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2016年4月15日 (金)

熊本での地震ーー869年奥州地震の直後の地震と似たパターン

熊本での地震ーー869年奥州地震の直後の地震と似たパターン
 昨日夜9時、熊本で地震。

 3,11と同型とされている869年奥州地震(869年)の二月後7月に発生した熊本県の地震について、下記の2011年3月28日の記事を再掲します。何かの参考となればと思います。

 さらにくわしくは、この記事を前提にして書いた、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を参照してください。

 この熊本地震については、従来の地震学研究では見逃されていたものですが、下記に述べたように地震が発生したことは明らかで、拙著ではマグニチュードが7に達した可能性も否定できないとしました。

 9世紀の場合は、2ヶ月後でしたが、21世紀では5年後であったことになるのだと思います。こういう形で、3月のことを想起するとは思いませんでした。深く追悼の意を表します。

      


 869年陸奥国貞観地震の約二月後に起きた肥後国の災害については、宇佐美龍夫『被害地震総覧』は、地震災害であるかどうかについて疑問を提示し、被害地震番号からのぞいている。それ故に、貞観の肥後国の災害が地震あるいは地殻変動に起因する津波によるものであったかどうかは、最終的には、地震学の側での結論が下るのを待つべきである。

 しかし、文献史料による限り、以下に述べるように、地震津波による災害であった可能性が高いように思われる。
 貞観11年(869)、年末12月14日に朝廷は、伊勢神宮への告文を発している。それによると、この年は、陸奥国のほかに、肥後国で大地震があり、さらに「自余の国々」(他の国々)でも地震があったということである。
 その伊勢神宮への告文の主要部分を次ぎに掲げる。

史料C
「(1)新羅賊舟、二艘、筑前国那珂郡の荒津に到来して豊前国の貢調船の絹綿を掠奪して逃げ退きたり(中略)と申せり。(2)また肥後国に地震・風水の災ありて、舎宅ことごとく仆(たお)れ顛(くつがえ)り、人民多く流れ亡びたり、かくのごとくの災ひ古来いまだ聞かずと、故老なども申すと言上したり。(3)しかる間に、陸奥国また常に異なる地震の災を言上したり。自余の国々もまたすこぶる件の災ありと言上したり」(『三代実録』貞観十一年十二月一四日条)

史料C書下(2・3の部分のみ)
 また肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古來、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり。しかる間に、陸奧国、また常と異なる地震の災ひ言上したり。自余の国々も、又すこぶる件の災ひありと言上したり。

史料C現代語訳(2・3の部分のみ)
 また肥後国に地震・風水害があって、舍宅がことごとく倒壊し、人民が多く流亡したという。このような災害は、古くから聞いたことがないと故老たちがいっているとも言上があった。その間に、陸奧国も、また常と異なる地震災害について報告をしてきた。そして、その他の国々からも地震災害の報告があった。

 この年は、新羅商人(「賊舟」といっている)と豊前国の貢納船の間での紛議が暴力沙汰に及んだ年で、この詔は、こういう状況の中での神による守護を願うことに主眼があった。ただし、この詔が「国家の大禍」といっているように、この年は、たいへん多事な年であった。この詔は、新羅商人との衝突事件のみでなく、上のように、地震の災害などもまとめて述べて、神の守護を願ったものである。
 (1)の部分が新羅商人(「賊舟」といっている)と豊後国の貢納船の間の紛議に関わるもので、この事件の発生は5月22日。そして、(2)の部分が肥後国の地震についてふれた部分、(3)の部分が陸奥国大地震についてふれた部分。これは5月26日である。
 ただし、(1)(2)(3)が事件の発生順序をおって書かれたものではなく、この告文の中心となる(1)の事件が、詔の冒頭に書かれた関係で、同じ九州での事件、肥後国地震が、その次ぎに書かれたものである。肥後国地震は次の二つの史料が示すように、陸奥国貞観津波の約2ヶ月弱後、7月14日に発生した。

史料D
十四日庚午。風雨。是日。肥後国大風雨。飛瓦拔樹。官舍民居顛倒者多。人畜壓死不可勝計。潮水漲溢。漂沒六郡。水退之後。搜摭官物。十失五六焉。自海至山。其間田園數百里。陷而爲海(『三代實録』卷十六貞觀十一年(八六九)七月十四日庚午)。

史料D書き下し
 この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍民居、顛倒するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、數百里、陷ちて海となる。

史料D現代語訳
 この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、六つの郡が洪水の下になった。水が引いた後に、官庫の稲を検査したところ、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百の条里の里(6町四方方格)が沈んで海となった。

史料E
廿三日丁未。延六十僧於紫震殿。轉讀大般若經。限三日訖。是日。勅曰。妖不自作。其來有由。靈譴不虚。必應粃政。如聞。肥後国迅雨成暴。坎徳爲災。田園以之淹傷。里落由其蕩盡。夫一物失所。思切納隍。千里分憂。寄歸牧宰。疑是皇猷猶鬱。吏化乖宜。方失心。致此變異歟。昔周郊偃苗。感罪己而弭患。漢朝壞室。據修徳以攘。前事不忘。取鑒在此。宜施以徳政。救彼凋殘。令大宰府。其被害尤甚者。以遠年稻穀四千斛周給之。勉加存恤。勿令失。又壞垣毀屋之下。所有殘屍亂骸。早加收埋。不令露(『三代實録』卷十六貞觀十一年(八六九)十月廿三日丁未)。

史料E書き下し(一部のみ)。
 聞くならく、肥後国、迅雨、暴をなし。坎徳、災をなす。田園これをもって淹傷し、里落、それにより蕩盡す。

史料E現代語訳 
 聞いているところでは、肥後国において、台風が暴れ、水の神が災いをな
した。田園はこれによって大きく傷つき、村落はつぶれたものも多い。

 この史料D・Eは『大日本地震史料』に不掲載であり、『大日本地震史料』は、肥後国地震を史料Cによって12月に発生したとしている。宇佐美龍夫『被害地震総覧』もそれを引き継いでいるが、それは錯誤であると考えられる。先稿では、もっぱらそれによったため、肥後国地震が7月14日に発生したことを見逃した。
 貞観11年肥後国地震は、台風と同時に発生した津波地震であると考えられる。史料Dで「潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す」とあるのは、水害が台風被害のみでなく、津波と認識されていたことを示している。史料Eのいう「坎徳爲災」は水神の悪行という意味で、津波の災害が意識されているかもしれない。また「壊垣、毀屋の下にあるところの残屍、乱骸」などとあるから、被害の激甚は認識されていたらしい。しかしこれらでは、災害に地震あるいは津波が含まれていたことは明記されていない。
 地震災害であったことが明記されるのが、冒頭にかかげた史料Cの12月段階である。そこでは文脈上、陸奥と同様な地震の災害と判断されていることは明瞭。台風と同時に発生した洪水災害に津波が含まれていたことが、後の報告によって明瞭になったのは12月の頃であったということなのかもしれない。いずれにせよ、12月段階で、日本の西と東でほぼ同時期に地震が発生したということを朝廷は明瞭に意識して対処方策を議論しはじめたということになる。やはり、貞観11年は、相当大規模な地震活動が全国で活性化した年であったことがわかる。

 このように史料が「地震の災い」を明記しているにもかかわらず、この肥後国の水害が地震もしくは地震に起因する津波のせいであることが断言できないのは、江戸時代、「島原大変、肥後迷惑」といわれた1792年(寛政四)4月1日の島原雲仙岳の噴火と、眉山の山体崩壊にともなう地震との関係で、貞観肥後国災害が津波であったかどうかを確定しがたいためである。
 寛政四年の肥後国津波は、眉山の山体崩壊にともなって大量の土砂が有明海になだれ込み、それによって発生した津波が対岸の肥後を直撃したというもの。素人の考え方だと、あるいは、寛政四年地震においても、眉山の崩壊と同時に、有明海海底の地殻変動が存在し、それも津波の一因となったのであろうかと考えるが、これは証拠はない。
 貞観肥後国災害の時、雲仙岳の噴火の記録はないから、もし肥後国に津波があったとすると、その発現機構は、雲仙岳の噴火とは別のところに求めなければならない。これがむずかしいということだと思う。
 なお、この問題は奈良時代半ば、744年(天平16)に発生した、同じような肥後国の災害の評価にも関わってくる。その史料を下記に掲げる。

 五月庚戌五月庚戌。肥後國雷雨地震。八代。天草。葦北三郡官舍。并田二百九十餘町。民家四百七十餘區。人千五百廿餘口被水漂沒。山崩二百八十餘所。有圧死人四十餘人。並加賑恤(『続日本紀』巻十五天平十六年(七四四)。
 

 つまり、肥後国で雷雨と地震があり、三郡の役所が崩壊し、田地290町、民家470区がつぶれ、1500人ほどの人が流され、また山崩れが各所で発生し、それによる死者も40人以上に登ったということである。この記事は事実を反映していると考えられるから、ここでも津波が発生したことが想定される。この津波の発現機構も最終的には地震学の側での議論が必要となると考えられる。
 以上、肥後国の貞観11年の災害が本当に地震災害であったかは、地震学の調査によって最終的に決定されるほかないが、文献史料を読んでいる限りでは、その可能性は高いと思われるのである。

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