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« 火山地震109日本の国の形と地震史・火山史   | トップページ | 火山地震111八・九世紀の肥後地震と大地動乱の時代 »

2016年5月 3日 (火)

火山地震110八世紀は中央構造線沿いの地震から火山噴火の活発期へ

 21世紀が本当に「大地動乱の時代」に入るものかどうか。そもそも「大地動乱の時代」というものがあるのかどうか。あるとしたら地震・火山頻発の条件というものを自然科学的にどうおさえるのか。それは私のような歴史学者にはわからないことである。

 ただ、歴史学者としても、8世紀から10世紀は「大地動乱の時代」といえるような、激しい地震と噴火が史料の上で確認できるということは、少なくともいうことができる。
 
 そして、普通、このころの「「大地動乱の時代」というと、神津島大噴火、富士大噴火、播磨地震、奥州大地震(貞観地震)、南関東地震、南海トラフ巨大地震などが連続した九世紀の印象が強いが、八世紀も、一〇世紀も同じように激しい地殻の変動があったこともおさえておくべきだと思う。政治史に影響した地震も多い。

 ここでは、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)から、八世紀の状況を概説した部分を紹介しておきたい。
 
 それは一言でいえば、八世紀には、中央構造線(あるいは石橋克彦氏のいう日本海東縁変動帯をふくめて)にかかわる列島中央部の地震が多く、後半になると地震はやや静かになったものの、少なくとも史料上は噴火が増大するようにみえるということである。これはただ、史料に表現されたことを繰り返しているだけだから、地震・噴火を考える上で、何らかの傾向を示したということにもならないと思うが、そうであったということを知っておくのも無意味ではないように思う。

八世紀前半の地震ーー中央構造線沿い。

八世紀前半には、七〇一年の丹後地震、七一五年の遠江・三河地震、七三四年の河内大和地震(東大寺大仏建立に直結する)、七四四年の肥後国地震、七四五年の美濃国地震と、相当の規模の地震が連続した。これまでまったく注意されなかったが、その政治的影響は巨大なものがあったのである。

 この後、七六二年(天平宝字六)には、美濃・飛騨・信濃で地震が起きた。この中部地方地震は若干の被害があったという記録があるのみで詳細は不明である。ただ、興味深いのは、この中部地方地震をふくめて、八世紀前半の地震の多くが列島中央部で発生していることである。地震学の藤田和夫によれば、地殻の弱い近畿地方に南北に断層が走るのは、美濃山地と丹波山地が東西から万力のような力でしめつけ、さらに中央構造線の南から、フィリピン海プレートの圧力をうけた紀伊山地が近畿地方全体を押し上げるためであるという。こういうプレートの押し合いの構造の中で、この時期に列島中央部で地震が頻繁に発生したのである。

大隅海中の火山噴火ーオオナムチの神

 八世紀後半に入ると、これらの地震は一時的に静穏期に入った。しかし、それに代わって火山噴火の時期が始まった。このような地震から噴火へという動きを、プレートやマグマの動きからどう説明するかは、現在の地球科学にとってもむずかしい問題のようであるが、単なる偶然ではないのであろう。

 噴火は、まず九州の火山地帯から始まった。その最初は、七四二年(天平一四)の大隅国で六日間にわたって太鼓のような音が聞こえ、同時に大地が大きく震動したという事件である。この時、野原の雉が地震の直前に、それを告げ知らせるように啼いたというのも興味深い。前述の殷の高宗の挿話が示すように、中国では古くから雉が地震を察知して鳴くという観念があった。一説によれば、雉の足にはヘルベスト体という震動を敏感に感じとる感覚細胞があって、人体には感じ取れない地震の震動を感じとり、人間より数秒早く地震を知ることができるといわれる。これが本当に事実かどうかは私には何ともいえないが、ともかくも、何時のころからか雉が地震を予知するという観念が日本で存在したことだけは確認できることになる。

 さて、この事件の発生は紫香楽宮造営の直後であるが、それに対して、聖武天皇は、使者を遣わし、「神命」を聞かせようとしたという。聖武が、この事件をどう受けとめたか、もとよりそれを知ることはできない。しかし、聖武にとって軽い問題ではなかったであろう。なお、この事件は、爆発音がありながら、目に見える噴火はないまま大地が震動したというのだから、おそらく海底火山の噴火にともなうものだったのではないだろうか。

 というのは、二〇年以上後、聖武の娘の孝謙女帝が再即位した直後、七六四年(天平宝字八)十二月に、大隅国の国境地域の信尓村の海で大噴火がおこった。「西方に声あり。雷に似て、雷にあらず」といわれているように、大きな爆発音が京都にまでとどろいたのである。その被害は民家六十二区と八十余人に及んだといい、その七日後に、煙霧が晴れると三つの火山島が出現していたという。この三嶋の位置は、信尓村=敷根郷とすれば現在の国分市の沖の沖小島などの島であることになり、あるいは桜島の東南部、一九一四年の大噴火で溶岩が噴出した辺りであったともいう。

 この噴火記事は、この列島における火山活動を具体的に描いた初見史料としてきわめて貴重なものである。なにしろ京都まで爆音が聞こえ、海中に島が出現したというのであるから、人々は火山の神をもっとも強力な神霊と考えていたに違いない。そして、その霊威が、噴火、火山性地震、そして「雷」のような音あるいは鳴動のセットで三位一体のものとして描かれていることに注目しておきたい。実は、これは、以降の火山噴火史料のすべてに共通する点であって、人々が噴火というものをどうイメージしていたかを明瞭に示している。この時代、神はけっして頭の中に存在する抽象的な存在ではない。その意味で、それは自然神であり、しかも極めて荒々しく、現実に国土をゆるがし、社会を緊張させる存在なのである。

 また、さらに重要なのは、この火山島が「神造嶋」と呼ばれていたことである。その様子はあたかも神が「冶鋳」の仕業を営むようであり、遠望すると島のつながりが神の棲む「四阿」のようにみえたという。「四阿」は別荘を意味するのであろうから、おそらく神の本宅は、桜島ということになるのであろうか。ここには阿蘇火山についてふれたような、火山に神が棲むという観念があらわれている。

 そして、その神は「冶鋳」、つまり鍛冶のような能力をもつものとされている。しかも重大なのは、しばらく後の史料に「大隅国の海中に神造の嶋あり、其名は大穴持神といふ」とあって、この島を造成してそこに移ってきた神が大穴持神であったことがわかることである。これは奈良時代、人々がこの噴火を引き起こした地震の神の実態を大穴持命=オオナムチと考えていたことを示している。いうまでもなく、オオナムチとは因幡の白ウサギの神話でよく知られる大国主命の自然神としての本来の名前である。後にもふれるが、ここに、詳細な検討を必要とする日本神話論の根本問題があることは明らかだろう。

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