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2016年1月 8日 (金)

6世紀末の地震神祭祀とオオナムチ(大国主命) 

6世紀末の地震神祭祀とオオナムチ(大国主命)
 
 この問題は、7世紀の南海トラフ巨大地震のことを考える上できわめて重要である。「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)に書いたものを一部引用しておく。

文中の甑岩神社は内田樹氏のブログで、御神体の巨大な岩が破壊、もしくは環境激変の危機にあると知った。何度か訪問を計画したが、まだ実現していない。この岩の破壊の話しが神社界で問題になっていると聞いたことがない。神社がその環境の維持にさらに力を注げるような世論や体制が必要であろうと思う。


七世紀に入る直前、五九九年(推古七)四月、「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ。則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」(『日本書紀』)とあることに注目したい。この段階の『日本書紀』にあまりに遠くの地震が記され伝承されたとは考えにくいから、この地震は大和あるいは畿内で起きたものと考えることは許されるであろう。「舎屋」(建物)がすべて倒壊したというのが事実であるとすると、相当規模の地震であったことになる。残念ながら、この時期の地震痕跡は考古学的には確定しておらず、『日本書紀』の史料を(地質学的な)地震史料として利用していいかどうかは問題が残っている。しかし、少なくとも、六世紀の末頃に「地震神」を祭ったこと自体は事実として認めてよいだろう。そして、この神の実態はオホナムチであったことはほぼ確実である。

 このヤマト王権による地震祭祀のなかには、吉野宮などのある吉野渓谷への入口、吉野川右岸にこんもりと立つ伏鉢形の妹山樹叢の麓にある大名持神社が含まれていた可能性が高い。この神社については、和田萃「古代の出雲・隠岐」(『海と列島文化 日本海と出雲世界』小学館、一九九一年)が、その畿内の神社のなかでの飛び抜けた位置の高さを強調している。つまり、この吉野大名持神は九世紀半ば、八五九年(貞観一)に全国の神々の位を整理したとき、従一位から正一位になっており、無位の伊勢神宮を別とすれば、淡路国の伊佐奈岐命の一品に並び、神産日神、高御産日神の従一位などを抑えて神々のトップに立ったのである。従二位の三輪山の大物主神など、他の高位の神々のほとんどもオホナムチと同体、あるいは息子や親族の神であることは、この神の隔絶した位置を物語っている。吉野山塊の主峰、金峯山の神が正三位につけていることも強調しておきたい。

 またもう一つ、この時に祭祀が行われたオホナムチ社として摂津莵原郡大国主西神社があった可能性がある(『延喜式』神名帳)。これが現在の西宮神社なのか、あるいは甑岩神社なのかについては議論があるが、私は莵原郡と武庫郡の郡界を夙川の河道と考えると、この大国主西神社は巨大な磐座の存在からして甑岩神社である可能性が高いと思う。この大国主西神社という神社名は普通、三輪神社に対応する大国主の西宮であるとされるが、むしろ吉野大名持社に対する西宮であった可能性が高いだろう。この神社は五九九年(推古七)に「四方に令して」祭られたオホナムチ社のなかで西に立てられたものであったのではないだろうか。神名帳に存在する「大国主」という神名をもった神社は、この神社のみであることからしても、この神社の位置には独自なものがあったはずである。

 石母田はオホナムチ=オホクニヌシに地霊としての性格をみとめ、「それはまだ地の神、山や丘の創造神であるという畿内・近国の農村社会で広く信じられていた観念から絶縁はしていなかった」(一八五頁)としているが、そのような畿内近国における神話観念を表示するものとして、吉野大名持社や摂津莵原郡大国主西神社があった可能性は高いように思う。その意味では、吉野大名持社などへの宗儀は推古の段階からさらに古くににまでさかのぼると考えることもできるだろう。もちろん、吉野大名持社の祭祀が国家的に調えられたのは、和田がいうようには斉明朝であった可能性が高い。実際、『日本書紀』には皇極(重祚して斉明)の即位の年、六四二年(皇極一)一〇月に二日連続で地震が発生したことが記されている。この年は「客星月に入る」という天文の異常や雷の記事が多く、これが即位の初年のことであっただけに、地震神オホナムチの祭祀が整えられた可能性は高いと思う。村井『出雲と大和』が、その意味を明らかにした六五九年(斉明五)の出雲杵築神社の修営は、その延長線で考えることができるだろう。

 つづいて、天武の時代に入っても、『日本書紀』には、六七五年(天武四)、六七七年(天武六)と、大和国での強震の記録が残っている。飛鳥は地震の多い地域であるということでもあろうが、地震が記録に残される場合には、そこに一定のイデオロギー的意味があることはよく知られた事実である。従来、この七世紀の地震記事の意味は明らかではなかったが、そこには王権内部の地霊信仰が反映していたということになる。

 とくに問題なのは、六八四年(天武一三)に発生した大規模な南海トラフ地震である。この地震では、山崩や洪水・溢水が発生し、諸国の官舎、百姓倉屋、寺院神社などが、破壊され、多くの人間と家畜が死傷したという。発掘調査で確認された飛鳥の酒船石遺跡の地盤と石垣の崩壊は、この地震によるものであったとされる。

 この地震で崩落した酒船石は皇極=斉明の狂心を表現するものとされる。斉明はすでに六六一年(斉明七)に死去していたが、母である斉明の建造した宮殿建造物が大地震により崩壊したことは、天武に大きな衝撃を与えたであろう。以上のような経過のなかでオホナムチの神威が王権中枢に新たに印象づけられた可能性は高い。
 またそこで皇極=斉明と天智・天武の母子の間の一種のマザーコンプレクスが大きな意味をもっていた可能性も高い。その詳細はまだ分からないが、しかし、『古事記』に反映した地震神オホナムチの神話観念は、皇極=斉明ー天智ー天武の母子王朝の時期のそれを反映したものである可能性だけは、以上によって示すことができたであろう。

 天武は母・兄の神話意識にも密接し、かつ威神として畏れられたオホナムチをいわば出雲に祭り込めようとしたのである。それは実際の宗教行為としても行われたはずであって、『古事記』は、それに対応する神話的表現行為であったと考えなければならない。

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