キルケゴールの『死に至る病』がすきでときどき読む。
キルケゴールの『死に至る病』がすきでときどき読む。
翻訳者の桝田啓三郎さんは三木清の弟子で、三木を敬愛している様子が好ましかった。三木清全集の編纂者として知った。
時々、自分で翻訳したりしている。冒頭部分、下記のように訳せないだろうか。
慣れれば「関係が関係に関係する」というのも明瞭かもしれないが、あれではまるでお経のようだ。桝田さんはいかにもまじめだが、もっと崩すことも意味がある。身に引きつけて訳すことができる、(せザルを得ない)時代でもあるのだと思う。
1自棄は、神霊の病であり、心の病いである。それは三つに区別できる。第一は自棄のなかで心をもっているということも意識できない場合である(ただ、これは本来の意味での自棄とはいえない)。第二にはわざと心から目をそらしている場合であり、そして第三に、自分の心それ自体によって自棄になっている状態である。
A. Despair is a Sickness in the Spirit, in the Self, and So It May
Assume a Triple Form: in Despair at Not Being Conscious of Having
a Self (Despair Improperly So Called); in Despair at Not Willing to
Be Oneself; in Despair at Willing to Be Oneself.
人はたしかに神霊的な存在である。しかし、神霊とは何かといえば、それはまずは心であろう。そして、心とはひとつの関係であり、それ自身に回帰してくるような関係である。それは、その結び目がそれ自身に絡まりついてくるような関係であって、つまり心というのはただの意識関係ではなく、意識がそれ自身に意識関係して自己自身の心に結びついてくるものなのである。別の言い方をしてみると、人は、つねに全能と閉塞、瞬発と定常、自由と必要などの結び目の中で動いている。人間というのは結ぼれたもの、コンプレクスである。このように結び目というのは、どういう場合でも二つのものの間の関係なのであるが、しかし、二つのものが関係しているということだけでは、それは人間の心というものではないのである。
Man is spirit. But what is spirit? Spirit is the self. But what is the self?
The self is a relation which relates itself to its own self, or it is that in
the relation [which accounts for it] that the relation relates itself to its
own self; the self is not the relation but [consists in the fact] that the
relation relates itself to its own self. Man is a synthesis of the infinite
and the finite, of the temporal and the eternal, of freedom and
necessity, in short it is a synthesis. A synthesis is a relation between
two factors. So regarded, man is not yet a self.
今日は東京まで出て行政関係の人とあわねばならない。『中世の愛と従属』を書いた頃は絵画をよく意識したが、最近は絵画史料のことはもう忘れているが、これも仕事である。
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