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2016年4月17日 (日)

火山地震106地震は韓半島にも波及するか

 この図は、今日のH-netからコピーした、ここ30日間の西日本の地震の発生状況を示した図です。
Hnet

 注目されるのは、熊本のはるか西、甑島諸島の西にみえる海底地震の群発の様子で、これは真っ赤にそまっている地震のラインの少し南に位置する中央構造線を延長した線の、ちょうど北側に位置し、大分→熊本とつづく地震の群発帯の延長の上にあるようにみえます。

 この真っ赤な部分は、プレートクトニクスの専門家の新妻信明氏のブログ、Niitsuma-GeoLab.netによれば、沖縄トラフが九州に近付いて二股に分れたうちの北側の部分にあたり、琉球の弓状島弧と東シナ海大陸棚の間にある浅い海溝であるということです。ここで昨年、2015年11月14日にM7.1+nt(14km)の地震が起き、それ以降、地震の群発が続いているということです(Niitsuma-GeoLab.net。2015年12月20日発行記事)。

 もちろん、この沖縄トラフの状態が、熊本地震に何らかの形で関係しているのか、また、この地帯が中央構造線の延長部分の北に位置していることに意味はあるのか、あるいは九州西部地域に想定されているというマントル上昇と関係するのかなどの問題は、理科に弱い、歴史家の私にはわかることではありません。

 そもそも、熊本地震に中央構造線の影響があるかどうか、その場合の中央構造線の動き方はどう理解できるのかということ自体、地震学や地質学の立場からの議論が行われている最中で、それに期待するほかありません。私は日本列島の弓状弧が、東北沖海溝大地震によってその北半で弓を垂直にするかのように東に引かれており、その緊張が列島の軸線ーー中央構造線を緊張させているなどと説明しましたが、これはイメージ的な言い方にすぎません。

 それらのすべては、地球科学の研究者におしえていただくほかない問題ですが、偶然、私は伊藤谷生氏の論文「地殻災害軽減の基礎を担う地質学;震源断層解明作業への寄与」(『地殻災害の軽減と学術・教育』学術会議叢書、2016年)を読んでいました。そこで述べられている別府湾と中央構造線についての研究状況の紹介を読むと、ここ20年ほどで相当程度まで詳しいことがわかりつつあり、日本の地球科学が確かに「地殻災害軽減の基礎を担う」実力をもちはじめていることだけは分かりました。

 私も、「地殻災害(地震・噴火)の予知と学術」という文章をかいていますが、(私の文章は別として)この本を読んでいると、この地震火山列島に棲み続ける営為というものはどういうものなのか、そこで学術がどう希望を語ることができるかということを考えさせられます。ツイッターやジャーナリズムの熊本地震についての論評を読んでいると、地球科学の研究進展の状況をまだるっこしいという見方が多いように思いますが、しかし、そう強く感じられる場合は、ぜひ手にとっていただければと思います。たしかにむずかしい本ですが、地震学・火山学・地質学・地理学・歴史学(文献・考古)・災害科学(防災学)など全体の研究状況をみるためには、当面、この本しかないように思います。

 論題をもどしますと、この沖縄トラフ北端の様子からすると、熊本地震は非常に広い地域の動きに関わっているように思えます。そう考えるのは、9世紀と15世紀に起きた東北沖海溝大地震・大津波の後、どちらの場合も、韓半島で地震や火山噴火が活発になっているからです。これは21世紀に発生した3、11東北沖海溝大地震の後にもいえることかもしれないと思うのです。その根拠は過去もそうだったからというにすぎず、確定的なことではありません。歴史学者としていえるのは、韓半島に波及することは50年あるいは100年さきかも知れず、あるいは5年先かもしれず、1年ほどで来るかもしれない。ともかく過去の事例によれば、そういう可能性があるということにすぎません。しかし、その過去の情報を急ぎ提供するのも歴史学者の仕事であろうと思うのです。

 さて、まず、9世紀の東北沖海溝大地震の後の経過を説明しますと、富士が噴火して、現在の青木原樹海の溶岩をあふれさせた後、しばらく経って、八六九年(貞観一一)五月に陸奥沖海溝地震が起きました。そして、その後、約二月経って、肥後国において相当の規模(M七.〇以上?)をもつ誘発地震が起きています(なお拙著ではただの地震としましたが、これは津波地震であったかもしれません)。問題は、朝鮮の史書『三国史記』によれば、その九ヶ月後、八七〇年四月に新羅の王都慶州で地震が起きていることです。さらに八七二年四月には同じく王都・慶州で、また八七五年二月には王都および東部で地震が発生していることも注意されます。

 日本列島と比較して韓半島には地震は多くありませんが、実は、この時期は韓半島でも地震の活発期でした。とくに大きな影響をあたえたのは、新羅の恵恭王を退位させるという結果をまねいた8世紀後半の地震です。まず七七七年の地震では、それを王の失政によるものとした高官の金良相がきびしい批判の上奏文を提出しています。恵恭王の下で国家の綱紀が乱れ、天変地異が現れたというのが『三国史記』の説明です。そして、金良相の上奏文が提出された翌々年、七七九年に王都に死者百余人を出す大地震が発生し、これをきっかけとして翌年に王都で反乱が起こり、恵恭王は王妃とともに殺害されました。この地震の衝撃が大きかったことは、次の王が即位にあたって地震の神を祭ったと伝えられていることに明らかです。詳しくは拙著『歴史のなかの大地動乱』を参照願いたいと思いますが、地震が政治問題化するという点で、この時期の日本と新羅は同じような政治史をもっていたのです。

 これまでの歴史地震研究では、八・九世紀に日本列島と韓半島をほぼ同時に地震が襲ったことは、(知る限りでは)注目されたことはありません。しかし、ここには大規模地震にともなう地震の東アジア全域での広域的な誘発あるいは連動という問題があるのではないでしょうか。

 そして、このような地震活動の広域展開と関連があるのではないかと想定されるのが、陸奥沖海溝地震の約五〇年後、九一五年に秋田県十和田カルデラが噴火し、それに引き続いて、九四六年に朝鮮の長白山脈の白頭山が大噴火したことです。つまり、まず十和田カルデラの噴火は、有史以来、日本で最大規模の噴火であったといわれるもので、実際、東北地方から北海道にかけて、十和田カルデラの火山灰を広汎に確認することができます。そもそも十和田湖は、火山噴火に由来するカルデラ湖なのです。また白頭山の噴火は、さらに大規模なもので、過去二〇〇〇年間のうちで世界最大の規模の噴火です。その被害はすさまじいもので、二〇〇㌔先まで火砕流を氾濫させたことはよく知られています。「東海の盛国」といわれて、この地域で繁栄していた渤海という国家は、すでに九二六年に滅亡していましたが、この噴火は、その滅亡のだめ押しとなった訳です。この時の大噴煙柱は世界の気候にも大きな影響をあたえたはずで、噴出したアルカリ岩質の火山灰は、日本にも大量に飛来し、青森県から北海道の全域で十和田カルデラの直上に層をなしているのが発見されています。

 問題は、15世紀にも、同じように、東北アジアの広い範囲で地震や噴火が活発化したことです。しかも、その様子は、8・9世紀よりも明瞭です。

 つまり、九世紀陸奥沖津波の約六〇〇年後、室町時代、一四五四年(享徳三)に大規模な東北沖海溝大地震・津波が発生しました。この東北沖海溝大地震・津波は、「王代記」という山梨県に残る地域の年代記(一五二四年(大永四)頃に成立)に「十一月廿三、夜半ニ天地震動。奥州ニ津波入テ、山の奧百里入テ、カヘリニ、人多取ル」と記録されているものです。この室町時代の東北沖海溝大地震・津波は、右の「王代記」に、「山の奧」に「百里」入ったとあることからすると、おそらく九世紀の陸奥沖津波と似た規模をもったものではないかと考えられています。現在、地震学の地質調査によって、仙台・石巻平野に九世紀の津波の痕跡と推定される砂層が発見されていますが、そこでは一四世紀頃の津波痕跡の砂層も確認されているといいます。右の「王代記」に記された津波は一五世紀半ばですから、若干の時間差があって、今後の精査が必要ですが、あるいはこの津波が上記の砂層を残した可能性もあるようです。

 そして、この室町時代の東北沖海溝大地震の後に、韓半島で発生した地震は大地震となりました。この東北沖海溝大地震は、西暦でいうと、一四五四年一二月二一日にあたりますが、『朝鮮王朝実録』によると、その約一月後、西暦一四五五年一月二四日(朝鮮王朝暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでました。また注意しておきたいのは、この六年前、西暦一四四九年(宝徳一)に、対馬で地震が発生したという記録もあることです。一五世紀の東北沖海溝大地震・津波は、九世紀のそれよりも明瞭に韓半島南部の地震と連動しているようにみえます。

 このように、15世紀から18世紀にかけて日本列島でも韓半島でも地震の活発期であったことについては、すでに地震学の茂木清夫が、一五世紀から一七世紀にかけてを東北アジアにおける地震の「広域的活動期」と規定しています。茂木が日本列島、朝鮮半島、中国大陸東北部がほぼ東西の同一線上に配列されていることを重視し、このような広域的な活動期の存在それ自体が「剛体プレート説を地震学の立場から支持するものといえよう」としているのは興味深いことです。

 そして、茂木の議論は、同じく地震学の大内徹によって「Korea地域の地震・火山活動と東アジアのテクトニクス」(2002年)という論文においてさらに敷衍されています。以下に一部を引用します。

 「現在のKorea域の地震活動は日本にくらべてずっと低い。しかし、歴史的には地震活動は16~17世紀を中心としてかなり活発な活動もあり、大きな被害地震も発生している。地震活動が3~4世紀の間に集中して起こるといった非常に特異な起こり方をしている。(中略)火山活動に関してはAD1700年頃のKorea北辺の白頭山の活動はよく知られている。この白頭山の噴火は、この地域の地震活動期と同時期であり、日本の元禄地震と富士山の噴火ともリンクしている」

 以上のように、8~10世紀頃と15~18世紀頃の日本列島と韓半島の地震活発期・噴火活発期を呼び起こす中心に、日本列島における東北沖海溝大地震があったようにみえるのです。
 
 これが事実かどうかは、今後の東アジアの地球科学者たちの協同的研究に期待するほかありませんが、熊本地震の様相、そして沖縄トラフ北端の地震群発の状況をみていると、この問題を解明し、そしてそれを東北アジアに棲む人類が共通の常識として確保することはきわめて重要だと思われるのです。ユーラシア東端に位置する諸民族は地球史という、長期的な視野のもとではしばしば共通する運命に置かれることは明らかです。「人類みな兄弟」ということですが、私たちの民族も、そのなかで悠久の歴史を発見し、実感していく必要があると思うのです。

 ともかく、これ以上、地震が広がらないことを望むのみですが、それにしても、阿蘇神社の社殿の崩壊はショックです。下記に、拙著『歴史のなかの大地動乱』の阿蘇社についてふれた部分を引用しておきますが、歴史家として考えるべき事の多さを実感します。

 (『隋書』倭国伝に載せられた阿蘇山の記事について)そこには阿蘇山の巌石から火が立ち上り、天に接している。人々はこれを神異のこととみて「禱祭」を行っているとある。『隋書』は六三六年には成立していたから、それ以前、たとえば有名な聖徳太子の遣隋使の頃には大陸に阿蘇火山のことが伝わっていたことになる。これが日本列島における最古の火山史料であり、それが外国からみた日本の特徴として残されていることが注目される。
 この阿蘇山の「禱祭」の内容がどのようなものであったかはわからない。ただ、考古学の北條芳隆の教示によれば、たとえば埼玉県の稲荷山では後円部の頂上から富士山頂をまっすぐに見通すことができるといい、また有名な吉野ヶ里遺跡では、主要遺構が火山・雲仙に対して直線に配置されているというから、今後の火山考古学の研究によって火山祭祀の遺構が確定される可能性はあるだろう。また、すでに指摘されていることとして、阿蘇カルデラの外輪山や宇土半島に分布するのピンク色の溶結凝灰岩が、五世紀のころ畿内の古墳の石棺にしばしば利用された事実がある。この「灰石」と呼ばれた石材は軟らかく細工しやすいというが、古墳石棺への利用は、たんに加工しやすいためだけではなかったろう。ここでは『肥後国風土記』が、阿蘇山の頂上の「霊しき沼」「神宮」の周囲に「石壁」の「垣」があるとしていることに留意したい。つまり、火山頂上には威力ある神が「神宮」を営んでいたと考えられていたのであり、阿蘇灰石は、この「神宮」を囲んで立つ「石壁」と似た石材だからこそ尊重されたのではないだろうか。古墳もある種の「神宮」であるから、その石室に阿蘇の石材がふさわしいものと考えられたのではないだろうか。いずれにせよ阿蘇の「禱祭」の由来は、相当に古くにさかのぼるものとみられるのである。

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