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2016年4月30日 (土)

火山地震109日本の国の形と地震史・火山史  


 [二〇一五年七月一九日/多賀城市文化センターでの講演]
はじめに
 東日本大震災の翌年一二月、文部科学省が立ち上げた科学技術・学術審議会測地学分科会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学の側の専門委員として参加し、議論をしてまいりました。文科省の自然科学分野の委員会に歴史学者が呼ばれたのは初めてです。歴史学者も地震学や火山学といった自然科学の研究者と一緒に考えていかないと、未来の災害を本当の意味で予測することができないとはっきりしたからです。

 私は、紀元前後から約二〇〇〇年の間に、日本では地震・火山活動が活発になる大地動乱の時代が三回あったと考えています。地殻運動の超長期的な周期は、だいたい七〇〇年ごとのスーパーサイクルだというのが東京大学地震研究所の佐竹健治教授の仮説ですが、私は、それにそって考えています。

 二〇一一年に起きた東日本大震災は八六九年の奥州地震津波(貞観地震)と震源も規模も、そして浸水域もほぼ同じだったことから、地震の歴史がより深く考えられるようになりました。つまり、一九匕八年の宮城県沖地震のようなマグニチュード七・五規模の地震は平均して一〇〇年に三回起こります。太平洋プレートはこの規模の地震が起きると一回につき二メートル滑る。一〇〇年で六メートル滑る計算です。しかし、太平洋プレートは陸側のプレートの下に年間八センチ、一〇〇年間で八メートル沈み込みます。こうして一OO年で生まれる二メートルの差が蓄積されて、七〇〇年に一度そのエネルギーが解放され、大地震を引き起こすというのです。

 さらに巨大地震は火山噴火との関連性を考えなくてはなりません。たとえば、地震学者の都司嘉宣さんは富士山頂から立ち上る噴煙が詠まれた和歌の年代をたどり、巨大地震が起こったときには富士山の火山活動も活発化していることを明らかにしました。

 富十山は一七〇匕年の宝永大噴火のほか、今から三〇〇〇年前にも爆発したことが知られていましたが、最近の火山学の研究によると紀元前後にもいく度か噴火していることがわかりました。これを大地震の発生と合わせてみると、日本の大地動乱の時代は、ひとつは紀元前後の神話時代、次に七世紀末から一〇世紀、つまり貞観地震の前後の時代、三つ目は一五世紀半ばから一八世紀の時代に整理できます。この三つの時代をそれぞれ詳しくお話していきましょう。

 神話時代

 北海道から三陸沖にかけて、紀元前後の津波の痕跡が発見されています。同じころ南海トラフ地震により高知県から三重県にかけて大津波があり、富士山も噴火しています。こうした大地動乱が神話のありかたに影響を与えました。

 まず日本神話の最高神はだれかを確認しておきます。一般にはアマテラスと思われていますが、実はタカミムスヒという神様であると、すでに本居宣長が指摘しています。ムスとは熱いという意味なので、この抻は「高所におわす熱と光の神」、つまり雷神ということです。ギリシャ神話のゼウスも雷神ですね。タカミムスヒは『日本書紀』においては「天地鎔造の神」とされています。鎔造とは鋳造のこと。天と地を鋳型に入れていっぺんに作り出すほど巨大な火を使う神であるということです。

 天皇家の祖神が九州の高千穂に天下ったというのが天孫降臨神話ですが、下れと命令したのがタカミムスヒです。『古事記』はその様子を「磐座が噴煙を分けて稲妻を道分かれさせながら、天にかかる岩梯子のようになって、溶岩をあふれさせる」と描写しています。天皇家の祖先は火山に降臨したわけです。

 地下の神についていえば鍛冶神がいます。ギリシャ神話における鍛冶神はヴァルカンですが、日本神話ではスサノヲとオオナムチです。アマテラスの弟であるスサノヲは、手にした琴を鳴らすことによって地震を起こします。オオナムチがスサノヲの娘をさらい、琴を盗んで火山の噴火口から地上に逃げ出すというのは、オオナムチがスサノヲの跡を継いで地震神になったということです。そのときスサノヲは「娘を正妻として地上の王者となれ。大国主命と名乗れ」と叫びます。

 オオナ厶チの「ナ」は産土の「ナ」と同じく大地を意味します。オオナムチは大地の神なのです。列島は火山の噴火によって生まれ、大地の神が国主となった。神話時代の人びとも、地底には大きな火が燃え、そこから火山が生まれると想像していたのでしょう。

 これは、前方後円墳の理解に結び付きます。東アジア一帯には、死者の魂は壺や瓢箪、竹筒に入って天に上るという観念があります。考えてみれば前方後円墳は壺を横倒しにして半分埋めたような形をしていますが、この場合の壺は火山を表現しています。九世紀の伊豆神津島火山の噴火の史料には、火山の様子を「壺の様である」とした一節があります。また、出雲には四隅突出墓といって、四隅へ溶岩流が流れ出すような形をした墓もあります。いずれも火山のイメージが、紀元前後から二~三世紀の墓に導入されたということです。

 七世紀から一〇世紀

 次の動乱の時代は七世紀末から始まります。匕世紀には伊豆で南海トラフによる大きな地震・噴火があり、八世紀には丹後、遠江、河内・大和、美濃など内陸で地震が連続しました。

 このうち河内・大和地震は、聖武天皇と近しい親族である長屋王が自害した直後に発生したので、人びとは長屋王の怨霊が引き起こした地震であると伝えました。その不安を払拭するため、聖武天皇は恭仁京・紫香楽宮を造営し遷都をはかります。ところが、美濃地震によって紫香楽宮は大被害を受けてしまいました。結局、聖武天皇は平城京に戻り、仏の力で地震を鎮めるために東大寺大仏建立に邁進します。八世紀後半はしばらく地震がありませんでしたので、当時の人は大仏のおかげだと思っていたかもしれません。

 しかし、九世紀になると各地で地震が続き、八六八年には播磨地震が起きます。播磨はスサノヲ神話の広まった地域です。この地震は神戸の六甲断層帯を揺らし、さらに京都の東部を走る花折断層を揺らしました。京都の人たちにスサノヲが起こした地震だと考えたのでしょう。それを鎮めようと、断層の上にスサノヲを祀る神社を建てました。それが衹園社です。衹園社は疫病や飢饉を鎮める目的で建てられたといわれてきましたが、背景にあるのは実は地震なのです。実際に、疫病をもたらす鬼が同時に地震を起こすという話が『今昔物語』にあります。鬼の腰には打出の小槌がはさまれていますが、鬼はこれで人を叩いて病気をはやらせるだけでなく、地面を叩いて、大地の底を開く力を持っていました。

 播磨地震の翌八六九年に発生したのが、問題の貞観の奥州地震津波です。『日本三代実録』には「海を去ること数十百里」という記述がありますが、この場合の「里」は距離ではなく面積を示すと考えられ、「海から数十百里ほどの面積が冠水した」と解釈すべきでしょう。換算すると東西二・六キロ、南北一三キロ。それほどの面積の水が多賀城の南をずっと覆ったということです。

 奥州地震津波の九年後には南関東地震、一八年後には巨大な南海トラフ地震が起きます。大地動乱は一〇世紀に入ってなおも続きますが、有名な雷神菅原道真も地震神であったという史料があります。地震の神を祀る衹園社が全国に増えていきます。平将門の反乱の二か月後に京都で地震が起きますが、将門は天神が味方についている、つまり菅原道真が見方してくれていると宣言しました。これまでの研究では地震がこれだけ大きく影響していたことを無視していました。

 七世紀から一〇世紀にかけては、火山噴火も多く見られます。六八四年の南梅地震のときに伊豆神津島で大噴火が起き、その噴火音は京都まで聞こえました。伊豆神津島は八三八年にも大噴火し、八六四年には富士山で貞観大噴火が起きました。このとき富士山の北側に流れ出た青木原溶岩流によって形成されたのが、富士五湖です。

 静岡県の三島神社は溶岩流をご神体としており、富士噴火をきっかけとして朝廷から高い位を与えられました。ほかにも火山にある神社には九世紀以降、位の上がった神社が多数見られます。赤城、日光白根、蔵王、白山、肥前国の温泉岳などです。それは小噴火や火山性地震が神の威力であると感じられたためです。神道が本格的に宗教としての体裁を整えていくのがこの時代ですが、日本文学研究の益田勝美氏は、信仰の中心には火山への畏れがあったとしています。山の神の一番上位にいるのはたしかに火山の神でした。

 富士の貞観大噴火の二年後、八七一年の鳥海山噴火があり、九一五年には日本の火山噴火として有史最大規模といわれる十和田の大噴火、そして九四六年には朝鮮半島の白頭山で世界で有史最大規模といわれる大噴火が続きました。

一五世紀後半から一八世紀

 第三番目の動乱期は、一四五四年の奥州大津波をもたらした享徳地震に始まります。『王代記』には「夜半ニ天地震動。奥州ニ津波入テ、山の奥百里入テ、カヘリニ、人多取ル」と奥州津波について記されています。貞観津波の史料にもある「百里」という言葉がでてきますから、よく似た津波だったのだと思います。

 享徳地震をきっかけに、一四九八年の明応東海南海地震、一七〇七年の宝永東海南海地震と、大規模な南海トラフ地震が発生しました。宝永東南海地震に続いては富士の宝永大噴火もありました。

 この時代の噴火の最大の特徴は、北海道で大きな噴火があったことです。長い休止時代から目覚めたかのように、噴火湾周辺など五ヵ所の火山で集中的に大規模な爆発があり、遠く岩手県の盛岡や青森県の八戸にも爆発音が響いたといわれます。アイヌの人々も噴火によって大変な被害を受けました。

 ことに一六六三年の有珠山の噴火は、山体崩壊を招招く大規模なものでした。史料によれば、焼けた山の中から夷の形をしたものが飛び出し、山が二つに割れ、有珠山の五分の四か吹き飛んだとあります。その六年後にはアイヌの首長であるシャクシャインが松前藩に対して蜂起しました。噴火は倭人の拠点の松前などに近い方で起きましたから、アイヌの人々は暴政に対する天罰と考えたのではないかと思います。

 以上、地震に加えて各時代の噴火についても概説してきましたが、これらが明らかになったのも、だいたい、この一〇年ほどのことです。火山学者がこつこつと史料を探し、大地を掘り、火山灰を発見し、溶岩を掘って明らかになってきました。

 災害からの恢復と社会

 日本社会はこれら三度におよぶ大地動乱の時代を乗り越えてきました。災害から恢復あるいは復興するとき、列島の歴史は大きく動いたのです。

 私は神話の時代にはおそらく東北から九州までの人びとが、地震・津波・噴火という大地動乱を通じて神話を共有していったのだと思います。大和朝廷は、当時は後進地帯だったヤマト地方に噴火を象徴する前方後円墳を作り、各地から人々が集まるキャンプのようなものを据えることで日本国家の原型を作りました。人々の自然観や神話の共有は、列島の地域間交流を促進する役割を持ったでしょう。

 匕世紀から一〇世紀は、神話の終焉の時代です。本格的な文明が日本全土に宿り、天神社や衹園社などの怨霊・地震神を抱え込みながら村落組織を整えていきました。一〇世紀、平将門・藤原純友の乱の直後、九州から京都にかけて歌を歌いながら行進する集団がありました。なかには純友の反乱軍の残党が含まれていたようです。歌というのは「月は笠着る。八幡は種蒔く。いざ我らは荒田開かむ。志多良打てと神は宣まふ。打つ我らか命千歳、志多良米」などというものです。志多良とは枝垂れに通じる語で、竹箒のようなものです。これで地面を打ちながら行進してきたわけです。私は、ここから、鬼が打出の小槌で大地を打って地震を起こすという先に述べた話を思い出します。ただこの場合は、人々は大地を打って、土地を開発し、大地の富を呼び出そうとしたわけです。しかし考えてみれば打出の小槌も富を呼び出す力を持っていました。人々の持っていた大地の力への感じ方を知ることができるように思います。

 こうした開発の時代はだいたい鎌倉時代の末まで続くというのが、歴史学界の共通の意見です。そしてそれが終ってしばらくしてから、第三回目の大地動乱の時代がやってきました。これと直面したのが戦国時代・安土桃山時代で、その結果としてあるのが、江戸時代です。

 江戸時代もまた大地動乱の時代に含まれるわけですが、諸大名は災害に立ち向かって都市計画を進め、土木技術を発達させました。仙台藩においては川村孫兵衛が一五九六年の慶長地震津波の復興事業に取り組み、一七〇匕年の富士の宝永大噴火後は、伊奈家が土木治水技術による再開発を展開しました。合理的な技術を用いて国土を管理し、都市計画を展開する時代が始まったということです。

 我々の社会は今、長い歴史の中で享受してきた自然の恩恵をいかにして次に伝えるかという時代を迎えています。そういった意味からも、一〇〇〇年、二〇〇〇年の単位で災害から歴史を見つめ、紀元前後からいうと、四回目にあたるかもしれない大地動乱の時代に備えたいものだと思います。

            『震災学』7号。2015年(東北学院大学編)

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