日本史の時代名と時代区分
以下は友人との勉強会でくばったもの。
私は、『平安時代』(岩波ジュニア新書)という高校生向けの本を書いた時、たとえば、薬子の乱とせず、実態に近い平城上皇クーデター事件とした。また『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を書いたときも貞観津波とせず、九世紀陸奥沖海溝地震とした。政治史上の事件について元号を使用することも余計な記憶負荷をかけるのでやめた方がよいと思う。
たとえば保元の乱は崇徳天皇クーデター事件でよいし、平治の乱は『平家物語』のいうとおりに二条天皇重婚事件でよいと思う。そもそも歴史教育にとって、不要な固有名詞を削ることは死活問題であろう。遠山茂樹氏の「共有財産論」は、民族の歴史的な知識の現実をどうみるか、人が生きていくための知識体系のなかで歴史意識の位置はどこにあるかを明らかにすることを要求している。それはたんに学者と教師と子どもの関係のなかで処理できる問題ではなく、より広く歴史知識の社会的な用語法、ターミノロジーをどうするかという知識社会学的な問題に関わってくる。
ここでは、時代名について考えてみたいが、私はかって「時代区分論の現在――世界史上の中世と諸社会構成」(『史海』五二号、学芸大学歴史研究室、二〇〇五年)で、「古代・中世・近世・近代」という用語は、現状では定義も不明瞭な通俗概念にすぎないので使用をやめた方がよいとしたことがある。ただ、その上で、各時代の名称というものはやはり知識として必要だろう。そこで、ここでは「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という時代名称を提案してみたい。
順次に説明すると、まず古墳時代は三世紀初頭の卑弥呼の擁立が箸墓古墳に結果したという意味で卑弥呼期から始まり (四世紀半ばまで) 、大和の北に墳墓がうつる佐紀王朝期を挟んで広い意味での河内王朝期(五~六世紀)までである。河内王朝論には議論があるが、白石太一郎『古墳とヤマト政権』にそって再評価することが「万世一系の天皇」というイメージを支える大和中心史観をやぶるために必要だと考えている。前方後円墳が火山神話を表現している(「日本の国の形と地震史・火山史」『震災学』七号)ことからすると神話時代といってもよい。
次の大和時代という用語は、だいたい七世紀から八世紀まで、飛鳥時代と奈良時代をあわせた時代をいう。六世紀末に前方後円墳の築造が終了して、西国を中心とする部族連合国家(「西国国家」)が文明化の道を歩み出し、上宮王家や舒明王統が大和を直接掌握する時代である。七世紀はおおざっぱにいって舒明(在位は六二九~六四一)、その妻皇極(六四二年踐祚。六五五年に重祚して斉明) の王統が安定した時代であって、その二人の息子天智(在位六六一~六七一)・天武(在位六七二~六八九)の時代が続く。そこでは皇極=斉明の位置は大きく、この時代はいわば天智がそのマザーコンプレクスを解消すると同時に兄弟喧嘩の種をまく母子王朝の時代と考えている(その趣旨の一部は「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』十八号、中部大学編で書いた)。それは天武・大友の近江戦争(壬申の乱)を引き起こし、八世紀も激しい王家内紛が続く。その内紛は天武と持統(天智の娘)の血を引く嫡系王子(つまり天武の血と持統を通じた天智の血をひく王子)にのみ王位を継がせ、他を排除したことに根ざしたものである。
「飛鳥時代→奈良時代」という図式は、この時代の連続性を分断してしまう。とくに一〇〇年にたらぬ平城京の時期を「奈良時代」というのは、 「古代」 に特権的な位置をあたえる手あかのついた日本史イデオロギーの表現であって賛成できない。
次の山城時代は天武王統の自壊の後、桓武の長岡京遷都に始まる時代であって、それはすぐに「平安遷都」に連続する。時代呼称としては長岡京遷都以降を「山城時代」とした方がすっきりする。私は、この時代の国家形態を都市王権と呼んでいるが、そこでいう「都市域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。そもそも平安時代という用語は実態と無関係で無意味な用語である。この時代は九世紀から十世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まる王権内部の激しい対立に特徴づけられる怨霊期、その次ぎは冷泉・円融の二回の兄弟間の王統の迭立期(道長の時代はそれを解消する過渡期)、そして後三条以降の王家内部で激しい親子間の対立(後三条―白川、白川―鳥羽―崇徳、後白川―高倉など)がおこる院政期にいたる。そのなかで国家の本格的な軍事化が進展し、源平合戦から後鳥羽クーデタ(承久の乱)でそれが完成するが、この清盛・頼朝期で山城時代は終わる (これは石井進「院政時代」 のとらえ方に近い)。四〇〇年以上にわたる長い時代となるのが扱いにくいが、それは「平安時代」でも同じである。
大和・山城の二つの時代を教えるにあたっては、王家の内紛をきちんと教えるべきである。たとえばヨーロッパや中国などでは、歴史知識のなかに、王家の内紛や交替、いわばハムレット的な問題がかならず位置づけられている。それが歴史教育の中に位置づけられないことこそ異様な風景であって、そこには無意識に「万世一系」の論理が貫徹しているというほかない。
なお、時代区分は政治史を中心にするべきだが、もちろん、それだけでよいというのではない。私は昨年出版した『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房)の序論で、基本的には八世紀から十三世紀初頭(承久の乱まで)を王朝国家、それ以降を武臣国家とすると述べた。王朝国家は邪馬台国以来の「西国国家」の本質をもっているが、その末期の軍事化と内戦が強力な武装地域権力を各地に生み出した。これは一種の地域ブロック権力であるが、それらを統合した武臣が天皇=「旧王」の下で覇権を握り、身分的にも「覇王」としての実質を深めることになる。重要なのは、平清盛や源頼朝を特権化して語るのではなく、そういう覇王という観点から、ただの過渡的な存在として即物的に説明することである。
以上、山城時代までは前近代の国家形態を強く規定する地域性に着目する時代名称となる。これに対して、以降の武臣国家段階は、覇王の氏族名で表記するのがよい。それを前提として、これまでの用語法の難点を指摘しておくと、まず鎌倉時代というのは武家権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。北条氏の権力は明らかに全国的なものである。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化される。
また、室町時代については、子供たちに「室町」という言葉を覚えてもらう必要はどこにもない。たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。それなのに、なぜ「室町時代」が一般化したかといえば、これは「足利尊氏」が逆賊イメージとされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないかというのが私の疑いである。
「室町」という語には「都」は京都を中心とするという俗物的な中央意識がかいまみえる。これは井上章一氏との対談(「歴史対談、東と西――やはり日本に古代はなかった」『HUMAN』八号、二〇一六年一月、人間文化研究機構)で考えたのだが、対談後、井上氏から、次の「安土桃山時代」という時代名称にも大阪城と大阪を無視する中央根性があるという意見をうかがった。「古代」の河内王朝論がなかなか進展しない状況をみていても、この国の支配的な歴史常識のなかには、畿内の中枢をしめる大阪平野を無視する伝統が流れているのではないかというのが、私の疑いである。
「徳川時代」についても同じ理由で、徳川家を時代名称にもってくるのが適当であろうということになる。「江戸時代」という用語は東京バイアスがある言葉で、関西の歴史家には「徳川時代」という用語を使う人が多い。徳川が東海地方出自であることは、幕藩制社会の歴史像を考える上でも大きな意味があるので、私は実態論としてもこの呼称が適当であると考えている。
さて駆け足で、おそらく容易に賛同をえられないであろう見解を述べてきたが、最後に強調しておきたいのは、こういう時代呼称をもし採用する場合には、時代の移行期となる源平内戦、南北朝内戦、戦国期内戦を十分に位置づけることが重要であろうことである。その場合、「内乱」という事大主義的な言葉を使用せず、内戦の悲惨さが徐々に増大してくる様子をザッハリッヒに語ることが必要なのは、藤木久志(『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書)がいう通りである。