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2016年4月16日 (土)

地震火山105、九世紀には奈良でも地震

9世紀の地震誘発(東北→奈良→熊本)の構造と中央構造線
Kumamoto2012nen

 この図(HIーNET)は2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震の翌年(2012年)一月末から二月末にかけての近畿地方から九州熊本にかけての地震の発生状況である。3,11から一年経っても、余震・誘発地震が衰えていない様子が明瞭であるが、熊本の地域と紀州や京都、そして奈良南部にも小さな地震が群発していることに注意されたい。

 歴史地震研究をはじめてから、こういう図をよく見るようになったが、まさに列島の大地は、毎月毎月、動いているのだと思う。

 14日~一六日の熊本地震は、2011年3,11の東北地方太平洋沖地震(M9)からちょうど5年後である。熊本地震は広い意味では東北地方太平洋沖地震によって誘発された側面があると考える。上記のような列島の地殻の連続的な動きのなかで、それをどう位置づけるかは、地震学の議論をまたねばならないが、ともかく、5年をおいた二つの地震に何らかの連関性をみることができるのは確実であろう。

 3,11でもっとも東に動いた牡鹿半島の平行移動距離はだいた6メートル。それ以降、毎年10センチづつ東に動いているという。日本列島の弓状弧には、その北半で弓を垂直にそらせる方向に巨大な力が働いており、それが列島の軸線である中央構造線を緊張させているのではないかということになる。素人の想定をしていても仕方ないとは思うが、ともかく、太平洋・アムール・フィリピンなどのプレートの動きだけでなく、中央構造線にかかっている緊張を精細にみなければならないことは事実ではないかと思う。

 以下、これに関係して、9世紀の東北地方太平洋沖地震(奥州地震津波、M9、869年)の直後におきた大和国地震について述べたい。

 簡単に説明すると、869年東北沖海溝大地震の直後、2ヶ月後に大和国と肥後国(つまり熊本)で地震が連続的に起きた。後者の熊本地震については一昨日も述べたので、ここでは前者の大和国(奈良県)地震のみを取り上げるが、『三代実録』によれば、7月7日に京都で有感地震があった。

 そして、翌日、奈良で「大和国十市郡椋橋山河岸崩裂。高二丈(6㍍)、深一丈二尺。其中有鏡一、広一尺七寸、採而献之」(『三代実録』)という事態が発見されたことである。つまり、大和国の椋橋山の麓を通る川の川岸で地割れ(「崩裂」)が発生した。その断層の高さは二丈、というから約6メートルの断層(逆断層?)ということになり、相当の活動である。高さ二丈の地割れというだけならば土砂崩れとも考えられるが、深さ一丈二尺の陥没がともなうことからして断層であることは確実である。それ故に、この記事は『大日地震史料』にも採録されているのたが、私は、これを、前日、京都で体感された地震によって発生したものと推定した(当ブログ、2011年3月27日)。

 もちろん、『三代実録』に明記されている訳ではないが、私は、地割れをもたらすような地震が7月7日に大和国であって、それが京都で感じられたというように、この史料を読んだのである。

 この当否についての御意見はまだ地震学の側からの意見をいただいていないが、ブログでは、この大和国地震は、「おそらくマグニチュード6は越えて、7に近かったであろう。どの程度かは別として地震が活発化していることは事実であるから、3,11を経験した今、(奈良においても)各地で注意が必要なことはいえるだろうと思う」と述べた。

 熊本地震が大分まで震源を移しているとはいっても、近畿地方まで地震に襲われることはないだろうとは思うが、16世紀末の大地震が中央構造線を大分から京都まで動いた例はあるから、注意しておくに越したことはないのかもしれない。

 つまり、問題は、この椋橋の地は南にぬければすぐ中央構造帯であることである。そして、『<新編>日本の活断層』(東京大学出版会、1991年)によれは、椋橋の地は、奈良盆地東縁を南北に走る奈良盆地東縁断層帯のちょうど延長線上にあたる。しかもこの地帯には「活断層の疑いのあるリニアメント」(Lineament、直線的な模様にみえる地形)が名張断層の延長線上に東北東から西南西に通っており、椋橋の地は両方がまじわる地点である。

 そして、山を西に一つ越えた飛鳥の高松塚の西、壺坂山周辺では1952年7月18日にマグニチュード6,8の地震が起きている。そして飛鳥では、斉明天皇が築いた酒船石の遺跡をめぐる石垣の一部が達磨落としのように一気に崩れ落ちており、それは六八四年の南海地震によるものとされている。また明日香村カヅマヤマ古墳の石室がおそらく一三六一年の南海地震によって、その南半を崩壊させている。さらに高松塚の西、壺坂山周辺では一九五二年七月一八日にM六.八の地震が起きている。これらの事例からすると、おそらくこの九世紀の地震も、M六はあったと考えられよう。ようするに飛鳥一帯は地震地帯なのであって、これが日本の神話に地震神話が含まれていることの重要な条件であったのではないかとも思われるのである(詳細は、拙著『歴史のなかの大地動乱』岩波新書を参照)。
 
 以上がもし認められるとすると、9世紀の東北沖海溝大地震も、2ヶ月後、7月7日と7月14日に、大和国と肥後国(つまり熊本)で連続的に地震を誘発したということになる。それは16世紀末の豊後地震、伏見自身のような激しい中央構造線上の連鎖的地震とはならなかったが、ともかく9世紀にも中央構造線がらみで短時間の間に列島の地殻に緊張が走ったということはいえるのではないかということになる。

 繰り返すと、869年の東北沖海溝大地震が二ヶ月後に奈良と熊本の地震の連続的に誘発したということは、列島北半の弓状弧が東北沖海溝大地震によって東に引かれたことが、列島の中軸の緊張を強め、中央構造線の動きを誘発したことを意味するのではないかというのが私見である。
 
 以上の推定は、地震学者の方々の検証はまだうけていない。3,11の後、科学技術学術審議会地震火山部会の専門部会の委員をつとめたこともあって、地震学の方々にいろいろ御教示をうける機会は多かったが、私も、これについての評価をお聞きしたことはなかった。それ故に、この推定が、どの程度の妥当性をもつかは割り引いて考えていただきたい。

 私としては、3,11の東北沖海溝大地震の衝撃のなかであわてて考え、無理して執筆したものであるだけに不十分な点が多いことを認めざるをえないのである。実際、この時代を専攻している歴史の研究者からの評価は(何人かの、すでに災害史に取り組んでいた方をのぞいて)ほとんどなく、おそらく多くは芳しくないものであったようである。しかし、私としては、3,11まで「古代史」にはまったく地震と噴火の研究がなかったという状況のなかで、地震学と対話する手がかりのようなものを作れたとは考えている。
 
 幸い、「地震・火山噴火予知研究協議会」(事務局、東京大学地震研究所)が、前記委員会の策定した「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画」にもとづいて、活動を開始している。そこにはほとんどはじめて「史料・考古」部会も設けられた。そのなかで、本格的・実質的な討議が展開するに違いないと思う。

 しかし、熊本地震の状況をみていると、現実の地殻の運動に遅れないように、研究を急がなければならないということを痛感するところである。

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