核時代後という紀年法について
上記が私の賀状です。私は毎年、核時代後という年号をつかっています。20年以上、これでやってきました。昨年も書いたことですが、歴史家としては、年号はリニアーでなければならない、直線的で、ずっとつづく連続数でなければならないと考えます。
その点では、元号でなく、西暦が便利なのですが、しかし、西暦というのは、やはり、ヨーロッパ中心史観の影があり、それを将来の将来まで使用するということには、無理があります。
それに代わる紀年法としては、核時代の前か後かというのが、もっとも適当であると考えています。これは地質学などで使用されるBefore Presentの考え方にも近く、その起点を核開発に置こうということです。
ただ広島・長崎におとされる核爆弾がはじめて実験された年が紀元となるのは日本列島に住むものとしてはつらいことです。それは平均的な「日本人」の歴史意識では無理かもしれません。またこれはもとより、この列島に関わるだけのことではありません。つまり、第二次世界大戦、アジア・太平洋戦争についての感じ方が、まずはアジア・太平洋地域で共有されなければならないと思います。それは現在の状態ではむずかしいかも知れませんが、しかし、東北アジアから出発して歴史意識の共通性を作り出していくことは世界にとって大事な意味があると考えています。
ヨーロッパ文明が世界にとって大きな貢献をしてきたことを認めない訳ではないのですが、その暗黒面も巨大なものがあります。東アジアがグローバル資本主義とは異なる地域世界を作り出すことができるのならば、それはヨーロッパ文明によってもっとも深刻な打撃をうけ、現在でもその激しい圧力と後遺症にさらされている中近東地帯の人びとに対して、東アジアができることの一つであるはずです。それは、世界で共用できる時間意識というものがどういうものになるのかという問題であり、世界史をどう考えているかという問題に直結してきます。
PCに残るもっとも古い賀状には、『詩経秦風』渭陽から、「我送舅氏 悠悠我思 何以贈之 瓊瑰玉佩」(下記の詩をとって載せていました。
上記の賀状には『老子』の80章の現代語訳の私案くを載せました
「邦は小さくて人は少ない方がよい。重機があっても使わず、人は死を怖れず、忙しさを知らない。多人数で船や車を動かすことはなく、ましてや武具をもって陣をはるようなことはない。書類はない。縄を結んで物を数えた昔でも、社会は成り立っていたのだ。住む土地のものを甘いといい、その服を美しいといい、住処に休まって、その慣わしを楽しむ。隣邦はすぐそばで、鶏は競って鳴き、群犬は吠えて行き来する。しかし、人は老いて死ぬまで、何人かの人と深く知りあえればよいのだ。
これは世界でもっとも早く、またもっとも正確に将来社会の理想像、ユトーピアを描いた詩であると考えています。老子の思想が、日本でも禅や神道に大きな影響をあたえたことはいうまでもありません。それを確証する仕事を今年は位置づけたいと考えています。
さて改めて、今年もよろしくお願いします。
世界が少しづつでも住みやすい場所になっていきますように。世界文明の交差路である中近東の平和のためにおのもおのもの立場から何ができるのかを考え続ける年になればと思います。アフガンで活動する中村哲医師に敬意を捧げます。災害からの恢復に努力を重ねられている東北・福島の方々に敬意を捧げます。少しでも平安な年となりますように。また辺野古への無法な巨大基地建設に反対し、平和な沖縄を実現しようしている方々に敬意を捧げます。
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