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2016年7月 1日 (金)

グローバル経済と超帝国主義ーネグリの『帝国』をどう読むか

 ネグリの『帝国』をどう読むかを先週から考えている。ハーバートからでた『帝国』はさすがに私などには面白い。アメリカの学界が歓迎し、一時非常にはやった理由もわかるような気がする。

 例によって時季はずれだが、私自身の仕事との関係では、私は8世紀までは日本列島上の国家は「民族複合国家」であると考えているので、帝国が人種的区分を重要な要素としているという『帝国』の議論が面白いのである。訳本の247頁は歴史理論でつかえると思う。

 しかし、木畑洋一氏の『20世紀の歴史』(岩波新書)はネグリへの評価が低い。また柄谷行人氏の『世界史の構造』でも評価が低い。私も、下記のように批判はあるのだが、ネグリの議論の開拓者としての位置はあるのではないかと思う。

 下記が一応の総論のようなもので、批判が表にでるが使えるところは他にもあると思う。

 アメリカは民族複合国家であって、国民国家であったことはない。アメリカ帝国は「国民国家」として帝国であったことはないのである。アメリカが世界の帝国的な構造の中枢にいることは明らかだが、その帝国的な構造それ自体はアメリカをふくめた個別の国家を超えて、むしろ国家と国家の隙間の時空に広がっているもので、それは二〇世紀前半までの帝国主義とは異なるもの、いわば超帝国主義というべき実態をもっている。

 経済のグローバル化ということは、たとえばアメリカ・ヨーロッパ・日本などの経済が世界経済をグローバルに動かしているということではない。そこではすでに個別の国家が単位ではなく、経済活動を動かす主体自身が国際資本そのものとなっている。多国籍企業というのは、国籍を前提とした表現だが、資本はそれ自身は国籍を意識しておらず、それを超越する場、「国」と「国」の境界領域を自分たちの棲処にしている。

 こういうグローバル経済の在り方を超帝国主義と名づけるのは、それが個々の国の「帝国主義」を超える存在だからである。それはよく知られた二〇世紀後半の資本主義の情報化にともなって成立したものであって、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』が指摘したように、アメリカのように巨大な国家も、国家として現代の「帝国」=「超帝国主義」を統御している訳ではない。ネグリの言い方では、「帝国」は「権力の領域的な中心」をもたない。「帝国」はグローバルな領域の全体、その隅々にまで宿っている。「帝国」の主権の空間はグローバルに均質で滑らかであって、そういう平滑空間のなかには「権力の場所」は存在しないということになる。

 私は、このような世界資本主義の状況を「超帝国主義」という言葉で表現することができると考える。ネグリの「帝国」論には、以下に述べるような色々な問題がはらまれているが、しかし、それは超帝国主義の特徴をよく捉えたものとして画期的な意味をもっていると思う。しかし、問題は、だからといって、アメリカのような個別の国家が「帝国主義」でなくなったと結論していいのかどうかということである。私はそんなことはないと思う。ネグリのいう「帝国」=私のいう「超帝国主義」と個別の国家世界は別のレヴェルの存在なのであって、ネグリのようにすべてを「帝国」という言葉で一括してしまえば、その「帝国」が実際には複雑な構造をもっていることが見逃されてしまう。

 「帝国」=超帝国主義の側からみれば、たしかにその空間はグローバルに均質で滑らかにみえて、外側をもたずに閉じているようにみえる。しかし、その空間は透明ではあっても無色であるという訳ではない。「帝国」が国家の境界領域から発生した以上、そこには異なる出所を示す各国の国旗の青・赤・白・黄色など色の母斑が残っており、それが混じり合い、急速に動き回っているために無色・透明にみえるにすぎない。たしかに超帝国主義こそが世界的主体=主権を掌握していることはネグリのいう通りの事実であって、その前提となった個別の国家の帝国主義は表面から退いている。しかし、注意すべきことは決してそれ自身が消滅した訳ではないことである。それは論理的な筋を通すということを重視するあまり、ネグリの目から外れてしまったことだが、ネグリ自身もグローバル経済の主体=主権の位置にある「帝国」を「一つの筋に貫かれ統合された国家的であると同時に超国家的な支配組織」と説明しているように、「帝国」は、その下部に存在する複数の帝国主義的あるいは軍国主義的な国家を動かす筋を確保しているのである。そういう複数の帝国主義が実際にはいまだに実態としては強固に生き延びているという側面からいえば、「帝国」の下位空間には歴史家の栗田禎子がサミール・アミーンの提言にもとづいて議論を進めている「集団的帝国主義」というべきもの実在しているのである。歴史学としては帝国主義的なシステムが、世界的な資本主義の情報化のなかで、現在、ネグリのいう「帝国」が主権を握る方向に展開しているのだとみた方が、歴史の現実には適合的であると考えるのである。

 なお、ここでいう「超帝国主義」という概念は、二〇世紀初頭、ドイツ社会民主主義の代表であったカール・カウッキーが展開した「超帝国主義」論とは用語は同じでも内容はまったく異なっていることである。カウッキーの「超帝国主義」論は「一九世紀末期における世界全体の植民地分割の終了によって個別の帝国主義は眠り込んで、消滅して国際的な政治経済的な組織体に変身した。そこに「平和」の条件を期待することができる」というものである。それはレーニンの厳しい批判をうけたように、第一次大戦が帝国主義戦争として展開されたことを隠し、「祖国擁護」という名のもとにドイツ社会民主党が戦争協力の道に入っていく上で決定的な役割を果たした。私のいう超帝国主義とは、現代に戦争状況を惹起する根本に位置するものであって、その点でカウッキーとはまったく異なった見地である。この点で、歴史家からいえば信じられないのは、ネグリが、このカウッキーの「超帝国主義」を批判する作業をしていないことであって、それはカウッキー批判は常識だということではすまない問題であろう。ネグリの発想は、「帝国」の成立によって個別国家の帝国主義の持続を無視する点ではカウッキーと類似してくるのである。

 以上、現在の世界資本主義は、グローバルな超帝国主義と強固に生き延びていると数の帝国主義、そしてそれが超帝国主義の主権の下で統合されている国家的であると同時に超国家的な支配組織という複合的な構造をとっているのである。

 グローバル資本主義、超帝国主義の運動する空間は均質、透明・無色にみえて、外側をもたずに閉じているようにみえる。普通の生活者にはみえない世界である。そもそも生活者には経済の動きそれ自身はいざという時にならないと感知できない。たとえば日本の年金は二〇一四年より積立金の株式運用の率を倍にあげて五〇%としたため、二〇一五年には五兆以上の損失となり、イギリスのEU離脱問題もあって円高株安が予測されるなか、その損失の巨大化が恐れられている。生活者はそれによって年金財政が破綻したとき気がつくが、その時に放漫な方針を決めた政府に責任を取らせたとしても損失は取り戻せない。恐慌も同じことである。
 これに対して、グローバル資本主義に吸着している人びと、国家や民族的な経済の境界領域に棲んでいる特殊な人間は超帝国主義の均質、透明な空間を感知する能力をもっている。彼らはグローバル資本主義という透明な妖怪のような存在に吸着して、この世ならぬ「富」を吸う仕方を心得ている。

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