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2016年1月

2016年1月29日 (金)

佐竹明『使徒パウロ』と歴史学

夕食後、夜の仕事前の時間である。これが終わればプロパーの神話論にしばらく突入したいのだが、乗りかかった船で、8/9世紀地震火山論をやり直している。なかなか原稿が進まずストレスである。新しい分野の仕事で、沢山の史料を基本的には残らず解釈して(解釈したと自信をもって)、先行論文を全部読んで(全部読んだと自信をもって)、しかも雑誌に載せるような学術論文ではなく、歴史叙述をするという仕事は、おそらくこれで最後となるかも知れない。

 私は小学校から中学・高校と断続的にキリスト教会に通っていて、大学が国際キリスト教大学だったので、キリスト教が好きである。

 まったく勉強したことはないが、大学時代から入門書を読んだり、話を聞いたりして、バルト神学というものに興味があった。キルケゴールが好きなこともあると思う。バルトのロマ書註解をいつか読みたいというのが夢だったが、これはやはり、今後とも時間的に無理だろうと思う。ただ、一昨年読んで良かったのは、佐竹明『使徒パウローー伝道にかけた生涯』(NHKブックス)だった。大げさにいえば、これを読んで歴史に進んでよかったと思ったことを覚えている。

 もちろん本書は宗教書であるが、この書はパウロの手紙の歴史学的な分析として読むことができる。私は大塚久雄先生の授業で影響を受け、日本史でありながら卒論の指導は大塚久雄先生であったので、ともかく学問と信仰というものが一致しているということがどういうことなのかが大塚先生を通じて感じることはできたのだが、本書を読んで、実際にそれがどういうことなのかがわかる。学問的真理の追究と信仰が一致するということが、たしかに幸せなものだろうと思うのである。

 キリスト教が好きだといっても、四福音書はきちんと読んでいないのがだめである。ただ、「使徒行伝」は好きで記憶があるのだが、本書は第一次史料としてのパウロの手紙を読み解く中でパウロの生涯を追跡している。そのなかで使徒行伝が史料批判されているのである。中学・高校時代にルー・ウォーレス『ベンハー』を読みながら使徒行伝は読んだのではないかと思う。その史料批判を60代半ばで読んでいるというのは、自分の人生の連続性の自覚である。

 歴史学に進もうという方には、ともかくキリスト教というものを史料にもとづいて理解するには最適の本であると思う(私の狭い、ほとんどない経験の限りでは、ということである)。この切り口があれば、少しあの時代がみえる。そして思想としてのキリスト教に少しでもあたりうがつけば、新プラトン主義を中心にしてギリシャにさかのぼり、イスラムと仏教にも脈絡がついていくような感じがする。

 東洋の宗教と思想、日本の宗教と思想についても、こういうことができればよいと思うが、やはり魅力があるのは親鸞になるように思う。私は、親鸞の、「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人においておや」は『老子』27章の「不善人は善人の資」の思想に淵源するのではないかと思っているのだが、これは東アジア思想全体が理解できないと確信をもって論ずることができない。

 そのために神道→神話→老荘思想という系列を行き来して物事を考えてみたい。
 さて、しかし、夜の仕事にかかろう。

2016年1月28日 (木)

何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。何故、「山城時代」というのか、

 何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。それは「平安時代」を「山城時代」という理由につながる。

 以下は、村井康彦『日本の宮都』(1978、角川書店)、瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』を祖述したものですので、ブログにアップしておきます。なお、最近公刊した私論「藤原仲麻呂息、徳一と藤原氏の東国留住」(千葉史学、67号)も御参照下さい。
 
 朝廷にとって、氷上川継の謀反事件がきわめて大きな事件であったことは、このとき、「川継が姻戚、平生の知友」という理由で罪を問われた貴族官人が公卿をふくめて四〇人あまりにのぼったことに知ることができる。そのうち川継との関係がもっとも明瞭なのは、公卿第六座の参議・太宰員外帥浜成である。彼は娘を川継の妻としていた。浜成は藤原不比等の息子の四兄弟の一番下にあたる麻呂の家(京家)を代表する位置にあったが、これによって京家は権力の地位から完全に滑り落ちていった。

 また光仁のもっとも信頼する側近であり、相談相手であった公卿トップの左大臣藤原魚名が大臣を免ぜられ大宰帥として任地に赴くことを命じられたことも大きい。魚名は途中で、病をえて、摂津にとどまり、翌年、京都に召し返されたもののすぐに死去した。そして、魚名とともに、その子、鷹取が石見介、末茂が土左介に左遷され、真鷲が父に従って大宰に下れという処置をうけている。これについては、魚名の処分が六月に遅れたことなどを根拠として氷上川継事件とは無関係だとし、一挙に強化された桓武の専制的な姿勢を示すものだという意見もあるが、川継事件との関係を想定する方が無理がないと思える。 こうして氷上川継謀反事件は、光仁の即位後も残った天武・聖武王統の影響や人脈に関わって発生したものであったということができる。それはほとんど茶番のように終わったが、しかし、これを切り抜けたことは桓武とその側近に権力強化の衝動をあたえた。とくに重大であったのは、村井康彦がいうように、この事件の処理をしながら、桓武とその側近が遷都による新たな都づくりに突っ走ったことである。彼らは、山背国への遷都によって天武・聖武王統の影響力を根絶し、国家組織そのものを組み替えようとしたのである。

 山背遷都の構想の時期、理由などについてはさまざまな見解があるが、やはり重要なのは桓武の即位の宣命に「掛けまくも畏き近江大津宮に御宇しし天皇」、つまり天智天皇の法に従って国政をとると宣言されていることであろう。天智天皇の王都は、大和ではなく難波京→近江京、つまり淀川水系地帯に置かれていたから、それを受け継ぐ桓武が難波京→大津の境域に王都を設定しようというのは自然なことであった。古墳時代以来の経過を長期的にみれば王都をすぐに大和と考えるのは、私見では「古代」天皇制のヤマト・イデオロギーにとらわれた偏見以外のなにものでもない。こう考える立場からは、王都を淀川水系に営むことを決定した長岡遷都こそが遷都としての歴史的意義が大きかった。それ故に、これまで「古代史学界」からは乱暴かつセクト的に無視されてきた、この遷都を「平安京をふくめて『山背』遷都として位置づける」という村井の見解があくまでも正しいのである。

2016年1月27日 (水)

バーニー・サンダース.デモのなかで演説.

 バーニー・サンダースがチャールストン(サウスカロライナ)でデモのなかで演説しているVideoをみた。一見の価値がある(abcNEWS。Sun, 17 Jan 2016.VIDEO: Bernie Sanders Gets on Megaphone, Demands Higher Wages)。聞き取ってみた。

Thank you.
And let me thank you not only what you're doing here, but what your fellow workers are doing all over this country.
I've been pleased to march and struggle with all workers in this country. We're fighting for 15 dollars in a hour in a union.
We are the wealthiest country in the history of the world, people should not have to work with starvation wages.
So we're making progress, there are cities and states moving for the direction of 15 dollars in a hour.
That is my goal. If elected president, that's what I fight for. Keep up the great work, thank you very much.

 以下、私訳
「ありがとう。こっちからも、ありがとうを言いたいのは、あなたがここでやっていること、そして仲間がこの国のどこでも始めていることについてだ。この国ですべてのワーカーと一緒に行進をし、戦うという経験にであえて本当にうれしい。私たちは声をあわせ、一時間15ドルの最低賃金を勝ち取ろうとしている。私たちは世界の歴史上もっとも豊かな国にいるのではないのか。人びとはなぜ飢餓かつかつの賃金で働かねばならないのか。一時間15ドルの最低賃金にむけて多くの町と州が動き出した。それが私のゴールだ。私が大統領になったら、これこそが獲得目標だ。大仕事を続けよう。ありがとう、がんばろう」。
 
 サンダースは、1941年生まれでシカゴ大学卒業ということだから、サラ・パレツキーのVICの世界である。イスラエルのキブツで社会主義的な考え方をとるようになったというのも、あのころにあった話しだと思う。イギリスのコービンといい、サンダースといい、ヨーロッパ、アメリカで明瞭に対抗的な政治家が動き影響を広げている。私は60代半ばで、私よりも少し上だが、感じがよくわかる。同世代だと思う。他国の政治家について同世代だなと感じるというのは初めてのことのように思う。歴史が一巡り巡ったということなのかもしれない。

2016年1月23日 (土)

今日の日記

 甘利経済再生相の現金受領疑惑が報じられている。国会討議から行って経済犯罪である可能性が高い。そういう人物が経済政策の根本に関わるTPPの」担当大臣であるこの内閣は根本から腐っている。腐臭というものが伝染的なものであることが心配なことだ。これに対しては、朝でも、怒りしか有効でない。

 昨日は久しぶりに2時過ぎまで原稿。長岡京での藤原種継暗殺事件の再検討の作業である。奈良王朝から平安王朝、奈良時代から山城時代への変化・移行における決定的な事件なので、研究史を追跡するので終わる。これは桓武・早良の即位・立太子を王権構造、王権政治史プロパーの問題として解明することと、国家の遷都による形態の変化の双方をとかねばならないので、手間がかかる。これが地震に直結してくるというのが私の構想。

 朝は新聞を読んで「あまりに」不快。さすがに疲れて少し寝て『ヤマザキマリのリスボン日記』を読んでいた。爆笑。それで考えたが腐臭に有効なのは、まずは笑いか。嘲笑ではなく、笑い。「裸の王様」への笑い。

 考えてみると、歴史家の仕事にはあまり笑いがない。それは学術一般のことかも知れないが、どうだろうか。『日本史学』(人文書院)で中井久夫『治療文化論』についてふれたが、中井は「歴史に興味を持つ人すなわち過去に興味を持つ人は、執着性気質が多い」といっている。

 「日本社会の中での歴史学の社会的責務は重い。歴史家のなかには私もふくめて文学好きが高じて、歴史学の世界に迷い込んでしまったというタイプがいる。重たい職業世界でしんねりむっつりと史料を読み続けているのは、うまく処理しないと心身の負担が多い」。これは笑いがないというのと同じことか


 市民連合の集会「2016年をどう戦い抜くか」で柄谷行人氏が「九条を実行することは日本人ができる唯一の普遍的行為である」といって講演「憲法9条の今日的意義」を閉じたのを聞いた。たしかに憲法の名をもって不戦を維持し、宣言することは日本しかできない世界史的な巡り合わせになっている。

 

【今日の旧暦】 今日は旧暦でいえば、一二月一四日

【今日の旧暦】 今日は旧暦でいえば、一二月一四日。年の市の日である。
 江戸では深川八幡宮の年の市と世田谷のボロ市が有名。正月用の飾り物・雑貨を売る。一番寒い季節の外出の火である。
 民話の笠地蔵は、歳末、市へ出て餅を買おうとし、辻堂の地藏によって福を得るという話である。市へ出て物を売り、正月の餅を確保しようというのは最も貧しい人の話である。
 秋から冬に大市を営むのはヨーロッパも同じ。クリスマス市である。
 佐々木銀弥氏の集成した若狭国太良庄の和市の一覧表では9・11・12・正月に和市がたっている。日本の「中世」の史料で冬市を専論した論文はまだない。『日本霊異記』下に「正月のものを買わんがため、同国深津市に向かう」とあるのをはじめて史料を集成する必要がある。

2016年1月21日 (木)

阪神大震災から21年を経過し、3月には東日本大震災の5年目の3,11がやってくる。

 阪神大震災から21年を経過し、3月には東日本大震災の5年目の3,11がやってくる。

 何度でも繰り返すべきことは、阪神大震災前において、神戸市も兵庫県も、地震学者が神戸は激しい地震があったところだと警告しているのを無視して「安全」という虚偽宣伝にもとづく都市計画を推進していたこと、そして東日本大震災においても、地震学界が巨大地震が来るといい、福島原発の安全を審査する委員会でも869年の大震災の再来が考えられるという指摘があったにもかかわらず、政府も責任諸官庁も、福島県も東京電力もそれを無視したということである。

 日本では明治以降、10回ほどの1000人を越える死者を出した震災があった。しかし、大正期以降、地震災害の危険は、有名な今村明恒の関東大震災への警告をとれは明らかなように科学によって警告されてきた。科学万能はよくないなどという政府当事者は多いが、実際には、科学の警告を十分に考えず、社会を防衛する職責を果たさず、巨大な被害と人死をだしてきたのが、政府や上層部がやってきたことである。私は、こんな明々白々のことも自覚できない政治家は一切信用しない。

 これ一つとっても、最近の世情に対して学者が怒りをあらわにするのは自然なことだと思う。しかし、私などはそういう種類の無教養な政治家と議論する気も起きない。それは学者の役割ではなく(できる人は偉いが)、まずは政治家相互でやってもらうほかない。
 
 私は3・11の直後に東京大学地震研究所で開催された研究集会に出席したことが縁となって、2012年12月より科学技術学術審議会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学関係の専門委員として参加した。参加して驚いたのは、地震噴火の研究予算が年に4億しかなく、研究体制と人員の手当もきわめて不十分であることであった。しかも、地震学の研究をサーヴェイしてみて、3・11のような巨大な地震が起こりうることは、たとえば産総研の行った地質学・地震学の調査によって以前からはっきりしていたことを知った。たとえば、ここでは、その証拠として、日本地震学会の出版した『地震予知の科学』(東京大学出版会、2007年、)に「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」とあることをあげておきたい(前回の奥州大津波は1454年であるから、これはそろそろという予知であった)。

 もちろん、現在の所、何時、どこでどの程度の規模の地震が起きるということを、つねに確実に予測することは不可能である。しかし、「予め知る」という意味での「予知」は相当の確度でだされており、それに対応する警告もされていたのである。これに対して、マスコミは、地震学の研究者を「予知」できないものを「予知」できるといって攻撃し、地震学界を一種のスケープゴードのように扱ったのである。いまでもそれを自覚しないのは、不勉強であり、無知と破廉恥であって、社会人失格である。

 こういう状況をどうにかしていくために、私などのできることは自分の仕事を通じてのことしかない。何か役に立つことの基礎の基礎をつちかえるかもしれないというだけである。もう60代半ばを過ぎてそういうことしかできないが、しかし、このことをを忘れずに、歴史学者として、命のある間は、歴史上の地震の問題についての研究に取り組みたいと考えている。

 ともかく、地震の経験と、それへの畏怖は、日本の歴史において根本的な意味をもっていることは明らかだからである。
 
 下記はあるパンフレットに書いた八世紀末に南海トラフ大地震があった可能性についての小文である。

八世紀末の南海トラフ大地震と最澄

 よく知られているように、南海トラフ地震は、だいたい100年から150年の周期で発生するといわれている。14世紀南海トラフ地震(1361年)以降については、それを語る資料が明らかになっているが、しかし、それ以前については、その可能性のある地震は、まず265年の間をおいて11世紀(1096年)、209年の間をおいて9世紀(887年)、203年の間をおいて7世紀(684年)という間隔になってしまう。これはおもに、それらの時代では正確な文献史料が少ないことによる。しかし文献史料の読み方によっては、さらに若干の推測が可能となる。

 ここで述べるのは、八世紀末期にも南海トラフ地震があったのではないかという推定である。それは797年(延暦16)の地震であって、もし、この推定が成立するとすると、九世紀南海トラフ地震(887年)と七世紀南海トラフ地震(684年)の間で、現状、203年の間隔があるものが、90年と113年という間隔に分割されることになる。
 さて、この、地震は、菅原道真が「六国史」などを主題ごとに整理して編纂した『類聚国史』(巻171、地震)に記録されているもので、この年、5月14日に「地震暴風」があって、「左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」という被害がでたというものである。

 これはいわゆる平安遷都の直後の時期で、この時期は六国史でいえば『日本後紀』という記録があるべき時期なのであるが、『日本後紀』はきわめて残りが悪く、この記事は『類聚国史』にのみ残されている。もちろん、これは本来の『日本後紀』の記事の全文ではなく省略があると思われるが、平安京で坊門という町の門と百姓の屋舍が各所で倒れたとあるだけでは、その規模が南海トラフ大地震の規模に達するものかどうかは不明といわざるをえない。

 それ故に、これまで、この地震を南海トラフ地震とする見解はなかったのであるが、注目すべきなのは、この『類聚国史』の記事と『日本紀略』という史料とをあわせて考えてみると、この地震の規模が相当のものであったのではないかと推測できることである。『日本紀略』も、六国史を抄録したものであるが、『類聚国史』が主題ごとに編纂されたものであるのに対し、『日本紀略』は年次に記事を並べており、抄録の方針の違いによって、両方をあわせると、より全面的に元の史料を復元できる。

 『日本紀略』によれば、まず、この地震の前日、五月一三日に「雉あり、禁中正殿に群集す」(『日本紀略』同日条)という事件があった。雉は雷電や地震を察知してなくという観念があって、その種本は「説文」に「雷の始動するや、雉すなわち鳴きてその頸を句げる」とあるように中国にあったが、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で論じたように日本でも、そういう史料は多い。さらに問題となるのは、『日本紀略』には、地震の五日後、五月十九日条に「禁中并に東宮において金剛般若経を転読す、恠異あるをもってなり」と金剛般若波羅蜜経の転読が行われたことが記され、さらにその翌日、二〇日条には二人の僧侶を淡路国に派遣し、仏経を転読させて、「崇道天皇」の霊に陳謝したという記事があることである。

 これまで、この「恠異」については、「どんな恠異があったのかわからない」(村山修一『変貌する神と仏たち』人文書院、八九頁)、「宮中での不思議な出来事」(大江篤「早良親王の霊」(『史園』1号、二〇〇〇年、園田学園女子大学)などとされるのみであった。これは無意識に『日本紀略』のみで解釈しようとしていたためであって、『類聚国史』とあわせればこの「恠異」が数日前の地震を意味したことは明らかであろう。しかも右の拙著『歴史のなかの大地動乱』で詳しく論じたように、この時期、地震はしばしば怨霊の引き起こすものとされ、実際、読経に引き続いて僧侶が派遣されて桓武天皇の陳謝を伝えた「崇道天皇」は強く畏怖された怨霊だったのである。

 こうなると、この地震は相当の規模のもの、まさに南海トラフ大地震であったのではないかと推定することが許される。五月十四日に地震があって、祈祷が五月十九日に行われたということは、余震が二・三日は続いていたのではないだろうか。『日本紀略』も『類聚国史』も抄出にすぎないから、余震についての記載が省略されることは十分に考えられる。そもそも小さな揺れだけで僧侶二人を淡路の早良親王の墓所にまで派遣して陳謝させるということは考えられない。

 この崇道天皇とは時の天皇、桓武の同母の皇太子(皇太弟)であった早良親王のことである。早良親王は、大伴家持などの教唆によって、桓武の近臣、造長岡京使、藤原種継を暗殺し、謀反を起こそうとした廉で処断された。しかし、彼は最後まで罪を認めず、しばらく後になって桓武も冤罪であったとして、その霊に陳謝したのである。

 このような経過は桓武の王廷に長く続く恐怖をもたらしたらしい。800年(延暦一九)年六月には富士が噴火し、火口の光が天を照らし、雷声が轟く様子が都に伝えられるが、おそらくこれも早良の祟りと考えられたものと思われる。翌月23日に、早良に対して崇道天皇の号を追称し、淡路の墓を「山陵」と呼ぶということになったのは、おそらくそれを契機としたものではないだろうか。

 私は、この崇道天皇の怨霊から都を守るために羅城門の上に置かれたのが、現在、羅城門の近くの東寺におかれている兜跋毘沙門であったと思う。松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370号、1998年)によれば、この毘沙門天像は、崇道天皇号追贈の4年後、804年(延暦三)8月に遣唐僧、最澄が持ち帰って桓武に献上したものである。興味深いのは、当時、唐で大きな権威をもっていた不空(アモーガヴァジュラ、鳩摩羅什や玄奘とならぶ三大訳経家の一人。七〇五~七四)の訳した毘沙門天王経の偈の冒頭部分には、「假使日月の、空より地に墮ち、あるいは大地傾き覆ることあるとも、寧らかに是くのごとくある事、應に少しの疑いも生ずべからず、此法は成就すること易きなり」とあることで、つまり、「大地傾き覆る」ような地震があっても、毘沙門天の経の功徳によって安らかにすごすことができるというのである。

 結局、この年末に桓武は身体の調子を崩し、翌年にかけて淡路の崇道天皇陵のそばに寺院を建てたり、「怨霊に謝す」ため、諸国に郡別に倉を作って崇道に捧げるなどの措置をとったが、3月に死去してしまう。しかし、最晩年の桓武が怨霊からの守護を求めて最澄に帰依したことの影響はきわめて大きかった。最澄が八一二・八一三年(弘仁三・四)にまとめた「長講法華経先分発願文」は、「崇道天王」を筆頭として、井上内親王、他戸親王、伊予親王・同夫人などの怨霊を数え上げている(櫻木潤「最澄撰「三部長講会式」にみえる御霊」(『史泉』九六号、二〇〇二年)。

 最澄の『顕戒論』(巻中)の一節「災を除き国を護るの明拠を開示す、三十三」が、護国仁王経の力によって、「天地の變怪、日月衆星、時を失い、度を失う」などの「疾疫厄難」を起こす「鬼神」を除き愈やすことができるとし、その天変地異の例として「日の晝に現われず、月の夜に現れず」「地に種種の災ありて、崩裂震動す」などを上げたのは、まさにこれに対応していると思う。

 付記。上記は新しい実証をふくみ、基本的にはブログでは公表しないことにしている種類の原稿である。人文社会科学の現状かららいって、定年後研究者がブログで好き勝手なことを書いたら、論文にして公表することが第一の若い研究者はたまらないだろうと思う。
 ただ社会的に一定の意味があることで、ゲラまででているときは書かせてもらっているので御許しを願う。


2016年1月17日 (日)

甲野・松村『筋肉よりも骨を使え』と片山『骨考古学と身体史観』

 『筋肉よりも骨を使え』(『ディスカバー携書』)という甲野善紀・松村卓両氏の対談本を読む。面白かった。甲野氏の武術のことは内田樹氏のブログで知ったが、この本はスポーツトレーナーの松村氏のいう「骨」的内観というのが面白かった。

 「身体」というのは本来「身體」であって、骨というものの認識が中心なのだというのが面白い。私なりに要約すれば、身体は筋肉で動かすのではなく、骨が動くのだ。それが内観できるかどうかが身体の動かし方という意味での「道」にとって決定的な意味をもつというのである。

 韓国と日本の文明形成期の共通性でもっとも重要なものが「骨」だというのが、大学院時代に、先輩の木村誠氏の新羅の「骨品制」(こっぴんせい)についての報告を聞いて以来、考えてきたこと。

 新羅の王権は「貴骨」といって、高い身分的地位は「骨」の身分的ランクで表現される。「骨品」=コッピンの「品」が、いわゆる「品がいい」という意味での「品」の原点にある。そして、日本の身分制は、「カバネ」制というが、カバネとは「尸」(シカバネ)に通ずる言葉で、ようするに「骨」のことである。日本でもっとも最初の身分制が「ウジカバネ」制といわれるのは、韓半島と共通する身分観念、身体観念である。

 これは「人間の評価は棺を覆いて定まる」というが、紀元前後以降の葬送では、身体は風葬・鳥葬の下にあり、棺に入って白骨化してから定まるというような側面もあったかもしれない。葬送というのはサル類のなかでも人間に独自なものであるというが、これは生きていた人間の骨をみることで、人間の体内組織を知る。その経験に生と死の連続を見るというような情緒的認識が、人間にとって決定的な経験となったのではないかと思う。これについてはしばしば遺体を飾るということが強調されるが、むしろ骨を認識するというのが重大だったのではないかと思う。人類学によると、マダかスカルからインドネシアまでの葬送儀礼の中心には骨の儀礼があったという。

 カバネ=「骨」をみて、立派な骨だといって人を偲ぶ感覚とでもいうべきか。文明形成期の身分制に伏在する身体意識はこれかもしれないと思う。昔の人には、骨を動かしているという身体技術の内観が一般的にあって、その上に、この種の骨的身分制が存在しているのではないかと思う。これは骨を意識する武術家やスポーツトレーナーの知識と感覚を前提に考えるべきことがあるのかもしれない。

 日本考古学は「墓」を中心にした学問であるが、片山一道『骨考古学と身体史観』(敬文舎)を読むと、最近ではむしろ「骨」を文理融合的に問題とする学問になっているように思う。

 私は最近書いた「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)で、「姓」=「カバネ」=「骨」の身分制は、前方後円墳によって表示されたと論じた。前方後円墳の身分的実態は、そこに収められた骨に対する意識にあると考えるべき幾つかの証拠があるからである。これはすでに柳田国男がいっていることであり、西嶋定生氏も似たことをいっているのであるが、長く無視されてきた観点である。
 全部は、引用できないので、一部を、以下に引用しておく。


 骨カルトの存在を示唆する史料はほかにもある。たとえば、『播磨国風土記』には別嬢が城宮で死去したのち、河を隔てて「日岡」という場所に墓を作ったとある。ところが「その尸を挙げて印南川を度るとき、大き飄、川下より来て、その尸を川中に纏きいれき」という。これは神が骨を動かすという奇跡を語るのであろう。また、飄が尸を運ぶ話しは『日本書紀』天和歌彦にもある。旋風が尸を巻き上げて天に運ぶというのは、死者の魂魄が骨となって昇天する幻想を示すのであろう。

 また同じような話は、ヤマトタケルの神話のなかにも知ることができる。つまり、伊吹山で負傷したヤマトタケルは伊勢国能褒野で死去し、そこに陵墓を作って埋葬された。しかし、ヤマトタケルの魂魄は、そこから白鳥となって飛び立ち、大和・河内に舞い降りたため、そこにまた陵墓を作ったが、白鳥はそこにもとどまらずに天に去った。これがヤマトタケルが三つの白鳥陵をもつ由来であるが、人々が最初の能褒野陵のヒツギを開いたところ、そこには衣のみがあって「屍骨」は存在しなかったという。つまり屍骨は白鳥になって飛び立ったという訳である。おそらく要点は、そこに腐敗にまかされる遺体はなかったということなのであろうが、白骨化は霊魂の解放と精霊化の前提であると考えられていたのであろう。

 八世紀後半の骨壺に人間の骨とともに白鳥の翼の指骨が入っているのが発見されたことがあるが(佐倉市の高岡新山遺跡出土、二〇一一年二月一八日朝日新聞夕刊「魂をはこぶ白鳥の骨」)、これは骨が白鳥のようになって遊飛するという幻想が奈良時代まで残っていたことを示すのであろう。白鳥の白さは骨の白さに対応しているのではないだろうか。

(6)前方後円墳と「屍=骨=カバネ」身分
 さらに重大であったのは、西嶋が人々の族姓身分を表示する「姓=カバネ」という言葉の原義は、「屍=骨=カバネ」にあったと主張したことである。もちろん、このこと自体は、西嶋も引用している幕末の国学者の著作「大勢三転考」などにも記され、栗田寛「氏族考」、柳田国男「葬送の沿革について」『定本柳田国男集』一五巻、筑摩書房)、中田薫「可婆根(姓)考」などによって繰り返し言及されていたことである。しかし、西嶋が右のような史料にも依拠しつつ問題を古墳論として展開したことは画期的な意味をもっていた。

 西嶋は古墳時代に列島のほとんどにひろがった古墳のネットワークを、いわば「骨」のネットワークであるとみたのである。そこでは「姓=カバネ」が「同族関係の象徴的表現としての骨と同語となっている」ということになる。古墳時代は骨が身分をもつ社会であり、古墳に葬られた大王・王族・首長たちの骨は、彼らの身分を表現する。『日本書紀』持統五年八月条には、諸氏族に「その先祖の墓記」を進上させたとあるから、墓が身分の表現であったことは疑いない。それはヤマト王権の国家的な身分秩序としてのカバネの制度を表現している。そして、全国にたくさんある古墳の墳形や規模は、古墳に内蔵された骨の身分を外に表現したものであって、それは古墳時代の国家と社会の秩序を表現する可能性があるということになる。この西嶋の指摘は、考古学界に大きな影響を及ぼした。

 (中略。しかし西島が石母田の批判をうけてカバネ論を撤回したために、それは不徹底なものに止まった。以下、神話論につながる)。 

 『新撰姓氏録』の序文は「ウジカバネ」を「氏骨」と表記しているというのは早くから指摘されていることであるが、それに対応する大量の氏族神話が存在したはずであろう。たとえば、倭国神話の最高神であるタカミムスヒは大国主命の国造りを助けるためにやってきた少彦名命について、「この子は少し憎らしい感じのこどもで、いうことをきかず暴れて、私の指の間から地上に落ちていってしまった子だ」といったという。興味深いのは、その時、「わが産みし児、すべて一千五百座あり」といったということで、ようするに、倭国のほとんどの神が、天神も地神もすべてタカミムスヒの子どもだったというのである(『日本書紀』(神代第八段一書第六)。全国で五〇〇〇を越えるといわれる前方後円(方)墳を考える場合、このタカミムスヒの神統譜を前提としておくことは許されるではないだろうか。さきにふれた彦狭島王の事例が示すように、神聖視された骨を記念する墳墓は、その被葬者が神統譜に参加していることの物的な証拠となったのであろう。

 以下、追加。昨日は新橋演舞場で歌舞伎をみた。海老蔵はすばらしい。「中世」という専門家意識があって、能・狂言はみていたが、歌舞伎には長くご無沙汰であった。
 そこで次のようなことを考えた。
 「日本的なものとは何か」といわれると日本を研究しているものは、若干の専門家意識をまじえて、「そういう固定的なものはない」と最初に反応するだろう。それは「女性的なものとは何か」といわれて、フェミニストが「そういう固定的なものはない」と反応するのと同じことである。そして、さらに時間があれば、それらは経過的・一時的・歴史的なものであって、人類史のなかではある種の平準化の道にあるのであって、それが固定的な対立でなくなることによって、人間の多様性が全面的に開花するという説明が付け加わるだろう。民族的なものについても、この列島の上で養ってきた特殊な能力や感覚は人類の財産であって、そのようなものとして人間的自然の宝庫のなかに蓄積されていくということになる。これは正論である。
 こういう正論はすでに存在しており、それは否定できない正しさをもっている。ナショナリズムと、インターナショナリズムないし人類史の立場は二律背反ではないということである。
 しかし、歴史家としては、この正論が正論のままでいて実際の説得性をもたないままでいたのではないかと考える。この歌舞伎の、この海老蔵があたえる感動は何なのか、それを十分に繊細な学術と芸術の論理によって解けているのかどうか。そういうことを考えさせられる。それは『筋肉よりも骨を使え』で語られる身体技術の世界を丁寧に説明できる学術的論理を我々がもっていないという自覚に共通する感想である。これは60代も半ばをすぎると、生き方の智恵に関係してくるだけになかなかきつい感想である。
 
 まだまだ議論はあろうが、「民族」なるものを正確に理解できるかどうか、それがヘイトスピーチに現れるような排他的な感情の地盤にならないように豊かに耕すことができるかどうか。今は、もう一度巡ってきた「民族論」の時代であろうと思う。
 

2016年1月13日 (水)

キルケゴールの『死に至る病』がすきでときどき読む。

キルケゴールの『死に至る病』がすきでときどき読む。
翻訳者の桝田啓三郎さんは三木清の弟子で、三木を敬愛している様子が好ましかった。三木清全集の編纂者として知った。
時々、自分で翻訳したりしている。冒頭部分、下記のように訳せないだろうか。
慣れれば「関係が関係に関係する」というのも明瞭かもしれないが、あれではまるでお経のようだ。桝田さんはいかにもまじめだが、もっと崩すことも意味がある。身に引きつけて訳すことができる、(せザルを得ない)時代でもあるのだと思う。

1自棄は、神霊の病であり、心の病いである。それは三つに区別できる。第一は自棄のなかで心をもっているということも意識できない場合である(ただ、これは本来の意味での自棄とはいえない)。第二にはわざと心から目をそらしている場合であり、そして第三に、自分の心それ自体によって自棄になっている状態である。

A. Despair is a Sickness in the Spirit, in the Self, and So It May
Assume a Triple Form: in Despair at Not Being Conscious of Having
a Self (Despair Improperly So Called); in Despair at Not Willing to
Be Oneself; in Despair at Willing to Be Oneself.

 人はたしかに神霊的な存在である。しかし、神霊とは何かといえば、それはまずは心であろう。そして、心とはひとつの関係であり、それ自身に回帰してくるような関係である。それは、その結び目がそれ自身に絡まりついてくるような関係であって、つまり心というのはただの意識関係ではなく、意識がそれ自身に意識関係して自己自身の心に結びついてくるものなのである。別の言い方をしてみると、人は、つねに全能と閉塞、瞬発と定常、自由と必要などの結び目の中で動いている。人間というのは結ぼれたもの、コンプレクスである。このように結び目というのは、どういう場合でも二つのものの間の関係なのであるが、しかし、二つのものが関係しているということだけでは、それは人間の心というものではないのである。

Man is spirit. But what is spirit? Spirit is the self. But what is the self?
The self is a relation which relates itself to its own self, or it is that in
the relation [which accounts for it] that the relation relates itself to its
own self; the self is not the relation but [consists in the fact] that the
relation relates itself to its own self. Man is a synthesis of the infinite
and the finite, of the temporal and the eternal, of freedom and
necessity, in short it is a synthesis. A synthesis is a relation between
two factors. So regarded, man is not yet a self.

 今日は東京まで出て行政関係の人とあわねばならない。『中世の愛と従属』を書いた頃は絵画をよく意識したが、最近は絵画史料のことはもう忘れているが、これも仕事である。

2016年1月11日 (月)

平安時代もまずい。山城時代にしよう。

 平安時代という時代呼称はどう考えてもまずい。奈良時代と対比して山城時代にするのがいいのではないかと考えている。

平安時代という歴史用語がいつどのように一般化したのかを調査してみる必要があるが、桓武による「平安遷都」の時の希望の歌に「平安」とあるのをそのままとった訳で、これはその時代の主観的希望にもとづいて時代名を命名するという学術的には最悪の方法である。人の客観的な姿をその自称から分析することはできないように、時代の主観によって時代の客観的な歴史像を描くことはできない。

 たしかに、「平安時代」の「王権」は、王統間の軍事闘争が「保元の乱」までなかったという点では「平安」なのではある。しかし王権内部の矛盾が一貫して政治史を動かしてきたこと、そしてそれが徐々に確実に強化されてきたことを、この時代呼称はまったく曖昧にしてしまう。「平安」時代のどこが平安なのか、「平安京」のどこが平安なのかというのが歴史家の常識的な実態認識であろうと思う。この言葉に流されて、疑問を抱かないのは、実際上は、歴史的無知の表現でしかないのである。

 つまり、平安時代史における王権内部の矛盾はその前期においては兄弟間矛盾という形態をとり、それが後期においては父子間矛盾にまで展開してしまう。王権内部の兄弟間矛盾はまだ調停可能であるが、父子間矛盾というのはどういう場合でも深刻になる。兄弟間矛盾には摂関による調停が対応し、父子間矛盾は院による「専制」によって処理されるというのが、『平安王朝』で提出した私説である。平安時代の政治史は王権内部の矛盾の法則的な強烈化によっていろどられている(なお、小著『平安王朝』の題名は編集者がつけてくれたものだが、これは読んでいただければわかるように、一種の逆説的な表現のつもり)。

 この「平安時代」という言葉は、あまりに日本の歴史常識にしみついていて、すぐに解消できるとは思えない。しかし、いつまでも桓武の主観的な希望に一般の歴史意識のみでなく歴史学がとらわれていてよいとは思わない。

 それではこの用語をどうするかだが、問題が通史認識の全体をどうするかに関わってくるので容易な問題ではない。つまり、それは「平安時代」に先行する「奈良時代」をどういう意味で「奈良時代」というかということに関わってくる。そして、それはその前の「白鳳時代」とか「飛鳥時代」という言葉をどうするかに関わってきて、(私などには)きわめて難しい問題となるのである。

 ただ、若干の私見だけを書いておくと、私は昨年出版した『中世の国土高権と天皇・武家』の序論で、8世紀から13世紀初頭(承久の乱まで)を王朝国家、それ以降を武臣国家としたらいいという試論をだしている。これは8世紀以降を王朝時代、13世紀初期以降を武臣時代という形で大区分してしまおうという意見である。この王朝時代というものをどう考えるかといえば、私見では、これは広い意味での「西国国家」であると考えている。

 西国・東国矛盾が日本の国家史における国家形態転換のもっとも重要な導因となったという網野さんの説に私は賛成なのであるが、より長期的な視点でいえば、西国国家という意味では、この時代まで邪馬台国以来の伝統が続いているということである。つまり、『かぐや姫と王権神話』を執筆するなかで、私は、邪馬台国を西国国家、すなわち、筑紫(宗像)→出雲→大和国を含む広域国家であったと考えるようになった。その点では村井康彦『出雲と大和』に賛同する。そして、私は、直木孝次郎・岡田精司両氏の「河内王朝論」が正しいという仮説的立場で勉強してきたので、邪馬台国→河内王朝という移行をどう考えるか、そしてその後を、どのように奈良時代につなげていくかというのが問題であるということになる。こういう視野で「白鳳時代」とか「飛鳥時代」という時代範疇を考え、その延長で「奈良時代」という時代範疇の意義を確定していきたいと思う(ただ、これはまだしばらく定見をうることはできないだろうと思う)。

 しかし、以上は、当面、定見をもつことはできないので問題を戻すと、ともかく、西国国家としての奈良王朝は、桓武段階で、西国の中央部に拠点をうつしたというように考えている。つまり、山城への拠点移動である。普通、桓武の遷都構想は、長岡京遷都→平安遷都という形で段階的に考えられているが、これは大和国から山城国への遷都という形で全体として整理できると思う。桓武は祖の天智の近江京ー難波京枢軸を山城国遷都という形で実現したのである。

 私は、このように考えるので、長岡遷都後を一括して「山城時代」としていいのではないかと考えるのである。おそらく容易に賛同はえられず、顰蹙を買うであろうが、まずはこういう意味で、時代名称を「平安時代」ではなく、「山城時代」という用語を採用しては如何かと思う。ともかく、平安時代という歴史用語は「日本人」の歴史知識のオブスキュランティズム、曖昧主義を象徴するような言葉であって、私説の対案が採用可能かどうかを別として、この言葉への疑念を養うことができるかどうかは、歴史像の刷新における試金石のような位置があると思う。

 この時代呼称のメリットは、第一に長岡京と平安京を連続的に捉え、政治史の大区分を長岡京遷都で区切ってしまうことそれ自体である。歴史教育では、長岡京遷都→平安遷都を区別して教えるのが普通であるが、これは長岡京遷都に重点をおいて解説した方が実態に近くなると思う。

 これは政治史的には、ようするに桓武による弟殺し(早良=崇道天皇処断)を山城時代史のトップにおくことであり、これは山城時代の終末期が、後白川による弟殺し(崇徳天皇の処断)によって切っておとされることに対応するということがきわめて明瞭になる。これは『平安王朝』で述べたことであるが、この時代は天皇による二つの弟殺しによって始まりと終末を画期づけられる時代なのである。「崇道」「崇徳」という二人の強力な天皇怨霊による大規模な政治危機をこれによって明瞭に認識できることである。そもそも教科書には桓武の弟殺しがふれられないが、このタブーがそもそも、どうしようもない無駄であって、間違った歴史イメージを振りまく根底にある。崇道・崇徳の対応関係をしらずにいては平安時代史は闇の中である。

 第二のメリットは、より実体的な問題である。つまり、「平安時代」という呼称は「平安京」というものが実態として存在したという虚偽意識を作り出してしまう。平安京というと綺麗な寝殿造り住宅と美しい貴族社会などという虚像をもつのは愚の骨頂である。少なくとも「平安京」に住む大多数の庶民にとっては、治安が悪く、危険であぶないだけでなく、汚らしく不衛生な都市であったというのが実態である。暴力と汚穢の都市であるからこそ、検非違使が治安と掃除の両方を担当しているのである。

 右京左京のそろった中華的「都城」というものは、いうまでもなく、見果てぬ夢であったのであって、右京というものは実現することはなかった。右京は第一は比叡山ー賀茂ー松尾というルートの下で、丹波そして摂津につらなる領域であり、第二には北野の西京神人が活動する場であったと考える。そもそも平安京という存在は、大山崎・宇治・鳥羽・伏見・大江山(松尾)・近江大津という首都連接の諸街区、洛外の諸街区と左京の町場の連接関係を実態としていたのであって、それが山城盆地という盆地地形によって守られるという構造であったのである。

 日本の都城に城壁がないという特徴をどう考えるかは戸田芳実が問題提起をしているが、これは盆地都市であると考えればよいのだと思う。つまり、山城国遷都とは、考古学の側でいわれるようになったように、まず平城京を北西に平行移動して長岡京を作り、さらにそれを東北に平行移動したものと処理した方がよいということである。これは奈良盆地から山城盆地への移動なのである。中国のような平原国家とは日本列島の地形条件はまったく異なっている。

 『平安王朝』で論じたように、そもそも王朝国家は、上層貴族の中央都市居住を義務化したが、八九五年(寛平七)の法は、五位以上の王族や貴族の居住と行動の範囲を「東は会坂関、南は山崎・与渡の辺り、西は摂津・丹波との境、北は大兄山」という範囲、つまり、京都盆地から賀茂河・桂河・淀川などの合流地域にいたる近畿地方中枢の首都圏というべき範囲に限ったのである。まさに山城国家である。それは近江ー山城ー摂津というライン上に拠点をもつ国家であったと思う(平家の福原京はその延長にできた鬼子)。

 八世紀までの支配階級は基本的には畿内各地に本来の居住地をもつ豪族層であったが、寛平国制改革は、そのようなあり方を法的にも清算し、平安時代の支配層は都市貴族でなければならないとしたのであるが、彼らの生活様式は山城国に展開する諸街区の網の目によって支えられていた。

 12世紀内戦期における武闘の決着がつねに、首都近郊(勢多や宇治)になるのは、その時代が山城時代の終末に当たることと見事に対応している。

 繰り返すが山城時代は本質的には西国国家であろうと思う。この時代までは王朝時代=西国国家と考えている。この西国国家の時代には、時代名に地名を使うのは十分な理由があるのである。

 しかし、鎌倉期、全国支配が軍事化するなかで、国家形態は西国国家とはいえなくなる。全国各地に広域権力が展開し、それを武臣が統括する時代になる。この時代は支配的な武臣=武王の名前で時代を区切るのが適当である。北条は東に拠点をおいて西を支配し、足利は東から出ながら、西を拠点として全国を支配する。

2016年1月 8日 (金)

6世紀末の地震神祭祀とオオナムチ(大国主命) 

6世紀末の地震神祭祀とオオナムチ(大国主命)
 
 この問題は、7世紀の南海トラフ巨大地震のことを考える上できわめて重要である。「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)に書いたものを一部引用しておく。

文中の甑岩神社は内田樹氏のブログで、御神体の巨大な岩が破壊、もしくは環境激変の危機にあると知った。何度か訪問を計画したが、まだ実現していない。この岩の破壊の話しが神社界で問題になっていると聞いたことがない。神社がその環境の維持にさらに力を注げるような世論や体制が必要であろうと思う。


七世紀に入る直前、五九九年(推古七)四月、「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ。則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」(『日本書紀』)とあることに注目したい。この段階の『日本書紀』にあまりに遠くの地震が記され伝承されたとは考えにくいから、この地震は大和あるいは畿内で起きたものと考えることは許されるであろう。「舎屋」(建物)がすべて倒壊したというのが事実であるとすると、相当規模の地震であったことになる。残念ながら、この時期の地震痕跡は考古学的には確定しておらず、『日本書紀』の史料を(地質学的な)地震史料として利用していいかどうかは問題が残っている。しかし、少なくとも、六世紀の末頃に「地震神」を祭ったこと自体は事実として認めてよいだろう。そして、この神の実態はオホナムチであったことはほぼ確実である。

 このヤマト王権による地震祭祀のなかには、吉野宮などのある吉野渓谷への入口、吉野川右岸にこんもりと立つ伏鉢形の妹山樹叢の麓にある大名持神社が含まれていた可能性が高い。この神社については、和田萃「古代の出雲・隠岐」(『海と列島文化 日本海と出雲世界』小学館、一九九一年)が、その畿内の神社のなかでの飛び抜けた位置の高さを強調している。つまり、この吉野大名持神は九世紀半ば、八五九年(貞観一)に全国の神々の位を整理したとき、従一位から正一位になっており、無位の伊勢神宮を別とすれば、淡路国の伊佐奈岐命の一品に並び、神産日神、高御産日神の従一位などを抑えて神々のトップに立ったのである。従二位の三輪山の大物主神など、他の高位の神々のほとんどもオホナムチと同体、あるいは息子や親族の神であることは、この神の隔絶した位置を物語っている。吉野山塊の主峰、金峯山の神が正三位につけていることも強調しておきたい。

 またもう一つ、この時に祭祀が行われたオホナムチ社として摂津莵原郡大国主西神社があった可能性がある(『延喜式』神名帳)。これが現在の西宮神社なのか、あるいは甑岩神社なのかについては議論があるが、私は莵原郡と武庫郡の郡界を夙川の河道と考えると、この大国主西神社は巨大な磐座の存在からして甑岩神社である可能性が高いと思う。この大国主西神社という神社名は普通、三輪神社に対応する大国主の西宮であるとされるが、むしろ吉野大名持社に対する西宮であった可能性が高いだろう。この神社は五九九年(推古七)に「四方に令して」祭られたオホナムチ社のなかで西に立てられたものであったのではないだろうか。神名帳に存在する「大国主」という神名をもった神社は、この神社のみであることからしても、この神社の位置には独自なものがあったはずである。

 石母田はオホナムチ=オホクニヌシに地霊としての性格をみとめ、「それはまだ地の神、山や丘の創造神であるという畿内・近国の農村社会で広く信じられていた観念から絶縁はしていなかった」(一八五頁)としているが、そのような畿内近国における神話観念を表示するものとして、吉野大名持社や摂津莵原郡大国主西神社があった可能性は高いように思う。その意味では、吉野大名持社などへの宗儀は推古の段階からさらに古くににまでさかのぼると考えることもできるだろう。もちろん、吉野大名持社の祭祀が国家的に調えられたのは、和田がいうようには斉明朝であった可能性が高い。実際、『日本書紀』には皇極(重祚して斉明)の即位の年、六四二年(皇極一)一〇月に二日連続で地震が発生したことが記されている。この年は「客星月に入る」という天文の異常や雷の記事が多く、これが即位の初年のことであっただけに、地震神オホナムチの祭祀が整えられた可能性は高いと思う。村井『出雲と大和』が、その意味を明らかにした六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の修営は、その延長線で考えることができるだろう。

 つづいて、天武の時代に入っても、『日本書紀』には、六七五年(天武四)、六七七年(天武六)と、大和国での強震の記録が残っている。飛鳥は地震の多い地域であるということでもあろうが、地震が記録に残される場合には、そこに一定のイデオロギー的意味があることはよく知られた事実である。従来、この七世紀の地震記事の意味は明らかではなかったが、そこには王権内部の地霊信仰が反映していたということになる。

 とくに問題なのは、六八四年(天武一三)に発生した大規模な南海トラフ地震である。この地震では、山崩や洪水・溢水が発生し、諸国の官舎、百姓倉屋、寺院神社などが、破壊され、多くの人間と家畜が死傷したという。発掘調査で確認された飛鳥の酒船石遺跡の地盤と石垣の崩壊は、この地震によるものであったとされる。

 この地震で崩落した酒船石は皇極=斉明の狂心を表現するものとされる。斉明はすでに六六一年(斉明七)に死去していたが、母である斉明の建造した宮殿建造物が大地震により崩壊したことは、天武に大きな衝撃を与えたであろう。以上のような経過のなかでオホナムチの神威が王権中枢に新たに印象づけられた可能性は高い。
 またそこで皇極=斉明と天智・天武の母子の間の一種のマザーコンプレクスが大きな意味をもっていた可能性も高い。その詳細はまだ分からないが、しかし、『古事記』に反映した地震神オホナムチの神話観念は、皇極=斉明ー天智ー天武の母子王朝の時期のそれを反映したものである可能性だけは、以上によって示すことができたであろう。

 天武は母・兄の神話意識にも密接し、かつ威神として畏れられたオホナムチをいわば出雲に祭り込めようとしたのである。それは実際の宗教行為としても行われたはずであって、『古事記』は、それに対応する神話的表現行為であったと考えなければならない。

2016年1月 7日 (木)

7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。

7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。

 奈良王朝と平安王朝は、両方とも王朝国家と規定してよい(参照、保立『中世の国土高権と天皇・武家』序論)。これは第二次世界大戦前の歴史家、早川二郎の用語法である。

 ただ、その場合の問題はそれ以前からの移行をどう考えるかということであるが、王朝とは、ようするに「宮廷社会」であるから、その中枢がどのように形成されたかを論ずる必要がある。その場合に、7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉えてはどうかと思う。

 私は、特別の場合を除いて、論文で公表していない見解をブログに書くことはしないことにしている。ただ、以下は、「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)で書いたことなので、若干敷衍しつつ、母子王朝論の概略を述べたい。


 七世紀は母子王朝の時代である。つまり七世紀はおおざっぱにいえば、皇極天皇(六四二年踐祚。六五五年に重祚して斉明)と、その二人の息子天智(在位六六一~六七一)・天武(六七二~六八九)の時代である(なお皇極の夫、天智・天武の父の舒明の在位は六二九~六四一)。この時代を転換させたのが、六七二年のいわゆる壬申の乱、つまり天智の子の大友皇子と大海人皇子(後の天武)の争いであることはいうまでもない。これは大海人の勝利、その天武としての即位に終わったが、天武の妻は兄天智の娘の持統であり、奈良時代の王家の血統には持統を通じて天智の血が流れ込んでいた。

 これは壬申の乱という殺し合いの後に朝廷に平和をもたらすためにも必要だったのであろうが、ようするに母子王朝(舒明・皇極王統)のなかでの血の再生産である。こうして奈良王朝の血統は天武と持統の息子、草壁皇子の血をひくものに厳密に限られることになった。その状況を複雑にしたのが、草壁が早死にし、期待されたその子の文武も夭折したことで(在位六九七~七〇七)、その中で王統は持統の妹の元明(天智の娘)、文武の姉の元正(天武・持統の孫)によってかろうじて聖武につながれることになった。しかも聖武の男児、基皇子と安積皇子が死去することによって、男系が切れ、聖武の娘の孝謙(重祚して称徳)に王統が引き継がれたのである。聖武・孝謙の父娘王朝というべき時代が、淳仁天皇の短い在位期間(七五八~七六四)を除いて、奈良王朝のほとんどの時間を占めたのである。このような母子王朝から父娘王朝へという政治史の基本経過は、様々な偶然性にもよったが、この時期の国家がまだまだ文明化の過程にあり、まだ自律的な官僚や軍事警察の機構をもっていなかったことの表現であった。

 問題は、このような経過は、王権内部の母子・父娘などの狭い関係の外にいる王族に厳しい運命をもたらしたことである。奈良時代の宮廷は、草壁―文武―聖武―称徳(孝謙)の系列に属さない天武の皇子などの多数の王族が王統から排除され、流罪・死罪の運命にさらされるというきわめて厳しい政争にみちていた。よく知られているように、奈良王朝の内紛はしばしば流血をともなう凄まじいものとなったのである。

2016年1月 6日 (水)

安土桃山時代はやめて安土大阪時代にしよう。室町時代もまずい

日本史の時代名と時代区分

 先日、京都駅のそばのアヴァンティという本屋でばったり、井上章一氏にあって立ち話。

 面白かったのは、「安土桃山時代」というのは時代名としておかしい。これは大阪城を無視するという心理が働いている。先日、ある雑誌で対談をした話しの続きになるが、これは一種の中央史観ではないかという井上氏の見解であった。共感する。地名を時代名につかうのならば、たしかに井上氏のいうように「安土大阪時代」が正しいと思う。

 先日の大阪ダブル選挙の問題があったので、「大阪」ということをよく考えるようになった。大阪を歴史の一つの中心にすえる歴史記述は必要だろうと思う。近代史の側で研究があるだろうが、大阪が日本経済の中心から外れていったのは、おそらく第二次大戦の戦争経済のなかではないだろうか。これによって大阪経済の活力が抜かれ、そして戦後、大阪資本のうちの大資本が東京に進出し、大阪はむしろそれらの大資本の活動の母体として利用され、大阪という町が疲弊していったのであろうと思う。高度成長とグローバル化がそれに拍車をかけたのであろうか。いずれにせよ、大阪が列島経済の中心であった時期というのを明瞭に描き出すことが大阪に歴史と文化を取り戻すうえでも基礎になるのではないかと思う。

 こういうことを考えていると、問題は「室町時代」「鎌倉時代」という言葉が正しいかということである。もちろん、現在のところ、この言葉を使わざるを得ないとは思うが、将来まで、それでよいとは思えない。つまり、子供たちに「室町」という言葉を覚えてもらう必要はどこにもないと思う。室町の「花の御所」の実態は重要な問題ではあるが、これは研究にとって重要であっても、室町という言葉はまったく必要ない。私は「足利時代」の方がよいと思う。たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。それなのに、なぜ「室町時代」が一般化したかといえば、これは「足利尊氏」が逆賊イメージとされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないかというのが私の疑いである。そして一種の中央意識がそこにもあったのかもしれない。東京か京都が中心でないとならないという意識である。

 また鎌倉時代というのも困った言葉で、この時期の国家が初めて全国的な軍事政権に展開している現実をとらえそこなわせる。ミスリーディングな言葉である。ここにはいわゆる「武家政治発達中心史観」が影響している。

 私は最近、江戸時代という言葉はまずい、京都の研究者が徳川時代と呼ぶのが正しいと考えるようになった。『日本史学ー基本の30冊』(人文書院)という読書案内は、その用語法で統一した。以上を一般化すれば、ようするに、地名を時代名にするのはやめた方がよいのである。

 それでは全体をどうするか。私は昨年出版した『中世の国土高権と天皇・武家』の序論で、基本的には8世紀から13世紀初頭(承久の乱まで)を王朝国家、それ以降を武臣国家としたらいいとしたが、ようするに北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代として「武臣≒武王」の氏族名で時代名をつけるのがわかりやすいと考えている。私見では、王朝時代は中世、武臣時代は近世ということになる。これは明日書くことにしたい。

2016年1月 4日 (月)

核時代後という紀年法について

2016gajou
 
 上記が私の賀状です。私は毎年、核時代後という年号をつかっています。20年以上、これでやってきました。昨年も書いたことですが、歴史家としては、年号はリニアーでなければならない、直線的で、ずっとつづく連続数でなければならないと考えます。

 その点では、元号でなく、西暦が便利なのですが、しかし、西暦というのは、やはり、ヨーロッパ中心史観の影があり、それを将来の将来まで使用するということには、無理があります。

 それに代わる紀年法としては、核時代の前か後かというのが、もっとも適当であると考えています。これは地質学などで使用されるBefore Presentの考え方にも近く、その起点を核開発に置こうということです。

 ただ広島・長崎におとされる核爆弾がはじめて実験された年が紀元となるのは日本列島に住むものとしてはつらいことです。それは平均的な「日本人」の歴史意識では無理かもしれません。またこれはもとより、この列島に関わるだけのことではありません。つまり、第二次世界大戦、アジア・太平洋戦争についての感じ方が、まずはアジア・太平洋地域で共有されなければならないと思います。それは現在の状態ではむずかしいかも知れませんが、しかし、東北アジアから出発して歴史意識の共通性を作り出していくことは世界にとって大事な意味があると考えています。

 ヨーロッパ文明が世界にとって大きな貢献をしてきたことを認めない訳ではないのですが、その暗黒面も巨大なものがあります。東アジアがグローバル資本主義とは異なる地域世界を作り出すことができるのならば、それはヨーロッパ文明によってもっとも深刻な打撃をうけ、現在でもその激しい圧力と後遺症にさらされている中近東地帯の人びとに対して、東アジアができることの一つであるはずです。それは、世界で共用できる時間意識というものがどういうものになるのかという問題であり、世界史をどう考えているかという問題に直結してきます。

 PCに残るもっとも古い賀状には、『詩経秦風』渭陽から、「我送舅氏  悠悠我思  何以贈之 瓊瑰玉佩」(下記の詩をとって載せていました。

 上記の賀状には『老子』の80章の現代語訳の私案くを載せました

「邦は小さくて人は少ない方がよい。重機があっても使わず、人は死を怖れず、忙しさを知らない。多人数で船や車を動かすことはなく、ましてや武具をもって陣をはるようなことはない。書類はない。縄を結んで物を数えた昔でも、社会は成り立っていたのだ。住む土地のものを甘いといい、その服を美しいといい、住処に休まって、その慣わしを楽しむ。隣邦はすぐそばで、鶏は競って鳴き、群犬は吠えて行き来する。しかし、人は老いて死ぬまで、何人かの人と深く知りあえればよいのだ。

 これは世界でもっとも早く、またもっとも正確に将来社会の理想像、ユトーピアを描いた詩であると考えています。老子の思想が、日本でも禅や神道に大きな影響をあたえたことはいうまでもありません。それを確証する仕事を今年は位置づけたいと考えています。
 
 さて改めて、今年もよろしくお願いします。
 世界が少しづつでも住みやすい場所になっていきますように。世界文明の交差路である中近東の平和のためにおのもおのもの立場から何ができるのかを考え続ける年になればと思います。アフガンで活動する中村哲医師に敬意を捧げます。災害からの恢復に努力を重ねられている東北・福島の方々に敬意を捧げます。少しでも平安な年となりますように。また辺野古への無法な巨大基地建設に反対し、平和な沖縄を実現しようしている方々に敬意を捧げます。

2016年1月 3日 (日)

神社の研究をどう進めていくか。

 大晦日・元旦は例年のように近所の作草部神社にいって、初詣。拝殿にならび、お神酒をいただく。氏子の方々が焚き火をしてくれていて、しばらくそれにあたる。ここに越してきたころにはまだ周囲に住宅はなかったので、秋冬には焚き火をしてイモをやいたりしたが、建て込んできて無理になった。

 焚き火の火にあたらない生活。薪に火がつき、その炎の揺らぎをみない生活というのは、文化的なものとは思えない。そういいながら自分の20過ぎからの生活のなかには、火をたくこともなく、山野で生活する余裕もなしに生きてきた。私は1948年生まれで東京でそだったが、まだ都会生活のなかにも火があり、川があった。そういうものを精神の糧としてきたのを自覚すると、それを大事なことと意識していなかったのではないかと忸怩たるものがある。神社に行って火に当たれるというのはありがたいことである。

 これは神社というものをどう考えるか、という前に、どう感じるかということに関係してくる。新年になると、このことをいつも考える。この国の歴史と文化において神社とその歴史というものがどういう意味をもつのかということは、歴史学がどうしても明らかにしなければならない問題である。私は、歴史学の側から神社と神道を大事考えていくべきことは当然のことであると思う。

 しかし、そのような研究と姿勢が、20年くらい前まではあまりに少なかった。多くの人びとが各地の神社に初詣にでかける。それにも関わらず、歴史学は客観的には、その事実をあってなきがごとくに扱うことになっていたといわざるをえない。私は、以前、中国の学会に出たとき、日本神道史を研究している学者に日本の知識人は神社の研究をし、神社界と関係をもっていることに対してしばしば拒否反応をする。いったいあれはどういうことかと難詰されたことがある。中国で日本史を学び日本との学術交流をしていることの大変さを知らないのかともいわれた。

 このような神社史研究の遅れは、神社史料が少なく、また歴史学者の調査がなかなか及ばない事情があったこと、その分析のためには広く長い視野が必要なこと、などのやむをえない事情があったのであるが、しかし、その状況は変わりつつある。

 やや研究史に細かく入り込んだ言い方をすれば、その平安・鎌倉・室町時代における動きは、私が理解するところだと、井上寛司氏と園部寿樹氏の二人によって牽引されているといってよい(井上氏『日本の神社と「神道」』校倉書2006/房、園部氏『中世村落と名主座の研究』高志書院2011)。この御二人の作業は、この国の歴史学にとって決定的に重要な動きだろうと思う。

 興味深いのは、この重厚な研究を展開する御二人のどちらも黒田俊雄氏の諸研究との格闘と継承を強く意識して研究されていることである。私は、昨年、『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房)と『日本史学』(人文書院)、そして「藤原仲麻呂息・徳一と藤原氏の東国留住」(『千葉史学』67号)で黒田俊雄批判の立場を宣言したので、この御二人の研究と対峙して、黒田の仮説を批判し、作り直すことが、これからの残った研究時間のなかで相当の時間をつかうことになると考えている。現在とりくんでいる地震火山神話論も、これをふまえていなければ方法的には何の意味もないのである。

 実は、元旦から、部屋の片づけをしていて、井上寛司氏からの拙著『かぐや姫と王権神話』への厳しい批判の手紙がでてきて、読んでいる。私の神道論についての御批判である。これをいただいたときには、急に目の前に壁を立てられたような感じがして困ったと思ったが、ようやく少し整理して御批判に答えることができるかも知れないと考えるにいたっている。

 さて、『かぐや姫と王権神話』では、だいたい九世紀に「日本が独自な民族的宗教のスタイルを作り出した」と論じた。この時代に神話時代が終わるのであるが、神話の枠組みは、この列島の宗教意識の中に残ったのであって、それがのちのちまで残った「神道」の実態であるとしたのである。私は『かぐや姫と王権神話』において『竹取物語』を「神話から物語へ」という論調で論じたのであるが、それは他面で云えば「神話から神道」という変化をともなっていたということになる。

 つまり、原文を引用しておくと、「本書は、『竹取物語』の中に神話の痕跡を発見し、その神話がどのようなものであるかを考えてから、その物語への変容を追跡するという手法をとっている。それは神話が先進の文明国・中国からの思想・文物の導入の中で再解釈され、物語の中に再生していく過程の追求であった。考えてみれば、それは日本の社会の文明化の過程を考えることとイコールだったということができると思う。そして、高取正男の仕事によれば、この時代は、日本独自の神道が形成された時代でもあった。神話の時代からの文明化の過程で、物語の成立と神道の成立は並行して進んだものだったのである」ということである。

 これに対して、井上寛司氏は、黒田の「神道なる言葉でいわれる独立の宗教は現実には存在しなかったのであって、あったのは儀礼の系列だけである。還元すれば、いわば禁忌の儀礼の神秘的演出の体系こそが『神道』の名で呼ばれるものであったのである」(『黒田俊雄著作集』②一五八頁)という見解によって、私見を批判する。「日本の宗教のなかの一部だけを切り出して、『日本独自の神道=日本の民族宗教』であるとするのは、存在しない物を存在するかのように述べるものだ。こういう見解は徳川時代末期の国学が作り出し、柳田国男が体系化した言説であって虚妄なものである」という批判をされる。

 よく知られているように、黒田は、現実の前近代の宗教は『融通無碍な多神教』であるが、そのベースは仏教にあった。仏教抜きで『日本独自の神道=日本の民族宗教』が存在していたかのようにいうのは正しくないとするのである。

 私は黒田の意見は重要なところをついていると思う。これは以前書いた「中世の身分と天皇」という論文で「中世における神道が宗教の存在形態としては顕密仏教の二次的・世俗的・儀礼的な付属物に過ぎないことは黒田の説明の通りである(黒田一九七九)」として、黒田説を引用したことでも分かっていただけるだろう。

 そして、私は「国家イデオロギーとしてみるならば、やはり神社が第一に来るのが「宗廟社稷」の原則なのであって、神社興行の条項が公武の新制、御成敗式目の冒頭にくるのは十分な理由があるのである。そして、新制法の条文にもしばしば現れる「神は非礼をうけず、人の慎みなからんがためなり」(建久二年三月二二日新制、『鎌倉遺文』五二三)などという文言は神道が「礼」と「恭順・慎」の宗教的な国家儀礼体系であったことを物語っている。その根本に神道的な「忌・浄」の心意があったことはいうまでもない」と述べている。

 問題は、この神道的な「忌・浄」の心意というものをどう考えるかである。それは国家儀礼体系の内部のみではなく、村落と地域社会にひろく存在していたことは認めるべきであろう。このレヴェルの心意を黒田(そして井上)は、ただ「素朴な信仰」「現世利益の呪術的な信仰」とする。しかし、そこにどのような宗教的心情があるかをこそ問題にするべきなのではないだろうか。その意味で、私は『かぐや姫と王権神話』で、「高取がいうように、広くいえば神道は東アジアにおける儒教・道教などの現世宗教Secular religionの一類型である。現世宗教は世俗を観念的に超越する偶像的な価値を主張しない(高取一九七九)。もちろん、宗教である以上、超越性をもつことはいうまでもないが、それは人間に対する自然の絶対性という意味での超越性に限られる。神道についていえば、もっぱら自然に対する「忌み」の心情が基軸となるのである」と述べた。

 神道には神話に淵源し、それの変形という側面をもつ自然神崇拝が「忌み」という形で引き継がれているのではないかと思う。そして、この「忌み」の中には益田勝美のいうように、神話時代から地震噴火に対する絶対的な畏れというものが潜在しつづけてきたのではないだろうか。

 これは黒田も井上も否定しないと思うが、それを黒田も井上も「神道史研究」、「宗教史研究」の外においてしまう。それを各国の一宮その他の権門寺社とは無縁なものとしてしまうのである。もちろん、井上によって一宮級の神社や地域の権門寺社の体系が平安時代に国家組織に近いところでできあがっていっていること、その制度や実態についての構造的・全体的な研究が進展させられたことの意味はきわめて大きい。

 しかし、今後は、それを前提として、各村落の近くにあるような「小さな神社」をみていくことこそが必要なのではないだろうか。園部の『中世村落と名主座の研究』などの研究は、まさにそこを目指している。こういう民衆的な神社と、その宗教心情や祭りの心情の復元を井上のような一宮・権門寺社や国家祭祀の構造論的研究と結びつけることが必要なのではないだろうか。井上は両者の関係は希薄である、国家的寺社は村落寺社を排除しているというのが、しかし、両者には「排除」とのみは言い切れないような複線的な関係があり、そうであるからこそ、国家寺社も社会的な支持をうることができるのではないだろうか。

 神話意識の宗教的展開という意味での民族性が「神道」において強く継続していたこと、そしてそれに対応する独自な神社の組織があったことは正面から研究しなければならないのではないかと思う。たしかに、神道には宗教らしさというべきものが希薄である。『かぐや姫と王権神話』でも、神道は「東アジアと比べた場合の、その最大の特徴は、その結晶軸が道教・儒教という外来思想であっただけに、開祖も教典も存在しなかった点にある。『古事記』は過去の神話の編纂述作物であって教典ではない。そのために日本の神道は、東アジアの現世宗教とくらべても、宗教らしさがきわめて希薄となった」と述べた。しかし、それを「素朴」「呪術」とのみ評価するのは正しくないのではないだろうか。

 なお、『かぐや姫と王権神話』でも論じたように、網野善彦は日本社会には宗教がないという。日本社会の「無宗教性」をいうのである。これは黒田が「神道を自律した宗教とはいえない」と断言するのと通底する考え方であろうと思う。こういう考え方が「神道史研究」を空白にしてきたのではないかと、私は考えている。これはさらに詰めるべき問題が多く、関係する問題もきわめて多岐にわたるので、もう少し考えてみたいが、最後に、これに関わって『かぐや姫と王権神話』における網野見解への批判を引用しておく。

 さて、歴史における未開と現代の問題を考え続けてきた網野善彦は、「境界に生きる人びと」という講演の中で、「なぜ日本の社会に宗教がないのかという問題は、現代にも大きな意味をもつ解決すべき問題だと思います」「それが現在の日本の社会にさまざまの形で”小さな宗教”が現れていることと関係があることは間違いがありません。無秩序きわまる猛烈な自然の開発も、この問題と決して無関係ではありません」と述べたことがある。そして、「人間が人間を滅ぼしうる力を自然の中から自らの力でつかみとってしまった現段階」においては「人間にはどうしようもない力を、聖なるものととらえていた古代人のあり方からも学ばなくてはならない」「人間の力を超えた自然の力について、われわれが認識を深めることと、宗教の問題は深い関わりがあると思います」と断言した(網野一九八八)。網野は、自分は唯物論者であり、宗教によってすべての問題が解決されるとは考えないと断った上で、以上のようにいうのであるが、私も網野と同じような立場から、同じようなことを考えてきた。

 しかし、上で述べたように、私は、やはり日本社会には神道という宗教があり、大きな影響をもったし、もっていることを、回避せずに正面から考えるべきだと思う。神道が、その発生において宗教らしさが希薄になった理由、またその後の歴史的経過、とくに天皇制に自己同一化した国家神道によって大きく傷つけられた近年の過程などを、ナショナルなレヴェルでの常識とすることが望まれると思う。もちろん、国家神道の中枢に天皇崇拝という形で復活した未開のMan-godの崇拝も、それ自身としては信仰の自由の枠内にあり、また神道自体と密接な関係をもつことはいうでもない。しかし、天皇崇拝には「創造された伝統」という側面も強く、明治時代以降の経過からみると、神道それ自身とは区別されるべきものであると考えている。

 私は、これらについての認識が、日本社会が前に進んでいく上で、民族的な自己認識の一つの思想的基礎となり、また革新と保守の間でのバランスと相互理解をもたらし、社会的な問題の見通しをよくする上でも、重要な意味をもつと思う。そして、その議論において、神道を支えた信条それ自身は「人のはたらきのすべてを究極において聖化し、みずからの生活と心のよすがとして絶対視しようとする心性」(高取一九七九)であり、信仰の自由の枠内にあることが当然であると考える。この現世を「言上げ」せず、教典もなく開祖もなく、絶対視しつつ聖化しようとする宗教。別の言葉でいえば絶対的な忌みの思想と感性そのものは、けっして宗教としてレヴェルが低いとか、未発達であるとかいうべきものではない。私は、折口・土橋・益田の仕事が明らかにしているような、神道の自然に対する絶対的な忌みの心的態度は、日本の風土にそくした独特な思想心情たる価値を失わないと思うのである。これを確証していくために、今後も、『日本書紀』『古事記』などの中に、より未開な社会と神話の世界を発見する作業を続けていきたいと思う。

 
 なおもう一点。園部の仕事と井上の仕事の中間をいく仕事として牛山佳幸の『【小さき社】の列島史』(平凡社)がある。私個人の好みからいうと、私の立場は牛山に近い。この本は読みやすいので一読をおすすめする。

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