佐竹明『使徒パウロ』と歴史学
夕食後、夜の仕事前の時間である。これが終わればプロパーの神話論にしばらく突入したいのだが、乗りかかった船で、8/9世紀地震火山論をやり直している。なかなか原稿が進まずストレスである。新しい分野の仕事で、沢山の史料を基本的には残らず解釈して(解釈したと自信をもって)、先行論文を全部読んで(全部読んだと自信をもって)、しかも雑誌に載せるような学術論文ではなく、歴史叙述をするという仕事は、おそらくこれで最後となるかも知れない。
私は小学校から中学・高校と断続的にキリスト教会に通っていて、大学が国際キリスト教大学だったので、キリスト教が好きである。
まったく勉強したことはないが、大学時代から入門書を読んだり、話を聞いたりして、バルト神学というものに興味があった。キルケゴールが好きなこともあると思う。バルトのロマ書註解をいつか読みたいというのが夢だったが、これはやはり、今後とも時間的に無理だろうと思う。ただ、一昨年読んで良かったのは、佐竹明『使徒パウローー伝道にかけた生涯』(NHKブックス)だった。大げさにいえば、これを読んで歴史に進んでよかったと思ったことを覚えている。
もちろん本書は宗教書であるが、この書はパウロの手紙の歴史学的な分析として読むことができる。私は大塚久雄先生の授業で影響を受け、日本史でありながら卒論の指導は大塚久雄先生であったので、ともかく学問と信仰というものが一致しているということがどういうことなのかが大塚先生を通じて感じることはできたのだが、本書を読んで、実際にそれがどういうことなのかがわかる。学問的真理の追究と信仰が一致するということが、たしかに幸せなものだろうと思うのである。
キリスト教が好きだといっても、四福音書はきちんと読んでいないのがだめである。ただ、「使徒行伝」は好きで記憶があるのだが、本書は第一次史料としてのパウロの手紙を読み解く中でパウロの生涯を追跡している。そのなかで使徒行伝が史料批判されているのである。中学・高校時代にルー・ウォーレス『ベンハー』を読みながら使徒行伝は読んだのではないかと思う。その史料批判を60代半ばで読んでいるというのは、自分の人生の連続性の自覚である。
歴史学に進もうという方には、ともかくキリスト教というものを史料にもとづいて理解するには最適の本であると思う(私の狭い、ほとんどない経験の限りでは、ということである)。この切り口があれば、少しあの時代がみえる。そして思想としてのキリスト教に少しでもあたりうがつけば、新プラトン主義を中心にしてギリシャにさかのぼり、イスラムと仏教にも脈絡がついていくような感じがする。
東洋の宗教と思想、日本の宗教と思想についても、こういうことができればよいと思うが、やはり魅力があるのは親鸞になるように思う。私は、親鸞の、「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人においておや」は『老子』27章の「不善人は善人の資」の思想に淵源するのではないかと思っているのだが、これは東アジア思想全体が理解できないと確信をもって論ずることができない。
そのために神道→神話→老荘思想という系列を行き来して物事を考えてみたい。
さて、しかし、夜の仕事にかかろう。
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