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2016年4月

2016年4月30日 (土)

火山地震109日本の国の形と地震史・火山史  


 [二〇一五年七月一九日/多賀城市文化センターでの講演]
はじめに
 東日本大震災の翌年一二月、文部科学省が立ち上げた科学技術・学術審議会測地学分科会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学の側の専門委員として参加し、議論をしてまいりました。文科省の自然科学分野の委員会に歴史学者が呼ばれたのは初めてです。歴史学者も地震学や火山学といった自然科学の研究者と一緒に考えていかないと、未来の災害を本当の意味で予測することができないとはっきりしたからです。

 私は、紀元前後から約二〇〇〇年の間に、日本では地震・火山活動が活発になる大地動乱の時代が三回あったと考えています。地殻運動の超長期的な周期は、だいたい七〇〇年ごとのスーパーサイクルだというのが東京大学地震研究所の佐竹健治教授の仮説ですが、私は、それにそって考えています。

 二〇一一年に起きた東日本大震災は八六九年の奥州地震津波(貞観地震)と震源も規模も、そして浸水域もほぼ同じだったことから、地震の歴史がより深く考えられるようになりました。つまり、一九匕八年の宮城県沖地震のようなマグニチュード七・五規模の地震は平均して一〇〇年に三回起こります。太平洋プレートはこの規模の地震が起きると一回につき二メートル滑る。一〇〇年で六メートル滑る計算です。しかし、太平洋プレートは陸側のプレートの下に年間八センチ、一〇〇年間で八メートル沈み込みます。こうして一OO年で生まれる二メートルの差が蓄積されて、七〇〇年に一度そのエネルギーが解放され、大地震を引き起こすというのです。

 さらに巨大地震は火山噴火との関連性を考えなくてはなりません。たとえば、地震学者の都司嘉宣さんは富士山頂から立ち上る噴煙が詠まれた和歌の年代をたどり、巨大地震が起こったときには富士山の火山活動も活発化していることを明らかにしました。

 富十山は一七〇匕年の宝永大噴火のほか、今から三〇〇〇年前にも爆発したことが知られていましたが、最近の火山学の研究によると紀元前後にもいく度か噴火していることがわかりました。これを大地震の発生と合わせてみると、日本の大地動乱の時代は、ひとつは紀元前後の神話時代、次に七世紀末から一〇世紀、つまり貞観地震の前後の時代、三つ目は一五世紀半ばから一八世紀の時代に整理できます。この三つの時代をそれぞれ詳しくお話していきましょう。

 神話時代

 北海道から三陸沖にかけて、紀元前後の津波の痕跡が発見されています。同じころ南海トラフ地震により高知県から三重県にかけて大津波があり、富士山も噴火しています。こうした大地動乱が神話のありかたに影響を与えました。

 まず日本神話の最高神はだれかを確認しておきます。一般にはアマテラスと思われていますが、実はタカミムスヒという神様であると、すでに本居宣長が指摘しています。ムスとは熱いという意味なので、この抻は「高所におわす熱と光の神」、つまり雷神ということです。ギリシャ神話のゼウスも雷神ですね。タカミムスヒは『日本書紀』においては「天地鎔造の神」とされています。鎔造とは鋳造のこと。天と地を鋳型に入れていっぺんに作り出すほど巨大な火を使う神であるということです。

 天皇家の祖神が九州の高千穂に天下ったというのが天孫降臨神話ですが、下れと命令したのがタカミムスヒです。『古事記』はその様子を「磐座が噴煙を分けて稲妻を道分かれさせながら、天にかかる岩梯子のようになって、溶岩をあふれさせる」と描写しています。天皇家の祖先は火山に降臨したわけです。

 地下の神についていえば鍛冶神がいます。ギリシャ神話における鍛冶神はヴァルカンですが、日本神話ではスサノヲとオオナムチです。アマテラスの弟であるスサノヲは、手にした琴を鳴らすことによって地震を起こします。オオナムチがスサノヲの娘をさらい、琴を盗んで火山の噴火口から地上に逃げ出すというのは、オオナムチがスサノヲの跡を継いで地震神になったということです。そのときスサノヲは「娘を正妻として地上の王者となれ。大国主命と名乗れ」と叫びます。

 オオナ厶チの「ナ」は産土の「ナ」と同じく大地を意味します。オオナムチは大地の神なのです。列島は火山の噴火によって生まれ、大地の神が国主となった。神話時代の人びとも、地底には大きな火が燃え、そこから火山が生まれると想像していたのでしょう。

 これは、前方後円墳の理解に結び付きます。東アジア一帯には、死者の魂は壺や瓢箪、竹筒に入って天に上るという観念があります。考えてみれば前方後円墳は壺を横倒しにして半分埋めたような形をしていますが、この場合の壺は火山を表現しています。九世紀の伊豆神津島火山の噴火の史料には、火山の様子を「壺の様である」とした一節があります。また、出雲には四隅突出墓といって、四隅へ溶岩流が流れ出すような形をした墓もあります。いずれも火山のイメージが、紀元前後から二~三世紀の墓に導入されたということです。

 七世紀から一〇世紀

 次の動乱の時代は七世紀末から始まります。匕世紀には伊豆で南海トラフによる大きな地震・噴火があり、八世紀には丹後、遠江、河内・大和、美濃など内陸で地震が連続しました。

 このうち河内・大和地震は、聖武天皇と近しい親族である長屋王が自害した直後に発生したので、人びとは長屋王の怨霊が引き起こした地震であると伝えました。その不安を払拭するため、聖武天皇は恭仁京・紫香楽宮を造営し遷都をはかります。ところが、美濃地震によって紫香楽宮は大被害を受けてしまいました。結局、聖武天皇は平城京に戻り、仏の力で地震を鎮めるために東大寺大仏建立に邁進します。八世紀後半はしばらく地震がありませんでしたので、当時の人は大仏のおかげだと思っていたかもしれません。

 しかし、九世紀になると各地で地震が続き、八六八年には播磨地震が起きます。播磨はスサノヲ神話の広まった地域です。この地震は神戸の六甲断層帯を揺らし、さらに京都の東部を走る花折断層を揺らしました。京都の人たちにスサノヲが起こした地震だと考えたのでしょう。それを鎮めようと、断層の上にスサノヲを祀る神社を建てました。それが衹園社です。衹園社は疫病や飢饉を鎮める目的で建てられたといわれてきましたが、背景にあるのは実は地震なのです。実際に、疫病をもたらす鬼が同時に地震を起こすという話が『今昔物語』にあります。鬼の腰には打出の小槌がはさまれていますが、鬼はこれで人を叩いて病気をはやらせるだけでなく、地面を叩いて、大地の底を開く力を持っていました。

 播磨地震の翌八六九年に発生したのが、問題の貞観の奥州地震津波です。『日本三代実録』には「海を去ること数十百里」という記述がありますが、この場合の「里」は距離ではなく面積を示すと考えられ、「海から数十百里ほどの面積が冠水した」と解釈すべきでしょう。換算すると東西二・六キロ、南北一三キロ。それほどの面積の水が多賀城の南をずっと覆ったということです。

 奥州地震津波の九年後には南関東地震、一八年後には巨大な南海トラフ地震が起きます。大地動乱は一〇世紀に入ってなおも続きますが、有名な雷神菅原道真も地震神であったという史料があります。地震の神を祀る衹園社が全国に増えていきます。平将門の反乱の二か月後に京都で地震が起きますが、将門は天神が味方についている、つまり菅原道真が見方してくれていると宣言しました。これまでの研究では地震がこれだけ大きく影響していたことを無視していました。

 七世紀から一〇世紀にかけては、火山噴火も多く見られます。六八四年の南梅地震のときに伊豆神津島で大噴火が起き、その噴火音は京都まで聞こえました。伊豆神津島は八三八年にも大噴火し、八六四年には富士山で貞観大噴火が起きました。このとき富士山の北側に流れ出た青木原溶岩流によって形成されたのが、富士五湖です。

 静岡県の三島神社は溶岩流をご神体としており、富士噴火をきっかけとして朝廷から高い位を与えられました。ほかにも火山にある神社には九世紀以降、位の上がった神社が多数見られます。赤城、日光白根、蔵王、白山、肥前国の温泉岳などです。それは小噴火や火山性地震が神の威力であると感じられたためです。神道が本格的に宗教としての体裁を整えていくのがこの時代ですが、日本文学研究の益田勝美氏は、信仰の中心には火山への畏れがあったとしています。山の神の一番上位にいるのはたしかに火山の神でした。

 富士の貞観大噴火の二年後、八七一年の鳥海山噴火があり、九一五年には日本の火山噴火として有史最大規模といわれる十和田の大噴火、そして九四六年には朝鮮半島の白頭山で世界で有史最大規模といわれる大噴火が続きました。

一五世紀後半から一八世紀

 第三番目の動乱期は、一四五四年の奥州大津波をもたらした享徳地震に始まります。『王代記』には「夜半ニ天地震動。奥州ニ津波入テ、山の奥百里入テ、カヘリニ、人多取ル」と奥州津波について記されています。貞観津波の史料にもある「百里」という言葉がでてきますから、よく似た津波だったのだと思います。

 享徳地震をきっかけに、一四九八年の明応東海南海地震、一七〇七年の宝永東海南海地震と、大規模な南海トラフ地震が発生しました。宝永東南海地震に続いては富士の宝永大噴火もありました。

 この時代の噴火の最大の特徴は、北海道で大きな噴火があったことです。長い休止時代から目覚めたかのように、噴火湾周辺など五ヵ所の火山で集中的に大規模な爆発があり、遠く岩手県の盛岡や青森県の八戸にも爆発音が響いたといわれます。アイヌの人々も噴火によって大変な被害を受けました。

 ことに一六六三年の有珠山の噴火は、山体崩壊を招招く大規模なものでした。史料によれば、焼けた山の中から夷の形をしたものが飛び出し、山が二つに割れ、有珠山の五分の四か吹き飛んだとあります。その六年後にはアイヌの首長であるシャクシャインが松前藩に対して蜂起しました。噴火は倭人の拠点の松前などに近い方で起きましたから、アイヌの人々は暴政に対する天罰と考えたのではないかと思います。

 以上、地震に加えて各時代の噴火についても概説してきましたが、これらが明らかになったのも、だいたい、この一〇年ほどのことです。火山学者がこつこつと史料を探し、大地を掘り、火山灰を発見し、溶岩を掘って明らかになってきました。

 災害からの恢復と社会

 日本社会はこれら三度におよぶ大地動乱の時代を乗り越えてきました。災害から恢復あるいは復興するとき、列島の歴史は大きく動いたのです。

 私は神話の時代にはおそらく東北から九州までの人びとが、地震・津波・噴火という大地動乱を通じて神話を共有していったのだと思います。大和朝廷は、当時は後進地帯だったヤマト地方に噴火を象徴する前方後円墳を作り、各地から人々が集まるキャンプのようなものを据えることで日本国家の原型を作りました。人々の自然観や神話の共有は、列島の地域間交流を促進する役割を持ったでしょう。

 匕世紀から一〇世紀は、神話の終焉の時代です。本格的な文明が日本全土に宿り、天神社や衹園社などの怨霊・地震神を抱え込みながら村落組織を整えていきました。一〇世紀、平将門・藤原純友の乱の直後、九州から京都にかけて歌を歌いながら行進する集団がありました。なかには純友の反乱軍の残党が含まれていたようです。歌というのは「月は笠着る。八幡は種蒔く。いざ我らは荒田開かむ。志多良打てと神は宣まふ。打つ我らか命千歳、志多良米」などというものです。志多良とは枝垂れに通じる語で、竹箒のようなものです。これで地面を打ちながら行進してきたわけです。私は、ここから、鬼が打出の小槌で大地を打って地震を起こすという先に述べた話を思い出します。ただこの場合は、人々は大地を打って、土地を開発し、大地の富を呼び出そうとしたわけです。しかし考えてみれば打出の小槌も富を呼び出す力を持っていました。人々の持っていた大地の力への感じ方を知ることができるように思います。

 こうした開発の時代はだいたい鎌倉時代の末まで続くというのが、歴史学界の共通の意見です。そしてそれが終ってしばらくしてから、第三回目の大地動乱の時代がやってきました。これと直面したのが戦国時代・安土桃山時代で、その結果としてあるのが、江戸時代です。

 江戸時代もまた大地動乱の時代に含まれるわけですが、諸大名は災害に立ち向かって都市計画を進め、土木技術を発達させました。仙台藩においては川村孫兵衛が一五九六年の慶長地震津波の復興事業に取り組み、一七〇匕年の富士の宝永大噴火後は、伊奈家が土木治水技術による再開発を展開しました。合理的な技術を用いて国土を管理し、都市計画を展開する時代が始まったということです。

 我々の社会は今、長い歴史の中で享受してきた自然の恩恵をいかにして次に伝えるかという時代を迎えています。そういった意味からも、一〇〇〇年、二〇〇〇年の単位で災害から歴史を見つめ、紀元前後からいうと、四回目にあたるかもしれない大地動乱の時代に備えたいものだと思います。

            『震災学』7号。2015年(東北学院大学編)

2016年4月29日 (金)

地震火山108熊本地震と8/9世紀の肥後(はじめに)

 地震学の石橋克彦氏は、2014年に執筆した『南海トラフ巨大地震』(岩波書店)において二〇一一年三月一一日の東北沖海溝大地震が日本列島におよぼす変動について、「2011年東北地方太平洋沖地震に伴う東日本の地殻変動」(同書九七頁)および図2-17、図2-20などの図表を提示して、次のような概観をあたえた。

 まず第一に地震によって日本海溝沿いの太平洋ー東北日本のプレート境界のつっかえがとれたことによって、震源域近辺の東北日本、つまり列島弓状弧の関東以北の直立部が東向きにすべり、大きく水平に変位した。三・一一でもっとも東に動いた牡鹿半島の平行移動距離はだいた六メートル。それ以降も、だいたい毎年10センチづつ東に動いており、それは現在も止まっていない。これは関東地方における地震、あるいはいわゆる首都直下地震の発生に深い関係をもつ可能性がある。

 第二に、大地震によって太平洋ー東北日本のプレート境界が自由になっても、東方変位が強すぎた福島県浜通りが正断層(引っ張り力による断層)であったことを除いて、三・一一後におきたM5ほどより大きな地震はすべて東西圧縮力により発生している。このような東西圧縮力をすべて太平洋プレートの沈み込み摩擦の結果に帰すことはできず、アムールプレート(ユーラシアプレートのマイクロプレート)の東進が東北沖海溝大地震の後にも動き続けていると想定するほかない。これに直接に対応して、北海道の日本海側から東北地方日本海沖を通って、糸魚川ー静岡構造線にいたるアムールプレート東縁変動帯における断層の動きが注意される。とくに注意すべきなのは、列島の地殻の下に北北西の方向に沈み込むフィリピン海プレートの圧力によって南海トラフ巨大地震が惹起された場合、それがこのアムールプレート東縁変動帯と接続する地域に影響をあたえ、地震が駿河湾奥に及ぶ可能性である。列島全域の変動によって条件付けられる部分があって、南海トラフ巨大地震の発現は多様性が大きいが、この点は留意しておく必要があるというのが石橋の一貫した主張である。

 第三に重要なのは、西南日本のプレート衝突域においても、東西圧縮力による大地震が発生する可能性があることである。これについては、肥後(熊本)地震を論ずる上でもっとも重要なので、原文を下記に引用しておく。


 日本海東縁変動帯と西南日本衝突域の広い範囲のどこかで、今後も東西圧縮力による大地震が複数発生する可能性がある。南海トラフ巨大地震が起こる前に北海道~東北~信越~北陸~中部~近畿~中国~九州地方で直下地震が発生し、中京圏、京都、大阪などでも大震災が生じる畏れも否定できない。またMTL(中央構造線)が紀伊半島~四国北部~伊予灘~別府湾で内陸巨大地震を起こす可能性もある(具体的にどこかは別の研究課題)。


 二〇一六年四月一四日より発生した熊本地震は、別符湾を南西に下った熊本であったという点が異なるが、大局的にいって、MTL(中央構造線)に関わって地震が起こる可能性があるという、この予測が具体化してしまったことを意味している。このような予測が石橋氏のほかにも提出されていたかどうかは知らないが、この予測は列島全体の地殻の変位をふまえたものだけに説得力がある。


 実際に、図(http://www.asahi.com/articles/ASJ4K04XDJ4JPLBJ00Z.html)のような熊本地震後にGPSによって地殻の変位の状況を計測した結果(京都大学西村卓也氏作成、原図、朝日新聞デジタル四月一七日掲載)によると、石橋の図2-20の図の描いた様相がさらに詳細にトレースされている。まず日本列島の弓状弧には、その北半で、東北地方が東側に滑り動く力とアムールプレートが東進する力を合成した巨大な力が働いており、それによって弓状をした列島には、弓の内側から弓を押しつけて弓のそりを開くような緊張が走っている。そして、同時に弓の下半部には、その外側から、北北西に沈み込むフィリピン海プレートの力によって、むしろ弓のそりを強める方向で列島の軸線である中央構造線を緊張させているようにみえる。

 列島を正面からみた人間の身体のイメージで、比喩的に表現すると、斜め上にむけた左手が東北地方、胸の部分が近畿地方、そして真横に出した右手の上腕部が中国地方、そして肱より先を下に向けた部分が九州島ということになるが、その状態で、左手が外側に引っ張られ、右手の脇に下から強い圧力をかけられているという感じであろうか。これによって身体は左に傾こうとするが、それを避けるために体躯に強い緊張が走っているという訳である。

 しかも、右のGPSによる地殻の変位図をによると、九州島は東からフィリピン海プレートの北西向き及び西向きの圧力をうけ、西からアムールプレートの東進の圧力をうけている。そして九州島の中央部にはクサビのような形で別府-島原地溝帯が開き、九州島は南北に割れていくかのような様子がみえる。この割れ目のところにちょうど阿蘇山が開いているという感じである。そして熊本より南は、アムールプレートの押す力が下向きに働いているかのようにみえる。

 再度、右の人体の比喩を使えば、九州島の北半部は右手の上腕部にあたろうか。そこを外側と内側から強く押されて、熊本の辺りで割れ目が入りそうになっているという感じである。しかも、手首より先は外側から強い圧力をうけておされている。それは地名でいえば、ちょうど熊本と鹿児島の県境、昔の地名を使えば肥後国と薩摩国の国堺あたりにあたる。熊本地震は、この下腕の手首に近い部分が傷ついたということになる。

 素人の比喩では仕方ないとは思うが、ともかく、このような形で、剛体としての日本列島は太平洋・アムール・フィリピンなどのプレートの動きによって、列島中軸部、中央構造線に大きな緊張が走っているのであって、現在は、東北沖海溝大地震によって列島には強い緊張が走っており、熊本地震は、そういう状況のなかで起こったのである。

 (以下、続く)

2016年4月22日 (金)

サンダース。民主党ニューヨーク予備選敗北の弁

 ジョー・バイデンが昨日(木曜)のニューヨーク・タイムズのインタビューで、サンダースを支持するかのような発言をしたようである(PLITICOから)。日本のジャーナリズムは、依然としてサンダースについて活発な報道はせず、ニューヨークですべて決まったかのような報道が目立つが、現実には、サンダースの行動がアメリカで大きな波になっていることを示している。以下、翻訳して、引用しておく。


 ジョー・バイデン副大統領はアメリカは初の女性大統領をもつ準備ができていると思っているが、この民主党の大統領予備選挙では、彼はヒラリー・クリントンのものよりバーニー・サンダースのメッセージを好むようだ。
「私は、”We dan。我々ができるということは、さらにその先へ行けるということだという考え方が好きだ」と、バイデンは木曜日に発表されるインタビューにおいてニューヨークタイムズに話した。
クリントンは、いうまでもなくオバマのキャビネットに属していた人物だが、彼女は、サンダースの大胆な提案について、そういう政策は実際的でないとして、サンダーズを非難した。
“私は、これまで勝利した民主党候補が「我々それは話しが大きすぎる。我々はここで小さく考えよう。なぜならそれは実際的でないから」などといったのは聞いたことがない」とバイデンは言った。
「やってみよう。民主党なんだから!
でもできないよ、なんていう政治には参加できない」。
バイデンは、彼とバラク・オバマ大統領は予備選挙で誰かを支持しようというプランをもたないといっていたし、さらにつけくわえて、正副大統領というものは、成功する目のないことは押さないもので、そんなことをしたら、あるべき権威というものが曖昧になってしまうといっていた。
“Iは、(クリントンのいうような)考え方にはまったく賛同できない。
大事なことは何でも時間がかかる。もちろん、オバマ大統領が見事に突破したオバマ・ケアへの道のような例外はあるが、“はI’veがこれまでに心配したすべてです?president’sを除いて入手可能な世話の素晴らしい一節が行うこと?時間がかかります。
大規模な仕事を実現する唯一の道は、それを議論することだ。


Nyuyoku


 この図は Believe In Bernie(@ND4Bernie )からとったものだが、サンダースはニューヨークで敗北したが、まだまだ勝機はあると主張している。図をみれば明らかだが、代議員の数の差は237で、まだ1400の代議員の選出が残っている。たしかに400を越える特別代議員がクリントンについているが、一般代議員だけからみると、クリントンを超える可能性は十分にある。左側の「青」と「茶色」の棒グラフで表されたニューヨークでの獲得代議員の差は、そのなかでは大きなものではないという主張である。

 アメリカの大統領選挙、さらには州議会、市議会などの選挙の制度はきわめて複雑なもので、なかなか理解しづらいが、アメリカ人が大統領選挙というものをどう感じているかを考える上でまず大事なのは、アメリカ大統領選挙が、オリンピックと同じように閏年に行われることなのかもしれない。

 英語で閏年はLeapYearというが、「Election Years are Leap Yearsーー選挙は閏年」というのがきまり言葉である。LeapYearというのは四年の間隔をLeap(跳ねる・飛びこえる)してやってくる年ということになる。LeapYearだけには女性からの結婚申し込みが許されるという話しもあって、変わった年というイメージらしい。またLeap dayというのは閏年の二月二九日のことで、スーパーマンは、この日に生まれたという都市伝説もある。ようするに閏年というのは話題の多い面白い年ということになる。

 アメリカ大統領選挙がかならず閏年に行われる理由は単純なものである。つまり、アメリカ大統領選挙の仕組みは、アメリカ独立戦争(1775一1781)の後、一七八八年に批准されたアメリカ合州国憲法で詳しく決められた。この憲法批准の年、一七八八年が閏年だったのである。そして、初代大統領ジョージ・ワシントンが大統領に就任したのが翌年四月だったのであるが、この憲法の第2条第1節(一項)は大統領の任期を四年と規定している。こうして、これをひきついで、アメリカの大統領は、閏年に選挙で決定され、四年ごとの閏年の翌年に任命されるということになった(現在は一月に就任式)。

 さらに、憲法には、四年の任期の途中で大統領が死去したなどの場合のために権限の強い副大統領を交代要員として同時に選挙するという仕組みが書かれている。たとえばシオドア・ルーズヴェルトや、近いところだとリンドン・B・ジョンソンなど、実際に、何人もの重要な大統領が副大統領から就任している。彼らの任期は前任の大統領の任期の残り分であり、それによって大統領を四年ごとの閏年に選ぶという慣習は忠実に維持されることになっている。この副大統領制も大統領の四年任期、閏年選出を前提にした制度的な工夫なのである。

 こうして、アメリカは、もう二五〇年以上、Election Years are Leap Yearsというやり方を通してきたのである。アメリカの文化には、ヨーロッパ宗教改革におけるカルヴァン派の影響の下で、一種の合理主義があるが、四年に一度に大統領を選挙するというやり方は、彼らの合理主義が「数にこだわる」という形であらわれたものなのかもしれない。大統領選挙の日程は閏年の一一月の第一月曜日の次の火曜日ときめられているのも面白い(今年二〇一六年の場合は一一月八日)。ともかくアメリカ人は、こういう大統領選挙の仕組みを自然なことだと感じてきた。

 大統領選挙でもうひとつ特徴的なのは、大統領候補の間での討論がもつ決定的な意味だろう。これも一種の合理主義ということができるだろうが、討論・ディベートの重視である。討論が下手であったり、ジョークがうまくない人間は大統領になれないという訳である。マスコミは、派手なテレビの宣伝と討論が繰り広げられて選挙一色になり、さらに最近ではインターネットの上で飛び交う情報の量はものすごいものに達している。アメリカ国民は、四年に一度、大統領選挙という「政治劇」に熱中するようにみえるのである。逆にいうと、アメリカ独特の大統領制は、こういう選挙を舞台装置とする劇場政治によって支えられているようにみえる。

 しかし、これは外から見ているとしばしば興ざめなもので、選挙制度の複雑さもあって、アメリカの内部で盛り上がっていても仕方ないではないかというのが、私などの、これまでの感じ方であった。けれども、今回のサンダースの動きは、明らかにそれを越えていて、明らかに一つの強力な社会運動となっている。

 とくに日本にとって問題なのは、これが日本の世論や社会運動と相互影響することであろう。選挙の過程で多くの人の意思を示そうという動きが一種の社会運動として展開するというのは、これまでの日本の政治ではなかなか見られなかったが、最近の「野党共闘」の動きはそういうもので、基本的な発想は日本とアメリカで共通しているように思えるのである。

 そういうように社会運動となった場合、選挙というのがしつこい動きになるかどうかがキーだろう。バーニーの自伝『アウトサイダーからホワイト・ハウスへ』(Outsider in the White House)を読むと、バーニーは選挙でギリギリまで粘り、少ない得票差で市長から下院議員・上院議員と階段を上っていったことがよくわかる。しつこさでは筋金入りである。 

 ニューヨークでの敗北は、サンダースにとって厳しいものであった。もちろん、実際には、サンダースへの支持が拡大している様子は、ほとんど他の州と変わりはない。実際にサンダースは郡部ではほとんど勝利しており、しばしば圧倒的な支持をえている。ただ、大きかったのは、ニューヨークの予備選の投票システムが厳しいことで、そのためニューヨークの人口の30%以上を占める独立無党派の人びとの意見がまったく反映しないことであった。民主党予備選のシステムでは、アメリカ50州のなかでも11州が、投票権を予備選選挙当日に付与することはできない、不在投票なしなどの制約をもっているが、ニュヨークは、そのなかでももっとも厳しく、党員登録を昨年の11月までにしていなければならないというものであった。しかも、投票場が時間通りに開かなかったり、投票機械機会が不調であったり、さらにもっとも政治的にアクティブなブルックリンで125,000ほどの投票者が民主党登録をしてあるにもかかわらず投票権者リストにのっていなかったり、などの不祥事が頻発した。

 そういう事情はあったにしても、このニューヨークでの敗北によって、サンダースが、7月の民主党大会で大統領候補に選出される可能性は極小化し、減少したことは明らかである。

 しかし、ここまでくれば、サンダースとその支持者が撤退することは考えられない。下に、サンダースのニューヨーク敗北の弁を引用したが、「現在までに至るこの11ヶ月半の選挙戦は、非常に長い道のりだった。初期には世論調査で60%から65%近くも離されていたが、最近の世論調査では、私たちがリードするような結果も出て来ている。現在勢いがあるのは私たちだと信じているし、勝利への道筋はあると確信している」という訳である。

 選挙というのは、人びとが、一度、方向を決めて、大規模に動きだせば、しつこい動きになるものだと思う。それはようするに、進み具合が数で分かるからだろう。アメリカのツイッターをみていると、アメリカの人びとの数へのこだわりは、ネットワークの拡大によって独特な形で強まっているように思える。みんなが、数の計算を始めているのである。

 以下がサンダースのニューヨーク敗北の弁である。なかなか感じのよいもので、実際にお聞きになることを御勧めする(https://youtu.be/HXWXJshFqqc。私には、バーニーのしゃがれ声の談話を聞き取る能力はないので、家族の助けをえた。翻訳も。ありがとう)。


Today, we took Secretary Clinton on in our own state of New York and we lost.
I congratulate Secretary Clinton on her victory.
Next week, we will be competing in Pennsylvania, Connecticut, Rhode Island ,Maryland and Delaware.
And we look forward to winning a number of those states.

Over the last 11 and half months,this campaign has come a very, very long way.
We started off 60-65 percent points behind in the polls.
A few recent polls actually had us in the lead.
We believe we have the momentum and we believe we have a path toward victory.

While I congratulate Secretary Clinton, I must say that I am really concerned about the conduct of the voting process in New York state, and I hope that that process will change in the future. And I’m not alone about my concerns. The comptroller of the City of New York talked today about voter irregularities and about chaos at the polling places. As did the mayor of the city of New York, Mayor de Blasio.
I remain also concerned that in the state as large as New York, almost 30% of the eligible voters, some 3,000,000 New Yorkes were unable to vote today because they have registered as Independents, not Democrats or Republicans.
And that doesn't make sense at all to me.
People should have the right to participate in a primary and vote for their candidate of the president of the United States.

So, we lost the night, there are 5 primaries on newt week.
We think we're going to do well and we have a path toward victory which we are going to fight to maintain.
So thank you all very much for being here.

 今日、私たちは私たちの州、ニューヨークでクリントン長官を相手に闘ったが、敗北という結果だった。勝利を収めたクリントン長官にはおめでとうと言いたい。

 来週にはペンシルベニア、コネチカット、ロードアイランド、メリーランド、デラウェアで予備選があり、それらの州において複数の勝利を勝ち取る事を期待している。

 現在までに至るこの11ヶ月半の選挙戦は、非常に長い道のりだった。初期には世論調査で60%から65%近くも離されていたが、最近の世論調査では、私たちがリードするような結果も出て来ている。現在勢いがあるのは私たちだと信じているし、勝利への道筋はあると確信している。
.
 クリントン長官には祝福を送るが、同時にニューヨーク州での投票の運営に関して懸念を抱いていることは述べておかねばならない。投票方法が将来は改善されることに期待しているが、このことについて懸念を抱いているのは私だけではない。ニューヨーク市の監査者も今日、投票者の不公平と投票所での混乱について語った。ニューヨーク市長、デブラシオ市長も同じである。

 私はまたニューヨークのような大きな州において、有権者の30%近くにあたる、300万人のニューヨーカーが共和党や民主党ではなく独立無党派として登録しているために投票が出来ない、という事態に懸念を抱き続ける。私にはこのことは全く納得出来ない。人々は合衆国大統領の候補者を選ぶ予備選に参加し、投票する権利を持つべきだ。

今夜私たちは勝つことが出来なかったが、来週には5つの予備選が待っている。よい結果を収められると考えているし、勝利への道筋から外れることないよう闘い続けたい。
今日は集まってくれてどうもありがとう。

       

2016年4月21日 (木)

火山地震107「安全神話」という神を蔑する言葉の使用は避けたい

 「大地動乱の時代」、9世紀にこの列島に棲んでいた人々は、確実に、列島の国土全体を意識させられたはずである。それは、二〇一一年に東日本太平洋岸地震、そしてそれにともなう原発震災を経験した私たちと同じことではないだろうか。そう考えると、当時の人々のもっていた神話的な国土意識・国土観を「非科学的」とだけいっているのは正しくない。現在、福島 第一原発の事故の後に、しばしば「安全神話」という曖昧な言葉が使われることがある。しかし、これは「神話」という言葉の誤用ではないだろうか。

  「安全神 話」という言葉を使うことは、実際上、日本の財界と政・官・学の中枢部が「安全宣伝」を系統的に行ってきたという不都合な事実から目をそむけさせる効果を もっていると思う。 歴史学は、こういう「天を蔑する」用語法に賛成することはできない。

 歴史学は、現代神話学に依拠し て、現在においても、神話は一つの歴史的な内省の素材となりうることを積極的に主張しなければならない。もちろん、記紀にまとめられ た 形での日本神話は政治性が強い一つの創作物であることは津田左右吉が明瞭に述べた通りである。

  しかし、他方で記紀に反映した民間神話について、津田は逆にその時代なりの「合理性」があったことを強く主張した。それが津田と本居宣長などとの決定的な相違点である。「雷電・地震・噴火」という三位一体の自然神話は、明らかにその意味における経験的な合理性をもっていた。

 我々の祖先 は、それを一つの認識のツールとして、地の底をはうようにして、彼らの「大地動乱の時代」を乗り切ってきたのである。それを尊重することは、この国土に棲むものとして自然なことであると思う(『歴史のなかの大地動乱』あとがき)。安全神話という言葉自体をやめたい

 以下は、東京大学大学院人文科学研究科、死生学・応用倫理センター編『死生学・応用倫理研究』の20号(2015年)掲載のもの。同センター主宰の国際シンポジウム「災害が遺したものーー語り継ぐ記憶と備える文化」での報告。奈良・平安時代の地震と神話・説話の問題についての概説となっている。


地震の神話と地震の記憶ーー奈良・平安時代の地震にふれて
 はじめに
 東日本大震災の後に「安全神話」という言葉を聞きます。日本社会では、決定的な問題の修飾語として宗教的な意味をもった言葉が使われることがあります。たとえば第二次大戦の敗戦後に使われた「一億総懺悔」という言葉、「国民みんなが悪かった」という言葉です。懺悔というのは宗教(仏教)的にはきわめて重要な言葉で、こういう場合につかっていいのかには疑問がありますが、原発の「安全神話」という言葉は、それと同じように事態の経過や責任を曖昧にする力をもつものとして流通しているように思います。人々は原発事故について怒り、批判する場合も、まずそれを神話のように信じ込まされていたことに驚き、そこに自分たちの反省を重ねようとしているようにみえます。そこにはさまざまな意味があるでしょう。しかし、私は、こういう問題に進んで神話という言葉を適用したマスコミの感性を信頼できません。

 それはさておき、こういう一種の愚直ともみえる反省のあり方は、あるいは「無宗教」といわれる、この列島に棲む人々の意識のあり方に関係するのでしょうか。ただ歴史学者として考えるのは、まずはこのような言葉使いは、人々にとって「神話」というものが他人事であり、神話が文化の外に存在していることを示すのではないかということです。もちろん、このような文化の非神話化には理由がありました。つまり、第二次世界大戦を引き起こした日本の天皇制国家が、皇国史観といわれる神話イデオロギーによっておおわれていたという事情です。その解体が日本社会から文化としての神話を一掃してしまった訳です。そして、「戦後社会」の支配的な潮流としては、そこから今回の「安全神話」という用語法まで、ある意味では一直線であったように感じます。もちろん、だからといって「戦後派」の思想や学芸の位置をおとしめようというのではありません。しかし、私は、ここには前近代の歴史の記憶の軽視があるように思うのです。

地震火山神話 
 『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で基本的な説明をしたことですが、日本の神話の基本には地震・噴火神話がありました。つまり、列島を生んだといわれる女神、イザナミは火の神を出産した時、大やけどをおって死去します。それを悲しんだ父神イザナキは「根の鍛すの国」に妻を訪問し、妻の精気を身にまといつかせて生き返り、海岸で禊ぎをして穢を放出します。その時に、まず大禍津日神(穢神)が身体をおおう汚れから生まれ、その後に、左目からアマテラス(日神)、右目からツキヨミ(月神)、そして鼻からスサノヲが生まれました。スサノヲは、根の国の死の穢を残す部位、つまり鼻から生まれた神であって、その意味ではもっとも穢れた神であって、そのような神として、穢を受け入れる海を象徴する神となったということになります。

 「穢」というのは、神話では人間のエネルギーそれ自体が生み出すものと考えられていて、けっして単にマイナスのものではありません。この穢を海の神が受け入れ、そこから何かが生まれるというのは、福島原発の放射能汚染水が海に放出されていることを考えますと、非常に不思議な気持ちになりますが、それはさておいて、スサノヲは、母神のいる「根の国」を恋い慕って哭き叫びます。そして姉のアマテラスを慕って高天の原に駆け上がるのですが、そのとき「山川ことごとく動み、国土みな震りぬ」といわれているのが、彼が地震神であることの証拠です。これは、ギリシャ神話の海神ポセイドンが同時に地震神であるのと同じであることになります。

 さて、このスサノヲの性格を受け継いだのが、有名なオオナムチです。彼は、スサノヲの娘と気脈を通じて、スサノヲの許から、スサノヲの宝を盗んで逃げ出します。その宝でもっとも大事なものが、琴でした。オオナムチはそれを肩に担ぎますが、『古事記』には、その琴が「樹に払れて地動鳴みき」とあります。つまり、この琴は地震を起こす道具だったのです。スサノヲはオオナムチを追いかけますが、追いつけないと覚ると、娘との結婚をみとめ、「宝物を使って地上の王者となれ、大国主命と名乗れ」と呼びかけました。「オオナムチ」の「オオ」は大きいという意味、最後の「ムチ」は「貴」とも書いてノーブルという意味の修飾語ですから、この神の性格は、「ナ」という言葉にあらわれています。この「ナ」とは自然としての大地という意味です。これに対して、「オオクニヌシ」の「クニ」は領有された土地を意味します。つまり、オオナムチは地霊の神から、オオクニヌシとして人間界の王者となったということになります。

八・九世紀の大地動乱
 日本が本格的に文明化したのは八世紀、奈良時代のことでしたが、この時代には、まだまだ神話世界は生きていました。そして、問題は、八世紀・九世紀が列島にとって一つの大地動乱の時代であったことです。地震学者の一部には列島においてだいたい六〇〇~七〇〇年の地震の長周期性(スーパーサイクル)を考え、この時代、さらに一五〇〇年前後(室町時代)、そして現在を大地動乱の時代と考える議論があります。それが事実かどうかは、私にはわかりませんが、歴史の側から史料を点検してみると、地震や噴火が八・九世紀の社会史と深い関係をもっていることは一目瞭然です。そのうちもっとも重要なのは、七三四年に発生した河内大和地震でしょう。実は、この地震の五年前に、奈良時代政治史の行方を決めたといわれる長屋王事件が発生しています。長屋王は、時の天皇、聖武に血統的にはもっとも近い有力な王でしたが、反逆を理由として自死に追い込まれ、怨霊となりました。この河内大和地震で長屋王の父の高市皇子の王墓が崩壊したことは確実で、それもあって、この地震は長屋王の怨霊の引き起こしたものと考えられたらしいのです。聖武が「釈迦は地震を鎮める力をもつ」という華厳経の経文にひかれて、大仏の建造事業を展開したもっとも深い原因はここにあったのです。

 九世紀に入っても事態は同じでした。とくに今回の三・一一の地震とほぼ同じ規模をもっていたという八六九年の陸奥大地震・大津波は、やはり伴善男という貴族が、応天門事件で追放されて、死去した翌年でした。この伴善男もやはり怨霊となって地震を引き起こしていたと考えられていたらしいのです。

 この時代は、そのしばらく前の八六四年には富士大噴火が起きており、その後、いわゆる関東大震災と同じ発震構造をもつとされる南関東地震が起き、さらに南海トラフの大地震が発生しています。これらの史料をみていますと、当時の人々は神話の神々がおそるべき怨霊に姿をかえて復活したと感じていたのではないかと思います。その恐怖は相当のものであったでしょう。

 私は、京都祇園社の祇園会の創始が、八六九年の陸奥大地震・大津波の直後と伝えられているのは、このような世情と関係していると考えています。祇園社の神、牛頭天王は陰陽道の神で、播磨国広峯社から移座してきた神ですが、問題は、この牛頭天王がスサノヲと同体とされることです。そもそも、広峯社の原型は播磨のスサノヲ社であったというのです。播磨は出雲とともに、スサノヲ・オオナムチ神話の重要な舞台ですが、この点で無視できないのは、祇園御霊会創始の前年に、播磨国で山崎断層という長い断層を震源として地震が発生し、その余波が京都に及んでいることです。そして、祇園社は、京都東部を南北に走り、近江朽木谷にのびる花折断層の直上に立っています。祇園は、いわば首都に設けられたスサノヲの神殿なのであって、地震神スサノヲは、播磨から地震とともに巨歩を運んだというのが人々の幻想だったのではないでしょうか。

 普通、御霊会は疫神、疫病の神を祭るものとされます。しかし、地震神と疫神は一体でした。たとえば九世紀に、在位中きわめて地震が多く、地震に呪われた王とでもいうべき文徳天皇という天皇がいます。彼のの墳墓を設営するための使が「地神」の集団に追われたという説話が残っているのですが、地霊は「千万の人の足音」のような地鳴りを発して後ろから追いかけてきて、異様な臭いのある熱風をふかせたといいます(『今昔物語集』)。ここには地震神が、同時に疫病をもたらすような風を吹かせるというイメージがあります。これはそもそもスサノヲが地震の神であると同時に、穢の神であった、つまり疫病の神であったことに対応しているといってよいでしょう。

地震・噴火・雷電の三位一体と龍。
 さて、日本の神話の中では、地震神は雷神・火山神とともに三位一体の関係をもっています。たとえば、七六四年、聖武天皇の娘の孝謙女帝が再即位した直後、大隅国の海で大噴火があり、その様子が「西方に声あり。雷に似て、雷にあらず」と伝えられています。それによって火山島が出現する様子は、神が「冶鋳」の仕業を営むようであるといわれています。そして、この神の名はオオナムチだったのです。ここからは、大地の神の力が雷音と地震、噴火の三位一体として受けとめられている様子がわかります。

 その中で、あたかもゼウスのように、神話の頂点に立つのが雷電です。つまり、落雷は地面を震動させます。そこで人々は落雷こそが地震の原因であると考えます。そして、火山噴火の際には火山雷が発生しますが、この火山雷も同じように山体を揺すって噴火を導くのだと想像したのは自然なことです。人々は、こうして地震や噴火という大地の不可思議な動きの原因をより日常的な落雷現象にひきつけて理解した訳です。

 そして、この大隅国の海底噴火の例で興味深いのは、オオナムチが「冶鋳」を営むといわれていることです。これはヴァルカンがVolcanoの下に棲むということでしょう。そもそもさきほど「根の鍛すの国」という言葉を紹介しましたが、「鍛す」とは、「鍛冶」の「鍛」、つまり火をつかって金属を打ち鍛え鋳造することをいいます。スサノヲやオオナムチはそこに棲む「冶鋳」の力をもつ巨神であったのです。平安時代末期の『中臣祓訓解』という史料になると、スサノヲの棲む「根国・底国」は「无間の大火の底なり」とされます。奈良時代・平安時代の人々が、大地の下には巨大な火があると考えていたことは確実です。人々は、人間のエネルギーによって発生した穢は、その地下の火の国に流れ込んでいき、浄化され、そしてあらためてエネルギーに転化していくと考えていたように思われます。

 我々は、いま、「根の鍛すの国」を地中のマグマの存在という形で認識しており、大小の地震が日本のどこで起きているかもネット情報として知っています。しかし、その知識が、どこまで人間と自然との関係に内在した知恵となっているか、実情を考えてみるとお寒いものがあります。少なくとも我々の世界観の中には核爆発による巨大な火が必要にして十分な形で位置づけられているということはできません。この点で、私たちは神話の時代の人々のもった世界観を馬鹿にしてはいけないと思います。

『宇津保物語』と『源氏物語』
 さて、日本の歴史学は、地震史の研究については、阪神大震災から東日本大震災までの現実の地震の動きに遅れをとってしまいました。これまで地震の歴史について人々に十分な文化的・歴史的な知識を提供できていなかったと思います。しかし、いま、歴史学は必死になって、この列島における地震や噴火の歴史の解明に取り組みはじめました。それは相当のスピードです。私は、その中で、以上のような地震火山神話についても考えておくことが重要であると思っているのですが、しかし、問題はさらに広がっていくことはいうまでもありません。これは、歴史学の今後に期待していただきたいことですが、問題の広がりを示す一つの例として、以下、平安時代の地震と社会の歴史について、最近考えたことを報告したいとと思います。

 さて、八・九世紀の地震・噴火活動のはげしさは一〇世紀に入っても変わりませんでした。九一五年には日本の有史最大といわれる十和田大噴火が起き、また九三八年の地震もはげしいもので、このために天慶に改元されました。改元の理由は地震と兵乱の予測にあったのですが、実際に地震の翌年に純友と将門の反乱が発生しました。朝廷が強い危機感に襲われたのは九世紀と変わらなかったと思います。

 日本文学の三田村雅子さんに教えていただいたのは、これが『宇津保物語』(俊陰)に描かれた地震のイメージに反映している可能性です。つまり、『宇津保物語』の主人公の清原俊陰はペルシャで天女から琴をあたえられて帰ってくるのですが、その琴は地震を引き起こし、山をくずし、大地を割る力をもっていたというのです。この琴の力によって、東国から上ってきた武士が、地面に沈んだという話題から『宇津保物語』が始まっているのはきわめて印象的です。ここにはスサノヲの琴のイメージが流れ込んでいるように思います。

 一一世紀に入ると、地震はしばらくおさまる様子をみせます。そのころ執筆された『源氏物語』には地震の記事は登場しません。しかし、たとえば有名な明石巻には、流罪で流されていた光源氏をめぐって、暴風雨や雷などの「あやしき物のさとし」があり、明石に津波を印象させるような大波が寄ってきたという興味深い記事があります。そして、その夜、光源氏の夢に父帝(桐壺帝)が地下世界から海に入り、そして明石の浜の渚に上って源氏を訪れたという訳です。桐壺帝は光源氏に対して、なぜこんなところにいるのか(なぜ流罪になっているのか)と問い、その足で現帝・冷泉帝を問いつめに上ったといいます。その結果、源氏は呼び返されたというのが物語の展開ですが、地下世界・海から上ってくる亡霊というのは、まさに、これまでみてきたような地霊スサノヲのイメージではないでしょうか。場所が播磨国であるのもきわめて示唆的です。紫式部は地震そのものを描くことはしなかったのですが、八世紀以来の王権と地震、「天変地異」の記憶を背景において物語を設定している可能性が高いのです。

 私が興味深いと思うのは、光源氏の愛人の夕顔が熱病に襲われて死ぬ場面に登場する疫病の神が後ろから足音をさせて追っかけてくると描かれていることです。これはさきほど紹介した文徳天皇の陵墓を設置する使者を襲った地震神と同じイメージであることは両方を読み比べてみるとよくわかります(参照、保立・三田村・河添房江、座談会「平安時代の天変地異と『源氏物語』、『天変地異と源氏物語』」翰林書房、二〇一三年六月)。

院政期の祇園社と地震
 『源氏物語』の執筆時期、さらにいえば、いわゆる摂関政治の盛期、道長・頼通の時期は、どちらかといえば地震が静穏な時代でした。その意味では、それはいわゆる「戦後」に似ていた時代であったのかもしれません。一一世紀の後半以降、つまり院政期には、ふたたび地震が活発になって、政治と社会に大きな影響をもたらすことになりました。

 その画期となったのは、後三条天皇の時代、一〇七〇年に祇園社が焼失した直後に「なゐ」があったことである。「なゐ」というのは地震のことですが、「な」はオオナムチの「な」と同じで大地という意味です。この地震は、スサノヲの神殿・祇園社の位置をふたたび前面に押し出しました。翌年八月には祇園天神が新造され、翌々年には、歴代の天皇でははじめて後三条天皇が祇園に行幸することになりました。

 そして、一〇九三年には京都で建物の倒壊する強い地震があり、続いて、五月には奈良の春日山の谷間に地震の地鳴りが響いたことが記録されています。これはちょうど、春日社の神人が近江国司とはげしい相論を行っていた最中であったため、神人たちは、地震を神の怒りを示すものであるとして京都にデモンストレーションをかけました。これが春日の神木が都に動座した最初の事件、いわゆる強訴の事件の最初です。同じようなことが、一〇九五年の地震でも起きて、比叡山の山僧が強訴に及び、ここで日吉社の神輿がはじめて京都に動座することになりました。

 この時代の政治史では、比叡山と春日社の強訴が大きな意味をもったことはよく知られていますが、その最初のキッカケが地震にあったことはもっと注目されてよいと思います。こういう騒然とした状況の中で、祇園の御霊会を場としてファナティックな大田楽の踊りが展開し、京都は騒然とした雰囲気になったのですが、このような政治状況が、一〇九六年の東海地震と一〇九九年の南海地震に重なっていきました。特に後者の南海トラフの大地震は、時の関白後二条師通の突然の死去と重なったことが重要です。。死んだ師通は比叡山=祇園の神罰をうけ、オオモノヌシ(=オオクニヌシ)が宿るという比叡山の牛尾山の岩盤の下に押し込められたという噂が広がっています。

平氏と祇園・福原・厳島瀬戸内の龍神信仰 
 『平家物語』には、平清盛は白河法皇が祇園社の入り口で見初めた町の女、祇園女御に生ませた落胤であるという一節があります。これもこの時代の祇園社の位置に関係している可能性が高いようです。
 清盛が、この祇園女御から生まれたというのは事実ではないと思われますが、清盛の父の平忠盛は白河院が祇園女御を中心に営んだハレムに奉仕する位置にいました。細かな事情は省略しますが、忠盛は、播磨国司であったときに、祇園社に荘園を寄進するなど祇園社に取り入っています。以降、播磨国は平家の勢力圏に入ります。忠盛は、この時、播磨守の地位を生かして祇園の本社にあたる広峯社との関係を強めたのではないかというのが、私の想定です。これは現在のところ推定に過ぎませんが、しかし、忠盛・清盛が祇園信仰に肩入れしたことは確実であると思います。

 清盛は厳島を信仰し、そこを平家の氏神にしたのですが、実は、厳島の神は、「沙羯羅竜王の第三の姫宮」といわれる女神です。そして、そもそも祇園の牛頭天王は沙渇羅龍王の娘の薩迦陀を妻としたとしたといわれていて、つまり祇園社と厳島は夫婦あるいは親族であるということになります。またこう考えますと、清盛の福原別荘が、神戸の山際から流れ出す天王川のすぐ上の祇園社を中心に営まれたことも重大な意味をもってくると思います。

 この点で、もう一つ確認しておきたいのは、平安時代に入ると、雷神・地震神・火山神がどれも龍と観念されていたことです。龍は水神であるとともに海の神・航海神でもあって、福原で清盛が、法華経千僧供養をして龍神を祭ったことは、それに関係している訳です。そもそも、牛頭天王も厳島女神も龍体をもつ神でした。この時代、祇園社と厳島神社につかえる人々は、平氏の勃興に並行する形で、連携しつつ龍神信仰を瀬戸内海に広めたと考えられる訳です。彼らが海の商人であったことはいうまでもありません。

 清盛は、この厳島を氏神とし、京都・福原・厳島を結んで、瀬戸内海に一種の海上王国ともいえるような王朝を樹立しようとしたということもできるでしょう。清盛は福原から厳島に月詣し、自分の娘の妊娠と男児誕生を祈祷し、その結果、安徳天皇が「祈り出された」というのは、この意味で無視できません。

 平氏政権は、一一八五年に壇ノ浦で滅亡します。その時、安徳は入水して死亡するのですが、安徳は、もともと龍であったから「海に沈ませ給ひぬる」「はてには海へ帰りぬる」という結果になったのは自然なことだということになります。そして、平家滅亡の半年後に、山城大和を襲った大地震が発生しますが、これも清盛が龍になって起こしたのだというのが、『愚管抄』の評価だったのです。この大地震は清盛の死霊が引き起こしたという訳です。
 金沢文庫には一三世紀頃に描かれた日本図が残っていますが、その絵では、日本列島を龍が取りまいているように描かれています。この国土観は、以上のような平安時代の経験に根づいているものと考えます。

おわりに

 以上、短い時間で、奈良時代から平安時代末期までの地震と神話・物語の紹介をしました。日本の歴史文化には地震が骨絡みになっている事情はご理解いただけたでしょうか。私は、歴史学がこのようなことを見のがしてきたことに驚いています。それは歴史学が、地震列島日本の人々が、実は、地震のことを一種のタブーにしてきたという状態を本格的に突破しようという見通しをもっていなかったことを示すといわれてもやむをえないでしょう。そして、三・一一の後になってみると、これを解き明かすことが、歴史学にとっての一つの社会的な責務であることは明らかであると考えています。

 さて、最後にふれた一一八五年の大地震は『方丈記』に描かれて著名なものです。私は、様々な理由から、この「海は傾きて陸地をひたせり」といわれた津波は若狭で発生したものである可能性が高いと考えています(保立道久「平安時代末期の地震と龍神信仰」『歴史評論』七五〇号、二〇一二年一〇月)。若狭にどのような津波が来たかについては、まだ歴史地震学の側で確定的な議論はないように考えますが、若狭湾の原発のことを考えるまでもなく、この問題は歴史学の現代的な責任にも関わってくると考えています。このような問題をふくめて、学術世界は、この列島に人類が住み続けるための知恵のあり方を省察し、人文社会科学・自然科学の境界をこえて一致した声をあげることを期待されているのだと思います。

 以上の簡単な素描は、倉卒の間にまとめたものですが、これをもって地震と災害の死者を念頭において「語り継ぐ記憶と備える文化」を考えるという論題にお応えしたいと思います。たしかに、この列島の住人は、過去の記憶の宝庫を点検してみる必要があるのではないでしょうか。そして、冒頭に述べたことに戻ると、その際、私たちの自然観が神話的な自然観と比べても、あまりに粗雑で、分節化して、世界観としての統一性を失っていることを自覚すべきではないでしょうか。その意味でも「安全神話」という言葉の使用を止めることができないだろうかと考えるものです。

2016年4月17日 (日)

火山地震106地震は韓半島にも波及するか

 この図は、今日のH-netからコピーした、ここ30日間の西日本の地震の発生状況を示した図です。
Hnet

 注目されるのは、熊本のはるか西、甑島諸島の西にみえる海底地震の群発の様子で、これは真っ赤にそまっている地震のラインの少し南に位置する中央構造線を延長した線の、ちょうど北側に位置し、大分→熊本とつづく地震の群発帯の延長の上にあるようにみえます。

 この真っ赤な部分は、プレートクトニクスの専門家の新妻信明氏のブログ、Niitsuma-GeoLab.netによれば、沖縄トラフが九州に近付いて二股に分れたうちの北側の部分にあたり、琉球の弓状島弧と東シナ海大陸棚の間にある浅い海溝であるということです。ここで昨年、2015年11月14日にM7.1+nt(14km)の地震が起き、それ以降、地震の群発が続いているということです(Niitsuma-GeoLab.net。2015年12月20日発行記事)。

 もちろん、この沖縄トラフの状態が、熊本地震に何らかの形で関係しているのか、また、この地帯が中央構造線の延長部分の北に位置していることに意味はあるのか、あるいは九州西部地域に想定されているというマントル上昇と関係するのかなどの問題は、理科に弱い、歴史家の私にはわかることではありません。

 そもそも、熊本地震に中央構造線の影響があるかどうか、その場合の中央構造線の動き方はどう理解できるのかということ自体、地震学や地質学の立場からの議論が行われている最中で、それに期待するほかありません。私は日本列島の弓状弧が、東北沖海溝大地震によってその北半で弓を垂直にするかのように東に引かれており、その緊張が列島の軸線ーー中央構造線を緊張させているなどと説明しましたが、これはイメージ的な言い方にすぎません。

 それらのすべては、地球科学の研究者におしえていただくほかない問題ですが、偶然、私は伊藤谷生氏の論文「地殻災害軽減の基礎を担う地質学;震源断層解明作業への寄与」(『地殻災害の軽減と学術・教育』学術会議叢書、2016年)を読んでいました。そこで述べられている別府湾と中央構造線についての研究状況の紹介を読むと、ここ20年ほどで相当程度まで詳しいことがわかりつつあり、日本の地球科学が確かに「地殻災害軽減の基礎を担う」実力をもちはじめていることだけは分かりました。

 私も、「地殻災害(地震・噴火)の予知と学術」という文章をかいていますが、(私の文章は別として)この本を読んでいると、この地震火山列島に棲み続ける営為というものはどういうものなのか、そこで学術がどう希望を語ることができるかということを考えさせられます。ツイッターやジャーナリズムの熊本地震についての論評を読んでいると、地球科学の研究進展の状況をまだるっこしいという見方が多いように思いますが、しかし、そう強く感じられる場合は、ぜひ手にとっていただければと思います。たしかにむずかしい本ですが、地震学・火山学・地質学・地理学・歴史学(文献・考古)・災害科学(防災学)など全体の研究状況をみるためには、当面、この本しかないように思います。

 論題をもどしますと、この沖縄トラフ北端の様子からすると、熊本地震は非常に広い地域の動きに関わっているように思えます。そう考えるのは、9世紀と15世紀に起きた東北沖海溝大地震・大津波の後、どちらの場合も、韓半島で地震や火山噴火が活発になっているからです。これは21世紀に発生した3、11東北沖海溝大地震の後にもいえることかもしれないと思うのです。その根拠は過去もそうだったからというにすぎず、確定的なことではありません。歴史学者としていえるのは、韓半島に波及することは50年あるいは100年さきかも知れず、あるいは5年先かもしれず、1年ほどで来るかもしれない。ともかく過去の事例によれば、そういう可能性があるということにすぎません。しかし、その過去の情報を急ぎ提供するのも歴史学者の仕事であろうと思うのです。

 さて、まず、9世紀の東北沖海溝大地震の後の経過を説明しますと、富士が噴火して、現在の青木原樹海の溶岩をあふれさせた後、しばらく経って、八六九年(貞観一一)五月に陸奥沖海溝地震が起きました。そして、その後、約二月経って、肥後国において相当の規模(M七.〇以上?)をもつ誘発地震が起きています(なお拙著ではただの地震としましたが、これは津波地震であったかもしれません)。問題は、朝鮮の史書『三国史記』によれば、その九ヶ月後、八七〇年四月に新羅の王都慶州で地震が起きていることです。さらに八七二年四月には同じく王都・慶州で、また八七五年二月には王都および東部で地震が発生していることも注意されます。

 日本列島と比較して韓半島には地震は多くありませんが、実は、この時期は韓半島でも地震の活発期でした。とくに大きな影響をあたえたのは、新羅の恵恭王を退位させるという結果をまねいた8世紀後半の地震です。まず七七七年の地震では、それを王の失政によるものとした高官の金良相がきびしい批判の上奏文を提出しています。恵恭王の下で国家の綱紀が乱れ、天変地異が現れたというのが『三国史記』の説明です。そして、金良相の上奏文が提出された翌々年、七七九年に王都に死者百余人を出す大地震が発生し、これをきっかけとして翌年に王都で反乱が起こり、恵恭王は王妃とともに殺害されました。この地震の衝撃が大きかったことは、次の王が即位にあたって地震の神を祭ったと伝えられていることに明らかです。詳しくは拙著『歴史のなかの大地動乱』を参照願いたいと思いますが、地震が政治問題化するという点で、この時期の日本と新羅は同じような政治史をもっていたのです。

 これまでの歴史地震研究では、八・九世紀に日本列島と韓半島をほぼ同時に地震が襲ったことは、(知る限りでは)注目されたことはありません。しかし、ここには大規模地震にともなう地震の東アジア全域での広域的な誘発あるいは連動という問題があるのではないでしょうか。

 そして、このような地震活動の広域展開と関連があるのではないかと想定されるのが、陸奥沖海溝地震の約五〇年後、九一五年に秋田県十和田カルデラが噴火し、それに引き続いて、九四六年に朝鮮の長白山脈の白頭山が大噴火したことです。つまり、まず十和田カルデラの噴火は、有史以来、日本で最大規模の噴火であったといわれるもので、実際、東北地方から北海道にかけて、十和田カルデラの火山灰を広汎に確認することができます。そもそも十和田湖は、火山噴火に由来するカルデラ湖なのです。また白頭山の噴火は、さらに大規模なもので、過去二〇〇〇年間のうちで世界最大の規模の噴火です。その被害はすさまじいもので、二〇〇㌔先まで火砕流を氾濫させたことはよく知られています。「東海の盛国」といわれて、この地域で繁栄していた渤海という国家は、すでに九二六年に滅亡していましたが、この噴火は、その滅亡のだめ押しとなった訳です。この時の大噴煙柱は世界の気候にも大きな影響をあたえたはずで、噴出したアルカリ岩質の火山灰は、日本にも大量に飛来し、青森県から北海道の全域で十和田カルデラの直上に層をなしているのが発見されています。

 問題は、15世紀にも、同じように、東北アジアの広い範囲で地震や噴火が活発化したことです。しかも、その様子は、8・9世紀よりも明瞭です。

 つまり、九世紀陸奥沖津波の約六〇〇年後、室町時代、一四五四年(享徳三)に大規模な東北沖海溝大地震・津波が発生しました。この東北沖海溝大地震・津波は、「王代記」という山梨県に残る地域の年代記(一五二四年(大永四)頃に成立)に「十一月廿三、夜半ニ天地震動。奥州ニ津波入テ、山の奧百里入テ、カヘリニ、人多取ル」と記録されているものです。この室町時代の東北沖海溝大地震・津波は、右の「王代記」に、「山の奧」に「百里」入ったとあることからすると、おそらく九世紀の陸奥沖津波と似た規模をもったものではないかと考えられています。現在、地震学の地質調査によって、仙台・石巻平野に九世紀の津波の痕跡と推定される砂層が発見されていますが、そこでは一四世紀頃の津波痕跡の砂層も確認されているといいます。右の「王代記」に記された津波は一五世紀半ばですから、若干の時間差があって、今後の精査が必要ですが、あるいはこの津波が上記の砂層を残した可能性もあるようです。

 そして、この室町時代の東北沖海溝大地震の後に、韓半島で発生した地震は大地震となりました。この東北沖海溝大地震は、西暦でいうと、一四五四年一二月二一日にあたりますが、『朝鮮王朝実録』によると、その約一月後、西暦一四五五年一月二四日(朝鮮王朝暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでました。また注意しておきたいのは、この六年前、西暦一四四九年(宝徳一)に、対馬で地震が発生したという記録もあることです。一五世紀の東北沖海溝大地震・津波は、九世紀のそれよりも明瞭に韓半島南部の地震と連動しているようにみえます。

 このように、15世紀から18世紀にかけて日本列島でも韓半島でも地震の活発期であったことについては、すでに地震学の茂木清夫が、一五世紀から一七世紀にかけてを東北アジアにおける地震の「広域的活動期」と規定しています。茂木が日本列島、朝鮮半島、中国大陸東北部がほぼ東西の同一線上に配列されていることを重視し、このような広域的な活動期の存在それ自体が「剛体プレート説を地震学の立場から支持するものといえよう」としているのは興味深いことです。

 そして、茂木の議論は、同じく地震学の大内徹によって「Korea地域の地震・火山活動と東アジアのテクトニクス」(2002年)という論文においてさらに敷衍されています。以下に一部を引用します。

 「現在のKorea域の地震活動は日本にくらべてずっと低い。しかし、歴史的には地震活動は16~17世紀を中心としてかなり活発な活動もあり、大きな被害地震も発生している。地震活動が3~4世紀の間に集中して起こるといった非常に特異な起こり方をしている。(中略)火山活動に関してはAD1700年頃のKorea北辺の白頭山の活動はよく知られている。この白頭山の噴火は、この地域の地震活動期と同時期であり、日本の元禄地震と富士山の噴火ともリンクしている」

 以上のように、8~10世紀頃と15~18世紀頃の日本列島と韓半島の地震活発期・噴火活発期を呼び起こす中心に、日本列島における東北沖海溝大地震があったようにみえるのです。
 
 これが事実かどうかは、今後の東アジアの地球科学者たちの協同的研究に期待するほかありませんが、熊本地震の様相、そして沖縄トラフ北端の地震群発の状況をみていると、この問題を解明し、そしてそれを東北アジアに棲む人類が共通の常識として確保することはきわめて重要だと思われるのです。ユーラシア東端に位置する諸民族は地球史という、長期的な視野のもとではしばしば共通する運命に置かれることは明らかです。「人類みな兄弟」ということですが、私たちの民族も、そのなかで悠久の歴史を発見し、実感していく必要があると思うのです。

 ともかく、これ以上、地震が広がらないことを望むのみですが、それにしても、阿蘇神社の社殿の崩壊はショックです。下記に、拙著『歴史のなかの大地動乱』の阿蘇社についてふれた部分を引用しておきますが、歴史家として考えるべき事の多さを実感します。

 (『隋書』倭国伝に載せられた阿蘇山の記事について)そこには阿蘇山の巌石から火が立ち上り、天に接している。人々はこれを神異のこととみて「禱祭」を行っているとある。『隋書』は六三六年には成立していたから、それ以前、たとえば有名な聖徳太子の遣隋使の頃には大陸に阿蘇火山のことが伝わっていたことになる。これが日本列島における最古の火山史料であり、それが外国からみた日本の特徴として残されていることが注目される。
 この阿蘇山の「禱祭」の内容がどのようなものであったかはわからない。ただ、考古学の北條芳隆の教示によれば、たとえば埼玉県の稲荷山では後円部の頂上から富士山頂をまっすぐに見通すことができるといい、また有名な吉野ヶ里遺跡では、主要遺構が火山・雲仙に対して直線に配置されているというから、今後の火山考古学の研究によって火山祭祀の遺構が確定される可能性はあるだろう。また、すでに指摘されていることとして、阿蘇カルデラの外輪山や宇土半島に分布するのピンク色の溶結凝灰岩が、五世紀のころ畿内の古墳の石棺にしばしば利用された事実がある。この「灰石」と呼ばれた石材は軟らかく細工しやすいというが、古墳石棺への利用は、たんに加工しやすいためだけではなかったろう。ここでは『肥後国風土記』が、阿蘇山の頂上の「霊しき沼」「神宮」の周囲に「石壁」の「垣」があるとしていることに留意したい。つまり、火山頂上には威力ある神が「神宮」を営んでいたと考えられていたのであり、阿蘇灰石は、この「神宮」を囲んで立つ「石壁」と似た石材だからこそ尊重されたのではないだろうか。古墳もある種の「神宮」であるから、その石室に阿蘇の石材がふさわしいものと考えられたのではないだろうか。いずれにせよ阿蘇の「禱祭」の由来は、相当に古くにさかのぼるものとみられるのである。

2016年4月16日 (土)

地震火山105、九世紀には奈良でも地震

9世紀の地震誘発(東北→奈良→熊本)の構造と中央構造線
Kumamoto2012nen

 この図(HIーNET)は2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震の翌年(2012年)一月末から二月末にかけての近畿地方から九州熊本にかけての地震の発生状況である。3,11から一年経っても、余震・誘発地震が衰えていない様子が明瞭であるが、熊本の地域と紀州や京都、そして奈良南部にも小さな地震が群発していることに注意されたい。

 歴史地震研究をはじめてから、こういう図をよく見るようになったが、まさに列島の大地は、毎月毎月、動いているのだと思う。

 14日~一六日の熊本地震は、2011年3,11の東北地方太平洋沖地震(M9)からちょうど5年後である。熊本地震は広い意味では東北地方太平洋沖地震によって誘発された側面があると考える。上記のような列島の地殻の連続的な動きのなかで、それをどう位置づけるかは、地震学の議論をまたねばならないが、ともかく、5年をおいた二つの地震に何らかの連関性をみることができるのは確実であろう。

 3,11でもっとも東に動いた牡鹿半島の平行移動距離はだいた6メートル。それ以降、毎年10センチづつ東に動いているという。日本列島の弓状弧には、その北半で弓を垂直にそらせる方向に巨大な力が働いており、それが列島の軸線である中央構造線を緊張させているのではないかということになる。素人の想定をしていても仕方ないとは思うが、ともかく、太平洋・アムール・フィリピンなどのプレートの動きだけでなく、中央構造線にかかっている緊張を精細にみなければならないことは事実ではないかと思う。

 以下、これに関係して、9世紀の東北地方太平洋沖地震(奥州地震津波、M9、869年)の直後におきた大和国地震について述べたい。

 簡単に説明すると、869年東北沖海溝大地震の直後、2ヶ月後に大和国と肥後国(つまり熊本)で地震が連続的に起きた。後者の熊本地震については一昨日も述べたので、ここでは前者の大和国(奈良県)地震のみを取り上げるが、『三代実録』によれば、7月7日に京都で有感地震があった。

 そして、翌日、奈良で「大和国十市郡椋橋山河岸崩裂。高二丈(6㍍)、深一丈二尺。其中有鏡一、広一尺七寸、採而献之」(『三代実録』)という事態が発見されたことである。つまり、大和国の椋橋山の麓を通る川の川岸で地割れ(「崩裂」)が発生した。その断層の高さは二丈、というから約6メートルの断層(逆断層?)ということになり、相当の活動である。高さ二丈の地割れというだけならば土砂崩れとも考えられるが、深さ一丈二尺の陥没がともなうことからして断層であることは確実である。それ故に、この記事は『大日地震史料』にも採録されているのたが、私は、これを、前日、京都で体感された地震によって発生したものと推定した(当ブログ、2011年3月27日)。

 もちろん、『三代実録』に明記されている訳ではないが、私は、地割れをもたらすような地震が7月7日に大和国であって、それが京都で感じられたというように、この史料を読んだのである。

 この当否についての御意見はまだ地震学の側からの意見をいただいていないが、ブログでは、この大和国地震は、「おそらくマグニチュード6は越えて、7に近かったであろう。どの程度かは別として地震が活発化していることは事実であるから、3,11を経験した今、(奈良においても)各地で注意が必要なことはいえるだろうと思う」と述べた。

 熊本地震が大分まで震源を移しているとはいっても、近畿地方まで地震に襲われることはないだろうとは思うが、16世紀末の大地震が中央構造線を大分から京都まで動いた例はあるから、注意しておくに越したことはないのかもしれない。

 つまり、問題は、この椋橋の地は南にぬければすぐ中央構造帯であることである。そして、『<新編>日本の活断層』(東京大学出版会、1991年)によれは、椋橋の地は、奈良盆地東縁を南北に走る奈良盆地東縁断層帯のちょうど延長線上にあたる。しかもこの地帯には「活断層の疑いのあるリニアメント」(Lineament、直線的な模様にみえる地形)が名張断層の延長線上に東北東から西南西に通っており、椋橋の地は両方がまじわる地点である。

 そして、山を西に一つ越えた飛鳥の高松塚の西、壺坂山周辺では1952年7月18日にマグニチュード6,8の地震が起きている。そして飛鳥では、斉明天皇が築いた酒船石の遺跡をめぐる石垣の一部が達磨落としのように一気に崩れ落ちており、それは六八四年の南海地震によるものとされている。また明日香村カヅマヤマ古墳の石室がおそらく一三六一年の南海地震によって、その南半を崩壊させている。さらに高松塚の西、壺坂山周辺では一九五二年七月一八日にM六.八の地震が起きている。これらの事例からすると、おそらくこの九世紀の地震も、M六はあったと考えられよう。ようするに飛鳥一帯は地震地帯なのであって、これが日本の神話に地震神話が含まれていることの重要な条件であったのではないかとも思われるのである(詳細は、拙著『歴史のなかの大地動乱』岩波新書を参照)。
 
 以上がもし認められるとすると、9世紀の東北沖海溝大地震も、2ヶ月後、7月7日と7月14日に、大和国と肥後国(つまり熊本)で連続的に地震を誘発したということになる。それは16世紀末の豊後地震、伏見自身のような激しい中央構造線上の連鎖的地震とはならなかったが、ともかく9世紀にも中央構造線がらみで短時間の間に列島の地殻に緊張が走ったということはいえるのではないかということになる。

 繰り返すと、869年の東北沖海溝大地震が二ヶ月後に奈良と熊本の地震の連続的に誘発したということは、列島北半の弓状弧が東北沖海溝大地震によって東に引かれたことが、列島の中軸の緊張を強め、中央構造線の動きを誘発したことを意味するのではないかというのが私見である。
 
 以上の推定は、地震学者の方々の検証はまだうけていない。3,11の後、科学技術学術審議会地震火山部会の専門部会の委員をつとめたこともあって、地震学の方々にいろいろ御教示をうける機会は多かったが、私も、これについての評価をお聞きしたことはなかった。それ故に、この推定が、どの程度の妥当性をもつかは割り引いて考えていただきたい。

 私としては、3,11の東北沖海溝大地震の衝撃のなかであわてて考え、無理して執筆したものであるだけに不十分な点が多いことを認めざるをえないのである。実際、この時代を専攻している歴史の研究者からの評価は(何人かの、すでに災害史に取り組んでいた方をのぞいて)ほとんどなく、おそらく多くは芳しくないものであったようである。しかし、私としては、3,11まで「古代史」にはまったく地震と噴火の研究がなかったという状況のなかで、地震学と対話する手がかりのようなものを作れたとは考えている。
 
 幸い、「地震・火山噴火予知研究協議会」(事務局、東京大学地震研究所)が、前記委員会の策定した「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画」にもとづいて、活動を開始している。そこにはほとんどはじめて「史料・考古」部会も設けられた。そのなかで、本格的・実質的な討議が展開するに違いないと思う。

 しかし、熊本地震の状況をみていると、現実の地殻の運動に遅れないように、研究を急がなければならないということを痛感するところである。

火山地震104熊本地震と16世紀末の中央構造線連鎖地震


 4月14日~16日の熊本地震が大分に及んだということは、地震学者・火山学者の一部でも、中央構造線が何らかの形で動いて誘発されているのではないかという意見があるようである。ここでは3,11東北沖海溝大地震との関係で、歴史地震学を少し学んだものとして、情報提供をしてみたい。

 3,11東北沖海溝大地震に続く地殻変動は数十年は続くといわれ、列島北半の弓状弧は東にずれていっている(地震時に牡鹿半島は一挙に5,3メートル東に移動したといいい、その後も一年に10センチほどずれているといわれる)。

 首都直下地震において警戒するべきは、この地殻変動によってM7に及ぶ地震が誘発されるのではないかということである。首都圏は3,11の直接的な影響の下で地震が誘発される可能性が強い地域であるという(平田直『首都直下地震』岩波新書)。関東は世界的にみてもきわめて地震が多いところであるが、そこに3,11の影響の下に発生する地震が加わることが怖いというのである。

 しかし、熊本地震は3,11の直接的な影響の下で誘発されたものではない。そこではいくつものプレートの複合した動きとプレート運動それ自体とは区別される列島の地殻の重みと運動が関わってくる。広い意味で誘発地震であるといっても、そこで考えるべき要素はさらに複雑になり、多くなる。

 列島を成り立たせるプレートとしては、西から押してくるアムールプレートと南から押してくるフィリピン海プレート、そしてそれらの下に沈み込む太平洋プレートの複合的なプレート運動があることはいうまでもない。そして列島の地殻の重みと運動を象徴するのが列島の中央を貫通する中央構造線である。

 もし、今回の熊本地震が中央構造線の動きに関係しているとすると、素人考えであるが、そこには列島北半の弓状弧が東北沖海溝大地震によって東に引かれたことが、列島の中央の緊張を強め、中央構造線の動きを誘発したというようなことが考えられるのではないかだろうか。列島には弓を垂直にそらせる方向に巨大な力が働いており、それが列島の軸説である中央構造線を緊張させているのではないかということになる。
 
 これに関連して、歴史地震学の側で想起するのは、寒川旭氏が「日本列島最大の地震活動期」として注目した1586年の中央構造線添いの一連の大地震である。寒川『日本人はどんな大地震を経験してきたか』(平凡社新書)で説明すると、まず1586年1月18日に中部地方の養老ー桑名ー四日市断層帯などの三つの大断層が動いた。これは745年に聖武の紫香楽宮をおそった地震と同構造のものである。

 そして、翌年1596年9月1日に別符湾で大地震が発生し(M7.0 )、続いて四国の中央構造線断層帯、さらに9月5日に有名な京都の伏見地震(M7.0)が発生した。これらは、すべて中央構造線沿いの断層帯に震源が動いた地震である。とくに後者は連続的に九州から京都までが地震に襲われるという怖いもので、これが秀吉の政治に大きな影響をあたえたことはいうまでもない。

 以上が、熊本地震の状況について、とりあえず点検したことであるが、今回の場合に怖いのは、(16世紀末と違って)九州の西から東に阿蘇をこえて震源が動いていることで、熊本から大分へ震源が動き連鎖するという規模は半端でない。

 もちろん、678年の久留米の東の水縄断層を震源とした筑紫大地震では地震は大分の日田に及んだ。この断層は水縄山地とその北の筑紫平野を作り出した大断層であり、その全長は二〇㌔はあるが、このとき長さ九㌔の断裂が地上を走ったことが『日本書紀』に記録されており、実際、この地域には、七世紀後半の地震によって噴出した砂層が何カ所も確認されている。『豊後国風土記』によると、日田郡五馬山(現在の栄村五馬市付近 の山)の稜線が崩れて温泉が噴きだし、その内の一つは直径三㍍ほどの湯口をもつ間歇泉で「慍湯」(いかりゆ)と呼ばれたというのが、それを示す記事である。
 
 ただ、熊本から阿蘇をこえて大分に震源が動くというのは、これまで例がないのではないか。九州内部で熊本から大分というのは、間に阿蘇があるだけに心配なことである。また、これが16世紀末期のように四国にまで及ぶと、伊方原発の問題がクローズアップされる。また南へ影響が広がれば川内原発である。最悪の場合には、進退きわまるということであろう。

 東北沖海溝大地震についての地震学界の警告を無視し、多大な人命をうしなわせた、この間の政治に対して怒るのは当然のことである。彼らは、敗戦後、高度成長期にかけてつづいた「大地の平和」に依存して、ものをしらずに原発を設置してきた「平和ボケ」そのものである。

 政治は先を読めない無知な人間が行ってはならないことであり、安全を旨として進むべきものである。もちろん、事態は相当の確率で無事に収まることを期待したいが、しかし、政治は、人にこういう危ない橋を渡らせる権利はないものである。

 以下、昨日のブログの最後に書いたことを再度引用しておきます。

 政治家の一部には、3,11を忘れているかのような言動がありますが、地殻の運動は目に見えない場所で、厳しく続いていることを忘れることはできません。残念なことに、国家の内部にもそれを忘れたかのような動きがあります。3,11の被災地の窮状を放置したまま党利党略に走る様子には怒りがこみあげます。そのような国家や政府は無用の長物ですが、私は、それとは区別された民族、その大地と、そこに居住する人びとに対する祖国愛は歴史家にとって必須のものであると考えています。

2016年4月15日 (金)

火山地震103熊本地震と中央構造線ーー9世紀地震史からみる

 4月14日の熊本県地震の被害の大きさに衝撃をうけています。なくなられた方を御悼みするとともに、被災地の皆さんのご無事を願っています。

 Kumamoto


歴史家としての情報提供の仕事ですが、この地震を考える上で、9世紀の東日本太平洋岸地震(奥州地震・大津波、869年)の前後の状況を知っておく必要があると思います。しばしばいわれるように、9世紀の列島の地震・噴火の様子は、現在に似ている部分があるからです。

 869年の奥州大地震が2011年3月11日の東日本太平洋岸地震とほぼ同じ震源断層と津波の規模をもっていたことはよく知られています。869年の熊本県地震と昨日、2016年4月14日の熊本県地震は、もちろん同じような地殻の運動ということはできませんが、東北沖の太平洋プレートの沈み込みが起こした大地震・大津波ののちに起きた地震として共通性があるということはいえるでしょう。現在のところ、ジャーナリズムでは明瞭に報道されていないようですが、どのような地殻の動きの結果であるかということは明示できないとしても、列島の大地は3月11日の東日本太平洋岸地震に直接に続く地殻運動の中にあると考えるべきであると思います。

 昨日の熊本地震は熊本を東北から西南に横切る布田川(ふたがわ)断層帯・日奈久(ひなぐ)断層帯において発生したものですが(地図は地震本部HPより)、869年の熊本県地震は地震学ではまだ震源断層もマグニチュードも確認されておらず、地震本部の熊本県の地震の一覧のなかでも、まだ明示されていません。ただ、下記の拙著で述べましたように文献史料からは、発生したことがほぼ明らかです。

 そうだとすれば、この869年地震は徳川時代から何度も何度も発生してきた熊本の大地震のもっとも古い例として注目されるべきものと思います。研究を急ぎ、それに対応して地域の小学校では基礎知識として教材化するべきものであると思います。それによって、列島の国土についての常識を蓄積していくことはいざというときに力を発揮するものと思います。現状では、歴史教育において、これらの点への配慮がきわめて不十分です。
 
 なお、問題は、この断層帯が中央構造線につらなるものであることです。原発の置かれた伊方が中央構造線上にのびる佐田岬にあることの危険性はよく知られていますが、鹿児島の川内原発も、ほぼこの布田川(ふたがわ)断層帯・日奈久(ひなぐ)断層帯の延長線上にあることは無視できません。
 
 中央構造線については小学校から教えるべき事柄ですが、そのとき、同時に原発についても子どもたちに考えてもらうことも大事です。彼らの未来に関わる問題なのですから。

 以下、 熊本地震を受け、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)の熊本県関係の記述を部分的に下記に引用しました。地震の事態を考える上で、少しでもお役に立てれば幸いです(拙著の869年=貞観11年の東日本太平洋岸地震につづく部分の引用です)。

 (869年=貞観11年)の時期の国家は、旱魃・飢饉・疫病が拡大し、さらに地震が頻発するという不安定な情勢に対して深い恐れをいだいた。この年の年末一二月、清和が各地の神社に提出した「願文」は、それをよく示している。(中略)この清和の願文は、宣命体といって、神主があげる祝詞の文体で書かれている。そのため読みにくいこともあって、これまで見逃されてきたのであるが、この史料は地震史料としても重要なものである。
 該当部分を引用すると、「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古来、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり」とある。現代語訳をしておけば、「肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。故老たちもこのような災害は聞いたことがないという。そして、陸奧国からも異常な地震災害について報告があり、さらにその他の国々からも地震災害の報告があった」ということになる。

 これによって、この八六九年(貞観一一)、陸奥沖海溝地震のほかに、肥後国でも、また「自余の国々」(その他の国々)でも地震災害があったということがわかる。まず後者の「自余の国々」の地震が何カ国ほどで、どの程度の地震であったのかが問題であるが、これについては九世紀陸奥沖海溝地震の震源はむしろ遠く北にあったのではないかという前記の石橋克彦の想定、および地震学の平川一臣が同地震による津波の残した砂層が北海道十勝・根室の低湿地まで確認できるとしていることを考慮しなければならない。しかし、陸奥沖海溝地震が陸奥国のみでなく、関東地方でも被害をだした可能性は高いだろう。また三.一一東日本太平洋岸地震は関東から四国・九州まで多数の誘発地震を引き起こしているから、その規模は別として九世紀においても全国的な影響があったことは疑いないだろう。

 そのうちで現在、文献史料をあげることができるのは、陸奥沖海溝地震の約一月半後、七月七日に発生し、京都でも感じられ、大和国南部で断層を露出させた誘発地震である。(中略)

 より大きな誘発地震は、陸奥沖海溝地震の約二月後の七月一四日、肥後国で発生した地震と津波であった。その史料を下記にかかげる。

 この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍・民居、顛倒(てんとう)するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭(ひろ)ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、数百里、陷ちて海となる。(『三代実録』貞観一一年七月一四日条)

 簡単に現代語訳しておくと、「この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、海よりの六郡(玉名・飽田・宇土・益城・八代・葦北)が水没してしまった。水が引いた後に、官庫の稲を検査したところ、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百里が沈んで海となった」(数百里の「里」は条里制の里。六町四方の格子状の区画を意味する)ということになろうか。問題は、これまで、この史料には「大風雨」とのみあるため、宇佐美龍夫の『被害地震総覧』が地震であることを疑問とし、同書に依拠した『理科年表』でも被害地震としては数えていないことである。

 しかし、この年の年末にだされた伊勢神宮などへの願文に「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛(たおれくつがえれ)り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古来、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり」とあったことはすでに紹介した通りで、相当の規模の肥後地震があったことは確実である。津波も襲ったに違いない。これまでこの史料が地震学者の目から逃れていたため、マグニチュードはまだ推定されていないが、聖武天皇の時代の七四四年(天平一六)の肥後国地震と同規模とすると、七.〇ほどの大地震となる。ただ、この地震は巨大な台風と重なったもので、台風は海面にかかる気圧を変化させ、高潮をおこすから被害は大きくなる。それ故にこのマグニチュードはあくまでも試論の域をでないが、それにしても、一〇〇年の間をおいて二回も相当規模の地震にやられるというのは、この時代の肥後国はふんだりけったりであった。

 清和は一〇月二三日に勅を発して、全力で徳政を施すことを命じ、国庫の稲穀四千石の緊急給付に支出し、「壊垣・毀屋の下、あるところの残屍、乱骸」などの埋葬を指示している。被害は相当のものであったに違いない。なおこの勅にも「昔、周郊の偃苗、已を罪せしに感じて患を弭め」とあることに注意しておきたい。周の地に偃した苗脈(地脈)の霊が、文王が自分の罪を認めたことに感じて災いをやめたということであって、その典拠は、聖武以来、つねに参照される『呂氏春秋』の一節である。それだけに、清和朝廷は、この勅の起草にあたって、聖武の時代の肥後地震の記録をふり返ったに違いない。そして、聖武の時代の肥後地震の翌年、七四五年(天平一七)に、紫香楽京にいた聖武を美濃地震が直撃したことにも気づいたのではないだろうか。そして、彼らは同じような事態の成り行きをなかば予知し、恐れたのではないかと思う。

 そもそも、肥後国は阿蘇の聳える地域であり、富士山の大爆発の後に、小規模であれ、阿蘇も噴火している。そこを舞台として地震・津波が発生したというのは、火山の中で、阿蘇の動きをきわめて重視していた当時の人々にとって、真剣な顧慮の対象であったはずである。神話的な直観のようなものであったとしても、八・九世紀の人々が、経験を通じて、地震の全国的な連動を直観していたということはいえるのではないだろうか。なお、三・一一の東日本太平洋岸地震においても、そののち熊本県での地震が活発化している。もちろん、陸奥沖の地震と、熊本(肥後)の地震が直接に連動するわけではない。しかし、列島の地殻の全体が不安定性をます中で、肥後地震が誘発されたことは明らかである。
(以上引用終わり)
 

 一部では、3,11を忘れているかのような言動がありますが、地殻の運動は目に見えない場所で、厳しく続いていることを忘れることはできません。残念なことに、国家の内部にもそれを忘れたかのような動きがあります。3,11の被災地の窮状を放置したまま党利党略に走る様子には怒りがこみあげます。そのような国家や政府は無用の長物ですが、私は、それとは区別された民族、その大地と、そこに居住する人びとに対する祖国愛は歴史家にとって必須のものであると考えています。

 11日から京都出張でしたが、11日には9世紀地震の痕跡の可能性のある遺跡を見学しました。そのしばらく後に地震が発生するというのは、研究を急ぐことが職能的な責務であるという気持ちを駆り立てます。

熊本での地震ーー869年奥州地震の直後の地震と似たパターン

熊本での地震ーー869年奥州地震の直後の地震と似たパターン
 昨日夜9時、熊本で地震。

 3,11と同型とされている869年奥州地震(869年)の二月後7月に発生した熊本県の地震について、下記の2011年3月28日の記事を再掲します。何かの参考となればと思います。

 さらにくわしくは、この記事を前提にして書いた、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を参照してください。

 この熊本地震については、従来の地震学研究では見逃されていたものですが、下記に述べたように地震が発生したことは明らかで、拙著ではマグニチュードが7に達した可能性も否定できないとしました。

 9世紀の場合は、2ヶ月後でしたが、21世紀では5年後であったことになるのだと思います。こういう形で、3月のことを想起するとは思いませんでした。深く追悼の意を表します。

      


 869年陸奥国貞観地震の約二月後に起きた肥後国の災害については、宇佐美龍夫『被害地震総覧』は、地震災害であるかどうかについて疑問を提示し、被害地震番号からのぞいている。それ故に、貞観の肥後国の災害が地震あるいは地殻変動に起因する津波によるものであったかどうかは、最終的には、地震学の側での結論が下るのを待つべきである。

 しかし、文献史料による限り、以下に述べるように、地震津波による災害であった可能性が高いように思われる。
 貞観11年(869)、年末12月14日に朝廷は、伊勢神宮への告文を発している。それによると、この年は、陸奥国のほかに、肥後国で大地震があり、さらに「自余の国々」(他の国々)でも地震があったということである。
 その伊勢神宮への告文の主要部分を次ぎに掲げる。

史料C
「(1)新羅賊舟、二艘、筑前国那珂郡の荒津に到来して豊前国の貢調船の絹綿を掠奪して逃げ退きたり(中略)と申せり。(2)また肥後国に地震・風水の災ありて、舎宅ことごとく仆(たお)れ顛(くつがえ)り、人民多く流れ亡びたり、かくのごとくの災ひ古来いまだ聞かずと、故老なども申すと言上したり。(3)しかる間に、陸奥国また常に異なる地震の災を言上したり。自余の国々もまたすこぶる件の災ありと言上したり」(『三代実録』貞観十一年十二月一四日条)

史料C書下(2・3の部分のみ)
 また肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古來、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり。

史料C現代語訳(2・3の部分のみ)
 また肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。このような災害は、古くから聞いたことがないと故老たちがいっているとも言上があった。その間に、陸奧国も、また常と異なる地震災害について報告をしてきた。そして、その他の国々からも地震災害の報告があった。

 この年は、新羅商人(「賊舟」といっている)と豊前国の貢納船の間での紛議が暴力沙汰に及んだ年で、この詔は、こういう状況の中での神による守護を願うことに主眼があった。ただし、この詔が「国家の大禍」といっているように、この年は、たいへん多事な年であった。この詔は、新羅商人との衝突事件のみでなく、上のように、地震の災害などもまとめて述べて、神の守護を願ったものである。
 (1)の部分が新羅商人(「賊舟」といっている)と豊後国の貢納船の間の紛議に関わるもので、この事件の発生は5月22日。そして、(2)の部分が肥後国の地震についてふれた部分、(3)の部分が陸奥国大地震についてふれた部分。これは5月26日である。
 ただし、(1)(2)(3)が事件の発生順序をおって書かれたものではなく、この告文の中心となる(1)の事件が、詔の冒頭に書かれた関係で、同じ九州での事件、肥後国地震が、その次ぎに書かれたものである。肥後国地震は次の二つの史料が示すように、陸奥国貞観津波の約2ヶ月弱後、7月14日に発生した。

史料D
十四日庚午。風雨。是日。肥後国大風雨。飛瓦拔樹。官舍民居顛倒者多。人畜壓死不可勝計。潮水漲溢。漂沒六郡。水退之後。搜摭官物。十失五六焉。自海至山。其間田園數百里。陷而爲海(『三代實録』卷十六貞觀十一年(八六九)七月十四日庚午)。

史料D書き下し
 この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍民居、顛倒するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、數百里、陷ちて海となる。

史料D現代語訳
 この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、六つの郡が洪水の下になった。水が引いた後に、官庫の稲を検査したところ、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百の条里の里(6町四方方格)が沈んで海となった。

史料E
廿三日丁未。延六十僧於紫震殿。轉讀大般若經。限三日訖。是日。勅曰。妖不自作。其來有由。靈譴不虚。必應粃政。如聞。肥後国迅雨成暴。坎徳爲災。田園以之淹傷。里落由其蕩盡。夫一物失所。思切納隍。千里分憂。寄歸牧宰。疑是皇猷猶鬱。吏化乖宜。方失心。致此變異歟。昔周郊偃苗。感罪己而弭患。漢朝壞室。據修徳以攘。前事不忘。取鑒在此。宜施以徳政。救彼凋殘。令大宰府。其被害尤甚者。以遠年稻穀四千斛周給之。勉加存恤。勿令失。又壞垣毀屋之下。所有殘屍亂骸。早加收埋。不令露(『三代實録』卷十六貞觀十一年(八六九)十月廿三日丁未)。

史料E書き下し(一部のみ)。
 聞くならく、肥後国、迅雨、暴をなし。坎徳、災をなす。田園これをもって淹傷し、里落、それにより蕩盡す。

史料E現代語訳 
 聞いているところでは、肥後国において、台風が暴れ、水の神が災いをな
した。田園はこれによって大きく傷つき、村落はつぶれたものも多い。

 この史料D・Eは『大日本地震史料』に不掲載であり、『大日本地震史料』は、肥後国地震を史料Cによって12月に発生したとしている。宇佐美龍夫『被害地震総覧』もそれを引き継いでいるが、それは錯誤であると考えられる。先稿では、もっぱらそれによったため、肥後国地震が7月14日に発生したことを見逃した。
 貞観11年肥後国地震は、台風と同時に発生した津波地震であると考えられる。史料Dで「潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す」とあるのは、水害が台風被害のみでなく、津波と認識されていたことを示している。史料Eのいう「坎徳爲災」は水神の悪行という意味で、津波の災害が意識されているかもしれない。また「壊垣、毀屋の下にあるところの残屍、乱骸」などとあるから、被害の激甚は認識されていたらしい。しかしこれらでは、災害に地震あるいは津波が含まれていたことは明記されていない。
 地震災害であったことが明記されるのが、冒頭にかかげた史料Cの12月段階である。そこでは文脈上、陸奥と同様な地震の災害と判断されていることは明瞭。台風と同時に発生した洪水災害に津波が含まれていたことが、後の報告によって明瞭になったのは12月の頃であったということなのかもしれない。いずれにせよ、12月段階で、日本の西と東でほぼ同時期に地震が発生したということを朝廷は明瞭に意識して対処方策を議論しはじめたということになる。やはり、貞観11年は、相当大規模な地震活動が全国で活性化した年であったことがわかる。

 このように史料が「地震の災い」を明記しているにもかかわらず、この肥後国の水害が地震もしくは地震に起因する津波のせいであることが断言できないのは、江戸時代、「島原大変、肥後迷惑」といわれた1792年(寛政四)4月1日の島原雲仙岳の噴火と、眉山の山体崩壊にともなう地震との関係で、貞観肥後国災害が津波であったかどうかを確定しがたいためである。
 寛政四年の肥後国津波は、眉山の山体崩壊にともなって大量の土砂が有明海になだれ込み、それによって発生した津波が対岸の肥後を直撃したというもの。素人の考え方だと、あるいは、寛政四年地震においても、眉山の崩壊と同時に、有明海海底の地殻変動が存在し、それも津波の一因となったのであろうかと考えるが、これは証拠はない。
 貞観肥後国災害の時、雲仙岳の噴火の記録はないから、もし肥後国に津波があったとすると、その発現機構は、雲仙岳の噴火とは別のところに求めなければならない。これがむずかしいということだと思う。
 なお、この問題は奈良時代半ば、744年(天平16)に発生した、同じような肥後国の災害の評価にも関わってくる。その史料を下記に掲げる。

 五月庚戌五月庚戌。肥後國雷雨地震。八代。天草。葦北三郡官舍。并田二百九十餘町。民家四百七十餘區。人千五百廿餘口被水漂沒。山崩二百八十餘所。有圧死人四十餘人。並加賑恤(『続日本紀』巻十五天平十六年(七四四)。
 

 つまり、肥後国で雷雨と地震があり、三郡の役所が崩壊し、田地290町、民家470区がつぶれ、1500人ほどの人が流され、また山崩れが各所で発生し、それによる死者も40人以上に登ったということである。この記事は事実を反映していると考えられるから、ここでも津波が発生したことが想定される。この津波の発現機構も最終的には地震学の側での議論が必要となると考えられる。
 以上、肥後国の貞観11年の災害が本当に地震災害であったかは、地震学の調査によって最終的に決定されるほかないが、文献史料を読んでいる限りでは、その可能性は高いと思われるのである。

2016年4月 8日 (金)

『老子』66章とイザナミ

 今日は、東大の職員組合で講演の後に、高校時代の恩師、山領先生のところへ。3ヶ月ほど前に長谷川如是閑の『老子』をお借りしたが、それを御返しに参上。アメリカの状況についても御意見を伺うのが楽しみである。
 久しぶりに『老子』を一つ。

倭国の女神伊弉冉も谷の女神たちの女王である(第六六章)

江海の能く百谷の王たる所以の者は、其れ善く之に下るを以てなり。故に能く百谷の王たり。是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る。是を以て聖人は、上に処りて民重しとせず、前に処りて民害とせず。是を以て天下、推すを楽しんで厭わず。其れ争わざるをもってす。故に、天下能く與にして諍う莫し。

江海所以能爲百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王。是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。是以天下樂推而不厭。以其不爭。故天下莫能与諍*2。

 大河と大海の神が谷々の女神の王となれるのは、そこに下ってくる谷々を抱きかかえる、そういう場にいる巨大な女神だからである。神の声を聞く人は、(同じように)人々の上席で語るときも一歩下って語り、人々の前に立つときも後見の身分であることをわきまえていた。このように、天下は聖者を推すことを楽しみ、嫌悪や争いはなかった。天下はよく與に共和していて争うようなことはなかった。

解説
 ここで江海が百谷の王であるというのは江海の神が、多くの谷々の神の王であるということであろう。私は、前項でみたように、谷の神が女神である以上、江海の神も女神であると考えておきたい。これまでの解釈では江海の神は帝王などとされて男神とされているが、それは必ずしも論証されたことではないと思う。

 そういう以上、本来は、中国の神話史料を読み解いて、江海や谷の女神について議論する必要があるが、私の知識量の関係で、ここでは倭国神話を例として試論を述べることを御許し願いたい。よく知られているように、天浮き橋から下界におりてきて、ミトの婚合をした女神伊弉那美と男神伊弉諾は、国生をして日本列島、ジャパネシアを産んだ後、神産に取りかかるが、『古事記』はそれを「既に国を生み竟へて、さらに神を生みましき」と表現している。その最初に生まれたいわば環境の神々ともいうべき神々の中で、一〇番目に生まれた「水戸」、つまり河口や湾口の女神である速秋津比売神が江海にいる巨大な女神であって、それは彼女が沫那美、頬那美、水分の神、そして久比奢母智(柄杓持、北斗)神などの母親とされていることで分かる。興味深いのは、『延喜式』の大祓祝詞によれば、この女神は、八塩道の塩の八百会に座す」神で、谷川の水を流れ出た穢と一緒に「持ちかか呑みてむ」神であるとあって、その名前の「アキ」とは、水戸口で大きな口をあけてうるという意味であるという。これに対して、谷川にいる女神は、瀨織津比咩といって彼女が大地の上で活動する人間が作り出す穢を速秋津比売神に渡すのであるという。そして、海の底には、速佐須良比咩神、つまり(『中臣祓訓解』によれば)これらの女神の祖神であるイザナキ自身がひかえていて、すべての穢を「持さすらひ失てむ」「祓ひ給ひ清め給ふ」というのが大祓祝詞のいうところである。

 こうして、谷川の瀨織津比咩の下に、水戸で口を開けている速秋津比売がおり、さらにその下に海底の伊弉那美などの女神がひかえていて、おのおの穢を引き受けていたというのが倭国神話の語ることなのであるが、これは老子が、大河と大海の神が谷々の女神の王となれるのは、そこに下ってくる谷々を抱きかかえる、そういう場にいる巨大な女神だからであるというのと同じことであろう。というよりも、そもそも、伊弉那美と伊弉諾は中国の神話の神、女媧と伏義を原型とする神であったから、このような水の女神たちのイメージの源流も中国にあった可能性が高いのである。

 さて、以上は本書の最初の部分の解説であって、本章の重点は、むしろ後半の「聖人」についての議論にある。聖人、つまり神の声を聞く人は、女神たちが順次に下側に控えて前のものをささえるような受容する徳をもたなければならないというのである。

 なお、「是を以て民に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以て之に後る」の部分は、「統治者となって人民の上に立ちたいと望むなら、必ず自分のことばを謙虚にして人にへりくだり、指導者となって人民の先頭に立ちたいと望むなら、必ず自分のふるまいを抑えて人の後からついてゆくことだ」(金谷)などと訳されることが多い。老子はこういう世俗的な術策を説いていないというのが私見であるが、少なくとも、ここは統治者の処世を語ってはおらず聖人について語っていることは確認しておきたい(福永・池田)。老子は地域の氏族や協同体やのレヴェルでの「聖人=神の声を聞く人」の役割については十分に尊重していたものと考えられるのである。

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