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2016年8月25日 (木)

アメリカは「合衆国」ではなく、やはり「合州国」が正しい

「合衆国」ではなく「合州国」
①「合衆国」と世界の「第七帝国=日本」
 アメリカの国名「ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカUnited States of America」は普通「アメリカ合衆国」と翻訳されるが、これは誤訳に近い誤りで、正確には合州国とするのがいい。このことを始めて主張したのはジャーナリストの本多勝一であるが、それ以降、日本では相当数のアメリカ研究者や翻訳家が、この用語を採用している。
 建国時のアメリカを構成したのはイギリスからの移民が入植した一三のステーツであった。ステーツという言葉自体は国家ということであり、ステーツには、本来、「州」という意味はないから「ユナイテッド・ステーツ」を「合州」とは訳せないという意見があるかもしれない。しかし、たとえばヴァーモントは現在でも「ステーツ・オブ・ヴァーモントState of Vermont」といい、これをヴァーモント州と訳す。つまり「ステーツ=州」がユナイト(連合)したものを「合州国」と翻訳することは十分に筋が通るのである。
 これに対して、「合衆国」という翻訳はアヘン戦争時代の中国で作られた言葉らしい。「合衆」というのは、中国の古典に見える言葉で、「衆人を寄せ集める。衆人を和合させる」、つまり共和という意味であって、「アメリカ合衆国」というのは「アメリカ共和国」という意味になる。福沢の『文明論之概略』(巻一・一)も「合衆政治」という言葉を民主政治と同じ意味で使っている。徳川時代の末期、一八五四年の日米和親条約で「亜米利加合衆国」という名称が使用されたのは、この意味である。
 ここにはアメリカに初めて接触した一九世紀の東アジアの人々の驚きが表現されているといってよい。つまり当時の東アジアでは帝王や王がいない国家というものがあるというのは想像の外であった。実際、一九世紀前半までヨーロッパから伝わってきた世界の諸国家についての情報は、世界には七つの帝国とその他に幾つかの王国があるというものであった。七つの帝国とは西ローマ帝国を引き継ぐ神聖ローマ帝国(ドイツ)、東ローマ帝国を引き継ぐロシア帝国とオスマン・トルコ帝国、そしてペルシャ帝国とインドのムガール帝国、さらに東アジアでは清帝国と日本帝国の七帝国である。この七帝国の観念は一六世紀にはあったようで、日本帝国が七番目の帝国であったというのは、イエズス会の宣教師の記録にもでてくる。これが秀吉の朝鮮出兵と結びついて「日本=帝国」という観念がヨーロッパではよく知られるようになっていたのである。
 そう考えていた東アジアの人々にとっては一八世紀末に登場したアメリカが王のいない強国として発展しているのは驚異の対象であった。とくに自分の国が世界の帝国の一つであると認められていると考えていた日本は、帝王はおらず、王さえもいない三流の国家としか考えられないアメリカから、ただの軍人ペリーがやってきて対等な通商と開国を要求したことに憤激したのである。我々の国は帝国であったはずなのに、これはどうしたことかという訳である。「合衆国」という用語は、そういう中で流通した用語なのである。福沢諭吉は、『学問のすすめ』の冒頭にアメリカの独立宣言を「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と翻案して掲げて人々を驚かしたが、これも同じことである。こういう経過のなかで、日本には「アメリカ=民主主義」という図式が深く根づくことになった。太平洋戦争の敗北とアメリカ占領という経過のなかで、それがさらに強化されたことはいうまでもない。
 この意味では、私たちが「合衆国」という言葉を使い続けていることは、私たちが一九世紀からの世界認識の枠組みに囚われていることの象徴であるかもしれない。これは重大な問題なので、以下、必要な限りでの歴史的説明をしておきたい。
②アメリカの北部と南部
 アメリカは、何よりもイギリスが北アメリカ大陸に設置した一三の植民地「州」の連合、植民国家として出発した。それはアメリカの地図をみれば明らかなことで、そこでは州境は自然地形ではなくほとんど直線の場合が多い。これは先住民が自由に使用していて境界が存在しない土地を上から測量して、植民地「州」権力が自分たちの領分を決めていったためである。これはヨーロッパ列強がアフリカや中近東で大規模な測量をして直線の国境線を画定し植民地体制を固めていったのと同じやり方である。合州国という表記はアメリカが、こういう「州邦」権力から始まったという経過を正しく表現している。
 アメリカ建国時の一三州とはニューイングランドといわれる北東部四州(①マサチューセッツ、②ロードアイランド、③コネティカット、④ニューハンプシャー)、中部の大西洋岸四州(⑤ニューヨーク、⑥ニュージャージー、⑦ペンシルベニア、⑧デラウェア)、そして南部五州(⑨バージニア、⑩メリーランド、⑪ノースカロライナ、⑫サウスカロライナ、⑬ジョージア)からなっていた。
 このうち、植民はまず南部から始まった。それが一六〇七年に設置された南部のヴァージニア植民地である。最初の移住者一〇五人は半数が飢えと病気で死ぬという厳しい運命に見舞われたが、そのなかで彼らはネーティヴの人々の助力をえて命をつないだ。しかもネーティヴの人々からアメリカ大陸原産のタバコの栽培法を習い、それをヨーロッパ市場にだすことによって徐々に安定していったという。そして彼らはアフリカから移送された奴隷の労働によって肥沃な南部農業地帯に農場を経営し、膨大な資本と富をアメリカにもたらしたのである。一七七〇年代の南部は北米植民地の総人口の約半数が住んでいたという。一九世紀半ばまでのアメリカの中心は北東部でも中部でもなく南部にこそあったのである。しかし、そのなかでネーティヴの人々の善意はまったく裏目にでて、彼らは先祖から守ってきた大地から放逐されるにいたった。
 これに対して、北部の植民はやや遅れて、一六二〇年、メイフラワー号にのった清教徒のピルグリム・ファーザーズが北部ニューイングランドのプリマス植民地に渡ったのが最初である。彼らの場合も、当初、大きな苦難を経験し、ネーティヴの人々に助けられながら、結局それを裏切ったのはヴァージニアと同じである。しかし、プリマスに渡ってきたのは、イギリス国教会のなかでは迫害されていて、オランダからアメリカに渡った分離派といわれる例外的な人々であった。彼らは一〇年後に渡ってきてマサチューセッツを建設した別の清教徒(イギリス国教会内部の改革派)の移民グループに統合されてしまう。北東部ニューイングランドは、南部に比べて狭く寒冷で、土地も痩せており、この時期のアメリカ全体のなかではニューイングランドの位置が軽かったことは明らかである。北部では南部のように輸出を目指して奴隷労働による農業大経営を営むことはなく、むしろ自営農業のベースの上に、漁業・造船・手工業・商業・貿易などが発達することとなった。
 なお、以前、日本では、アメリカの建国というと、ピルグリム・ファーザーズが話題の中心となることが多かった。これには色々な理由があるが、大きかったのは、メイフラワー号が到着した冬一一月を記念するという「感謝祭」(サンクス・ギヴィングデイ)が、一九四八年に、日本の新嘗祭の日程の上にかぶせる形で「勤労感謝の祝日」という祝日に定められたことであろう。本来、「感謝祭」は、本来はプリマスの地方的な祝祭であったが、南北戦争で北部が勝利したのちに、その勝利宣言のようにして「建国神話」化されたものである。今では忘れられがちなことだが、アメリカの軍事占領とともに、その建国神話が(七面鳥とともに)日本に持ち込まれたということになる。
③州の拡大とネーティヴの大地
 このように南部と北部は大きく異なっていたにも関わらず、彼らが連合した主な理由は、最初はネーティヴの人々の協力によって命をつなぎながら、すぐにそれを裏切ってネーティヴの人々の大地と富を強奪したという共通の経験にあった。北部にとっても南部にとっても、問題の中心は「州」連合とネーティヴの人々の部族国家の間での緊張した対外関係にあったのである。
 そしてそれはヨーロッパ勢力の間の関係、とくにイギリスとフランスの関係に深く関わっていた。つまり、イギリスがスペインの無敵艦隊を英仏海峡の海戦で破ったのは一六世紀末(一五八八年)であったが、一七世紀に入ると世界の覇権争いはイギリスとフランスの間にうつった。それは植民地ではアメリカとインドの二つの戦線で戦われたが、一七五五年には本格的な英仏戦争が英仏戦争が展開した。イギリスは、この戦争に勝利することによって世界の覇権を握ったのである。アメリカ大陸では、フランスは、一六〇八年、カナダのセントローレンス川河口にケベックを建設し、ネーティヴの人々との毛皮貿易を行いながら内陸に進み、さらに南にくだってミシシッピ川流域を領有してルイジアナと命名していたが、イギリス軍は、ケベックとモントリオールでフランス軍を破った。そして、アメリカ独立の動きは、このフランスへの勝利の後、イギリスがアメリカ植民地に軍費償還のための税をかけようとしたことへの反対運動から始まった。これまで、アメリカ独立の動きは、もっぱらイギリスとアメリカの関係のなかでのみ考えられがちであったが、それは、このような国際関係のなかで起きたのである。
 こういうなかで、植民地「州」の連合が最初に議論に上ったのは、英仏戦争の前年、一七五四年にニューヨークの中北部のオルバーニーで行われた討議に始まる。この会議は、フランスに対するイギリス領植民地の共同防衛を目的として開かれたものであるが、そこではオルバーニーの西、オンタリオ湖岸からカナダにかけてを本拠とするイロコイ族の人々が招かれ、フランスに対抗してイロコイ連合の友好関係を形成することが重要な議題となっていた。つまり、アメリカ「州」連合という発想はフランスを意識していたことはいうまでもないが、同時に直接に隣接するイロコイ部族国家に対する対外関係のなかで形成されたものなのである。
 ここを起点としてアメリカ「州」連合はネーティヴの人々の部族国家に対して軍事的にも社会的にも共同で対処する体制を固めた。もっとも重要なのは、従来、一三州はアパラチア山脈の西からミシシッピまでの大地を分割しておのおの領有を主張していたが、アメリカ独立戦争から合州国建国までの間にそれを放棄し、そこをアメリカ「州」連合が一括して公有地としたことである。北はミネソタ・ウィスコンシン・ミシガンから、南はミシシッピ・アラバマにいたる、ほぼ後の一〇州にもあたる、この広大な領域は、本来、チェロキー族、オジブワ族、マイアミ族などの部族国家の大地であった。これらの諸族との間で「領土条約」を結ぶという形式はとったものの、アメリカ連合はそれを実際上、一括して上から領有する体制をとったのである。ユナイテッド・ステーツとはネーティヴ・アメリカンの大地をステーツの連合によって横領することであった。
 アメリカ独立を国際的に承認したパリ条約(一七八三年)に引き続いて、アメリカ連邦は、このミシシッピ以東の領域を、順次、六マイル平方の区画(タウンシップ)に測量分割し、一部公有地を残した上で民間に払い下げる法律をつくった。そして、この計画の進行によって人口が増加すれば、各地域を準州・州に格上げして、地方議会を組織するという国土開発の大方針を決定したのである。州の組織の基礎単位が、この六マイル平方の区画(タウンシップ)にできあがったタウン・タウンシップということになる。この土地払い下げの方針によって、人々が東海岸から西に群れをなして移住していったのが有名な西漸運動であって、これによって、アメリカの国土はどこも似たような雰囲気をもつタウン(またはタウンシップ)の網の目によって覆われていった。
 これを後押ししたのがフランスからのルイジアナ購入であって、ナポレオンは、イギリスへの復讐をねらって、英仏戦争前のフランス旧領ルイジアナをスペインから取り戻し、それをアメリカに譲渡して、アメリカと組んでイギリスを包囲しようと画策した。時の大統領ジェファーソンは喜んで、この話しに乗り、一八〇三年、アメリカ連邦はフランス旧領ルイジアナを獲得したのである。このルイジアナとは、現在のミシシッピ河口部のルイジアナ州のことではなく、それを最南端として、ロッキー山脈の東山麓とミシシッピ川の間を、カナダ国境のモンタナ・ノースダコダにまでいたる広大な領域である。
 そしてやや遅れて一八四五年にはテキサスを併合し、翌一八四六年にはオレゴンをイギリスから獲得し、一八四八年にはカリフォルニア一帯をメキシコから買い取って、アメリカの領土は大西洋岸にまで到達した。これらの地域も人口増加にともない次ぐ次ぎに州として昇格していったことはいうまでもない。合州国という表記のよいのは、このように州を新設して、それを「合」併していくことによって、アメリカが膨張していった経過をも示唆できることであろう。
④一九世紀半ばまでのアメリカは資本主義ではない
 さて、このように膨張していった一九世紀のアメリカの社会構造は、普通、資本主義、資本主義国家であるとされている。たとえば、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(第一章)は、ニューイングランド植民地の小規模な農民や手工業者からなる村落は、プロテスタントの倫理を基礎として作られたものだが、それが資本主義精神の形成に意外な役割をになったという。次ぎに一部を引用した、このウェーバーの有名な学説も、アメリカが資本主義であることが前提になっているといってよいだろう。
「資本主義精神」はベンジャミン・フランクリンの生地(マサチューセッツ)ではとにかく明白に「資本主義の発達」の前提として存在したのに、隣接する南部諸州などではそうした精神がはるかに未発達であった。南部の植民地は営利を目的に大資本によって作られたものであり、それに対してニューイングランド植民地は、牧師・知識人と小市民・手工業者・自営農民の結合によって宗教的理由から創設されたものであったにもかかわらず、そうなのである。
 こういうニューイングランドの小農民や商工民の村落こそが「資本主義の精神」のゆりかごだったというウェーバーの理解に依拠すれば、一九世紀に東部から移住していった人々が網の目のように作り出していったタウンシップが資本主義の原基になって、アメリカ全域を資本主義社会としていったということになる。たしかにニューイングランドを起点として西部に広がっていったタウンの網の目を前提として、村落社会が局地的な市場圏を作り出し、産業革命の初期段階とも理解できるような「市場革命」といわれる根深い農村的な資本主義の動きが生まれたことが明らかにされている(安武秀岳二〇一一)。
 しかし、一九世紀半ばまで、南北戦争前のアメリカ社会の全体的な構造をみれば、それを資本主義社会ということはむずかしい。まずアメリカ社会の基軸をなした大地の領有関係は合州国による大地の国家的な公有にあった。これなくしてはタウンシップの計画的な開発は実現できなかったことはいうまでもない。一九世紀の植民地論者として有名なE・G・ウェークフィールドが「土地は、植民の対象となるためには未耕地であるばかりでなく、私的所有に転化されうる公有地でなければならない」(『イギリスとアメリカ』(世界古典文庫版、第二冊、一三七頁)としているように、アメリカにおける土地所有の関係は、連邦と州(States)が国家的に領有するネーティヴの人々の「未耕地」に対する所有と、移民たちがそこから割き取った私的な土地所有という二つのスタイルをもっていた。この時期のアメリカの社会構造は、ネーティヴ・アメリカンの抑圧の上にたった植民国家的な社会構成であるというほかないだろう。
 しかも、問題は、すでに述べたように、アメリカの経済的・政治的中心はアメリカ南部にあったことである。南部では、イギリス産業革命が本格化するなかで紡績の原料となる綿花のい栽培・輸出が盛んとなった。それに駆使された黒人奴隷人口は一七九〇~一八六〇年の間に約七〇万人から約四〇〇万人にも増えている。そもそも初代大統領ジョージ・ワシントンから第七代大統領アンドリュー・ジャクソンまでの大統領は、(父ジョン・アダムス、子クィンシー・アダムズの第二代・第六代大統領をのぞいて)すべて南部の裕福な農場経営者であって、多くの奴隷を所有していた。日本では南部というとややもすれば、ミシシッピ流域を考えてしまうが、ワシントン特別州はもとバージニアの北辺部なのであって、一九世紀のアメリカ合州国は、実際上、「ヴァージニア王朝」であるとさえいわれる。この時期のアメリカ合州国が「奴隷主国家」「奴隷制共和国」などといわれるのも当然なのである(安武、上杉忍)。
 ウェーバー学説のわかりやすさもあって、これまで、一九世紀前半までのアメリカはなんとなく資本主義社会と考えられていた。しかし、アメリカというと、そのすべてを資本主義あるいは資本主義の発達という図式で考えることをやめなければならない。そこから離れて自由に考えていけば、この時期のアメリカはネイティヴを抑圧する植民国家・植民帝国的な社会であり、そのトップに奴隷所有者が位置している社会構成であるというほかないのである。これまで歴史学は「奴隷制社会、封建制社会」などのシェーマがあてはまらない社会について積極的に社会構造論を考えてこなかった。しかしこの「アメリカは人種的な植民国家的な社会構成」であったという認識は、現代の世界を正確に捉えるために、どうしても必要なことであろう。
 アメリカ社会が資本主義社会となるのは、南北戦争において、北部が南部に勝利した後のことである。後に述べるようにそこではアメリカ人種的な植民国家構成から人種的な資本主義構成への変化が起きた。それと同時に、アメリカの国家は、南北戦争の後に、植民国家連合という複合的な国家ではなくなって、一つの国家となったのである。南北戦争までは、英語でUnited States of Americaを受ける動詞は複数形であったが、南北戦争の後は単数形になったことは、その一つの証拠である

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