何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。何故、「山城時代」というのか、
何故、村井康彦の「山背」遷都論が正しいのか。それは「平安時代」を「山城時代」という理由につながる。
以下は、村井康彦『日本の宮都』(1978、角川書店)、瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』を祖述したものですので、ブログにアップしておきます。なお、最近公刊した私論「藤原仲麻呂息、徳一と藤原氏の東国留住」(千葉史学、67号)も御参照下さい。
朝廷にとって、氷上川継の謀反事件がきわめて大きな事件であったことは、このとき、「川継が姻戚、平生の知友」という理由で罪を問われた貴族官人が公卿をふくめて四〇人あまりにのぼったことに知ることができる。そのうち川継との関係がもっとも明瞭なのは、公卿第六座の参議・太宰員外帥浜成である。彼は娘を川継の妻としていた。浜成は藤原不比等の息子の四兄弟の一番下にあたる麻呂の家(京家)を代表する位置にあったが、これによって京家は権力の地位から完全に滑り落ちていった。
また光仁のもっとも信頼する側近であり、相談相手であった公卿トップの左大臣藤原魚名が大臣を免ぜられ大宰帥として任地に赴くことを命じられたことも大きい。魚名は途中で、病をえて、摂津にとどまり、翌年、京都に召し返されたもののすぐに死去した。そして、魚名とともに、その子、鷹取が石見介、末茂が土左介に左遷され、真鷲が父に従って大宰に下れという処置をうけている。これについては、魚名の処分が六月に遅れたことなどを根拠として氷上川継事件とは無関係だとし、一挙に強化された桓武の専制的な姿勢を示すものだという意見もあるが、川継事件との関係を想定する方が無理がないと思える。 こうして氷上川継謀反事件は、光仁の即位後も残った天武・聖武王統の影響や人脈に関わって発生したものであったということができる。それはほとんど茶番のように終わったが、しかし、これを切り抜けたことは桓武とその側近に権力強化の衝動をあたえた。とくに重大であったのは、村井康彦がいうように、この事件の処理をしながら、桓武とその側近が遷都による新たな都づくりに突っ走ったことである。彼らは、山背国への遷都によって天武・聖武王統の影響力を根絶し、国家組織そのものを組み替えようとしたのである。
山背遷都の構想の時期、理由などについてはさまざまな見解があるが、やはり重要なのは桓武の即位の宣命に「掛けまくも畏き近江大津宮に御宇しし天皇」、つまり天智天皇の法に従って国政をとると宣言されていることであろう。天智天皇の王都は、大和ではなく難波京→近江京、つまり淀川水系地帯に置かれていたから、それを受け継ぐ桓武が難波京→大津の境域に王都を設定しようというのは自然なことであった。古墳時代以来の経過を長期的にみれば王都をすぐに大和と考えるのは、私見では「古代」天皇制のヤマト・イデオロギーにとらわれた偏見以外のなにものでもない。こう考える立場からは、王都を淀川水系に営むことを決定した長岡遷都こそが遷都としての歴史的意義が大きかった。それ故に、これまで「古代史学界」からは乱暴かつセクト的に無視されてきた、この遷都を「平安京をふくめて『山背』遷都として位置づける」という村井の見解があくまでも正しいのである。
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