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« 火山地震110八世紀は中央構造線沿いの地震から火山噴火の活発期へ | トップページ | ケネディとサンダース、アメリカ大国意識の後退、 »

2016年5月 7日 (土)

火山地震111八・九世紀の肥後地震と大地動乱の時代

はじめに
 拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で述べたように、九世紀、八六九年(貞観一一)、陸奥海溝地震が起きたのと同じ年、肥後国で「地震・風水の災」が発生した。また肥後では八世紀、七四四年(天平一六)にも地震がおきている。八・九世紀は「大地動乱の時代」といってよい時代であるが、肥後=熊本は、その時期にもっとも多く地震災害をうけた地方の一つであるといってよい。

 そして、現在、二一世紀にも二〇一一年三月一一日におきた陸奥沖海溝大地震の五年後、二〇一六年四月一四日から熊本地震が発生した。よく知られているように、九世紀と二一世紀の陸奥海溝地震はほぼ同型・同規模の大地震である。そうだとすると、九世紀に肥後で発生した地震と、二一世紀に発生した熊本地震も、その発生のメカニズムや規模の点で似たものだったのではないかという問いが生まれる。

 歴史学の立場からそれを考えるために、まず、今年、二〇一六年の熊本地震が、どのような列島の地殻の動きの中で発生したのかについて地震学の見解を確認しておきたいが、この原稿を書いているいま、地震はいまも相当の勢いを保ったまま継続しており、熊本地震の分析・評価はまだ確定したものになっていない。それ故に、ここで引証するのは、熊本地震発生より前に、東北沖海溝大地震が日本列島におよぼす変動を論ずるなかで熊本地震のような地震の発生を予測した見解に限られることになる。そして、私のような分野外のものが承知していたのは、石橋克彦が、二〇一四年に執筆した『南海トラフ巨大地震』(岩波書店)において提出していた見解である。

 それを便宜三つに区分して私なりに紹介すると、第一は、地震によって日本海溝沿いの太平洋ー東北日本のプレート境界のアスペリティ(ザラザラした部分)が広範囲に剥離し、それによって震源域近辺の東北日本が大きく水平に東向きにすべった。三・一一でもっとも東に動いた牡鹿半島の平行移動距離はだいたい六メートル。それ以降も、だいたい毎年10センチづつ東に動いており、それは現在も止まっていない。これは関東地方における地震、あるいはいわゆる首都直下地震の発生に深い関係をもつ事態である。

 第二に、三・一一後におきたM5ほどより大きな地震はすべて東西圧縮力により発生している。三・一一後には、太平洋プレートは日本列島に大きな摩擦なく沈み込んでいると考えられる以上、このような東西圧縮力は太平洋プレートからでているというよりも、アムールプレート(ユーラシアプレートのマイクロプレート)の東進圧力によるというほかない。その意味で、北海道の日本海側から東北地方日本海沖を通って、糸魚川ー静岡構造線にいたるアムールプレート東縁変動帯における断層の動きが注意される。とくに注意すべきなのは、列島の地殻の下に北北西の方向に沈み込むフィリピン海プレートの圧力によって南海トラフ巨大地震が惹起された場合、それがこのアムールプレート東縁変動帯と接続する地域に影響をあたえ、地震が駿河湾奥に及ぶ可能性である。南海トラフ巨大地震の発現は多様性が大きいが、この点は留意しておく必要があるというのが石橋の一貫した主張である。

 第三に石橋が重視したのは、三・一一陸奥海溝地震の巨大な影響のもとで、西南日本のプレート衝突域においても、東西圧縮力による大地震が発生する可能性があることであった。これについては、肥後(熊本)地震を論ずる上でもっとも重要なので、原文を下記に引用しておく。

 日本海東縁変動帯と西南日本衝突域の広い範囲のどこかで、今後も東西圧縮力による大地震が複数発生する可能性がある。南海トラフ巨大地震が起こる前に北海道~東北~信越~北陸~中部~近畿~中国~九州地方で直下地震が発生し、中京圏、京都、大阪などでも大震災が生じる畏れも否定できない。またMTL(中央構造線)が紀伊半島~四国北部~伊予灘~別府湾で内陸巨大地震を起こす可能性もある(具体的にどこかは別の研究課題)。

 二〇一六年四月一四日より発生した熊本地震は、石橋のいう別府湾をさらに南西に下った熊本であった。しかし、熊本地震の発生は、大局的にいって、MTL(中央構造線)に関わって地震が起こる可能性があるという、この予測が具体化してしまったことを意味する。この予測は列島全体の地殻の変位をふまえたものだけに説得力がある。

 実際に、GPSによる地殻変位の計測結果を参照してみれば、日本列島の弓状弧には、その北半で巨大な力が働いている様子がわかる。日本列島の弓状弧には弓の内側、つまり日本列島の地質区分でいう「内帯」=日本海側から弓を押しつけて弓のそりを開くような緊張が走っているのである。さらに弓状弧の下半部には、その外側=「外帯」=四国沖の南海トラフの側からむしろ弓のそりを強める方向で巨大な力がかかっている。それが北北西に沈み込むフィリピン海プレートの力であることはいうまでもない。いわば列島には、それを全体として東に倒そうという力が働いているのであって、これが列島の地殻を緊張させ、その軸線である中央構造線を緊張させているのである。

 西日本から九州地方についてはさらに複雑で、熊本地震後にGPSによって地殻の変位の状況を計測した結果(西村卓也原図、朝日新聞デジタル四月一七日掲載、http://www.asahi.com/articles/ASJ4K04XDJ4JPLBJ00Z.html)によると、九州・四国にかけて北北西に沈み込むフィリピン海プレートの圧力をうけながら、それと拮抗するように西北から南南東にアムールプレートが進み、それによって九州島は中央部でねじられ、そこにクサビのような形をした別府ー島原地溝帯が開いている。とくに熊本より南ではアムールプレートの押す力がはっきりと南向きに働いて、このクサビを無理にでも開こうとしているかのようにみえる。
Mayukaki

 以上は素人の要約にすぎないが、これを列島を正面からみた人間の身体のイメージで、比喩的に表現してみると次のようになるであろうか。つまり、斜め上に上げた左手の手のひらが北海道、腕が東北地方、胸の部分が関東・東海・近畿地方、そして真横に出した右手の上腕部が中国地方、肱より先を下に向けた部分が九州島ということになる。現在、この列島に走っている緊張は、左手が外側に引っ張られ、右手の脇に下から強い圧力をかけられているという感じであろうか。これによって身体は左に傾こうとするが、それを避けるために体躯中軸線(中央構造線)に強い緊張が走っているという訳である。

 そして、九州島の北半部は右手の肱から先にあたろうか。そこを外側と内側から強く押されて、熊本の辺りで割れ目が入りそうになっているという感じである。そして、手首より先は外側から強い圧力をうけておされている。それは地名でいえば、ちょうど熊本と鹿児島の県境、昔の地名を使えば肥後国と薩摩国の国堺あたりにあたる。熊本地震は、この下腕の手首に近い部分が傷ついたということになる。
 この比喩を図に描いてみたが、これはあくまでも印象ということなので、ミスリーディングであろう部分は御許しを願うとして、ともかく、このような形で、剛体としての日本列島は太平洋・アムール・フィリピンなどのプレートの動きによって、列島中軸部、中央構造線に大きな緊張が走っているのであって、現在は、東北沖海溝大地震によって列島には強い緊張が走っており、二〇一六年熊本地震は、そういう状況のなかで起こったのである。これは八・九世紀も同じことではないだろうか。


Ⅰ肥後の「地震・風水」複合災害
肥後の被害地震の実在
 肥後では八世紀、七四四年(天平一六)に一度、八六九年(貞観一一)にもう一度、計二回の地震発生を伝える史料が残っている。前者の七四四年(天平一六)地震については、後にふれることとして、後者の八六九年(貞観一一)地震は「地震・風水の災」、つまり、地震と風雨の複合した災害であった*1。次ぎに史料原文から、この災害について述べた部分を載せる。
「又肥後国<尓>地震風水<乃>災有<天>、舎宅悉仆顛<利>、人民多流亡<多利>。如此之災<比>古来未聞<止>、故老等<毛>申<止>言上<多利>」
(読み下し)「また肥後国に地震・風水の災ひありて、舎宅ことごとく仆れ顛(くつがえ)り、人民多く流亡したり、かくのごとくの災ひ古来いまだ聞かずと、故老なども申すと言上したり」(『日本三代実録』貞観一一年一二月一四日条)
 ようするに肥後国で地震と風雨の複合した災害が起きて、多くの建物が倒壊し、人民が流浪せざるをえなくなった。古老たちは、こういう災害は聞いたことがないといっているというのである。
 この史料は、『日本三代実録』、つまり清和・陽成・光孝の三代の天皇の事績を記録した歴史書にのる、清和天皇が伊勢神宮に提出した「告文」(願文、祈祷文書)の一節である。この告文については、後に必要な部分の全体を再掲して詳しく点検するが、ここで確認しておくべきなのは、この一節が「去る六月以来、大宰府の度々に言上したらく」(「大宰府度々言上<多良久>」)という文言に続くものであることであろう。つまり、右の一節は告文作成の際に作られたものではなく、大宰府の報告(「言上」)の引用であって、その史料としての信頼性は高いということになる。
 なお、清和天皇の告文は、祝詞の文体(宣命体)なので、右の読み下しでは、小さく漢字で書かれた送りがなをひらがなに直して読みやすくしてある。宣命体はようするに倭語なので、読み方に慣れれば、その意味は漢文体よりも明確であることが多い。
 ところが、従来、武者金吉の『増訂大日本地震史料』と宇佐美龍夫の『被害地震総覧』などの地震史研究の基礎資料集は、『三代実録』ではなく、その抄略本の『日本紀略』によっていた。問題は『日本紀略』は宣命体をわざわざ送りがなを省いて漢文体に直してあることで、しかも右の一節については、後半部分も省略してある。そのために、『増訂大日本地震史料』は、「肥後国地震。風水災あり」というように、地震と風水の間を切って「肥後国に地震があった。風水の災が起こった」と解釈してしまった。「災」を起こしたのは「風水」だけであったという訳である。そのために、従来の解釈では、この肥後国災害において地震の被害が現実に存在し、その災害が「地震・風水の災ひ」という複合的な災害であることが見逃されていたのである*2。
 それを確認した上で、「地震・風水の災ひ」ということができる災害の記事を『三代実録』で探索すると、それは七月一四日に起きた災害のことであると考えられる。下記に、その日の『三代実録』を引用しておく。
十四日庚午。風雨。この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍・民居、顛倒(てんとう)するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭(ひろ)ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、数百里、陷ちて海となる。(『三代実録』貞観一一年七月一四日条)
(現代語訳)「十四日は(京都では)風雨。この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、海よりの六郡が水没してしまった。水が引いた後に、官庫の稲を探し拾ったが、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百里が沈んで海となった」
 季節は七月。この被害をもたらした「大風雨」は大規模な台風で、広範囲に土地が水没した。水没して海となった面積は、広さ「数百里」。「里」とは条里制の里(六町四方の格子状の区画)であるから、面積でいえば百里は六×六×一〇〇=三六〇〇町となる。水没面積はどんどん変化するから、あくまでも概数であり、「数百里」というのは曖昧だが、この時期の国家は意外と数字に敏感だから単なる文飾ではない。陸奥海溝地震でも「海を去ること数十百里、浩々としてその涯涘を弁ぜず」とあるが、この「数十百里」という数字にもそれなりの根拠があったのである。そこで、ここで「数百里」というのを少なく見積もって、たとえば「三百里」と仮定すると、総面積は一万八〇〇町ということになる。当時の肥後国の條里が引かれた耕地の面積は「二万三千五〇〇余町」という史料があるから*3、だいたい、その半分。条里制が設定できるような平野部の半分近いという異様な広さである。
 そして海の水が「漲ぎり溢ふれて、六郡を漂沒す。海より山に至る」という記述からすると、高潮は海辺の「六郡」に及んだ。肥後で海辺の郡といえば、北から、玉名・飽田・宇土・益城・八代・葦北・天草という七郡になるが、おそらくこのうち天草は島嶼として除かれているのであろう。地図をみれば、この水没した耕地の中心が玉名郡の菊池川流域、飽田郡の白川・緑川流域などの熊本平野の中心部であることは明らかである。「海より山に至る」というのは山際の内陸まで浸水したということである。
 さらに問題は、官舍や民居が多く顛倒して、多くの人畜が圧死したことである。また水が引いた後に、官庫の稲を探し拾ったが、半分以上が流失してしまったというのは、官稲をおさめた各郡郷の倉庫が半分以上も倒壊または半壊したということを意味する。これは台風にともなう突風や高潮の力による部分もあろうが、これだけの破壊には地震がともなっていると考えるのが自然ではないだろうか。この史料には「地震」という言葉は登場せず、事態を確定するためには、熊本平野での長期にわたる考古学的な災害痕跡の調査が必要である。その結論は現在のところわからないというほかないだろう。しかし、肥後国災害が「地震と風水の災」であるという史料的な明証がある以上、文献史学としては、これを当面の結論とせざるをえない。
肥後地震の実態と地盤沈降
 さらに考えなければならないのは、この災害のとき、地震のみでなく、熊本平野の断層による地盤沈下、あるいは波高は高くなかったとしても津波が一緒に起きた可能性である。ただし、これについては、文献に直接の根拠がある訳ではないから、あくまでも可能性のレヴェルの問題として検討することになる。
 いうまでもなく、巨大な台風が海面にかかる気圧を変化させることで高潮を発生させる。それが満潮と重なった場合に水害が激しくなることもいうまでもない。しかし、これだけの面積を水没させたとなると、そこに地震によって発生した津波や地盤沈下が相乗した可能性はあるだろう。「潮水、漲ぎり溢ふれ」というのは海水が高潮となって遡上する様子を語っているが、「津波」という言葉の初見は一六世紀なので、当時、津波という言葉はなかった。陸奥海溝地震でも津波は「海水暴に溢れて患をなし」などといわれていることに注意しておく必要がある。
 まず、地盤沈下からみていくと、すでに松田時彦「古地震研究における自然資料と歴史資料の関わり」(『地学雑誌108ー4、1999年)が、七四四年(天平一六)におきた肥後地震において八代海周辺に土地の広範囲な沈降が起きた可能性を指摘している*4。下記に史料を引用する。
五月庚戌(庚辰?)。肥後国に雷雨地震。八代・天草・葦北の三郡の官舍、并せて田二百九十余町、民家四百七十余区、人千五百廿余口、水を被りて漂没す。山崩るること二百八十余所。圧死せる人四十余人。並びに賑恤を加ふ(『続日本紀』巻十五。天平十六年五月)。
(現代語訳)「肥後国に雷雨と地震があった。八代・天草・葦北の三郡の官舍と、さらに田二百九十餘町、民家四百七十余区、人千五百廿余口が水を被って漂没した。山が崩れたのは二百八十余所。圧死した人は四十余人。すべて救恤の措置をとった」
 簡単に解説すると、七四四年地震の被害は、八六九年地震・風水災害が「六郡」に及んだのにくらべて、肥後の南西の八代・天草・葦北の三郡に集中していたことがわかる。この三郡は八代海周辺に位置し、八代海の九州島よりの北半が八代郡、南半が芦北郡、そして八代海の西側の天草諸島が天草郡である。現在、宇土半島南の八代市周辺は広く干拓が進んでいて平地が多いが、八世紀には、八代海沿岸はほとんどが山がちの海岸にそって狭小な海村が分布する地域であった。被害状況は、この八代海周辺の地勢をよく反映しているといってよい。
 宇佐美龍夫『被害地震総覧』は「山崩れを地震によるとするとM≒7.0となるか」としている*5。「雷雨」が重なったとしても、この場合、季節が旧暦五月であるから、九世紀のような台風とは考えることはできない*6。二百八十余所もの山崩れが報告されたというのは事実であろうから、マグニチュードはもう少し高い可能性もあるように思う。
 この山崩れによって、四〇人余が圧死したということになると、まず考えられるのは、八代・天草・葦北の三郡の山が海に迫っている狭小な平地に営まれた集落が山崩れの被害をうけたということであろう。田地の面積が二百九十余町と相対的に少ないのは、そのためであろうし、民家四百七十余区、人千五百廿余口が水を被って漂没したというのは、人口の多い海辺の集落がやられたということであろう。
 松田は、さらに八代海の北東から南西にかけて走る日奈久断層が地震によって沈降し、それによって被害が拡大したというのである。論文を引用すると「日奈久断層は、八代平野ー八代海と九州山地西縁を境する西側(平野側)低下の顕著な活断層である。(中略)被害の三郡はいずれも八代海沿岸にあり、日奈久断層にほぼ接している。日奈久断層は八代平野東縁にあって八代海沿岸の平野部を沈降させてきた断層であるから、史料がこの断層の活動による土地の広範囲な沈降を意味している可能性もある。八代海の沿岸では海底遺跡群が知られており(大矢野島周辺)、その中には須恵器・土師器のみで構成される遺跡があり、その水没は古代以後で、海水面の上下変動では説明できないものがあるという(山崎、一九七二)。これは歴史資料に記された天平十六年地震による土地の沈降を示唆している可能性があるが、現在それ以上の詳細な歴史資料も自然資料もなく、日奈久断層からの大地震の予測を困難にしている」ということである。
 六八四年の南海トラフ地震では土佐国の田苑が「五十余萬頃」(約一〇〇〇町)ほど「没して海となる」というということであるから、このような地盤沈降説は成り立ちうるものであろうと思う。
 ただ、松田が根拠とした報告(山崎純男「天草地方始源文化の一側面」『熊本史学』四〇、一九七二年)は中間報告であるが、たとえばその内の禿島海底遺跡で大量に発見されている布目瓦、軒平瓦は奈良時代末期のものとされており、七四四年(天平一六)に地盤が沈降したという想定とは齟齬している。また大矢野島は日奈久断層の通る八代海に面するというよりも、宇土半島先端部で、対岸に島原半島を臨んで有明海に近い島であることも問題であろう。日奈久断層とはあくまでも例示であろうが、地盤沈降がどこかで起きたとしても、三郡の全体で地盤沈降が起きたということになると、これは地盤沈降の史料としてはきわめて広い事例ということになる。それ故に、これのみで事態を解釈することはできるかどうかは、門外漢の私でも若干の疑問をもつ。松田の論文発表後、一五年以上が経ち、山崎の論文の発表後、四〇年経過した現在も、これらの海底遺跡の性格がまだ明瞭でないのは残念である。
肥後地震と津波の可能性 
 松田は八世紀の肥後地震について地盤沈降を述べるだけで、そこで津波が起きた可能性についてはふれていない。もし、そこで津波があったとすれば、いうまでもなく、八代海で発生したという想定になるだろう。山がちの狭小な海岸地帯を津波が襲えば、「水を被りて漂没す」という結果となって、史料の示すような被害がでたであろうことは想像にかたくない。これに対して九世紀、八六九年の「地震・風水」害で津波が発生したとすれば、水没した地域の中心が玉名郡・飽田郡である以上、津波は有明海で起きたことになるだろう。
 有明海における津波については、徳川時代の一七九二年四月一日に起きた雲仙普賢岳の東側の眉山の大崩壊によって発生した津波がある。これは地震史研究では「島原大変、肥後迷惑」といわれた著名な津波であって、都司嘉宣によれば、有明海中部の玉名市あたりでは津波の高さは六~八メートルに達し、熊本市に入ると一〇~一五メートルに達したという。浸水範囲も相当のものである(都司「島原大変の津波による熊本県側の被害」(『古地震を探る』)。
 ただ、これは山体崩壊に近い山崩れが発生して大量の土砂を海面に崩落させ、その圧力が津波となっるという例であって、都司によれば、このような津波は、一九五八年七月九日のアラスカのリツヤ湾内におきたフィヨルドの岸の崩壊による津波、一九七九年七月一八日のインドネシアのロンブレム島南岸ラバラムラン村付近の海岸崖の崩落によって起きた津波などのほかには、世界でも事例は多くないという。しかも、その珍しい例である眉山の崩壊は、直接的な原因は直下の地震であるが、全体としては雲仙普賢岳の噴火によって惹起されたものであり、九世紀には、そのような火山が関係する津波を考えることはできない。おそらく山体崩壊による津波の発生というシナリオもむずかしいだろう。
 それ故に、もし、九世紀肥後地震で津波が発生していたとすれば、それは第一には、どこかでプレート境界型の大地震が起き、その余波が遠浅の有明海や八代海で増幅されて、一定の高さの津波をもたらしたということだろう。二〇一一年三月一一日の東北沖海溝地震でも、天草市本渡港で七〇㎝、八代で二五㎝の津波が観測されており、低い波高の津波ならば考えられないことではない。正確なことは不明といわざるをえないが、それが高潮と相乗したとすれば、被害を説明することは可能かもしれない。
 第二は沿海の海底断層が津波を引き起こす可能性である。これについては、縦ずれ断層が分布する有明海ではその可能性は否定できないが、八代海では横ずれ断層が優越的で、海底地震が海水を盛り上げて津波を引き起こす可能性は少ないという。しかも、有明海や八代海のような遠浅の海で津波がおきるメカニズムについては、地震学的な考察がどうしても必要で、これは私の考察能力を越える問題である。有明海や八代海海底の断層については三納正美・岡村眞ほか「九州中部の橘湾および有明海の完新世海底活断層」(『日本地質学会第104年学術大会講演要旨』一九九七年)、千田・岡村ほか「八代海海底の活断層について」(『活断層研究』9,一九九一年)、山崎・岡村ほか「八代海北部地域における日奈久断層系海底活断層の完新世活動履歴の復元」(一九九九年)などがあるが、八世紀前後における断層の活動は特定されていない。
 もちろん、有明海や八代海沿岸の各地において、津波浸水の想定がされており、熊本県によって有明海から八代海沿岸の各地でハザード・マップが作成されている。津波の可能性を否定することはできず、八・九世紀における津波発生の存否は、その意味でも重要な問題であろうが、これについては今後の研究に期待するほかないという状況であろう。
 ただ、松田が論拠とした右の天草大矢野島が、「島原大変、肥後迷惑」の津波で被害をうけていることは興味深いことである。前記のように大矢野島の海底遺跡の遺物は奈良時代末期とされるから、七四四年地震による浸水は考えがたいかもしれないが、もし九世紀肥後地震が有明海に津波を引き起こしたとすれば、それを合理的に理解できることになるだろう。しかし、この津波の可能性という重大問題については、本稿のような文献史料を整合的に解釈することによって演繹するという手法に大きな限界があることは明らかであっる。当然のことながら、地震の規模や、それによる地盤沈降や津波の発生した可能性などを確定することは、ほとんど今後の地震学・地質学・考古学的な調査・研究にゆだねざるをえない。
 それ故に、本稿の当面の結論としては、肥後国災害が「地震と風水の災」であるという史料的な明証がある以上、そこで津波や地盤沈降がともなったかどうかは別として、台風と同時に地震が発生し、それが被害を拡大したであろうということまでに止めるほかはない。ただし、二一世紀の熊本地震をみていると、あるいはその地震は、台風の前後の一定の期間、一定の強さをもつ地震が群発したというものであったかもしれない。それによって「地震と風水の災」というイメージが強化された可能性を付言しておきたいと思う。
Ⅱ陸奥海溝地震と肥後地震の実態と伴善男の怨霊
 ただ、歴史学側としては、以上のような複合災害の概略を考慮した上で、史料に立ち戻り、この年、八六九年の政治史や社会史の文脈の中にそれらの史料を位置づけ直す作業が残っている。この年は陸奥海溝地震がおき、旱魃・疫病・飢饉の恐れも続いていて、祇園御霊会の原型が祭られた可能性も高い、災害の年であった。以下にみるように、そのなかで、肥後国の地震・風雨災害は何度も想起され続け、列島をおそう災害のなかで、その実態認識も深まっていったものと思われる。その過程を復元することで、上記のような議論の精度を若干でも増やすことを試みたいと思う。
陸奥海溝地震と肥後「地震・風水の災」
 まず「地震・風水の災ひ」というキーワードが登場する、この年一二月の清和天皇の「告文」(願文、祈祷文書)の冒頭部分を下記に引用する。
「十四日丁酉。使者を伊勢大神宮に遣はして奉幤す。告文に曰く、天皇が詔旨と、掛まくも畏き伊勢の度会の宇治の五十鈴の河上の下つ磐根に大宮柱廣敷き立て、高天の原に千木高知りて、稱言を竟へ奉つる天照坐皇大神の廣前に。恐れみ恐れみも申し賜へと申さく。去る六月以来、大宰府の度々に言上したらく、(1)新羅賊舟、二艘、筑前国那珂郡の荒津に到来して豊前国の貢調船の絹綿を掠奪して逃げ退きたり、(2)また庁楼兵庫などの上に大鳥の恠あるによって卜求するに、隣国の兵革の事あるべしと卜し申せり。(3)また肥後国に地震・風水の災ありて、舎宅ことごとく仆(たお)れ顛(くつがえ)り、人民多く流亡したり、かくのごとくの災ひ古来いまだ聞かずと、故老なども申すと言上したり。(4)しかる間に、陸奥国また常に異なる地震の災を言上したり。(5)自余の国々もまたすこぶる件の災ありと言上したり(さらに続く)」(『三代実録』貞観十一年十二月一四日条)
 冒頭に使者を伊勢神宮に遣わしたとあるように、この告文が提出されたのは伊勢神宮である。翌年二月にかけて、清和は石清水八幡宮、宇佐八幡宮、香椎廟、宗像大神などにもほぼ同文の告文を提出しているが、この伊勢神宮への告文は、清和が、この年の年末にあたって、多事であった年を振り返るというニュアンスをもっている。
 告文の最初は、祝詞的な前置きの文言となっているが、それにすぐ続く部分は「去る六月以来、大宰府の度々に言上したらく」となっている。つまり、大宰府の報告の引用と要約である。それは三つの部分に分かれており、まず(1)では、新羅商人による豊前貢調船の襲撃事件が述べられている。この事件は、この年の五月二二日に、新羅の商人と豊前国国司の間で紛議があり、新羅商人の船が博多津に停泊していた豊前の年貢を運ぶ貢調船を襲撃するというものであった。そして、(2)も内容としては対外関係のことであって、大宰府の庁楼の兵庫などの上に大鳥がきたという恠異があり、これを占ったところ「隣国の兵革の事」が予言されたというのである。
 そして、上記に引用した文章は、新羅商人と豊前国司の争いにふれて「彼の新羅人は我が日本国と久しき世時より相敵み來たり」と続いている。そして「我が日本朝はいわゆる神明之國なり」と述べ、「他國異類」の船を国境の外で「逐還し漂沒」することを願うというのが祈祷の趣旨となっているのである。「元寇」の時の神風の祈祷にまでつらなる、いわゆる神国思想である。この告文は、それをはじめて明瞭な形で述べたものとして、歴史家には非常に有名なものなのである(『黄金国家』)。
 この年の年末、清和天皇にとっての問題は新羅との国際関係の成り行きであったことになるが、しかし、実際には、清和がもっとも心配していたのは、それに続いて記された地震の問題であったろう。(1)(2)と匹敵する長さをもつ(3)(4)(5)の部分である。まず(3)が詳しくふれてきた肥後の「地震・風水の災ひ」についての一節である。そして(4)に「陸奥国また常に異なる地震の災を言上したり」とあるのが、五月二六日におきた陸奥海溝地震であることはいうまでもない。さらに注意しておきたいのは、(5)の「自余の国々もまたすこぶる件の災あり」という記事である。これは国名を特定できないものの、陸奥海溝地震の後の地殻の異常を示す史料としてきわめて貴重なものである。その基本部分は陸奥海溝地震に誘発されて、あるいはそれに続いて起きた諸国の地震であるに相違ない。
 こうして、この告文の全体をみると、そこで地震災害への言及が多いことが確かめられるのである。そして、この告文のなかでは、肥後地震は、陸奥海溝地震以外で唯一、相当の強さをもった被害地震とされているという以上に、陸奥海溝地震と並ぶものと位置づけられているのである。それは朝廷にとっては、多事であった八六九年の年末の実感であったのかもしれない。
陸奥海溝地震と肥後の「迅雨・坎徳」
 このような肥後国の複合災害と陸奥海溝地震をほぼ相並ぶ重さをもった脅威とする認識は、すでに、この年の一〇月、清和天皇が奥州地震津波と肥後地震水害について、相継いで発した詔勅にみてとることができる。
 まず、陸奥海溝地震については一〇月一三日に「陸奥国の境、地震もっとも甚だし、あるいは海水暴に溢れて患をなし、あるいは城宇頽圧して、殃を致すと。百姓、何の辜ありて、この禍毒に罹わんや。憮然として愧懼するに、責め深く予にあり」という詔が発せられている。
 そしてその一〇日後、一〇月二三日に肥後地震についても勅が発布される。これはいままで紹介していない史料なので、以下に全文を引用する。
 肥後国の災害についての勅の全文は次のようなものである。
この日、勅して曰く、妖は自ずからは作さず。その來ること由あり。霊譴は虚しからず、必らず粃政に応ず。聞くならく、肥後国、迅雨、暴をなし。坎徳、災をなす。田園これをもって淹傷し、里落、それにより蕩盡す。それ一物の所を失なはば、思ふに納隍を切り、千里も憂を分け、寄りて牧宰に帰す。疑ふらくはこれ、皇猷の猶お鬱するところありて、吏化の宜しきに乖き、方に失心を失ふによって、この変異を致すか。昔、周郊の偃苗(草?)は已を罪せしに感じて患を弭め、漢朝の壞室は、修徳を修むに拠りて、以って攘ふ。前事を忘れず、鑒を取ることここに在り。宜しく施こすに徳政を以てし、彼の凋殘を救ふべし。大宰府をして、その被害の尤っとも甚しき者には、遠年の稻穀四千斛をもって周ねくこれを給へ。勉めて存恤を加へ、失っせしむるなかれ。また壊垣・毀屋の下、あるところの残屍・乱骸は、早く收埋を加へ。暴露せしめざれ」(『三代実録』貞観十一年(八六九)十月廿三日)。
(現代語訳)「この日、天皇が勅していわれるには、天地の妖異は自然に生ずるものではなく、理由があってやってくるものだ。霊異による譴責はけっして虚しくなることはなく、必らず悪政(粃しき政)に反応するものだ。聞くところによると、肥後国では、天には迅雨が暴れまわり、地では水勢が災をなしている。田園は水に覆われ破壊され、村落は払い尽くされた。そもそも一物でも所を失なへば、戒め思ふことは溝壕を切るようでなければならず、千里も憂愁を分けて牧宰が負担すべきものであるという。私が疑ふのは、このような災害は、皇猷のなお鬱するところがあって、吏化が宜しきに乖き、まさに心を失ふによって、この変異が生じたものであろうか。昔、周の文王が民草を従え災いが止んだのは自己の罪を認める姿勢のためだし、漢朝は美室を壊して徳を修めたことによって災を攘った。このような前例を忘れず鑑とすることが大事だ。よろしく徳政を施こして、この凋落の状態を救わねばならない。よって大宰府に命じて、その被害の尤っとも甚しい者には、遠年の稻穀四千斛を広く給付し、勉めて存恤を加えよ。失っせしむることがあってはならない。また壊垣・毀屋の下に放置されている残屍・乱骸は、早く收めて埋葬し、暴露したままにすることがないようにせよ」
 この勅は長文だが、「壊垣・毀屋の下、あるところの残屍・乱骸は、早く收埋を加へ」という部分が、相当数の人々の圧死を示唆するほかは災害の具体的分析には使いにくい。強いて問題にできるとすれば「迅雨、暴をなし。坎徳、災をなす。田園これをもって淹傷し、里落、それにより蕩盡す」という部分が水害を強調している点だが、それも多義的に解釈できる。たとえば、諸橋轍次『大漢和辞典』によれば「坎徳」という語の「坎」の原義は「穴」「谷や川などの神を祭るために掘った穴」であるから、この一節は、天が「迅雨」、地が「坎徳」という対語をなし、水害の誘因が天と大地の双方にあったことを示している。「坎徳」とは水の威勢、「水徳」ではあるが、大地との関係を無視できないのではないか。
 また「昔、周郊の偃苗は已を罪せしに感じて患を弭め」という一節は、周の文王が、周の都の郊外で地震が発生したとき、「我れ必ず罪あるが故に天の此をもって我れを罰するなり」といい、その徳を高めることによって地震の抑制に成功したという『呂氏春秋』の説話を典拠としている。勅の起草者は肥後の災害の中に地震をみていたのかもしれない。陸奥地震についての詔勅の「責め深く予にあり」という表現も、この周の文王の説話からとったものであって、聖武天皇が七三四年の河内大和地震についての詔勅で使用して以来、地震関係の詔勅にはしばしば登場するものである。
 この勅は中国的な「徳政」や天譴思想の典拠の文章を技巧的に使い回して作文した傾きが強く災害の実態を論ずる上では使えないといえよう。むしろこの勅について注目すべきことは、一二月の清和天皇の告文が祝詞によって陸奥海溝地震と肥後地震を相並ぶものと描き出したのに対して、この勅が最大限に儒教的な中国風の文体によって陸奥海溝地震と肥後地震風水災害を相並ぶものとして描き出している点であろう。これは一種の儀式にきわめて近いものとみた方がよい。この勅と陸奥海溝地震についての詔を読み比べてみると、同じ文筆官僚の作文ではないかとさも思えるのである。
妖異のもたらす災害
 一〇月の詔勅発布と、一二月の伊勢神宮への告文の奉呈は、朝廷が、奥州の地震津波と、肥後の地震水害がほぼ同時に相継いで列島をおそったことから受けた衝撃を、別の形で繰り返したものだったのである。朝廷はその衝撃を年末一二月には伊勢神宮への宣命体の告文によって、一〇月には中国風の漢文の詔勅によって表現したといえよう。
 伊勢神宮への告文には神道的な「神国思想」が、二通の詔勅には儒教的な「徳政」の理念が強調されているのが興味深いところである。しかし、そのように形は異なるものの、朝廷は自己をおびやかす強力な妖異が全国でうごめいていると感じたのではないだろうか。つまり、まず伊勢神宮への告文の最後の部分には「國家の大禍」を「払ひ却ぞけ」ることが祈願されている(該当部分の原文は注記に掲げた*7)。そこでで祓われる「大禍」とは「大禍津日神」、世の中の穢と疫気などの禍々しいもののすべてを負っている神であって、具体的な神格としては「素戔鳴尊」と同体であり、祇園御霊会で祭られる牛頭天王である。素戔嗚尊が穢れをエネルギーとする地震の神であることはいうまでもない。
 次ぎに儒教的な詔勅のうち、陸奥海溝地震についての詔には「禍毒」という言葉があらわれるが、肥後の「地震風水の災」の冒頭は「この日、勅して曰く、妖は自ずからは作さず。その來ること由あり」と始まっている。この妖とは「天変地妖」などといわれる中国的な「妖」の語法である。
 ここでいわれる「大禍」と「妖」は文脈や表現は異なるものの、ようするに同じ妖異である。年末の伊勢神宮への祈祷と、一〇月の詔勅の発布は、どちらも列島に跳梁する「妖異」に対する対処として一貫して理解すべきものなのである。
 この事情をもっともよく示すのが、実際上、妖異からの守護においてもっとも威力をもっていると考えられていた仏教呪術が、年末一二月にも、一〇月にも併修されていたことである。まず、年末の伊勢神宮への告文の奉呈では、その約一〇日後、年末二三日、清和の朝廷は、全国で金剛般若経の転読を行うように令している。その趣旨はまさに「地震・風水の災を謝し、隣兵の隙を窺うの寇を厭ふ」というものであった。そして、一〇月には、一〇月一三日に陸奥海溝地震についての詔を出した、一〇日後、一〇月二三日、つまり、肥後「地震・風水」害についての勅を出した日と同日に、紫宸殿において僧侶六〇人を動員して、以降三日間、大般若経の転読が行われている。
 ここには「神道」と「儒教」と「仏教」の出会いがあるといってよいのかもしれない。大般若経の転読は、たとえば、七七五年(宝亀六)には光仁天皇の妻・井上内親王が幽閉場所で死去した後に地震が続き、朝廷は大般若経の転読を行い、「風雨と地震」の恠異を払う大祓を行っている。この清和天皇による大般若転読もそれと同じことである。
 朝廷は、奥州の地震津波と、肥後の地震水害がほぼ同時に列島をおそったことから大きな衝撃を受けたに違いないと思う。清和の宮廷では「風雨と地震」の妖異への黒々とした不安が強まるばかりだった。そして、その中での災害認識の深まりこそが、すでにみた一二月段階での清和の告文が「肥後国に地震・風水の災あり」「陸奥国また常に異なる地震の災を言上したり」「自余の国々もまたすこぶる件の災あり」という形で地震災害を強調する結果をもたらしたのであろう。当時の朝廷は、年末には、陸奥海溝地震と肥後の「地震・風水」害のもつ意味のみでなく、その災害として性格や大きさをほぼ匹敵するものと考えるようになったのであろう。これは現在に引きつけていえば、東北沖海溝大地震と同じ年に熊本地震が列島をおそったというように考えれば事態の理解はしやすいかもしれない。
内裏落雷と肥後暴風
 問題は、このような災害認識の動きが、七月一四日におきた肥後の「地震・風水」害に起点を置いていたことが明らかなことである。
 つまり、七月一四日の「大風雨」災害を、同じように、その前後の『三代実録』の文脈のなかに位置づけてみると、まず何よりも興味深いのは、先に引用してある『三代実録』の七月一四日条が「十四日庚午。風雨」、つまり京都も風雨であったと書き出されていることである。しかも、少し前から点検してみると、まず六日の夜に「月、心前星を犯す」という変異が起き、翌七日には京都で地震が感じられ、八日には大和の椋橋山の麓の崩落が発見されるとともに、夜には月が南斗魁中を犯し入り、一三日には雷雨で、しかも武徳殿の前の松に落雷したという事件が起こったという。この武徳殿とは内裏の宴の松原の西に位置する殿舎だから、落雷の音響は直接に玉体に響いたのである。近衛を初めとする武人が急遽参上し、天皇を守るために、その身辺に雷鳴陣をしいたという大事件である。一四日の風雨というのは、その雷雨・落雷に連続する風雨であったことになる。また七日に、小さいものであったにしても、京都で地震があったことも重要であろう。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、台風、そしてそれにともなう雷雨が地震と同じ妖異と考えられていたことも想起されたい。地震の起きる理由を地殻の運動にそくして理解することのむずかしかった当時の人々は、雷電が大地を揺らすという既知の知識と経験にそくして地震を理解した。落雷は地盤を揺らすから、その落雷を起こすことができる雷神こそが地震を引き起こすのだという論理である。
 朝廷は、この緊張に耐えかねたに違いない。一八日に僧侶六〇人を動員して紫宸殿で、三日間、つまり二〇日まで大般若経の転読を行った。大般若経の転読というのは、そんなに頻繁に行われることではない。しかし、その効果なく、二六日夜には、大風暴雨が樹を抜き、屋根を飛ばし、京都に大きな被害を及ぼしたのである。おそらく、朝廷は、これによって「風雨と地震」の妖異が列島の上をうごめいていることを確信したということになろうか。
 これが約三ヶ月後の一〇月二三日の大般若経の転読、そしてその二ヶ月後、年末十二月二三日の全国で金剛般若経を転読せよという命令に直接につながったのである。その趣旨が「地震・風水の災を謝し、隣兵の隙を窺うの寇を厭ふ」というものであったことは先に述べた通りである。ともかく、『三代実録』の七月一四日条を中心とした肥後「地震・風水」害についての記述と一〇月二三日の肥後災害についての勅、そして一二月一四日の伊勢神宮への告文は、どれも同じ肥後国災害を対象としていたことは明らかである。『三代実録』の七月一四日条の肥後「地震・風水の災ひ」の記事には地震という言葉が明瞭に登場している訳ではなかったが、同じ災害について年末の告文が「地震・風水の災ひ」といっていることを無視すべきではないことは明らかであろう。
 しかも、こう考えてくると、私には『三代実録』の七月一四日条が地震や津波よりも、「大風雨」が強調されているおぼろげな事情もみえてくるように思う。つまり、七月一四日の肥後の災害が大水害であったことが、いつ朝廷に報告されたかは史料の欠如により不明である。しかし、たとえば大宰府からの報告が八月半ばになったとしても、大般若経の転読まで行っていた以上、朝廷は、同じ十四日に京都で内裏に落雷があり、雷神の妖異が玉体を襲ったことを想起したに相違ない。大般若経の転読が終わったのは、二〇日、それにも関わらず京都を大暴風雨がおそったのは二六日のことであった。その記憶は鮮明であったに違いないのである。
 私は『三代実録』の七月一四日条の原拠となった文献の記述は、そういう状況の中で書かれたに相違ないと思う。『三代実録』の描く七月一四日の肥後の災害のイメージにおいて、まず大風雨の印象が強調された可能性は高いのである。もちろん、『三代実録』の編者が、編纂にあたって、それをどこまで意識したかはわからないが、編纂の材料となった記録それ自体に、そのような京都の経験の記憶が刻まれていたのである。
 こういう災害認識の流れからすると、やはり、七月一四日の肥後の災害は「地震と風水」の両方が同時に発生していたと考えるのが適当であろう。「地震・風水の災」という認識は十二月の伊勢神宮への清和天皇の告文に記されたものではあるが、現地の大宰府が「度々に言上」した報告であって史料価値は高いのである。
妖異の正体ーー伴善雄
 なお、これだけ強い「風雨と地震」の妖異という強迫観念が一貫して存在していることには特別の事情があった。『歴史のなかの大地動乱』で述べたように、この時期の地震・落雷などの災害は、八六六年(貞観八)に発生した応天門炎上事件の犯人に擬せられて伊豆で死去した大納言伴善男の怨霊によるものと疑われていたのである。彼は配流の二年後、八六八年に伊豆で恨みを呑んで死去したが、その年にちょうど播磨地震(山崎断層の地震、M7以上)が起き、そして、この年、八六九年に陸奥海溝地震(M9?)が起きたのである。清和天皇は、この伴善男の怨霊に対する強い畏怖をもっていたのである。
 このような想定をしてみると、この経過が政治史の側面からみてもきわめて興味深い問題につらなっている可能性が生まれる。(以下省略)
*1なお、従来は、この八六九年(貞観一一)地震が実在していたこと、あるいは被害を及ぼすような強度をもった地震であったことを疑う見解が一般的であった。地震学者が歴史地震を総覧した代表的な仕事は、武者金吉の『増訂大日本地震史料』と宇佐美龍夫の『被害地震総覧』であるが、まず『増訂大日本地震史料』は「貞観十一年十二月一四日、肥後国地震フ」という見出しを立てて、『日本紀略』の同日条から「又肥後国地震、風水有災、舎宅悉仆顛云々」という部分を(最後の「云々」を除いて)載せている。これは被害地震の存在を認めるかのようであるが、武者はそれに注記して「記事簡にして詳かならねど、「舎宅悉仆顛」は大風によるものの如く思はる」とした。史料の読み方としては、「肥後国地震。風水災あり。舎宅ことごとく仆(たお)れ顛(くつがえ)り」というように、地震と風水の間を切るという解釈である。つまり、肥後国では「地震」と「風水」(大風洪水)があったが、後者の大風によって舎宅の被害がでたと、この史料を読んだである。武者は、これによって、地震が被害地震であることを否定したのである。
 宇佐美龍夫の『被害地震総覧』も、ほぼこの見解を継承しており、『日本紀略』を引用して「被害は地震によるものか、風水によるものか不明。風水による可能性を考えて無番号とする」としている。宇佐美の『被害地震総覧』において「無番号」とは、「被害が小さいか、あるいは地震かどうか疑わしいもの」を意味する。つまり宇佐美も地震が被害地震としての強さをもっていることを否定したのである。
*2「地震・風水の災」において「災」は「地震」にも「風水」にもかかるのであって、地震と風水の関係は同格の関係で読むほかない。ただし、それを確認した上でも、この肥後国災害における「地震の災」と「風水の災」の関係には問題が残る。まず武者や宇佐美のような読みは無理としても、地震被害よりも暴風雨被害の方が大きかったという可能性は存在する。また「地震の災」と「風水の災」は同時に発生したのか、あるいは別個に発生して、おのおの災害をもたらしたのかという問題も提起しうるとは考える。つまり、七月に発生した大風雨=台風に続いて、たとえば八月に地震が起き、それが長く続いて被害が拡大したと読むこともできる。そういう大風雨と地震の連続を「古来いまだ聞かず」といったという解釈である。しかし、たとえば八月に相当に大きな地震があったとすれば、大宰府や肥後国は地震を報告したはずであって、『三代実録』はその地震の記事を別個に載せたのではないか。『三代実録』はある程度の被害地震については掲載していることに注意したい。結局、私は、この災害の二つの要因は同時に発生したものと考えた方が「肥後国に地震・風水の災ありて、舎宅ことごとく仆れ顛り、人民多く流亡したり、かくのごとくの災ひ古来いまだ聞かずと、故老なども申すと言上したり」という史料の自然な読みであろうと考える。また後に述べる肥後「地震・風水」災害の史料の全体の理解からもそれが適当であろうと考える。
*3『和名抄』(一〇世紀成立)に記された肥後国の本田数。なお本田数が実際に耕作されている田地という意味でないことは戸田芳実の仕事(「中世初期農業の一特質」『日本領主制成立史の研究』一九六七年)以来明らかであるが、私は、条里制が敷かれた土地、すなわち「地本」と呼ばれる土地(保立「土地範疇と地頭領主権」『『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、二〇一五年)の広さであると考えている。
*4なお、八六九年の「地震・風水」害で地盤沈降が発生したとすれば、地盤沈降は熊本平野で発生したことになるが、そのような可能性を指摘した論文は管見に入らなかった。
*5実は宇佐美龍夫『被害地震総覧』は、この地震についても慎重に雷雨の影響を考慮し、被害地震番号を付さず、被害地震であることを留保しているが、それでも「雷雨と地震が発生したと考え、山崩れを地震によるとするとM≒7.0となるか」としており、史料の文面からみて、この地震が相当の強さをもった被害地震であることを認めているようである。
*6ただ、『続日本紀』には「五月庚戌」とあるが、五月には庚戌はなく、これは注釈では庚辰=十八日の誤りかといわれている。あるいは、そうではなく、庚戌を生かして、たとえば翌六月一九日(庚戌)あるいは八月二〇日(庚戌)を誤って五月に置いたと考えれば、実際には台風の季節であったと考えることはできるが、それはここではとらない。
*7「国家の大禍、百姓の深き憂ひともあるべからむをば、みな悉く、未然の外に払ひ却ぞけ、鎖し滅ぼし賜て、天下に躁驚なく、国内平安に鎮護り、救助け賜ひ、皇御孫命の御體を常磐・堅磐に天地と日月とともに、夜の護り、晝の護りに幸はへ矜み奉り給へと、恐み恐みも申し賜はくと申す」。これについては『歴史のなかの大地動乱』で詳しく論じた。

この文章は現在の歴史学界の状況と慣習からいって、本来は論文として活字で発表するべきものと思います。ただ基本部分は、以前、書いたことであり、それへの追補でもあります。また、熊本地震の状況を考えて公表したいと考えました。このような文章が何の役に立つものかはわかりませんが、研究の結果を提供することは一つの職責であろうとも考えるという立場で歴史学を考えてきましたので御許しください。同じ列島に今棲んでいるという自然からの規定をうける人間が、その限りでもつ公共圏の在り方が「民族」というのもの即物的な内容をなしていると私は考えますが、そういう意味では民族的な感情というものをもちます。なお、この文章は地震学や地質学からの点検が必要な箇所を含んでおり、また今後の文献史学や考古学の研究によっては改訂されるところも多いと思います。とくに考古学の立場からの研究で見落としているものが多いのではないかと恐れます。そのような留保のある文章であることを御理解ください。

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