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2015年12月26日 (土)

歌舞伎『菅原伝授手習鑑』のパンフレット解説

 新橋演舞場の新春歌舞伎の車引(『菅原伝授手習鑑』)のパンフレット解説を書いた。

 下記は草稿。あわてて書いたので、文章がずるずるしている。頭から、もつれ、切れかかった糸を引っ張り出したという感じである。

 私は、道真配流事件のきっかけは宇多が斉世を兄の醍醐の皇太子にしようとしたことから始まったという説をもっていて、それにそって事件としての「車引き」の解説をした。この説は本来、論文にしなければならないもの。まぎれてしまってやっていないが、事件の概要の『平安王朝』に必要なことは書いた。これを、ここ20年ほどにでたすべての論文を読んで正確に記述し直すということは人生の時間との関係でできそうにない。

 道真は雷神であるのみでなく、地震神として吉野の地下にいた(『扶桑略記』)。そして本来吉野の地下にはオオナムチがいたのだから、道真はオオナムチに取って代わったのであると考えている(「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(アリーナ最近号)。 そういう意味でも、斉世は重要な人物であって、くわしく教科書でふれてもいいと思う。河音能平さんの仕事をそういう形で生かしたい。

 『菅原伝授手習鑑』を解説してみて、平安時代や室町時代の歴史を徳川時代の人びとがどう受け止めているかは歴史学にとってもきわめて重要な問題であることを実感した。『日本の近世2』の内山三樹子「演劇史のなかの天皇」によると、浄瑠璃歌舞伎では、上皇・法王と天皇の争いは描かれず、摂関が悪いか「悪王子」が悪いかという筋書きになっているという。これが日本の歴史常識や歴史の教科書などではいまだにつづいている訳である。ここから組み立て直さなければ日本の歴史文化はどうしようもない。

 藤原教通の従者同士が喧嘩した事件で殺された教通の従者が「車借の男」であった事実は、ずっと気になっていたが、ここで初めて活字になった(『本朝世紀』一〇一三年六月)。牛飼が車借であろうというのは網野善彦さんが西の京の論文で推定しているが、これが早い時期の史証である。

 以下のようなもの。
 

 宇多天皇の長男の敦仁親王の母・胤子は宇治郡司の娘で、藤原高藤が雨宿りしたときの一夜の契りから生まれたという女性である。それに対して醍醐の一歳下の弟の斉世親王は宇多の学問の師の橘広相の娘(おそらく宇多の最初の妻)で、母の家柄はかならずしも見劣りする訳ではなかった。ただ上皇という自由な立場にあこがれた宇多は、三一歳の若さで引退するにあたり、道真の献言を入れて、年令を尊重して長男の敦仁を即位させた(醍醐天皇。時に一三歳)。そして宇多は醍醐の補佐に藤原氏の長者、大納言藤原時平と権大納言道真の二人をあて、醍醐は時平の妹を娶った。

 これで醍醐に子供が恵まれれば事態は平穏のうちに過ぎたかもしれないが、醍醐には子供がうまれず、それに対して斉世は道真の娘との間に源英明という男児をもうけた。この子は宇多上皇にとっては初孫にあたる。醍醐の即位三年後のことであった。私は、ここで宇多が斉世を兄の醍醐の皇太子にしようとしたのが、有名な道真配流事件の原因となったと考えている。それは事件の後に斉世が出家させられていることに明らかである。

 道真も、橘広相を学問の師としており、ようするに宇多天皇とは同門の仲である。この時期の天皇家は清和天皇ー陽成天皇と続いた王統が陽成の「御乱心」もあって、光孝天皇の流れに代わった時期で、光孝の子供の宇多は最初から天皇の候補ではなく、一度、臣籍に降下していた。宇多は、生まれた時から神童といわれた道真を同門の若き俊英としてよく知っていて、相談相手としていたのだろう。これが時平を中心とする貴族たちの警戒を招き悲劇がもたらされたのである。当時の記録には道真が「父子の間、兄弟の愛を破ろうとした」とあるが、実際には、事の発起は宇多にあったというのが穏当な理解だろう。

 以上が主人筋の斉世親王、藤原時平、菅原道真についての説明であるが、『菅原伝授手習鑑』は、この事情をほぼ正確に描き出している。さらに驚くのは平安時代の歴史についての知識が豊富なことで、それはまずは、三つ子の兄弟、梅王丸、松王丸、桜丸の名前に現れている。年令順に説明すると、梅王丸の「梅」は、いうまでもなく道真が都から流される時に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌を詠んだところ、その梅が大宰府の配流先の道真の屋敷にまで飛んできて根を下ろしたという「飛梅伝説」にちなむものである。

 次の松王丸の「松」は、北野天満宮の摂社、老松社にちなむものだろう。道真が怖ろしい天神となって京へ戻ってきたとき、道真は「松は我が形のもの也」と託宣したという。「老松」とは、そのとき随従してきた翁神である。『北野天神縁起』によれば、この神はたいへんな「不調者(暴れ者)」であるという。松王丸の激しさにふさわしい神であるように思う。松王丸は翁になっても、神になっても激情一途ということであろうか。

 これに対して斉世親王に仕えた桜丸の「桜」は、斉世親王の優しさと潔さを表現しているといってよいだろう。斉世の出家は一面では強請されたものであろうが、道真が配流された以上、すっぱりと世俗から離れてしまうという決断をしたと考えることができるように思う。

 なお、梅王丸、松王丸、桜丸はおのおの舎人として主人に仕えたという設定になっているが、舎人とは、天皇や王族・貴族に仕える官位のない民間からでた家来のことである。トネリの語源はわからないが、私は、おそらく家の主婦を家刀自(トジ)といい、村の有力な男を刀禰(トネ)というのと関係する言葉だろうと思う。『菅原伝授手習鑑』が、この舎人を牛車をみちびく牛童として描いているのも、作者の豊富な歴史知識を示している。実際に、道真の時代がすぎて一〇世紀後半になると、舎人はしばしば牛車をみちびく牛飼になっていき、牛飼・牛飼童たちは、大人になっても「――丸」という童名のままで烏帽子をかぶらぬ童髪の姿である。

 彼らは、いわゆる京童の中心をなす人々で、その乱暴ぶりがよく知られている。けれども彼らも、いつも騒いだり、牛車を遣っているのではなく、その生業は車借にあった。それをもっともよく示すのは平等院を建てた藤原頼通と弟の教通の従者同士が喧嘩した事件で殺された教通の従者が「車借の男」であったことだろう(『本朝世紀』一〇一三年六月)。そして、実は、このような牛飼・車借たちは、道真の祭られている北野神社に仕える「神人」という身分をもっていたのである。彼らは村上天皇の頃からというから、一〇世紀の半ば頃から、その身分を示す「一寸ばかりなる短冊」を誇示して、京都の関所に盤踞して、物を運び、手数料を悪ねだりしていたことがわかるのである。

 もう一つ面白いのは、梅王丸、松王丸、桜丸の父親の名が白大夫といわれていることで、この白大夫も、北野八幡宮の摂社の一つで、右の老松社に並んで立っている白大夫社にちなんだものなのである。この白大夫(はくだゆう)とは百大夫ともいう芸人の親玉というべき翁神であるが、柳田国男によれば、その遊芸はあるいは木偶(くぐつ)を舞わせる芸であるといい、あるいは遊女の芸であるともいう。ただ、私は『北野天神縁起』が時平・清貫・希世など、さらには醍醐天皇自身までが地獄に堕ちたと語っているのが大事だと思う。鎌倉時代にできた『北野天神縁起』は地獄語りの絵巻なのである。おそらく、北野天満宮の信仰をとれば、その地獄語りをする芸人たちというのが、白大夫社の系列に属する芸人なのではないかというのが私の想定である。物語の芸人は『平家物語』を語る琵琶法師だけではないのは明らかなのである。

 さて、「車曳」の段についての歴史学からの解説は、だいたいこんなところであるが、この浄瑠璃歌舞伎の作者が、菅原道真と北野天神についてよく調べていると思うのは、土師の里の段である。つまり、『手習鑑』では道真の伯母の覚樹は土師の里に住んでいるとなっているが、これは菅原氏が奈良時代末までは土師氏であったという歴史事実をふまえているのだと思う。土師氏は、そもそも相撲の元祖として知られる野見宿弥を始祖とする氏族で、埴輪を作り、前方後円墳を管理する役割をもっていた。道真が生まれる五〇年ほど前まで、菅原氏は冥界の管理者であったのである。その記憶は残っていたに違いない。道真が地獄を支配する神になったのは、その伝統をうけたものなのであろうと、私は、考えている。

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