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2016年7月 5日 (火)

アメリカにおける労働の変容、ロバート・ライシュと中谷巌ーーネグリの『帝国』をどうよむか(2)

シンボル労働・ルーティン労働・インパースン(対人)労働

  一九八〇年代、アメリカとソ連の軍拡競争はアメリカ大統領レーガンの勝利におわり、グローバル資本主義は、ソ連の社会全体主義の凋落とともに世界市場を制覇した。問題は、それとともに、労働力も商品の買い方・売り方は資本の「自由」、どのようなものであろうとその規制は「悪」であって、すべて自己責任にゆだねるべきだというイデオロギーが猛威を振るったことである。それが「市場は自由な競争が行われるべき場である」という市場経済にとっての当然の常識を越える市場原理主義であった。そのためこのイデオロギーは「新自由主義」と呼ばれたのであるが、その主張は、公共の福祉の立場から行われる公営企業を民営化し、経済への行政的関与を「規制」と称して排除し、さらには医療・教育などをふくむ人びとの生活に関わる公共財も市場化し、労働力契約においてまでもも正規雇用や最低賃金制を崩そうというものであった。

 これを推進したミルトン・フリードマンなどのマネタリスト学派(貨幣至上主義)は一九六〇年代ごろから徐々に影響力を強めていたが、それが、この時期、レーガン(在位一九八一~八八)の大統領府において全面的に採用されたのである。マネタリスト学派というのはようするに市場原理主義をさらにつきつめたもので、政府のやることは貨幣供給量の操作だけに限定すべきだという貨幣至上主義である。そもそもケインズ経済学は恐慌と失業への対処を中心に組み立てられたものであるが、この時期のアメリカは恐慌も失業も恐れるに足らないという自信にあふれていた。

 しかし、経済学の仕事を貨幣供給量の操作だけに限定するというのはようするに無能の証明である。批判は急速で、そのようななかで二〇〇〇年に出版されたマルクシアンであるネグリの『帝国』がよく読まれるという現象が発生した。興味深いのは、日本では、日本の経済学者のなかで、新自由主義の旗を振った中心であった一橋大学の中谷巌が、二〇〇六年、それまでの主張を撤回して『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)という著作を出したことであった。そもそも中谷はハーバードに学び、日本政府の経済政策立案でもっとも大きな役割を果たした人物である。それだけに中谷が本書を「懺悔の書」と銘打ち、グローバル資本主義は「モンスター」であり、人間同士の社会的つながりやかけがえのないお自然環境を利潤のためには犠牲にして恥じない「危険思想」であるとまで述べたのだから、これは大きな衝撃をよんだ。

 世界の経済学の動向は、この時を前後して完全に潮目が変わったということができるが、経済学の内側でそのような転換のもっとも大きな前提を作ったのは、おそらくアメリカの歴史経済学者ロバート・ライシュであったろう。彼は一九九〇年に出版した『諸国民の労働』という著作で、グローバル資本主義に突進したアメリカのなかで「労働」の全システムが、どのように変容しているかということを詳細に明らかにした。本書執筆後、彼がビル・クリントン政権で労働長官をつとめたこともあって、その影響は大きかった。実は右の中谷は『諸国民の労働』の日本語版の訳者であって、中谷は、その懺悔の書でもライシュの仕事に依拠してグローバル資本主義を批判する立場に進み出ているのである。

 グローバル資本主義が資本主義の新しい段階である以上、その根底に労働の在り方の変化があることは明らかであった。ライシュは、その基本に注目して、グローバル資本主義のモンスターのような在り方に対応してアメリカでうまれた象徴アナリスト(symbolic anarysist)というべき労働の類型を抽出したのである。

 それによれば、彼らは「株式市場の相場からハリウッドやマディソン・アーヴェニューから生み出される視覚イメージにいたる広範囲な抽象的な概念とシンボルの世界に生き、シンボル情報の解釈を専門にする人びと」であるという。つまり研究科学者、設計技術者、ソフトウェア工学者などから、公共関係専門家、法律家、銀行家や様々なコンサルタント、ヘッド・ハンター、マーケティング戦略家からジャーナリスト・映像プロデューサー、さらには大学教授まで、そこには実に多様な職種が含まれるが、彼らは必ずしも専門家であることを要しない。彼らは知的資本を売る人々であって、知識や専門性は高所得を得るために必要なことではなくなった。価値があるのは臨機のアイデアと執拗さであって、そのキャリアや収入は多様で安定しないが、偶然のきっかけからブレークすることがあり、成功者は世界的な組織網を作り出す。もっとも儲かるのは金融関係と法律事務所であり、彼らは多くの場合、一人または少人数のチームで働き、ディスプレイの向こう側の半透明の舞台に意識と感覚をとぎすませている。ライシュの計算では彼らの人口はアメリカの労働人口の二〇パーセント近くを占めるという。

 複雑に発達した世界的な経済過程を俯瞰して戦略をたて、問題を発見し、それを解いていくためには、こういう一見関係ないような分野の大量の人びとの個性を組み上げて、柔軟な発想と執拗な思考を準備しておくことが決定的である。それによって資源の有効な活用、金融資産の移動、時間やエネルギーの節約、そして新しい発見――新技術、革新的法律解釈、斬新な広告手法などがもたらされるのであって、そうして始めて言語から音・映像を動員して人びとの心身を虜にすることが可能になる。彼らはシンボル記号(データ、言語、音声、さらには映像)を操作するのであるが、それが人びとの心身を捉えるためには、自分自身のシンボルへの感性を高め、ある意味では自分自身をシンボルとしなければならない。ライシュのいうシンボリックな労働、シンボルワークとは、シンボルを操作すると同時に、新しいシンボル記号を作り出しあふれ出させるような創造的で劇的な労働である。

 以下、象徴アナリストというのは表記として熟さないので、シンボルワーク(記号仕事)、シンボルワーカーなどの用語を使うこととするが、ここにあるのは新しい労働の体系なのであって、ライシュは「アメリカ人の職業に何が起こっているか」という問題意識のもとに調査・研究と面談を重ね、このような記号仕事の肥大化によって、他の労働が単調なルーティン労働か、インパースン労働(対人労働)分類されるようになったことを明らかにした。

 それによると、現代のルーティン労働の大きな特徴は多くの情報処理労役が入り込んでいることである。右にいう象徴的な労働は自分自身を演者とするのに対して、このルーティン労働はそれとはまったく逆に機械に埋め込まれたプログラムに意識を支配される労働であり、あるいは記号や象徴をマニュアル通りに単純処理する労働である。シンボル労働は個室でゆっくり働くのに対して、ルーティン労働は大部屋の中での孤独な労働である。なによりも象徴的労働の視点からは創造的な仕事にみえる情報で結ばれた世界経済は、実際には、単純作業にしたがう歩兵部隊が、アカウントの管理、クレジット・カードの購入や支払い、顧客への通信、苦情処理などなど、膨大なデータの入力・校正・管理とそれにともなう事務仕事をこなすことなくして存在しないのである。このような象徴と記号に使われるルーティン労働はアメリカの労働人口の四分の一に達するという。

 それに対して、もう一つのインパースン・サービス(接人労働)とは、銀行の窓口係、店員、スチュワーデスやタクシー運転手などの接客サービス、商品の設置・修理・整備やアフターサービスに関わる人びと、守衛、病人や老人ホームや託児所の労働者などの様々な対人サーヴィスに従事する人びとである。インパースン(imperson)のim-は否定の接頭辞だからパーソナルでない、非個人的、非人称的という意味だが、そこから転じて多数の人と個人としてでなく付き合う、つまり仮面・扮装というニュアンスになる。マクドナルドのマニュアルによる接客のイメージである。これによってアメリカではチップなしの愛想というものが広がった。それも労賃の一部であるという訳である。もちろん、いま急増している私的な警察要員や私設刑務所職員などの場合は非個人的な脅威こそがインパースン・サービスということになる。ライシュの調査では、この分野で働く人はアメリカの労働人口の三〇パーセントにあたり、なお増加傾向にあるという。

 英語では、WorkとLabourは明瞭に区別された言葉である*2。一人の個人をとってもWORKは「労働」のうちの「働く」という側面、つまり目的を立てて心身を働かせる仕事=WORKの側面(目的意識的な有用労働の側面)を示し、Labourは「労働」のうちのPainstakingな「労」の側面、心身の力の没入と消耗の側面(抽象的な生理的労働、筋肉労働・神経労働の側面)を示している。かって内田義彦は「マルクスは、目的定立をし、自分の目的に従って労働の過程を指揮する営みを精神労働、それに従って神経や筋肉を動かす仕事を肉体労働と名づけています」(『資本論の世界』岩波新書)と述べたが、前者の自分で労働過程を指揮する精神労働的な面がWorkであって、それに従って神経や筋肉を動かす面がLabourはであるということができる。この観点からいうと、この三つの労働分類のうち、シンボルワーカーの記号仕事はWORKを代表し、それに対してルーティン労働と対人労働はLabourの側面を示すということになるだろう。本来は、個人の労働のなかで一緒に動いているWorkとLabourが、別々の集団の労働の特徴として現れている訳である。しかも、このような労働の区別が、一九六〇年代から一九八〇年代というきわめて短い時間の間にアメリカ資本主義の情報化のなかで急速に形成されたことに注意しなければならない。ここでは象徴労働が巨大な情報ネットワークとコンピュータの力にささえられて、労働の目的意識性や精神性を集中してしまい、他の労働からそれを剥奪して、狭い意味でのLabourに追い込んでしまったのである。アメリカ社会の現状では、それはすでになかば社会的な身分であるかのようになっている。

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