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2016年2月24日 (水)

歴史と単独者


 歴史というのは、結局、単独者として過去の総体に向き合うということである。過去のすべての世界のなかへ入っていき、それが目の前に広がっていき走馬燈のように回り出すという感覚である。単独者として世界史の総体に向き合うということである。それは追体験の立場であり、共感とヒューマニズムにかこまれた過去にむけた文化的な愉楽の世界である。

 しかし、追体験によって過去を客観化するということは過去を突き放すことである。それは人が、過去を向いたまま、背中の側から、まさにBack to the futureの姿勢で時間のなかを激しい勢いで突っ切っていくということを意味している。過去を追体験し、それを明瞭にかつ広範囲に対象化すればするほど、過去を突き放す力は強くなり、時間を突っ切っていくスピードは急速になる。それは共感とヒューマニズムの世界を走馬燈のように動かす世界であって、そこには永遠の虚無が入ってくる。

 それはキルケゴール的にいえば想起の立場であり、ユーモアの立場であるが、ユーモアは人と人との間に距離を設定し、それとともに、そこに喜劇性を見出す作業である。それは想起の作業を笑いに充ちたものにするが、それはやはり事態を客観化して、人びとは想起によって実存から永遠性に後退していくことになる。

 その意味で、歴史学は永遠なるものを時間の一点に発見する一神教における永遠性と似た感覚をもつのであるが、しかし、それは神の姿をとらない。それはより徹底した自己の相対化と現在の相対化であって、無限に無神論に近づいていく。そこに登場するのは巨大な歴史の姿それ自体であって、しかも、その一つ一つの要素は無限に極小であるからこそ、ヒューマニズムの対象となり、それに対する追体験は、それを壊すものに対する歴史の怒りをもたらす。虚無は怒りによって満たされる。歴史学は、こうして歴史の怒りを体現する学問になるのであるが、しかし、問題は、人間が行う学術である以上、そこにはアイロニーが忍び込んでくることである。人は怒っているだけでは身がもたない。ヒューマニズムは怒りに燃料を注ぎ込むだけであるが、アイロニーは怒りに対する諦念となり、救いとなる。

 アイロニーは他者である。私たちは、単独者として過去の総体に向き合うのであるが、実は、私たちの隣に同じ単独者を発見することによって、ヒューマニズム→怒りの世界から、急に、現在の私たちの現状をアイロニーをもって発見するのである。こうして、歴史学は、「ヒューマニズムと怒りとアイロニー」をもって他者と協働の世界を発見するはずである。

 それこそが歴史的実践の世界であるはずであって、歴史学は人びとをゆっくりと実践の世界に接近させ、そこに直面させるはずのものである。現在の歴史学はそうはなってはいないかも知れないが、歴史学の地下の作業場を通っていく道の角の向こうには、つねに実践の世界がある。

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