ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺
ケネディの暗殺、マルコムXの暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺
「私たちのつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。私たちは、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている」。これはオバマ大統領の二〇〇九年の就任演説の一節である。アメリカにおける民族の多様性がアメリカという国家にとって一つの「強み」に展開した、また民族差別(「人種=マイノリティ差別」)が消滅した、あるいは消滅の方向が決定的であるという宣言である。
たしかにオバマが大統領になったことは、一九六〇年代初頭に始まった公民権運動の一つの到達点を示している。しかし、それはまた、ブッシュ(子)政権においてコリン・パウエルとコンドリーサ・ライスの二人のアフリカン・アメリカンが続けて国務長官となり(おのおの二〇〇一年~二〇〇五年、二〇〇五年~二〇〇九年の在任)、中東戦争を主導したことの直接の延長線上に生まれた事態なのである。オバマも中東における戦争の責任者であって、中東の人々からいえばパウエル・ライス・オバマはほとんど区別はつかないであろう。植民帝国のトップが奴隷主によって占拠されていた一九世紀前半までと比べれば、アフロ・アメリカンの人々がアメリカの国家中枢のトップを占めたということは、たしかに世界史のなかで奴隷的な民族差別はかならず消滅していくことの証拠であるが、しかし、それが自己を戦争責任者とするところに展開したことは深刻な問題である。パウエルは、それを実感しているに相違ない。パウエルは国務長官として「イラクが大量破壊兵器を開発している」という虚偽をイラク戦争の開戦理由として主張したが、それが恥辱的な誤りであったことを認めた。
ただ、ここでとくに紹介しておきたいのはライスである。彼女はアラバマ州バーミンハムの豊かな牧師と教師を親とし、縁の深い知人の縁戚にコリン・パウエルがおり、恩師はパウエルの前の国務長官マデレーン・オルブライトの父親というアフリカン・アメリカンのエリートを絵に描いたような女性である。しかし、バーミンハムの位置するアラバマ州は一九六二年に人種差別主義者として有名な民主党のジョージ・ウォレスを知事として圧倒的な得票で当選させた州である。知事選においてウォレスが掲げたスローガンが「今こそ黒人を隔離せよ! 明日も、さらに永遠に!」というものであった。
そして、バーミンハム自体が白人暴徒の爆弾テロが日常茶飯事で「ボミングハム(爆弾の町)」という異名をもつ町であった。そういう状況のなかで、公民権運動の昂揚にともなって、一九六三年、マーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとする南部キリスト教指導者会議が行動を起こした。実は、バーニンハムの警察・消防署長は、南部のレーシスト犯罪集団、クー・クラックス・クラン(K・K・K)のメンバーであったが、彼がバーミンハム市長に立候補して穏健派に敗北を喫するというチャンスをねらって、選挙直後、四月に大規模な非暴力行動を開始したのである。それは「南部キリスト教指導者会議」(SCLC)全体の意思統一にもとづく行動で、行動参加者は、非暴力を誓約して効果的な抗議の仕方と自分の身体の守り方を訓練するという徹底したものであった。
しかし、問題の警察署長は市長が交代したにもかかわらず、その職に居直り、警察とK・K・Kが一体になって非暴力の運動参加者に殴りかかるという狂気をあらわにした。その映像が全世界に流れて大きな衝撃をあたえるなかで、キング牧師は、これに抗して、南部を中心として全国各地から暴力の停止、人間的な自由と仕事を要求するワシントン行進を行うことを宣言した。そして、八月二八日、キングはワシントンのリンカーン記念堂の前で有名な演説「I have a dream」を行ない、圧倒的な迫力をもってアメリカの国家権力を抑え込んだのである。その演説の一節には「この瞬間の緊急性を見過ごし、黒人の固い決意を見損なったら、国家は致命傷を負うでしょう」とあり、時の大統領ケネディも、それを支持する態度を明らかにした。ケネディは問題がアメリカの国家としての体面に関わるものとなったことを確認し、ここではっきりと梶を切ったのである。
さて、説明がながくなったが、パウエルやライスにとっても、このバーミンハムにおける対決が決定的な意味をもっていたことは明らかであろう。とくにライスは、このなかで友人の少女をK・K・Kに殺害されている(New York Times 2000年12月18日付)。ワシントン行進の翌九月、クー・クラックス・クランが、公民権運動の関係者の教会であるというだけで、バーミンハムの一六番街バプティスト教会に時限爆弾を設置したのである。聖歌隊の衣装に着替えるために更衣室にいただけの少女が殺されたのである。その葬儀にはキング牧師が説教している。ライスは「両親の励ましがあったおかげで、大統領になることだって可能だということにわたしは何の疑いももっていませんでした」と子供時代について語るが、そこにはキングの「私には夢がある」という声が響いていたに違いない。
ケネディ暗殺とベトナム戦争
キング牧師の説得力は圧倒的なものがあった。もちろん、アメリカの支配層のなかに根強く存在したレーシスト(人種主義)勢力は暴力を行使し続けたが、公民権運動はこのとき、アメリカの国家権力を抑え込むことに成功したのである。
しかし、問題は、このときベトナムにおいてアメリカが決定的な間違いをおかしていたことである。つまり、第二次大戦後のインドシナ内戦は、一九五四年のジュネーブ協定はフランスの植民地宗主権を否定し、ホーチミンに率いられたベトナム民主共和国と南ベトナムのバオダイ王権(フランスによって傀儡として担ぎ出された旧阮王朝の王)の間での和平にもとづいて二年後に統一選挙に入ることが合意されていた。しかし選挙でベトナム民主共和国が勝利することは確実とみたアイゼンハワー大統領はジュネーブ協定をやぶってバオダイ王権の首相ゴ・ジン・ジェムを居すわらせ、ベトナムに介入したのである。
ところが、ゴ・ジン・ジェム政権はもっぱら王朝的な私欲と無秩序という正体を現して、ベトナム民衆の反発をうけ、南ベトナム解放戦線の結成によってジェム政権は崩壊の道に入った。そのなかで、ケネディは、一九六一年初頭、大規模な軍事顧問団を派遣してベトナムへの介入をエスカレートさせたのである。アメリカは、国防長官マクナマラが後に自己批判とともに述べているように、東アジアの歴史について無知なまま、ホーチミンの北をもっぱらソ連や中国の手先と見誤っていた(マクナマラ回顧録)。そもそも、日本とフランスからのベトナム独立を主導したホーチミンは、インドシナへのアメリカの介入をもっとも恐れており、それもあってベトナム独立宣言をアメリカ独立宣言の「すべて人間は平等に造られ、造物主によって一定の奪いがたい権利を付与され」という一節の引用で始めたという深慮遠謀の政治家である。現実の政治においては援助を確保する関係で、ソ連と中国という「社会主義」両帝国との関係に配慮したとはいえ、ホーチミンは最後までアメリカとの軍事対決をさけジュネーヴ協定にもとづく平和を追究していた。しかし、アメリカには自己がジュネーヴ協定を破り、国際法上の不正義を行っているという常識はなかった。マクナマラの回顧録にもそのような言及は一言もない。
アメリカはアジアを包括的に支配しようという巨大な野心に目がくらんでいた。問題はそれがソ連にとっても同じことであったことであって、このころ、この二つの帝国は危険な意地の張り合いをヒートアップさせていた。まずケネディの大統領就任の前年、ソ連領空に潜入していたアメリカの覆面偵察機U2が撃墜された。そしてケネディが就任した一九六一年にはソ連が有人衛星による地球一周に成功し(ガガーリン搭乗、ヴォストーク一号)、さらに核実験を再開する。そしてそれに対して、アメリカも有人ロケット第一号を打ち上げ、核実験を再開する。核軍拡は宇宙軍拡に及んだ。そして、一九六一年に東ドイツがベルリンに「壁」の建設を開始し、翌一九六二年一〇月にはソ連がキューバにミサイル基地を建設していることが発覚し、状況は核戦争の一歩手前までいったのである。
現在からみればソ連の「社会主義」なるものはソ連帝国の全体主義的性格を飾るものに過ぎず、アメリカの「自由」なるものは国内の民族差別を解決しないままの大言壮語に過ぎなかったことは明らかである。しかし、このときは、両方とも、相手のこけおどしのイデオロギーを恐怖し、実態とは異なる虚像に踊らされていたのである。とくにアメリカの側は「社会主義圏」なるものを過大評価し、それが一枚岩となって全世界でアメリカの権益を狙っているという過大な恐れ、いわゆる反共主義によって自己呪縛の状況にあった。ケネディは早い時期にベトナム介入の判断の誤りを自覚したといわれるが、こういう文脈にとらわれてベトナムをみていた以上、その道を引き返すことは困難であった。
決定的であったのは、一九六三年、ベトナム仏教会がジェム政権の仏教弾圧に対して、サイゴン街頭で僧侶が焼身自殺するという激しい抗議行動に立ち上がったことであった。これは、バーミンハムの警察とK・K・Kが公民権運動に暴力を振るっていた、まさにこの時のことである。アメリカとベトナムは一つのカオスのなかに投げ込まれた。そして、しばらく後、アメリカとジェム政権の関係が不透明になるなかで、駐アメリカ大使を実質上の後援者として、一一月、ゴ・ジン・ジェム政権はベトナム軍のクーデターによって崩壊したのである。ケネディ政権は事態の掌握すらできていないという最低の状態で、このニュースを聞いて顔面蒼白となり、ベトナム政策の見直しを指示したという。
しかし、一九六三年一一月二二日、翌年の大統領選挙をひかえて、南部での公民権法への支持が決定的だと考えて、テキサスにむかったケネディは、ダラスの町をパレードしている最中、熟練したスナイパーによって殺害された。ケネディは、あたかもその死をもって公民権法をあがなったかのようにさえみえる。奴隷解放宣言を発した後に暗殺されたリンカーンと重なるイメージである。ケネディ暗殺の背後にはケネディが公民権運動に明瞭に賛同する立場に梶を切ったことに反発する凶暴な人種主義勢力があったことは確実である。
「ブラックパワー」運動とキング牧師の暗殺
副大統領としてケネディを引き継いだジョンソンは、ケネディより年長でフランクリン・ルーズヴェルトに引き立てられた民主党の南部ニューディーラーであった。彼は人種差別を違法として公民権運動の法的な出発点をあたえた一九五四年のブラウン判決(■■■)に対する南部連邦議員の抗議宣言に加わらなかった三人の上院議員の一人であって、公民権運動の意義は十分に理解していた。ジョンソンは、南部民主党の頑強な抵抗をおさえて、一九六四年六月、公民権法を通過させたのである。これによって投票権登録の際の読み書きテストなどが禁止され、公共施設や学校における人種差別・隔離が非合法化された。
ジョンソンも必死であった。ジョンソンは、ケネディの死の翌年、一九六四年、次期大統領に立候補するにあたって、「偉大な社会」計画を打ち上げ「貧困との闘争」をうたった。これはジョンソンのニューディーラーとしての識見をよく示す大規模な福祉政策をふくむ構想であり、この計画は黒人の経済的・社会的条件の改善の面でも相当の意味をもったのである。ジョンソンは黒人のデモや主体的な政治参加には一貫して消極的であったから、公民権運動のなかには批判が強かったが、キング牧師は南部政治の現実の厳しい状況も勘案して大統領選挙にあたってジョンソンを支持したのである。これがケネディの死への同情とあわさってジョンソンは記録的な大差で大統領選に勝利した。
しかし、それにも関わらず、南部では無知な白人暴徒による妨害がはげしく、黒人の投票権登録は現実にはほとんど進まなかった。とくに問題となったのが、一九六五年初頭から、バーミンハムの南のセルマの保安官が投票権登録を暴力的に抑圧したことで、駆けつけたキング牧師までが一時逮捕され、さらには州警察が公民権運動の活動家を殺害するという事件が発生した。これに対してキングらはセルマへの抗議の行進を組織したが、アラバマ州知事のウォレスの指示によって警察は催涙弾を発射し棍棒で殴りかかった。しかも、それに続いて白人暴徒がボストンから支援に入っていた白人の牧師を殴打して殺害するされて死去するという事態となる。「血の日曜日事件」である。これも大問題となり、結局、これによってジョンソンはキングの要求をうけて、投票権登録手続きを連邦政府が保護する投票権法を通過させ、それは一九六五年八月に発効したのである。
しかし、ジョンソンの躓きは、彼がニューディラーであるとともに、第二次大戦における戦功を勲章として上昇した政治家であったことであった。ジョンソンは大統領就任直後にベトナムでの勝利を目標とすることを宣言したという。そのような立場から、ジョンソンは一九六四年に公民権法を成立させたしばらく後、トンキン湾で米軍駆逐艦が北ベトナムから、二次にわたって攻撃されたことを理由として、議会に戦争遂行権限を認めさせた、この事件は、一次目は米軍の挑発によるもので、二次目は虚報であったことが後に明らかになったが、議会では下院は全員賛成、上院では反対はあったものの三人のみという滅茶苦茶な事態であった。そして、アメリカは、一九六五年、北ベトナムに対する北爆開始し、さらに地上軍覇権という泥沼に入り込む。三〇〇万のベトナム人と五万八〇〇〇人のアメリカ兵が死ぬという無益な戦争であった。
マクナマラが述べているように、ケネディの暗殺がなければ、戦争の泥沼化の様相は若干なりとも異なっていたかもしれない。これは一種の神話であるかもしれないが、当時を想起しつつ、この時期の記録を読んでいると、巨大なアメリカのシステムを動かしていた人々の人間的な弱さが破壊的な結果をもたらしたという歴史の偶然性に衝撃をうけるのである。
これに対して圧倒的な正義を体現していたのがキング牧師であった。キングは、南部における公民権運動の主要な担い手であった南部キリスト教指導者会議が躊躇するなか、一九六六年一月、「クリスチャンとしては、この戦争は誤りだというほかない」と声明した。そして、一九六七年に出版した著書『我々はこれから何処へ行くのか』において、キングは成熟した社会科学者としての声をもって語る。「連邦政府は、自国内での貧困に対する戦争に勝つよりもベトナムでの無分別な戦争に勝つことに深い関心をもっている」というのである。そして彼は、公民権運動の総括をする口調で、一〇〇年の奴隷制の時代と、一〇〇年の差別の時代の根元に対して、一〇年間、攻撃をかけ、その基礎を削りとることに成功したとして、南部諸州では黒人の投票権登録は少なくとも一〇〇%、とくにバージニア州とアラバマ州ではそれぞれ三〇〇%と六〇〇%を増加させたという。しかし、キングの現状認識はきびしい。つまり「南部キリスト教指導者会議が一九六三年にバーミンハムに入っていったとき、それはその年を変えようとする計画であった」「闘争は全国的な規模で行われたのものではなかった。それをしたのは南部人だった」「北部のゲットー、北部の黒人社会には沈滞が重く立ちこめている」「もはやこれ以上引き延ばしてはならないのは北部の大都市である」「本当に高いコストを必要とするのは、これから先のことなのだ。白人の抵抗が強くなるのは、この事実を物語っている」というのがキングの分析である。
こうしてキングは、「潜在的に爆発性をそなえ、短い導火線と長い虐待の経験をもつ北部の黒人社会」に活動の重点を移し、白人を含めた貧困との闘争に本格的に取り組み、合州国中枢を本格的に変革する道に踏み出たのである。それと同時にキングはベトナム反戦運動にもはっきりとしたイニシアティヴを示し、一九六七年四月一五日のニューヨーク、セントラル・パークでの反戦集会では全国の反戦運動と合流することを宣言した。
キングが、ここまで踏み切ったのは、結局、黒人運動にとって何よりも重要なのは非暴力の真理であり、また信仰にもとづくものかどうかは別としても正義と博愛のパワーであるという考え方であったように思われる。つまり、この年、一九六七年、全国五九の都市で黒人の暴動が発生した。この年をふくむ九年間で数えると全国三〇〇都市で五〇万人が暴動に参加し、二五〇人が死亡、一万人が重傷を負い、六万人が逮捕されている。いわゆるブラックパワーの運動である。
このブラックパワーという主張は、南部キリスト教指導者会議ではなく、北部にも拠点をもつ全国組織、人種平等会議(CORE)と学生非暴力調整委員会(SNCC)で優勢になった主張である。キングはSNCCでそれを主張したストークリー・カーマイケルなどに対して、暴動をあおるようなブラックパワーというスローガンが、公民権運動における最大の強みであった非暴力の思想を無効化させるものであり、無益な盲動であることを必死になって説得したが、それは届かなかったのである。たしかに、人種主義の暴力に向き合っていた人々が、ベトナムにおける戦争暴力の惨酷さを誇示するかような連邦政府に対して一種の世界観的な憎悪を増幅したことには十分な理由があった。それだけに、キリスト者であると同時に賢明な社会運動家であったキングは、これを前にして座視することはできなかったのであろう。
そして、ここでも悲劇が起こった。公民権運動においてイスラム教の立場からキングとならぶ働きをしたマルコムXが、一九六五年二月、暗殺されたことである。マルコムXは一時期、自衛のためならば実力行使はありうるという立場を表明していたが、しかしアフリカを歴訪するなかで考えを改めてキングに近づいた人物である。それだけにキングとの間で広い連合が始まれば、それはきわめて大きな意味をもったに違いなかった。その暗殺は奇怪なもので、真相は不明である。
このなかでキングは苦闘を重ねたが、一九六八年四月、メンフィスの清掃労働者のストライキ支援に向かい、労働者の組合運動とも連携する立場を鮮明にした。下記が、その際、キングが『新約聖書』のマタイによる福音書の山上の垂訓を引用しながら行った演説の結びの部分である。彼は翌日朝、ホテルのベランダにでたところを銃撃され倒れた。
さて、今後将来、何が起こるのかわたしたちには分かりません。将来には困難な日々が待ち構えています。でも、わたしはもう案じたりはしません。なぜならば、わたしは山上に登ったからです。もう不安はありません。みなさんと同じく、私も長生きがしたい。しかし物事には摂理というものがあります。だから今は思い悩んだりはしないのです。わたしは神の御意思に従いたいだけなのです。そうすると、神はわたしを山上に導いてくださいました。そこからあたりを見渡すと、約束の地が見えたのです。わたしは、あなたたちと一緒にそこにたどり着けないかもしれません(I may not get there with you)。しかし、今夜、このことだけは分かってほしい、われわれはひとつのピープルとして将来約束の地にたどり着くということを(We as a people will get to the Promised Land)。わたしは今夜幸せです。何も案じることはありません。どんな人間も恐ろしくありません。わたしのこの目が主の降臨を見たのだから。
ここには、彼の宗教的信念とともに、自己の死を予知するかのような雰囲気があるが、キングは人種主義と戦争の暴力が蔓延する現状への怒りをたたえた瞳で聴衆を凝視しながら演説を終えたと伝えられている。
アメリカ国家の中枢部に、もう少し信仰心があればと考えるのは私だけではあるまいが、しかし、そのような期待がむずかしいことを示したのは、キング暗殺の年の一一月に行われたアメリカ大統領選挙の結果であった。つまり、この年一月の南ベトナム解放戦線のテト攻勢によってアメリカ軍の勝利はほぼ不可能視され、しかもソンミの村民虐殺事件は戦争の正統性がまったくないことを世界に明らかにした。そのなかで、ジョンソンは、毎晩、共産主義に妥協した人間として石を投げつけられるという悪夢にさいなまれて大統領選への不出馬に追い込まれた。当選したのは共和党のリチャード・ニクソンであったが、彼がベトナム戦争に固執して醜悪なウォータゲート事件を起こしたことはいうまでもない。しかし、ここで確認しておくべきことは、この大統領選挙に「血の日曜日事件」を引き起こした元アラバマ州知事のジョージ・ウォレスが民主党を脱党して立候補し、アラバマ州、アーカンソー州、ジョージア州、ミシシッピ州、ルイジアナ州でトップを取り46人の選挙人を獲得したことである。日本にとっては、彼の副大統領候補が第二次世界大戦において日本本土に対する無差別爆撃を行った元空軍参謀総長カーチス・ルメイであったことも忘れることはできない。
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