7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。
7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉える。
奈良王朝と平安王朝は、両方とも王朝国家と規定してよい(参照、保立『中世の国土高権と天皇・武家』序論)。これは第二次世界大戦前の歴史家、早川二郎の用語法である。
ただ、その場合の問題はそれ以前からの移行をどう考えるかということであるが、王朝とは、ようするに「宮廷社会」であるから、その中枢がどのように形成されたかを論ずる必要がある。その場合に、7世紀から8世紀を母子王朝から父娘王朝へと捉えてはどうかと思う。
私は、特別の場合を除いて、論文で公表していない見解をブログに書くことはしないことにしている。ただ、以下は、「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」(『アリーナ』)で書いたことなので、若干敷衍しつつ、母子王朝論の概略を述べたい。
七世紀は母子王朝の時代である。つまり七世紀はおおざっぱにいえば、皇極天皇(六四二年踐祚。六五五年に重祚して斉明)と、その二人の息子天智(在位六六一~六七一)・天武(六七二~六八九)の時代である(なお皇極の夫、天智・天武の父の舒明の在位は六二九~六四一)。この時代を転換させたのが、六七二年のいわゆる壬申の乱、つまり天智の子の大友皇子と大海人皇子(後の天武)の争いであることはいうまでもない。これは大海人の勝利、その天武としての即位に終わったが、天武の妻は兄天智の娘の持統であり、奈良時代の王家の血統には持統を通じて天智の血が流れ込んでいた。
これは壬申の乱という殺し合いの後に朝廷に平和をもたらすためにも必要だったのであろうが、ようするに母子王朝(舒明・皇極王統)のなかでの血の再生産である。こうして奈良王朝の血統は天武と持統の息子、草壁皇子の血をひくものに厳密に限られることになった。その状況を複雑にしたのが、草壁が早死にし、期待されたその子の文武も夭折したことで(在位六九七~七〇七)、その中で王統は持統の妹の元明(天智の娘)、文武の姉の元正(天武・持統の孫)によってかろうじて聖武につながれることになった。しかも聖武の男児、基皇子と安積皇子が死去することによって、男系が切れ、聖武の娘の孝謙(重祚して称徳)に王統が引き継がれたのである。聖武・孝謙の父娘王朝というべき時代が、淳仁天皇の短い在位期間(七五八~七六四)を除いて、奈良王朝のほとんどの時間を占めたのである。このような母子王朝から父娘王朝へという政治史の基本経過は、様々な偶然性にもよったが、この時期の国家がまだまだ文明化の過程にあり、まだ自律的な官僚や軍事警察の機構をもっていなかったことの表現であった。
問題は、このような経過は、王権内部の母子・父娘などの狭い関係の外にいる王族に厳しい運命をもたらしたことである。奈良時代の宮廷は、草壁―文武―聖武―称徳(孝謙)の系列に属さない天武の皇子などの多数の王族が王統から排除され、流罪・死罪の運命にさらされるというきわめて厳しい政争にみちていた。よく知られているように、奈良王朝の内紛はしばしば流血をともなう凄まじいものとなったのである。
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