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2016年1月 3日 (日)

神社の研究をどう進めていくか。

 大晦日・元旦は例年のように近所の作草部神社にいって、初詣。拝殿にならび、お神酒をいただく。氏子の方々が焚き火をしてくれていて、しばらくそれにあたる。ここに越してきたころにはまだ周囲に住宅はなかったので、秋冬には焚き火をしてイモをやいたりしたが、建て込んできて無理になった。

 焚き火の火にあたらない生活。薪に火がつき、その炎の揺らぎをみない生活というのは、文化的なものとは思えない。そういいながら自分の20過ぎからの生活のなかには、火をたくこともなく、山野で生活する余裕もなしに生きてきた。私は1948年生まれで東京でそだったが、まだ都会生活のなかにも火があり、川があった。そういうものを精神の糧としてきたのを自覚すると、それを大事なことと意識していなかったのではないかと忸怩たるものがある。神社に行って火に当たれるというのはありがたいことである。

 これは神社というものをどう考えるか、という前に、どう感じるかということに関係してくる。新年になると、このことをいつも考える。この国の歴史と文化において神社とその歴史というものがどういう意味をもつのかということは、歴史学がどうしても明らかにしなければならない問題である。私は、歴史学の側から神社と神道を大事考えていくべきことは当然のことであると思う。

 しかし、そのような研究と姿勢が、20年くらい前まではあまりに少なかった。多くの人びとが各地の神社に初詣にでかける。それにも関わらず、歴史学は客観的には、その事実をあってなきがごとくに扱うことになっていたといわざるをえない。私は、以前、中国の学会に出たとき、日本神道史を研究している学者に日本の知識人は神社の研究をし、神社界と関係をもっていることに対してしばしば拒否反応をする。いったいあれはどういうことかと難詰されたことがある。中国で日本史を学び日本との学術交流をしていることの大変さを知らないのかともいわれた。

 このような神社史研究の遅れは、神社史料が少なく、また歴史学者の調査がなかなか及ばない事情があったこと、その分析のためには広く長い視野が必要なこと、などのやむをえない事情があったのであるが、しかし、その状況は変わりつつある。

 やや研究史に細かく入り込んだ言い方をすれば、その平安・鎌倉・室町時代における動きは、私が理解するところだと、井上寛司氏と園部寿樹氏の二人によって牽引されているといってよい(井上氏『日本の神社と「神道」』校倉書2006/房、園部氏『中世村落と名主座の研究』高志書院2011)。この御二人の作業は、この国の歴史学にとって決定的に重要な動きだろうと思う。

 興味深いのは、この重厚な研究を展開する御二人のどちらも黒田俊雄氏の諸研究との格闘と継承を強く意識して研究されていることである。私は、昨年、『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房)と『日本史学』(人文書院)、そして「藤原仲麻呂息・徳一と藤原氏の東国留住」(『千葉史学』67号)で黒田俊雄批判の立場を宣言したので、この御二人の研究と対峙して、黒田の仮説を批判し、作り直すことが、これからの残った研究時間のなかで相当の時間をつかうことになると考えている。現在とりくんでいる地震火山神話論も、これをふまえていなければ方法的には何の意味もないのである。

 実は、元旦から、部屋の片づけをしていて、井上寛司氏からの拙著『かぐや姫と王権神話』への厳しい批判の手紙がでてきて、読んでいる。私の神道論についての御批判である。これをいただいたときには、急に目の前に壁を立てられたような感じがして困ったと思ったが、ようやく少し整理して御批判に答えることができるかも知れないと考えるにいたっている。

 さて、『かぐや姫と王権神話』では、だいたい九世紀に「日本が独自な民族的宗教のスタイルを作り出した」と論じた。この時代に神話時代が終わるのであるが、神話の枠組みは、この列島の宗教意識の中に残ったのであって、それがのちのちまで残った「神道」の実態であるとしたのである。私は『かぐや姫と王権神話』において『竹取物語』を「神話から物語へ」という論調で論じたのであるが、それは他面で云えば「神話から神道」という変化をともなっていたということになる。

 つまり、原文を引用しておくと、「本書は、『竹取物語』の中に神話の痕跡を発見し、その神話がどのようなものであるかを考えてから、その物語への変容を追跡するという手法をとっている。それは神話が先進の文明国・中国からの思想・文物の導入の中で再解釈され、物語の中に再生していく過程の追求であった。考えてみれば、それは日本の社会の文明化の過程を考えることとイコールだったということができると思う。そして、高取正男の仕事によれば、この時代は、日本独自の神道が形成された時代でもあった。神話の時代からの文明化の過程で、物語の成立と神道の成立は並行して進んだものだったのである」ということである。

 これに対して、井上寛司氏は、黒田の「神道なる言葉でいわれる独立の宗教は現実には存在しなかったのであって、あったのは儀礼の系列だけである。還元すれば、いわば禁忌の儀礼の神秘的演出の体系こそが『神道』の名で呼ばれるものであったのである」(『黒田俊雄著作集』②一五八頁)という見解によって、私見を批判する。「日本の宗教のなかの一部だけを切り出して、『日本独自の神道=日本の民族宗教』であるとするのは、存在しない物を存在するかのように述べるものだ。こういう見解は徳川時代末期の国学が作り出し、柳田国男が体系化した言説であって虚妄なものである」という批判をされる。

 よく知られているように、黒田は、現実の前近代の宗教は『融通無碍な多神教』であるが、そのベースは仏教にあった。仏教抜きで『日本独自の神道=日本の民族宗教』が存在していたかのようにいうのは正しくないとするのである。

 私は黒田の意見は重要なところをついていると思う。これは以前書いた「中世の身分と天皇」という論文で「中世における神道が宗教の存在形態としては顕密仏教の二次的・世俗的・儀礼的な付属物に過ぎないことは黒田の説明の通りである(黒田一九七九)」として、黒田説を引用したことでも分かっていただけるだろう。

 そして、私は「国家イデオロギーとしてみるならば、やはり神社が第一に来るのが「宗廟社稷」の原則なのであって、神社興行の条項が公武の新制、御成敗式目の冒頭にくるのは十分な理由があるのである。そして、新制法の条文にもしばしば現れる「神は非礼をうけず、人の慎みなからんがためなり」(建久二年三月二二日新制、『鎌倉遺文』五二三)などという文言は神道が「礼」と「恭順・慎」の宗教的な国家儀礼体系であったことを物語っている。その根本に神道的な「忌・浄」の心意があったことはいうまでもない」と述べている。

 問題は、この神道的な「忌・浄」の心意というものをどう考えるかである。それは国家儀礼体系の内部のみではなく、村落と地域社会にひろく存在していたことは認めるべきであろう。このレヴェルの心意を黒田(そして井上)は、ただ「素朴な信仰」「現世利益の呪術的な信仰」とする。しかし、そこにどのような宗教的心情があるかをこそ問題にするべきなのではないだろうか。その意味で、私は『かぐや姫と王権神話』で、「高取がいうように、広くいえば神道は東アジアにおける儒教・道教などの現世宗教Secular religionの一類型である。現世宗教は世俗を観念的に超越する偶像的な価値を主張しない(高取一九七九)。もちろん、宗教である以上、超越性をもつことはいうまでもないが、それは人間に対する自然の絶対性という意味での超越性に限られる。神道についていえば、もっぱら自然に対する「忌み」の心情が基軸となるのである」と述べた。

 神道には神話に淵源し、それの変形という側面をもつ自然神崇拝が「忌み」という形で引き継がれているのではないかと思う。そして、この「忌み」の中には益田勝美のいうように、神話時代から地震噴火に対する絶対的な畏れというものが潜在しつづけてきたのではないだろうか。

 これは黒田も井上も否定しないと思うが、それを黒田も井上も「神道史研究」、「宗教史研究」の外においてしまう。それを各国の一宮その他の権門寺社とは無縁なものとしてしまうのである。もちろん、井上によって一宮級の神社や地域の権門寺社の体系が平安時代に国家組織に近いところでできあがっていっていること、その制度や実態についての構造的・全体的な研究が進展させられたことの意味はきわめて大きい。

 しかし、今後は、それを前提として、各村落の近くにあるような「小さな神社」をみていくことこそが必要なのではないだろうか。園部の『中世村落と名主座の研究』などの研究は、まさにそこを目指している。こういう民衆的な神社と、その宗教心情や祭りの心情の復元を井上のような一宮・権門寺社や国家祭祀の構造論的研究と結びつけることが必要なのではないだろうか。井上は両者の関係は希薄である、国家的寺社は村落寺社を排除しているというのが、しかし、両者には「排除」とのみは言い切れないような複線的な関係があり、そうであるからこそ、国家寺社も社会的な支持をうることができるのではないだろうか。

 神話意識の宗教的展開という意味での民族性が「神道」において強く継続していたこと、そしてそれに対応する独自な神社の組織があったことは正面から研究しなければならないのではないかと思う。たしかに、神道には宗教らしさというべきものが希薄である。『かぐや姫と王権神話』でも、神道は「東アジアと比べた場合の、その最大の特徴は、その結晶軸が道教・儒教という外来思想であっただけに、開祖も教典も存在しなかった点にある。『古事記』は過去の神話の編纂述作物であって教典ではない。そのために日本の神道は、東アジアの現世宗教とくらべても、宗教らしさがきわめて希薄となった」と述べた。しかし、それを「素朴」「呪術」とのみ評価するのは正しくないのではないだろうか。

 なお、『かぐや姫と王権神話』でも論じたように、網野善彦は日本社会には宗教がないという。日本社会の「無宗教性」をいうのである。これは黒田が「神道を自律した宗教とはいえない」と断言するのと通底する考え方であろうと思う。こういう考え方が「神道史研究」を空白にしてきたのではないかと、私は考えている。これはさらに詰めるべき問題が多く、関係する問題もきわめて多岐にわたるので、もう少し考えてみたいが、最後に、これに関わって『かぐや姫と王権神話』における網野見解への批判を引用しておく。

 さて、歴史における未開と現代の問題を考え続けてきた網野善彦は、「境界に生きる人びと」という講演の中で、「なぜ日本の社会に宗教がないのかという問題は、現代にも大きな意味をもつ解決すべき問題だと思います」「それが現在の日本の社会にさまざまの形で”小さな宗教”が現れていることと関係があることは間違いがありません。無秩序きわまる猛烈な自然の開発も、この問題と決して無関係ではありません」と述べたことがある。そして、「人間が人間を滅ぼしうる力を自然の中から自らの力でつかみとってしまった現段階」においては「人間にはどうしようもない力を、聖なるものととらえていた古代人のあり方からも学ばなくてはならない」「人間の力を超えた自然の力について、われわれが認識を深めることと、宗教の問題は深い関わりがあると思います」と断言した(網野一九八八)。網野は、自分は唯物論者であり、宗教によってすべての問題が解決されるとは考えないと断った上で、以上のようにいうのであるが、私も網野と同じような立場から、同じようなことを考えてきた。

 しかし、上で述べたように、私は、やはり日本社会には神道という宗教があり、大きな影響をもったし、もっていることを、回避せずに正面から考えるべきだと思う。神道が、その発生において宗教らしさが希薄になった理由、またその後の歴史的経過、とくに天皇制に自己同一化した国家神道によって大きく傷つけられた近年の過程などを、ナショナルなレヴェルでの常識とすることが望まれると思う。もちろん、国家神道の中枢に天皇崇拝という形で復活した未開のMan-godの崇拝も、それ自身としては信仰の自由の枠内にあり、また神道自体と密接な関係をもつことはいうでもない。しかし、天皇崇拝には「創造された伝統」という側面も強く、明治時代以降の経過からみると、神道それ自身とは区別されるべきものであると考えている。

 私は、これらについての認識が、日本社会が前に進んでいく上で、民族的な自己認識の一つの思想的基礎となり、また革新と保守の間でのバランスと相互理解をもたらし、社会的な問題の見通しをよくする上でも、重要な意味をもつと思う。そして、その議論において、神道を支えた信条それ自身は「人のはたらきのすべてを究極において聖化し、みずからの生活と心のよすがとして絶対視しようとする心性」(高取一九七九)であり、信仰の自由の枠内にあることが当然であると考える。この現世を「言上げ」せず、教典もなく開祖もなく、絶対視しつつ聖化しようとする宗教。別の言葉でいえば絶対的な忌みの思想と感性そのものは、けっして宗教としてレヴェルが低いとか、未発達であるとかいうべきものではない。私は、折口・土橋・益田の仕事が明らかにしているような、神道の自然に対する絶対的な忌みの心的態度は、日本の風土にそくした独特な思想心情たる価値を失わないと思うのである。これを確証していくために、今後も、『日本書紀』『古事記』などの中に、より未開な社会と神話の世界を発見する作業を続けていきたいと思う。

 
 なおもう一点。園部の仕事と井上の仕事の中間をいく仕事として牛山佳幸の『【小さき社】の列島史』(平凡社)がある。私個人の好みからいうと、私の立場は牛山に近い。この本は読みやすいので一読をおすすめする。

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