。時に一三歳)。そして宇多は醍醐の補佐に藤原氏の長者、大納言藤原時平と権大納言道真の二人をあて、醍醐は時平の妹を娶った。

 これで醍醐に子供が恵まれれば事態は平穏のうちに過ぎたかもしれないが、醍醐には子供がうまれず、それに対して斉世は道真の娘との間に源英明という男児をもうけた。この子は宇多上皇にとっては初孫にあたる。醍醐の即位三年後のことであった。私は、ここで宇多が斉世を兄の醍醐の皇太子にしようとしたのが、有名な道真配流事件の原因となったと考えている。それは事件の後に斉世が出家させられていることに明らかである。

 道真も、橘広相を学問の師としており、ようするに宇多天皇とは同門の仲である。この時期の天皇家は清和天皇ー陽成天皇と続いた王統が陽成の「御乱心」もあって、光孝天皇の流れに代わった時期で、光孝の子供の宇多は最初から天皇の候補ではなく、一度、臣籍に降下していた。宇多は、生まれた時から神童といわれた道真を同門の若き俊英としてよく知っていて、相談相手としていたのだろう。これが時平を中心とする貴族たちの警戒を招き悲劇がもたらされたのである。当時の記録には道真が「父子の間、兄弟の愛を破ろうとした」とあるが、実際には、事の発起は宇多にあったというのが穏当な理解だろう。

 以上が主人筋の斉世親王、藤原時平、菅原道真についての説明であるが、『菅原伝授手習鑑』は、この事情をほぼ正確に描き出している。さらに驚くのは平安時代の歴史についての知識が豊富なことで、それはまずは、三つ子の兄弟、梅王丸、松王丸、桜丸の名前に現れている。年令順に説明すると、梅王丸の「梅」は、いうまでもなく道真が都から流される時に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌を詠んだところ、その梅が大宰府の配流先の道真の屋敷にまで飛んできて根を下ろしたという「飛梅伝説」にちなむものである。

 次の松王丸の「松」は、北野天満宮の摂社、老松社にちなむものだろう。道真が怖ろしい天神となって京へ戻ってきたとき、道真は「松は我が形のもの也」と託宣したという。「老松」とは、そのとき随従してきた翁神である。『北野天神縁起』によれば、この神はたいへんな「不調者(暴れ者)」であるという。松王丸の激しさにふさわしい神であるように思う。松王丸は翁になっても、神になっても激情一途ということであろうか。

 これに対して斉世親王に仕えた桜丸の「桜」は、斉世親王の優しさと潔さを表現しているといってよいだろう。斉世の出家は一面では強請されたものであろうが、道真が配流された以上、すっぱりと世俗から離れてしまうという決断をしたと考えることができるように思う。

 なお、梅王丸、松王丸、桜丸はおのおの舎人として主人に仕えたという設定になっているが、舎人とは、天皇や王族・貴族に仕える官位のない民間からでた家来のことである。トネリの語源はわからないが、私は、おそらく家の主婦を家刀自(トジ)といい、村の有力な男を刀禰(トネ)というのと関係する言葉だろうと思う。『菅原伝授手習鑑』が、この舎人を牛車をみちびく牛童として描いているのも、作者の豊富な歴史知識を示している。実際に、道真の時代がすぎて一〇世紀後半になると、舎人はしばしば牛車をみちびく牛飼になっていき、牛飼・牛飼童たちは、大人になっても「――丸」という童名のままで烏帽子をかぶらぬ童髪の姿である。

 彼らは、いわゆる京童の中心をなす人々で、その乱暴ぶりがよく知られている。けれども彼らも、いつも騒いだり、牛車を遣っているのではなく、その生業は車借にあった。それをもっともよく示すのは平等院を建てた藤原頼通と弟の教通の従者同士が喧嘩した事件で殺された教通の従者が「車借の男」であったことだろう(『本朝世紀』一〇一三年六月)。そして、実は、このような牛飼・車借たちは、道真の祭られている北野神社に仕える「神人」という身分をもっていたのである。彼らは村上天皇の頃からというから、一〇世紀の半ば頃から、その身分を示す「一寸ばかりなる短冊」を誇示して、京都の関所に盤踞して、物を運び、手数料を悪ねだりしていたことがわかるのである。

 もう一つ面白いのは、梅王丸、松王丸、桜丸の父親の名が白大夫といわれていることで、この白大夫も、北野八幡宮の摂社の一つで、右の老松社に並んで立っている白大夫社にちなんだものなのである。この白大夫(はくだゆう)とは百大夫ともいう芸人の親玉というべき翁神であるが、柳田国男によれば、その遊芸はあるいは木偶(くぐつ)を舞わせる芸であるといい、あるいは遊女の芸であるともいう。ただ、私は『北野天神縁起』が時平・清貫・希世など、さらには醍醐天皇自身までが地獄に堕ちたと語っているのが大事だと思う。鎌倉時代にできた『北野天神縁起』は地獄語りの絵巻なのである。おそらく、北野天満宮の信仰をとれば、その地獄語りをする芸人たちというのが、白大夫社の系列に属する芸人なのではないかというのが私の想定である。物語の芸人は『平家物語』を語る琵琶法師だけではないのは明らかなのである。

 さて、「車曳」の段についての歴史学からの解説は、だいたいこんなところであるが、この浄瑠璃歌舞伎の作者が、菅原道真と北野天神についてよく調べていると思うのは、土師の里の段である。つまり、『手習鑑』では道真の伯母の覚樹は土師の里に住んでいるとなっているが、これは菅原氏が奈良時代末までは土師氏であったという歴史事実をふまえているのだと思う。土師氏は、そもそも相撲の元祖として知られる野見宿弥を始祖とする氏族で、埴輪を作り、前方後円墳を管理する役割をもっていた。道真が生まれる五〇年ほど前まで、菅原氏は冥界の管理者であったのである。その記憶は残っていたに違いない。道真が地獄を支配する神になったのは、その伝統をうけたものなのであろうと、私は、考えている。

2015年12月21日 (月)

歴史学における歴史理論。『日本史学』(人文書院)の終章序

以下は、『日本史学』(人文書院)の終章。「研究基礎ー歴史理論」の導入部です。

 これまでの「読書の初め」「史料の読み方」「学際からの接近」「研究書の世界」とは違って、ここで研究基礎というのは研究を行うための入口や方法よりも、その基礎の基礎、足場のようなもので、ようするに理論のことをいう。

 理論は骨組みだから、小難しいのは勘弁してもらうほかない。しかし、理論の根拠は「心」だ。そういうと変に感じるかもしれないが、研究というのは研究者の側からいえば、「心」に根拠がある。そして「理をもって論ずる」のは「心」である。だから、これは研究者個々人の心の奥底にどういう足場が組み立てられているかという問題でもあって、その意味では経験によって、また個々人によって違う。私の場合は世代的にいって、どうしても「戦後派歴史学」の理論ということになる。

 「戦後」というのは第二次世界大戦後という意味だから、古すぎることのように感じられるかも知れない。しかし、たとえば野間宏・堀田善衛などの「戦後派文学」は、その世界のなかに入っていけば、決して古いというだけでは片づけられないと思う。それと同じことである。ここでは代表として石母田正・峰岸純夫・佐々木潤之介・遠山茂樹の四氏の本を選んだが、私は、ここを足場として仕事をしてきた。

 もちろん、研究は、もう「戦後派歴史学」では間に合わないところにまで進んできた。とくに歴史学は「日本史」という枠組みのなかに自足してはいられない。つまり「琉球史」と「アイヌ史」の問題であり、そこではまったく異なる史料の扱い方と仕事のやり方が必要になっている。これから歴史学に進む人は、最初からこの足場も確保しておかねばならない。ここでは「戦後派歴史学」は無力である。


 「歴史理論の根拠は心だ」というのは、この文章を書いていて自然に気持ちに浮かんできた言葉で、書いてみれば、たしかにその通りだと思う。
 今日はコンピュータの不調・事故など、参ったことがあって、益田勝美『記紀歌謡』を読むほか仕事ができなかったが、心が折れては仕事ができない。心を取り戻すのは、やはり理論であると思う。
 益田勝美『記紀歌謡』はやはりすごい本だと思う。「古代」を対象とする歴史学が学ぶべきほとんど唯一といって良いほど屹立した仕事である。 ここにはともかくも筋道を通そうという強靱な思索がある。そこに立ち戻るほかない。そういうものが体系としての理論なのであろうと思う。体系というと、なにか自己から離れた物のように思うが、しかし、そうではなく、思考の筋であり、樹木のようなものだ。根っこであり、幹であり、そこから枝に通っていく樹液のようなものである。

 それは「歴史学の方法」といわれているものとは違うものなのである。方法は駆使するものだが、理論は私たちを呼び出し、励ますものでなければならない。
 
 これで今年の主要な仕事の一つであった『日本史学』(人文書院)の各章の序の紹介は終わり。ただ、そこで言い残したことがある。それは、歴史学は「心」の勝負ではあるが、もう一つは体力だということ。体力勝負の部分が残るということである。どのような仕事でも同じでであろうが、それは心と結びついた身体の能力である。戦後派歴史学の先輩たちの闊達な身体と強靱さのことを思う。

 

2015年12月17日 (木)

十和田シンポジウムで講演。23日。日本列島の火山噴火と日本の歴史

Kaino_posuta

下記のような話をする予定。

日本列島の火山噴火と日本の歴史
はじめに
Ⅰ地震・噴火のスーパーサイクル
Ⅱ一五世紀半から一八世紀の地震・噴火
Ⅲ七世紀末から一〇世紀の地震・噴火
Ⅳ神話時代、紀元前後の地震・噴火
おわりに

最後の「神話時代、紀元前後の地震・噴火」については、紀元前後の大地動乱を説明し、先日発表した「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)の内容を紹介する。

その部分の詳細レジュメは下記。


Ⅳ神話時代、紀元前後の地震・噴火
 文献はないが、地質史料と神話的観念から追跡可能。
 国生の女神イザナミの「国生」=海底火山爆発の象徴
松村武雄(『日本神話の研究』)。
紀元前後の大地動乱
①奥州巨大地震津波
根室・噴火湾から三陸沖、気仙沼の津波痕跡
松本秀明「仙台平野に来襲した三回の巨大津波」(『季刊東北学』28号。2011年夏)
②南海トラフ巨大地震・津波
 高知から三重に巨大な津波痕跡
③紀元前後以降の冨士噴火歴
①BC50年頃。南東山腹から二ツ塚スコリアが噴出しスコリア丘を形成。
②AD50年頃。御殿場口登山道沿いの標高3,600~3,100mで割れ目噴火。東山腹に雄鹿溶岩流を流下
③AD150年頃。東山麓から須走口馬返1スコリアが噴出。
④AD350年頃に須走口馬返2スコリアが噴出。同じ頃、東山腹から幻の滝溶岩流が流出
「冨士火山東斜面における最新期火山噴出物の層序」(山元孝広ほか。『地質調査研究報告』62巻11/12号、二〇一一年)
高皇産霊は火山神・雷神
 倭国神話の至高神。アマテラスではなく、タカミムスヒ
天孫降臨神話の主神
 天津日子番能邇邇藝命に詔りて、①天の石位を離ち、②天の八重のたな雲を押し分けて、③いつのちわきちわきて、④天の浮橋に、⑤うきじまりそりたたして、竺紫の日向の高千穗のクジフル岳)に天降り坐しき(『古事記』天孫降臨条)
①天の巨大な磐座が墜落してくる
②棚のように垂直に聳える雲を押し分けて
③「稜威之道別道別而」=厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して稲妻のように
④天にかかる岩梯子(松村武雄『日本神話の研究』)
⑤浮き縮み、反り返り、立たり。火砕流、溶岩流の様子
⑥稲穂を投げ散らす
史料には白い火山灰を「雨米」「米花」
⑦真床追衾=繊維状の火山噴出物(ペレーの毛など)
史料ーー馬の鬣毛、綿のごとき物、
タカミムスヒの神名の意味
「ムスビ」=「生成する」力をもった「産霊神」(本居宣長)。「結び」の神(折口信夫)
ムスヒ、「ヒ」は火と日。ムスは、蒸、「熱」。
タカミムスヒ=高所に坐す熱と光の神=雷神
落雷樹=霹靂樹に宿る(写真は生駒神社の霹靂樹)

タカミムスヒ=「天地鎔造の神」(『日本書紀』顕宗紀)
  「鎔<いがた>、鋳鉄の形なり」by和名抄
天地を鋳型に入れるように鋳造・冶鋳。
巨大な火を使う神
素戔嗚尊・大国主=地震・火山神
根の堅すの国、地下の鍛冶国
「鍛す」=動詞。『古事記』にのみ出る言葉。
鍛冶。「鍛地」=埴輪を焼き堅める場(『日本書紀』)
「根国・底国は无間の大火の底なり」(『中臣祓訓解』鎌倉時代初期の神道書)
その王、素戔嗚尊
海神スサノヲが怒って天に上る時に「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」(『古事記』。
地震を引き起こす宝、「天の沼琴」をもつ
その跡継ぎ、大地貴(オオナムチ)
大国主命の初名。オオナムチ。「ナ」は、「ウブスナ(産土)」の「土」(な)。ムチは「貴」の意味。大地の尊貴な霊
地底を訪問し、そこでスサノヲの娘と仲良くなり、二人で「天の沼琴」を盗んで逃げ出す。その琴が「樹に払れて地動鳴みき(とよみき)」。地震を引き起こす琴
オオナムチとスセリ姫は、地上に逃げ出て、黄泉比良坂を下る。
スサノヲは、火山噴火口から地上に逃げだしたオオナムチに対して、「おまえは宝物を使って地上の王者となれ。そして、大国主命と名乗れ」と叫んだ。
「大国主」、大地の神が国王となった

 

2015年12月16日 (水)

社会的物質代謝と生業論の学融合的な課題

 この図と下記の文章はある研究会で披露したものです。
Busitutaishanozu_3

物質代謝と社会構造の概念図の説明     保立道久

はじめに
 生業論といわれる議論が歴史学のなかで話題となっている。その中心となっているのは、白水智、盛本昌広、春田直紀、橋本道範などの諸氏であって、私は、この研究動向は、本格的な社会経済史研究の動きを復活させるために、重要だと考えてきた。
 もちろん、生業論といわれる研究動向は、従来の社会経済史の研究に対して批判的な様相を示す場合も多い。いわゆる戦後派歴史学のもっていた社会経済史の方法は原則的・理論的であることを目ざしたといっても、しばしば実証の条件や技術が未発達で、方法的な枠組みが狭い、あるいは狭い印象をあたえたのは事実であるから、これはやむをえないことであるが、しかし、ここには、必要な方法論議をすれば解決できる問題も多いように思う。
 この状況を自然科学の方に自分なりに説明するために、図を作成してみた。以下、簡単に、この図を解説する。
1生業論と自然科学
 生業という言葉は、「なりわい」と読むから、簡単な言い方をすれば、ようするに、生業論とは人間の日常生活からみた経済活動の諸相を論ずる、人間の日常生活から視線を外さないということによって様々な分業(精神労働と肉体労働の分業をふくむ)や経済活動のあり方を統合的にとらえていくという研究視角であり、素材選択と方法意識のことである。私なども、いわゆる社会史研究のなかで、それを強く意識していた。経済史研究が民衆史研究や社会史研究に展開し、それがさらに分岐して生業論という動きにつながっていると私などは考えるが、そういう立場からいっても、当面、上のようにいっておけば歴史学内部では、広く了解可能であろうと思う。

 しかし、問題は、この生業論的な研究が自然科学との接点をもって展開しつつある状況である。上の定義のようなものは、歴史学・考古学内部あるいは社会人文科学の側では了解可能であるが、自然科学にとっては、それをどう受けとめてよいかは不明であろう。自然科学にとって、この生業論なるものに対応する研究対象は何なのか、それに関わって自然科学の側で、どのような方法論議が必要なのかなどの問題は必然的に発生する。

 問題は、その場合、やはり上で本格的な社会経済史といった研究動向が背後にもっていた方法意識に近いものが必要になることであろう。もちろん、それは歴史の具体的な研究の表面にでてきた訳ではない。各世代の研究者のもっていた社会科学の方法論に関わる領域の問題であって、具体的な史料実証作業の表面ではしばしば暗黙の了解事項になっていたようなレヴェルの問題である。

 生業論と自然科学との学融合的な研究ということを考える場合、もっとも大事なのは、生業論という視角が自然科学に対してどういう研究を要求しているのかということを明示することであろう。

 図では自然の運動形態を地球科学的自然(地学と大気海洋現象)、生態学的自然(植物界・動物界)、社会的自然に大別して示した。生業論の枠組みからは地質学、大気海洋科学、植物学、動物学との間で、どういう研究をしたいか、そしてその全体によって何を問題にしたいかということになる。

2人間と自然の物質代謝と「生産・再生産」

 私見では、それはまず、人間と自然の物質代謝における対象的生産(いわゆる「生産」)と主体的生産(いわゆる再生産)の双方を、自然史のなかでとらえるためにはどうしたらよいかということだと思う。

 つまり、生業論の視角、人間の生活の総体から視線を外さない統合的な研究視角という場合に決定的なのは、人間の生活は人間自身の再生産と自然的な生産の両者をふくんでいるということである。なお、日本語の生産という言葉は工場生産、大量生産などという言葉の印象が強く、物を機械的に作りだすという印象がある。これによって歴史学の中にもこれに流されて生産という言葉自体を使用しないようにと考える傾向も生まれている。それに代わって生業という訳である。

 しかし、生産という用語は、決まった方式によって決まった物を作り出すということではない。そもそもproduce,productには「前へ導く、明るみに出す」という行為、自然の内部に入り込んで、そこから物を取り出すというニュアンスがある。「生む」「産む」の前提に入り込むことがある。しかもここで自然の内部に入り込んで生産するという場合、それは二重の意味をもっている。つまり、第一にはそれは対象的な自然、人間の身体の外にある自然に入り込んで生産するということであるが、第二には、主体的な自然、人間的自然=身体の世界に入り込んで生産するということである。後者は、人間が人間自身の自然に入り込んでいって繰り返し関係する、つまり「再生産する」ことである。そこには性的生産のみでなく、生命の成長や死に関わる世界のすべてが含まれる。
 「再生産」という用語を、生産というものが第一次的であり、「再生産」は二次的であると理解してはならない。それはむしろ「自己生産」という意味では基軸の位置にある。「生産」と「再生産」は一体なのである。生業論の視角はこの「生産」と「再生産」の一体性におかれなければならない。

 難しいのは、この人間自身=人間的自然の再生産というものを自然科学的にとらえる方法である。つまり人間が食べ、身体を養い、排泄し、住み、個性的な性関係をもち、前世代・次世代と関わっていくということなど、ようするに人間が自分の動物としての身体(人間的自然=主体的自然)を維持するすべての直接的な行為の結果を探り出す方法である。これは人間の身体の歴史であって、長期的には人類学が行っているような研究であるが、しかし、1万年前から、あるいは歴史時代の歴史を検討する場合、どのようなことが可能か。私の視野では見えない部分が多い。

 ただ、それは広い意味での人口論が基礎となることは明らかであろう。人間自身の身体を維持し、生殖することによって、すべての基礎としての人口を作り出す局面である。人間人口論自体を自然科学がどう扱えるかは私にはわからないが、少なくとも人口の拡大は動物の巣と獣道、猟場と同じような人間的自然の周縁領域を作り出していく。これは人間が食べ、排泄し、住居を営み、さまざまな形と目的で動き回ることによって発生する動物としての人間の再生産にともなう緩衝帯のような生態系であって、それ自身としては本来の意味で社会的なものではないが、しかし、このような人間的自然に直接に付着する生態系の変化が人間と対象的自然との関係のすべての基礎にすわる。

 それを歴史学と自然科学で議論するためには、結局、図の上部に記した自然の無用性のなかで「廃墟=放棄された巣」を探ることが必要になるのではないかと思う。この廃墟の問題については後にふれることとするが、この廃墟、「遺跡」の様相を詳しくかつ統計的にみることによって、人間の生業の痕跡をみるということであって、ここではいうまでもなく考古学が決定的な位置をになう。歴史学が自然科学に奉仕しうるとすれば、やはりそれは最終的には「遺跡」(人間の生活・生業痕跡)の考古学的な分析が基礎となるはずであろう。


3生業経済と市場経済ー有用性と無用性

 生業論にとって、方法的に重要なのは「生業」と「経済」の概念の関係をどうとらえるかであろう。これをとかずには生業論は理論たりえない。その意味では、市川三男「環境をめぐる生業経済と市場経済」(『岩波講座 文化人類学』2)が参考になる。この論文のいう「生業経済」は、自然の有用性、使用価値が営まれる世界であるが、ここに「生産」と「再生産」の一体性の世界がある。

 それは、自然の多様な有用性の占取であって、それは自然を空間的に区分し、時間的にも区分し、また生態学的に区分していく。こうして、自然は様々なランドマークによって空間的に区分され、また季節の巡りの年間暦などによって時間的に分節され、また生態系の中心をなす動植物も区分し命名されていく。対象的自然の有用性の発見の仕方、その有用性を効用価値にしていく過程が人間による生産の本質的な特徴を形成することはいうまでもない。

 他方で市場経済とは自然の余剰、人間にとって無用な自然の過剰に基礎を置く経済である。自然の過剰という形をとった無用性を商品化することである。ここでは商品がかならずしも自然の有用性の表現ではなく、無用性=過剰性の表現であることが重要であろう。人間は自然の直接的な有用性のみでなく、生業経済には現在のところ無用・過剰な自然の存在形態を利用する方向で、生産諸力を拡大するインセンティヴをあたえられる。

 このような生業経済と市場経済のキーをなすのが、人間の空間的・時間的・生態学的な認識、民間知の蓄積である。これが社会的自然が他の諸階層の自然と比べてのもっとも大きな特徴である。それは、一つの社会的な認識のシステムによって媒介されている。もちろん、動物も自然を意識し、観察して、それを記憶する。しかし、その記憶を協同的な意識関係として強化するシステムをもっていない。社会的な自然の形成においてはこれが必須である。たとえば、漁村においては漁場の地理的認識と発遣、その記憶の管理が漁村の社会的自然においては必須の要素である。

 図にみる自然の運動諸形態の矢印が下から上に上がっているのは、有用性・宝庫性の側面である。これを人間的自然が力能としてうけとめて社会的自然の内部に組織したものがいわゆる生産諸力である。「生産力」といわずに「生産諸力」というのは、それが意味する有用性(それに対応する有用労働)がきわめて多様で、機械的に一元化できないからである。生業経済はつねに、こういう多様な生産諸力を統括する主体として存在する。

 これに対して上から下に下がってくるのが、自然の無用性、過剰性とそれが人間を自然的に規定する側面である。

 物質代謝は、この両側面の境界で展開する。市場経済は、自然の無用性を浸食し、それによって生産諸力を拡張する。前近代では、こういう多様な生産諸力を統括する生業経済と市場が主体となって自己運動する動きとの対抗関係がつねに存在する。

4hazards/disastersと社会構造

 自然の無用性と有用性のバランスが大小・諸形態のハザードによって破壊される、生産諸力が破壊される経験が人類史の当初から存在した。採集経済領域の食い尽くしといわれるものである。

 hazards(「異変」、自然的な異変)は、最初は諸形態のdisturbance(「攪乱」)として現れる。そして、自然的なhazardsはdisasters(「災害」、人間社会の災害)に展開する。三者の区別と連関を正確に踏まえることが重要であるが、問題がdisturbance→hazards→disastersという順序で展開するのはいうまでもない。より正確に言えば、このdisturbance→hazards→disastersの系列は。おのおの、Crustalogicalな(地殻的な)それ、Meteorologicalな(気象的な)それ、Biologicalな(生態学的な)それという形をとり、しかもそれらが複合的に登場する。

 また自然の諸階層においてはより低次な運動諸形態のhazardsが決定的な意味をもつ。たとえば地球科学的自然が、通常の枠をこえた地震や噴火などのhazardsを起こすと、社会的自然が攪乱され、disasters=災害が産み出される。また大気海洋の自然は生態学的自然に対して決定的な影響をおよぼし、同じようにdisasters=災害が産み出される。「地殻災害Crustalogical Disasters」「気象災害Meteorological Disasters」「生態災害Biological Disasters」などが複合した場合には社会は大きな危機に陥る。

 社会的自然の形成は、その廃墟の重層の上に展開する。廃墟は、われわれからみれば「遺跡」であるが、それは自然としてみれば、動物の巣のあとと区別できない。前述のように、この廃墟の認識が生業論的視角からいうと決定的な意味をもつ。それを分析すれば、人間の再生産にともなう緩衝生態系を自然科学的に認識することが可能となるのではないかということになる。

 廃墟の形成とはhazardsのdisastersへの転化である。歴史は、自然史の側から見れば、自然の有用性と無用性の衝突、有用的な生産諸力とそれによる自然の廃墟化、hazardsのdisastersへの転化の矛盾をつうじて展開する。そしてこれが(歴史学が固有に扱うような)社会構造自身の矛盾と結合したとき、カタストロフがうまれる。

おわりに

 このカタストロフは、レヴォリューションあるいはレジームシフトを社会に強制するのであるが、それはしかし、自然との関係からは相対的に離れた領域、つまり、図でいえば、一番右側に描かれた社会領域固有の問題である。disturbance→hazards→Regime shiftが自然科学が扱う問題であるとすれば、社会科学は、それを前提としつつ、disturbance→hazards→disasters→Revolutionという系列を扱うことになる。なお、ここでいうRevolutionは社会の強行的転換というような具体的形態を意味するものでなく、本来の意味、つまり世界軸のRevolt(回転)あるいは、「革命」(天命の改まり)を意味することはいうまでもない。軸がどのように回転するか、なめらかに人知れずか、荒々しい音をたてるか。社会が生きのびるためには回転が必要だが、できるかぎり明瞭でなめらかで、カタストロフを拡充しないものになるかどうかには、社会の構え方、予知と予感の力が必要だろう。
 しかし、Regime shiftとRevolutionの研究が学術的には似たような方法的な構えを必要とするのは、人間の歴史もやはり「自然史」の一部であることを認識させる問題である。

 なお、以下は、このような問題を考えるときに、いつも立ち戻っていた戸田芳実「中世文化形成の前提」(戸田『日本領主制成立史の研究』323頁)の一節です。
「前近代社会では、自然にたいする人間の劣位という基本条件のもとで(これは人間の日常が展開する生態的自然の表層に対する劣位ということである。自然総体に対して人間がつねに劣位となるのは誰でも知っていることである。この誰でも知っていることをもって戸田の、この文章を批判するのはフェアではない――保立追記)。「自然の紐帯」・「自然関係」が社会関係と社会意識のなかに浸透し、その意味 で自然と社会とは、近代と異質の有機的な結びつきをもっている。したがって、「社会的に、歴史的に創造された要素」がそれぞれのばあいに対立しなければならないものは、まず優越した自然そのものであり、そしてつぎに人間の特定の歴史的な社会関係にからみついた擬似的自然である。近代以前でも、文化を形成する諸要素は、「社会的に、歴史的に創造された要素」に外ならないが、まず重要な点は、それがその根底においてどのように前近代の 歴史的な「自然規定性」とかかわり合っているかということである。前近代社会の人間関係、階級支配を軸とする前近代の社会構造は、生産者にたいする特定の「自然規定性」(それはなによりもその段階の生産力の質と水準としてあらわれる)を前提とし、また、民衆にたいするそのような自然の規制 力を社会関係の規制力に転化することによって維持される。いいかえれば、生産者が自然にしばりつけられる条件のもとでは、支配者は自然を占取し、 自然を擬似的に体現することによって、生産者を把握することができるのである。これは前近代社会の階級的支配関係の重要な基礎である(なお、現代社会においても社会的自然それ自体が人間の従属の根本条件となっていることはいうまでもなく、それが社会関係の呪物性、フェティシズムとして現れることはマルクスが詳しく論じたことである。そのレベルをふまえて、前近代と近代における自然規定性を(種差をふまえて)解明することが課題であることはいうまでもないーー保立追記)。
 したがって、民衆が自然にたいする相対的独立度を高めるという生産に直結した自生的な実践は、桎梏となった本来の自然規定性を変革すると同時に、社会関係に転化された擬似的自然規定性をも変革せずにはおかない。そのようにすべての変革の起動力となる自然と人間との自生的な実践的関係(すな わち生産力)の進歩の過程は、また同時にその過程と成果を反映し定着した意識的・自覚的な所産を生み出す。それは人間の自然にたいする社会的実践との連関を失わない知的労働の結晶である。技術・言語・科学的知識・理性と文化の発展は、それぞれの時代の歴史的制約を帯びながら、意識的局面に おける人類発展の能動的要因をなしている。そして文化は高次の社会関係から生じた階級意識の規定をうけると同時に、あるいはそれ以前に、そのような自然との闘争過程の意識的側面に深く根ざしているのである。その意味では、文化はルフェーブルのいう「人間が自然を享受する仕方としての人間の 自由」の意識的な歴史的所産であって、その点に、民族的あるいは人類的共同財産としての文化の継承性の根源がある。簡単にいえば、文化は基本的に 生産力と生産関係の二つの側面にそれぞれ規定された二重性を帯びているのである」。

2015年12月 6日 (日)

地震の神オオクニヌシのいる佐田岬に原発をおいてはならない。

 大国主は地震の神。その通い路の佐田岬に原発をおいてはならない。オオクニヌシは地震神としたのは湯川秀樹の父、小川琢治。火山神であることを論証したのは日本文学史の益田勝美。『古事記』の特徴は出雲神話=地震火山神話を明瞭にした点にある。その論文の雑誌が届いた。

 オオクニヌシの仲間のスクナヒコナは硫黄の神。スクナヒコナが病気になったとき、オオクニヌシは、その治療のために豊後の別府から道後温泉に「樋」を通して温泉を引いた(『風土記』)。神話時代の人びとも豊予海峡海底にエネルギーパイプ=中央構造線を認知していた。

 私は『古事記』の地震火山神話の側面を、プレートテクトニクスや断層の知識と同時に、小学生に教えるべきだと思う。その場合、どうしても必要なのが、この道後温泉への温泉引きの起源神話。そのルートが中央構造線だよというのはもっとも分かりやすい。
 
 小学校の授業で教材とせざるをえないのが、全国断層分布図。その四国・九州連絡線の直上に原発があるのは一目瞭然。中央構造線は巨大な活断層である。地震は怖くないよということを教えるに等しい。伊方の設置は神話時代より前に知識水準を戻すことではないか。そういう退廃は許されない。

 再稼働を強行する人はオオクニヌシ神話などは教えなくてもよいというのであろう。日本神話では火山噴火の神であるオオクニヌシと硫黄の神である小人神・スクナヒコナが国作りの神である。ようするにそういう不都合な知識は教えるなというのだろうか。

 
 以下は『アリーナ』18号(中部大学、2015年11月)に載せた「石母田正の英雄地代論と神話論を読むーー学史の原点から地震・火山神話をさぐる」のうちの出雲神話の部分です。9万字の大論文はさすがに疲れた。小島さんありがとう。

 『日本書紀』の編纂が進む中で倭国神話の全体が想起され、その中から絞り出すようにして神話のエッセンスとしての地震・火山神話が明瞭な姿をもって登場してきたのであろう。それが『古事記』である。

 最近、村井康彦『出雲と大和』は、石母田正の仕事を突き詰め、出雲神話に新たな分析を付けくわえることに成功した。村井が注目したのは、斉明天皇が出雲に対して強い強迫観念をもっていた可能性である。つまり村井は、六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の大修造は、前年にタケル皇子(建皇子)が死去したことの衝撃のなかで行われたのではないかという。建皇子は天智と遠智娘の間に生まれた第三子で姉に太田皇女と鸕野讃良皇女(後の持統)がいた。本来彼こそが天智の正統な跡継ぎであったが、この皇子は「唖にして語ふこと能はず」という生まれであった。

 村井は、この皇子のイメージが同じような生まれつきであった誉津別王と重なり、『古事記』の誉津別王の記事が迫真のものとなったという。誉津別王は大王垂仁の子どもと伝えられ、『古事記』『日本書紀』は、彼が物をいえなかった原因はオオクニヌシからのいわゆる「国譲り」の時、杵築神社の社殿を立派に造営するという約束が曖昧になっていたためであるとしている。彼が(天皇の氏族霊である)白鳥を追って杵築神社に行くことによって言語を発するようになったというのは有名なものがたりである。しかし、タケル皇子は、そのような幸運に恵まれることなく八歳で死去し、孫を溺愛していた斉明は、その衝撃のなかで斉明が杵築神社の「修厳」に全力をあげたのである。

 この村井の議論は、邪馬台国は出雲勢力が立てた国であったという鮮明な主張を追求するなかからでてきたものであるという意味でも興味深い。邪馬台国論は、ここでは論ずることはできないが、出雲と大和のあいだには、本来、領域的な一体性があり、オホナムチの信仰は出雲にはじまって、その全域に及んだとされるのである。私も有名な『魏志倭人伝』のいう邪馬台国への行程は日本海ルートで丹後を経過したものとする小路田泰直の新説*1に賛同して、『かぐや姫と王権神話』において、丹後から大和の一帯がヤマト王権膝下の広域地域であったことを論じ、そのなかに丹後奈具社から大和広瀬神社をむすぶ月神・豊受姫の信仰域をみることができると論じた。オホナムチの出雲から大和を覆う信仰域もそれに重なるものであるということになる。

 私は、この村井の意見に、さらに七世紀にしばしば大和飛鳥を襲った地震の影響を付け加えることができると思う。オホナムチ神話の本質が地震火山神話にあるというすでにみた事実からすると、これによってはじめて『古事記』におけるオホナムチ神話の記載を内在的に理解することが可能になると思う。

 つまり、七世紀に入る直前、五九九年(推古七)四月、「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ。則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」(『日本書紀』)とあることに注目したい。この段階の『日本書紀』にあまりに遠くの地震が記され伝承されたとは考えにくいから、この地震は大和あるいは畿内で起きたものと考えることは許されるであろう。「舎屋」(建物)がすべて倒壊したというのが事実であるとすると、相当規模の地震であったことになる。残念ながら、この時期の地震痕跡は考古学的には確定しておらず、『日本書紀』の史料を(地質学的な)地震史料として利用していいかどうかは問題が残っている。しかし、少なくとも、六世紀の末ころに「地震神」を祭ったこと自体は事実として認めてよいだろう。そして、すでに述べてきたことからして、この神の実態はオホナムチであったことはほぼ確実であろう。

 さらに注意しておきたいのは、出雲における地震の発生である。総理府、地震調査研究推進本部のデータベース「都道府県ごとの地震活動」によれば、出雲は局地地震のほか、南海トラフ地震と日本海東縁変動帯で発生する大規模地震によって大きく揺れたり、津波におそわれる地域である。石橋克彦も一七〇七年(宝永4)、一八五四年(安政)、一九四六年(昭和)の南海地震が出雲を大きく揺らしたことに注意していることで(石橋『南海トラフ巨大地震』岩波書店四六頁)、南海トラフ地震は出雲を揺らす特徴をもっていた可能性がある。


 このようにして、この列島の神話における出雲神話の位置という、長い間の難問に、これまでとはまったく別の側面から、つまり自然史研究との学際領域から、一つの新しい光を当てることができたことになる。

 神話時代の人々は、出雲が火山噴火と地震の多発地域であるという認識のもとに神話的な地域像を作りだしていた。『古事記』が出雲国を「根の鍛す国」としたのは、そこに根拠があった。先に見たように、「根の堅州の国」の語義は「地下の鍛冶の国」ということにあったが、それは「磐根が火によって焼き固められる国」であり、具体的には、火山の地下に存在する鍛冶場ということであった。まさにローマ神話において、火山Volcanoの地下に鍛冶の神ヴァルカンVulcanが活動しているというのと同じ世界観である。

 火山の山頂の磐座の磐根には巨大な火が宿っており、そこではしばしば地震が発生するというのは、今も昔も、この列島に棲むものがよく知っている事実である。『古事記』は、この火山神話の枠組をきわめて有効に使用して、イザナキの黄泉国訪問の物語、スサノヲの地震神としての天界上昇と降臨の物語、オホナムチの根の堅州国訪問と脱出の物語などの物語を流れるような筋をもって語りだした。それが『古事記』の叙述に不思議な魅力と臨場感をもたらしているのだと思う。『古事記』の叙述の文学的な創造性のベースにある自然観を見のがしてはならない。

 これによって、『古事記』の独自性の謎がどこにあったかという問題についても新たな見通しをうることができる。つまり、このような地震・火山のイメージは『古事記』独自の物語である。地震や火山というものが物語のキーとして語られるのが『古事記』であるといってもよい。それに対して『日本書紀』は出雲神話をかたらず、そもそも地震・火山についてほとんど触れることがない。しかし、『日本書紀』の編纂が進む中で倭国神話の全体が想起され、その中から絞り出すようにして神話のエッセンスとしての地震・火山神話が明瞭な姿をもって登場してきたのであろう。

2015年12月 2日 (水)

歴史学の憲法的な使命と天皇について

 日本の歴史学の中心問題は、現在でも「天皇制」研究である。

 その事情は現憲法の規定する天皇制が特殊な歴史的特徴をもっていることにある。

 憲法の天皇規定の出発点は天皇が王としての身分を維持しており、その身分が「法の下の平等」(憲法14条)の唯一の背反例として存在することである。しかも、その地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」ものであると憲法に明記されているように(憲法第一条)、主権者の総意が失われれば、その存廃が問題になるような王なのである。そして現憲法の天皇規定の最大の特徴は、天皇の役割を内閣の認可と通告のもとに10項目の儀式を中心とした国事行為のみを行うことに限定し、国政上の権能からは厳密に排除していることにある。天皇に10項目の国事行為以外のなんらかの国家的、政治的機能を果たさせようとするのは天皇の政治利用であって、憲法上は厳格に禁止されている。

 つまり、現在の天皇は「王」ではあっても「王権」はもたず、「君」ではあっても君「主」ではない。その意味で現在の天皇制は社会科学上の概念としての立憲君主制とは大きく異なっている。もちろん、現実には、天皇はしばしば政治的な存在として機能させられており、その非法治主義的な磁場のなかでは政治利用は許されないという憲法的立場さえも一つの政治的な立場として扱われてしまうことがある。しかし、天皇の法的・身分的な安定という点から見ると、憲法に規定された国事行為以上のことを行うことは様々な不安定要因となる。
 
 これは世界史的にみて、きわめて珍しい王に対する憲法規定であると思う。

 しかも、その実態の根は深い。まずはその国事行為という憲法上の法的役割が身分的地位となるのは、天皇を包摂する儀礼部局、宮内庁その他の国家機構や諸財産を条件としている。しかし、より根本的には、その身分は、その王としての人格に付着する文化とイデオロギーによって作られている。このように天皇は現代では現実の政治的な役割を果たすことが禁止されている文化的・イデオロギー的な存在であるということは、その王としての実質はその歴史的存在、過去存在にあることにある。ここに、「王としての天皇」を具体的に考えることが歴史学にとっての一種の憲法的な義務となる理由がある。憲法の天皇規定の内容が基本的に歴史的なものである以上、その内容は歴史学に問わざるをえない要素がきわめて多いのである。

 天皇については、現在でも日本社会のなかには様々な意見がある。その地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」ものである以上、意見はまったく自由であり、しかも多様である。その多様性は、天皇がすでに法的には身分的にのみ存在する存在であることにもよっていると思う。

 もちろん、歴史の文脈に照らして、事実に即して議論を深めていくことは極めて大事なことである。その場合も多様性は前提となる。それは政治利用をさけるという良識が深まっていくのと並行する過程であろう。

 また、このことは、憲法が存在する以上、現実の制度やシステムを憲法にふさわしいものに維持することは当然として、それ以上の変更を直接の問題としないという姿勢を意味するというのが私見である。

 以上は安田浩氏の『天皇の政治史』について拙著『日本史学』(人文書院)で書いたものの、下原稿です(この拙著でも同じ趣旨を書いてあります)。原稿を書く中で、安田さんの本と、私の『平安王朝』の類似を感じました。

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