B・サンダースがアフリカ系の支持を集める条件
サンダースがアフリカ系アメリカンから、どこまでどういう支持を得られるかが民主党予備選の状況の少なくとも一部を決めることになりそうである。ネバダでは、出口調査では、クリントンがアフリカ系の76パーセントの支持をえていたという。
サンダースはユダヤ系のニューヨーカーである。ユダヤ系の知識人とアフリカ系アメリカンの政治的融合と連携が、どこまで深いところで可能かという問題は、アメリカの政治、さらには文化それ自体において大きな試金石であると思う。
サンダースの若い時期は、マーチン・ルーサー・キング牧師の公民権運動への参加から始まった。その歩みが政治的な果実をもたらすことを期待し、それがアメリカにおいて歴史的な必然であるのは明らかだと思う。
しかし、それが、どのようなテンポで進むかが問題である。以下、ユダヤ系の人びとの立場から、それを考えてみる。
アメリカのなかでのユダヤ系の人口は1%から2%で、500から600万。アフリカンの人口から比べると圧倒的に少ないが、移民国家としてのアメリカにおいては、ユダヤの人びとのもつ意味は大きい。一つは歴史であって、ユダヤの人びとは、その存在自身によってアメリカと中欧・東欧との関係を象徴している。ユダヤ系のアメリカンはナチズムによる迫害の記憶をもっとも純粋な形で記憶しているユダヤ系集団である。
アメリカ在住のユダヤ民族の人口はイスラエルを凌駕しており、彼らの歴史意識はむしろユダヤ系の人びとの歴史意識を決定していく力をもっている。たとえば、ドイツから亡命してきた哲学のハンナ・アーレントが、アイヒマン裁判についてナチスの「人類に対する犯罪」が「凡庸で表層的な悪」によって媒介されていたと論じたとき、それはイスラエルユダヤ社会からの強い批判をうけた。しかし、結局、アーレントの思考の影響の強さこそが現在にまで残ったのである。ユダヤ系の人びとの影響はアメリカとヨーロッパの関係の基本に達するものであって、移民国家としてのアメリカにとって根本的な位置がある。
そして、現代の世界政治の現実においても、アメリカーイスラエル関係がある意味では総体を決定するような意味をもっていることはいうまでもない。アメリカのエスタブリッシュメントの間では、イスラエル支持は強固なものがあり、これは決して直接に公的なものではなく背景であるとはいっても、イスラエルへの軍事的支持における最大の要因である。
しかし、他方で、ユダヤ系アメリカ人の相当部分は、実際にはイスラエルに対して批判的である。彼らはイスラエルが完全に孤立し、欧米から見放されることは望まない。彼らはパレスティナとイスラエルの間で、いわゆる「二国家解決」が実現するのを望んでいる。それはしばしば中東問題全体に対する歴史的理解を欠いたヨーロッパ中心主義的な視線にとらわれたものであるかもしれない。
それでも何よりも重要なのはユダヤ系アメリカンはイスラエルを故国・故郷とは思っていないことである。彼らの民族的・文化的故郷はヨーロッパなのである。ユダヤ系アメリカ人のもっているジレンマは、現代史におけるヨーロッパーイスラエルーアラブの動きが作り出したもので、歴史によって作り出されたコンプレクスである。
アメリカにおいて、このイスラエル・コンプレックスが、どう解けていくかは、中東情勢にとっても決定的な意味をもっている。アラブパレスティナ系ののエドワード・W・サイードとユダヤ系のノーム・チョムスキーの思想的な対話と友情は、そのコンプレクスをどう解いていくかという中心問題にふれている。
私は、そこに希望があり、それが可能であると考えるが、イラク戦争によって作り出された中東の惨禍が平和への恢復に向かっていく上で。これは現実的な意味をもっている。これによってアメリカのエスタブリッシュメントのイスラエルに対する軍事的支持を堀り崩されることが、中東問題解決の国際政治過程の基礎にあることは明らかである。その点で、サンダースがヴァーモント市長のときチョムスキーを市ホールでの講演に招いたことは象徴的である。
移民国家アメリカではユダヤ系の人びとに対する視線はきわめて複雑である。まずは第一に、ユダヤ系の人びとの相当部分が家族や近親にナチによる迫害をうけた人びとをもっている。サンダース自身、ポーランドのユダヤ人移民の子で、父親の近親はナチスによる迫害をうけたという。ナチに対する憎悪はアメリカの民族的な記憶の枢要部分を構成しており、ユダヤ系の人びとは、そのような合衆国の民族意識のなかで独特の位置をもっているのである。
それは第二に、ユダヤ系の人びとの集団が、その宗教的性格を中心に目立った存在であることに関わっている。それはいわゆる「さまよえるユダヤ」という文化的象徴性にも対応しており、ポーランド系、イタリア系、アイルランド系などのヨーロッパ由来の人びとが徐々に独自性を解消しつつある状況のなかで強い喚起力を持ち続けているのである。
そして、さらに問題なのは、第三に、ユダヤ系の人びとがアメリカの一種の知性主義や都市性を代表していることである。アインシュタインのことを想起するまでもなく、アメリカの学術文化においてはユダヤ系知識人の位置はきわめて大きい。それはアメリカ知識人のなかに存在する知性主義的な左翼性の重要部分に位置するのである。
これは必然的に知性主義・主知主義に対する反発を社会のなかに生み出す。アメリカの反知性主義を分析した、森本あんり『反知性主義』(新潮選書)は、この「反知性主義」は、知性が現実にはしばしば特権であるという状況に対する批判という側面をもっており、ある意味で生まれるのが当然であるという。私も、それは「知」に対する「身」の反発であって、根本的にいえば、それ自身は当然の健康なものであることをふまえることは社会論にとって基軸的な意味があると考える。
森本の『反知性主義』(新潮選書)は、思想としての反知性主義は現代史においてアメリカが生み出したものであることを明らかにしている。森本によれば、それはアメリカのキリスト教会の大衆主義に根があるのだという。それは「ハーバード主義・イェール主義・プリンストン主義」に対する鬱勃たる反感として存在しており、きわめて根深いものであるという。心配なのは、サンダースが、こういう意味での反知性主義からの標的にならないかということである。
私は、アメリカ文化のなかで、もっとも好ましいのは、マーク・トウェインの『トムソーヤー・ハックルベリーフィン』であり、ジーン・ウェブスターの『あしながオジサン』であり、モンゴメリの『赤毛のアン』であると思う。これは私のような世代の思いこみかも知れないが、これらの物語のなかにあるアメリカ的な身体性にみちた真面目さが好ましい。それこそが、反知性主義の正当な部分を救いとって前に進むことを可能にするのではないかと思う。これがアフリカ系アメリカンの人びとともっとも相性があうということも明瞭のように思う。サンダースがこのアメリカ的な文化の身体性を味方にし、それによって反知性主義を説得できるかどうかというのが問題なのであろう。
もちろん、サンダースは、好感のもてるオジイサンであるから、この点でも善戦できると思うが、心配なのは、そもそもこのアメリカ文化のもつ素朴な身体性の真面目さが、アメリカ社会のなかで陰の方に行っているのではないか、そういうもっとも好感のもてるアメリカ文化が、どこか低調になっているのではないかということである。
端的にいえば、そういう「古き良きアメリカ」自体が、アメリカ社会における現代世界では異常といってよい基層的な暴力性の持続、「西部劇」状態の継続のなかで、すり切れているのではないかという心配である。今日の新聞には、ミシガン州でも銃乱射によって6人死亡という記事があった。非暴力というサンダースの思想がはやく役割を発揮できるようになってほしいと思う。
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