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2016年9月

2016年9月17日 (土)

日本史の時代名と時代区分

保立道久

 私は、3・11の後、地震史研究の必要を痛感し、急遽、8・9世紀の地震と火山噴火を調べ、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)という本を書いた。その中で、この時代の政治史には地震や噴火が深く影響しており、その意味でも「大地動乱の時代」といってよいことを確認した。

 そのなかで、いわゆる「薬子の変」についても言及したが、事件名は「平城上皇奈良復都事件」とした。「薬子の変」というのは「薬子=悪」という決めつけが目立ちすぎるし、「変」という言葉自体に「秩序=善」という価値観が含まれている。また、春名宏昭がいうように、この場合は上皇・平城に対して弟で王位を譲られた嵯峨が反逆し、いわば王自身がクーデターに踏み切ったという事件(春名『平城天皇』吉川弘文館)であるからさらに「変」という用語は使いにくいのである。

 もちろん、歴史教育の現場ではむずかしい問題が発生するだろう。たとえば私は春名の意見が正しいと思うが、普通は、クーデターを起こしたのは平城上皇の側であるとされる。また、本来、この事件の真相を伝えるためには相当の背景説明が必要である。つまり、桓武天皇は多数の男子のなかから平城・嵯峨・淳和の三人の男子を選び、彼らに姉妹(桓武の娘)をあてがって近親婚を組織し、それを三人の王子の王位継承資格の象徴とした。そして桓武は、末っ子の淳和の妻・高志内親王が兄弟の姉妹妻のなかではただ一人妊娠し、初孫の男児を生んだことを喜んで、死の直前にこの男子を「正嗣」と定めたのである(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館)。

 右の新書では、ここに根を置いて平城と淳和の関係が悪化するなかで高志内親王が重病におちいり死去したという経過が、平城が自分の息子を皇太子とし、王統を自己の許に止めようとしたことの伏線となったと論じた。そういう理解からすると、この事件の関係人物としては薬子よりも高志内親王の方が重要であって、この事件を「薬子の変」というのはどうみてもおかしいということになる。

 問題はこのような桓武の実態は、ほとんど知られていないことである。それは日本の支配的な社会意識のなかで、王家内部の争いが一種のタブーのようになっているためである。タブーを破るのは学問の責任であるが、現状では研究も歴史叙述も少なすぎる。そういう状況のなかでは、歴史教育の側が慎重になるのは当然である。しかも、こういう種類の問題は歴史学の教育と研究の間にきわめて多数存在する。

 これをどこから議論していくかであるが、私は、そもそも歴史知識の用語法、ターミノロジーの問題にさかのぼって問題の全貌を考えることが意外と早道でないかと思う。上でふれたこととの関係では、たとえば、事件の名称として「薬子の変」といいつづけるか、「平城上皇奈良復都事件」を採用するかという問題である。それは「承和の変」「承平天慶の乱」「安和の変」「保元の乱」「平治の乱」「治承寿永の乱」「承久の乱」などなどの事件名の固有名詞は適当かという問題にすぐに連なっていく。これらの固有名詞において元号は何も意味せず、ただ覚えれば何か分かった気がするという錯覚しかあたえない。これは、「承和の変」は恒貞廃太子事件、「承平天慶の乱」は将門・純友の反乱、「安和の変」はいわば冷泉天皇躁鬱代替紛争、「保元の乱」は崇徳上皇クーデター事件、「平治の乱」は『平家物語』の説明をそのままとって二条天皇二代后紛争とでもいった方が内容的な理解には近くなる(これらについては保立『平安王朝』や『義経の登場』NHK出版を御参照願いたい)。そして「治承・寿永の乱」は源平合戦、「承久の乱」は後鳥羽上皇クーデター事件でよいだろう。

 歴史教育を「暗記物」から解き放つためには、このくらいのことは考えた方がよいのでないか。でてくる人名は多くなるが、元号はどうしても現状の常識として必要なものに限ることにすれば、固有名詞の記憶負荷は全体としては減少するだろう。私たちの歴史学は、いまだに教科書に登場する固有名詞について必要な吟味もしていない原初段階にあるということは自覚しておいた方がよいと思う。

 これは歴史学と社会という知識社会学的な問題の全般に関わってくるから、検討すべき事は多いが、ここでは、以下、前近代の「時代名」について論じてみることにしたい。若干、話しが飛ぶことにはなるが、おそらくこの問題が、歴史教育においてもっとも影響が大きいように思うからである。

 さて、時代名としてもっとも普通で教科書などでも使われているのは、「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」という時代名であろうか。私はこれらはきわめて問題が多いと思う。おそらく学術的にいって問題がないのは、古墳時代くらいではないだろうか。そこで、容易に賛同をえられないであろうことは分かっているが、それらとはまったく異なったコンセプトで、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という用語を提案してみたいと思う。

 以下、順次に説明すると、まず古墳時代は、普通、3世紀終末あるいは4世紀初頭から始まるとされているが、3世紀初頭から6世紀までとするのが分かりやすい。つまり寺沢薫のいう「纏向型」前方後円墳(寺沢『王権誕生』講談社)が造営される時代、200年代前葉を古墳時代の開始としたい。それは纏向近辺の古墳群の時代であって、箸墓古墳に葬られたのが誰であれ、卑弥呼の擁立期に重なり、4世紀半ばまで続く時代である。その意味で古墳時代の第一期は卑弥呼期である。そして古墳時代は大和の北に墳墓がうつる佐紀王朝期を挟んで広い意での河内王朝期(5~6世紀)までとなる。河内王朝論には文献史学では異論が多いが、私は考古学の白石太一郎『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎)分社古墳とヤマト政権』(文春新書)を援用して、河内王朝論を維持することが可能だと考えている。なお前方後円墳という用語は幕末の蒲生君平が案出した言葉で、ただの形式的な符丁にすぎない。その形状は山尾幸久氏が判定しているように(『古代王権の原像』学生社)、「壺型」と理解するのが正解で、纏向型はいわば短頸壺、箸墓型は長頸壺ということになる。神仙思想において、壺は天との交通を可能にする媒体であって、その意味では前方後円墳は火山神話を表現しているのである(「日本の国の形と地震史・火山史」『震災学』7号)。その意味では古墳時代は神話時代といってもよい。

 次の大和時代という用語は、だいたい7世紀から8世紀まで、いわゆる飛鳥時代と奈良時代をあわせた時代をいう。ヤマト王権を4世紀前半から7世紀後半までとするのが一種の通説であるが(たとえば吉村武彦『ヤマト王権』岩波新書)。卑弥呼「共立」期の大和から7世紀を系譜的につなげるのは大和中心史観であって、「万世一系の天皇」というイメージを支えるものであると考えている。7世紀こそ、6世紀末に前方後円墳の築造が終了し、西国を中心とする部族連合国家(「西国国家」)が文明化の道を歩み出し、上宮王家や舒明王統が大和を直接掌握する時代であって、大和が西国国家の機構的な中心として位置づけられる時代であると考える。河内王朝からの過渡期をどう考えるかはむずかしいが、7世紀はおおざっぱにいって舒明(在位は629~641)、その妻皇極(642年踐祚。655年に重祚して斉明)の王統が安定した時代であって、その二人の息子天智(在位661~671)・天武(在位672~689)の時代が続く。そこでは皇極=斉明の位置は大きく、この時代はいわば天智がそのマザーコンプレクスを解消すると同時に兄弟喧嘩の種をまく母子王朝の時代と考えている(その趣旨の一部は「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』18号、中部大学編で書いた)。それは天武・大友の近江戦争(壬申の乱)を引き起こし、8世紀の「奈良王朝」も激しい王家内紛が続く。その内紛は天武と持統(天智の娘)の血を引く嫡系王子(つまり天武の血と持統を通じた天智の血をひく王子)にのみ王位を継がせ、他を排除したことに根ざしたものである。

 「飛鳥時代→奈良時代」という図式は、この時代の連続性を分断してしまう。とくに一〇〇年にたらぬ平城京の時期を「奈良時代」と称して独立させるのは「古代」に特権的な位置をあたえる手垢のついた日本史イデオロギーの表現であって賛成できない。

 次の山城時代は天武王統の自壊の後、桓武の長岡京遷都に始まる時代であって、それはすぐに「平安遷都」に連続する。時代呼称としては長岡京遷都以降を「山城時代」とした方がすっきりする。王朝名は「山城王朝」であろう。私は、この時代の国家形態を都市王権と呼んでいるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「都市域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。そもそも平安時代という用語は実態を示さず無意味な用語である。この時代の第一期は怨霊期、九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まる王権内部の激しい対立に特徴づけられる時期である。先に触れた高志内親王も、結局、夫の淳和を恨んで怨霊となって、その治世期の827~828年に京都を襲って激しい群発地震を引き起こしたとされている。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、この時期は王権の内紛と地震が続いて騒然とした時代であり、高志内親王は、その意味でも重要な人物であったことになる。

 その次ぎの山城時代第2期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。道長は、その両統に娘を配置することによって王統を合流させる役割を負ったのであって変な過大評価はやめたい。後三条天皇はそれを前提として、両統を統一したのであって、これが山城時代の第三期、院政期の開始である。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期の内紛は親子間の対立(後三条―白川、白川―鳥羽―崇徳、後白川―高倉など)となった関係できわめて激しいものとなり、そのなかで国家の本格的な軍事化が進展した(保立前掲『平安王朝』なお前述のことからいってこれは機会があれば『山城王朝』として書き直したいものである)。清盛・頼朝が、この国家の軍事化を推進したのが山城時代の第四期であって、1180年代の源平合戦から後鳥羽クーデタまで。ここで山城時代は終わる。なお、院政期から後鳥羽クーデタまでを一連の時期と捉えるのは石井進「院政時代」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』2)の考え方である。山城時代が400年以上にわたる長い時代となるのが扱いにくいが、それは「平安時代」でも同じであろう。

 なお大和・山城の二つの時代については、王家の内紛をきちんと伝えないと生き生きとした理解はできない。たとえばヨーロッパや中国などでは、歴史知識のなかに、王家の内紛や交替あるいはいわばハムレット的な問題がかならず位置づけられている。それが歴史教育の中に位置づけられないことこそ異様な風景であって、そこには無意識に「万世一系」の論理が貫徹しているというほかない。

 なお、時代区分は政治史を中心にするべきだが、もちろん、それだけでよいというのではない。いわゆる社会構成史的な観点が歴史学にとって必須であり、その基本線においては「戦後派歴史学」の業績がいまだに重要であるというのが私などの考え方である。それについては拙著『日本史学』(人文書院)の第5部「研究基礎:歴史理論」を御参照願いたいが、現在の私見では、8世紀から13世紀初頭(後鳥羽クーデタまで)を王朝国家、それ以降を武臣国家と規定している。王朝国家は邪馬台国以来の「西国国家」の性格をもっているが、その末期の軍事化と内戦が強力な武装地域権力を各地に生み出した。これは一種の地域ブロック権力であるが、それらを統合した武臣が天皇=「旧王」の下で覇権を握り、身分的にも「覇王」としての実質を深めることになる。19世紀まで続く「旧王―覇王」体制である。重要なのは、平清盛や源頼朝を特権化して語るのではなく、そういう覇王という観点から、ただの過渡的な存在として即物的に説明することである(前掲『中世の国土高権と天皇・武家』)。

 以上、山城時代までは前近代の国家形態を強く規定する地域性に着目する時代名称となる。これに対して、以降の武臣国家段階は、覇王の氏族名で表記するのがよい。以下、紙数もないので、それを前提として、これまでの用語法の難点を指摘していくと、まず鎌倉時代というのは武家権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。実際には後鳥羽クーデタを討伐して後鳥羽を流罪とした北条氏の権力は全国的なものであって、その時代は北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。

 次の足利時代については、たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。この用語で織豊時代の前までは通した方が理解がしやすいだろう(戦国期は過渡期と処理する)。それなのに、なぜ「室町時代」という無内容な用語が一般化したかといえば、これは足利尊氏が逆賊とされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないか。また「室町」という語には「都」は京都を中心とするという通俗的な中央意識がかいまみえる。

 次の「安土桃山時代」という時代名称には、大阪城と大阪を無視する中央根性がある。これは本稿を考える上で大きな意味をもった井上章一氏との対談(「歴史対談、東と西――やはり日本に古代はなかった」『HUMAN』8号、2016年1月、人間文化研究機構)の後、京都でばったり会った氏からうかがった意見であるが、たしかに「古代」の河内王朝論がなかなか進展しない状況をみていても、この国の支配的な歴史常識のなかには、畿内の中枢をしめる大阪平野を無視する伝統が流れているように感じる。

 「徳川時代」についても同じ理由で、覇王=大君の位置にある徳川家を時代名称にもってくるのが適当だろう。「江戸時代」という用語は東京バイアスがある言葉で、関西の歴史家には「徳川時代」という用語を使う人が多い。徳川は東海地方出自で、それは幕藩制社会の歴史像を考える上でも大きな意味があるので、その意味でもこの呼称をとりたい。

 なお、以上のような時代呼称を採用する場合には、時代の移行期となる源平内戦、南北朝内戦、戦国期内戦を十分に位置づけることが重要である。その場合、「内乱」や「乱」という言葉も「世の乱れ」という価値観を含むものなので使用せず、藤木久志がいうように、ザッハリッヒな「内戦」という語がよい(藤木『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書)。

 なお念のために述べておけば、現代歴史学はすでに「古代・中世・近世・近代」という時代区分に依拠することはできない。実際に、「古代」とか「中世」とかいっても学術的な定義もなく、研究者によって意見は区々で、論争さえも行われていない。これらの用語を使えという学習指導要領の規制には学術的な意味はないのである(参照、保立「時代区分論の現在――世界史上の中世と諸社会構成」『史海』52号、学芸大学歴史研究室、2005年)。また「封建制」という時期区分の仕方も問題が多すぎる。有名な『資本論』の本源的蓄積章の一注記を、新渡戸稲造以来、徳川時代は純粋封建制だと訳してきたのは、マルクスの『資本論』の草稿類をみると誤訳・誤読というほかないのである(参照、前掲『日本史学』、および誤訳問題自体については「C・ギアーツのInvolutionと『近世化』」(岩波講座日本歴史月報13)。

 以上、あわただしい論述となったが、そういうなかで、歴史学にとってどうしても必要な時代区分を考えるなかで、上記のような一応の結論にたどり着いたということを最後に付言しておきたい。

2016年9月13日 (火)

韓国で地震、7月5日に次ぐもの

 韓国で地震が続いている。韓国では有感地震そのものがめずらしく、大きな話題になっている。私は昨年、一昨年と日中韓の歴史地震史料のデータベース化について努力したが、資金の援助が1年できれてしまい中断ということになり、関係者には申し訳ないことになった。やはり研究が必要なのではないかと思う。
 プレートの動きには国境はない。中国・台湾・韓国・日本の間では国家関係よりも前に同じユーラシアプレートの東端にいるという環境を共有している。過去にあったような大きな噴火があれば同じ災害に襲われる可能性がある。それをふまえて地質学的な知識を共有することが優先されるべきだと思う。日本政府にも、各国政府にもそういう意識はないというのが困ったことである。これは地震火山列島で、災害にもっとも近い、日本がイニシアティヴをとるべきことだと思う。
 
 さて、昨日の地震については下記の通り。

 韓国南部で9月12日午後7時44分と8時32分にM5,1とM5,9の地震が発生という。2人がけがをしたほか、建物にひびが入るということ。韓国気象庁によると「観測史上最も強い揺れ」という。震度5。後に紹介するように、1455年には朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでており、大地震が朝鮮半島で起こりうることは十分に注意する必要がある。

 なお、7月5日にもM4.9の地震があった。これも地震空白域でのM5地震であって、地震が続いていることを示す。これについては、その時、以下のような趣旨のツイートをした。「歴史地震学からみると、韓国の地震は日本の地震が活動期に入ったことの証拠であるらしい。それを明瞭にいうのは茂木先生の仕事だけのように思いますがーー」。

 茂木先生とは茂木清夫氏のことで、『地震ーーその本性をさぐる』(東京大学出版会、1981年)は1700年前後に日本列島・朝鮮半島・中国北部で地震が関連してピーク期になっているとしている。
 私は、それを前提として、朝鮮半島南部の地震については、9世紀と15世紀に起きた東北沖海溝大地震・大津波の後、どちらの場合も韓半島で地震や火山噴火が活発になっていることを主張した(拙著『歴史のなかの大地動乱』)。それに関係して日中韓の歴史地震史料のデータベース化について努力したが、資金の援助が1年できれてしまい中断ということになり、関係者には申し訳ないことになった。やはり研究が必要なのではないかと思う。

 なお、神戸大学の大内徹氏の論文「Korea地域の地震・火山活動と東アジアのテクトニクス」(2002年)では、日本の敗戦のころに起きた東南海地震の前も韓国での地震が活発であったという(この大内論文は神戸大学のデータベースから落とせます)。

 また昨年11月の薩摩沖西方のM7の地震は熊本地震への動きの初発であろうと想定されいるが、琉球海溝域の地震もトカラ諸島近海などで続いている。

 現在が9世紀と15世紀につづく地震活動の活発期であるとすると、琉球海溝域から朝鮮半島の地震は注目すべきことだと思う。

 なお、以下、右の拙著『歴史のなかの大地動乱』の関係部分を引用し、および関係する新妻地質学研究所のブログの一部を掲載させていただく。

『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)
 注意しておきたいのはより長期的な地震の繰り返しの問題である。つまり、九世紀陸奥沖津波の約六〇〇年後、室町時代、一四五四年(享徳三)に大規模な奥州津波が発生した。この奥州津波は、「王代記」という山梨県に残る地域の年代記(一五二四年(大永四)頃に成立)に「十一月廿三、夜半ニ天地震動。奥州ニ津波入テ、山の奧百里入テ、カヘリニ、人多取ル」と記録されている。奥州で津波が発生したことについては、この史料が述べるのみだが、同日に地震があったことについては、そのほか、「会津旧事雑考」(『会津資料叢書』下巻)にも、「十一月廿三日夜大地震」とあり、また、しばらく後の一二月一〇日の『鎌倉大日記』にも「大地震」とある。これは奥州津波の余震に違いない。
 この室町時代の奥州津波は、右の「王代記」に、「山の奧」に「百里」入ったとあることからすると、おそらく九世紀の陸奥沖津波と似た規模をもったものではないかと考えられる。現在、地震学の地質調査によって、仙台・石巻平野に九世紀の津波の痕跡と推定される砂層が発見されていることは「はじめに」で述べた通りであるが、そこでは一四世紀頃の津波痕跡の砂層も確認されているという。右の「王代記」に記された津波は一五世紀半ばであるから、若干の時間差があって、今後の精査が必要であろうが、あるいはこの津波が上記の砂層を残した可能性もあるように思われる。
 なお、『大日本地震史料』によれば、上総の御宿にある大宮神社という神社の史料には、この日の「夜子丑剋、大地震、ヨルヒル入」とあるという。地震学の都司の探索にもかかわらず、残念ながら、現在、この史料は原本の所在が不明になっているが、原本が発見され、もしこの史料の「夜昼入る」という文章が津波と関係するものであるということになると、この奥州津波はまさに今回の東日本太平洋岸地震と同じように上総まで影響したということになる。
 ほとんどは今後の調査にかかっているが、この問題は陸奥三陸沖の海溝部で発生する地震のパターンや繰り返しのあり方という日本の地震学にとっての根本問題につながってくる。この「王代記」の記事は、だいたい六〇〇年周期で今回の東日本太平洋岸地震にあたる地震が発生するという結論をみちびくことになるのかもしれないのである。
 なお、この六〇〇年という時間との関係でふれておきたいのは、三月一一日の東日本太平洋岸地震の後、福島第一原発の事故との関係で、「一〇〇〇年に一度の災害は想定外である」という言い方がされたことである。この種の発言に対して、地震学者から、「一〇〇〇年に一度だから想定外」という言い方は了解しがたい、仙台・石巻平野において九世紀のみでなく、一四世紀頃にも大津波が発生していた可能性も指摘してあった、という発言があったことは記憶に新しい。このことは長い時間のことを考えるという自然史の研究の意味を鮮明に示しているように思う。
(ハ)東北アジアにおける地震旺盛期の終り
 問題は、この室町時代の奥州津波の後に、韓半島で大地震が発生したことである。この奥州津波は、西暦でいうと、一四五四年一二月二一日にあたるが、『朝鮮王朝実録』によると、その約一月後、西暦一四五五年一月二四日(朝鮮王朝暦、端宗王二年十二月甲辰)に、朝鮮の南部、慶尚道・全羅道などで大地震があって多数の圧死者がでている。また注意しておきたいのは、この六年前、西暦一四四九年(宝徳一)に、対馬で地震が発生したという記録もあることである。一五世紀の奥州津波は、九世紀の陸奥沖海溝地震よりも明瞭に韓半島南部の地震と連動しているようにみえるのである。
 これは地震学の茂木清夫が、一五世紀から一七世紀にかけてを東北アジアにおける地震の「広域的活動期」と規定していることに関係する。茂木が日本列島、朝鮮半島、中国大陸東北部がほぼ東西の同一線上に配列されていることを重視し、このような広域的な活動期の存在それ自体が「剛体プレート説を地震学の立場から支持するものといえよう」としているのは興味深い。茂木の議論は、図■のような日・中・韓の地震の統計データによって組み立てられたものであるが、以上の日本の奥州津波と韓国南部地震の連動は、それを直接に支えるものであると思う。この二つの地震は、一八世紀に続く地震の「広域的活動期」の第一撃であったのではないだろうか。
 現在では、宇津徳治「世界の被害地震の表」によって、茂木が空白に残した七・八・九世紀についても東北アジアの地震統計をとることができる。図■は、それによって茂木の作業をやり直したものであるが、これによって、七~九世紀と一五~一七世紀という東北アジアにおける地震活動の二つの活発期をたしかに確認できるだろう。さらに興味深いのは、この図の二世紀頃を中心として、もう一つピークがあるようにみえることである。そして、もし、そうだとすれば、東アジアにおいては約五〇〇年ほどの間をおいて「地震の旺盛期」が繰り返され、現在は紀元後、四回目の旺盛期であるというきわめて重大な結論が導かれるのかもしれない。

7月5日地震についての新妻地質学研究所のブログ
「2016年7月5日に朝鮮半島南東沖でM4.9-nt深度37kmの地震が南海小円区北方延長部で起こった.本震源は,対馬海峡を越した南海小円区の海溝距離567kmに位置し,これまでの最遠記録である海溝距離364kmの1997年6月25日中国地方北西海岸付近M6.6-np深度8kmを大幅に更新して表示範囲外になった.南海小円区の海溝距離範囲北側の本地震は,日本全域図の鹿島小円区の海溝距離1108kmに表示される(2016年7月日本全域月別).朝鮮半島域のCMT解は,これまで朝鮮半島東方沖2004年5月29日M5.1+p43km海溝距離1092kmの1個が報告されているのみで(2004年日本全域年別),本地震が2個目になる.本地震は,これまで地震活動が報告されていない空白域での地震であり(以下略)」,。

なおヤフーに朝鮮日報の記事が翻訳転載されている「(朝鮮日報日本語版) 東日本巨大地震後に韓半島で地震急増、M7級地震発生の可能性も」。下記に一部再掲させていただく。

地質学界では韓半島の断層構造上、最大でマグニチュード(M)6.5-7.0の地震が発生する可能性があると予測してきたが、今回の地震により2011年の東日本巨大地震や今年4月の熊本地震などで韓半島の断層構造が変わったという見方が強まっている。

地質学界では「『韓半島は地震安全地帯だ』という固定観念を捨て、地震に関するシステムを全面的に再編すべきだ」という声が強い。今回の地震が発生した慶州一帯の梁山断層地域は過去にも地震が発生した記録がある。同研究院のソン・チャングク地震災害研究室長は「地震は、過去に地震発生の記録がある地域で再び発生するのが一般的だ。今回地震を起こした梁山断層はいつでも地震を引き起こす可能性がある活断層。これまでの分析では韓半島で起こり得る最も大きな地震はM6.5程度で、一部の学者はM7.0も発生の可能性があると考えてきた。ただ、いつ、どこで地震が発生するかについて予測するのは難しい状況だ」と語った。

2016年9月 7日 (水)

アメリカの選挙のおそるべき汚さ


 アメリカの選挙にはすでに憲法のレベルで制度的な欠陥が多いというのがアメリカの政治学会の常識であるが、ただ、、制度的な欠陥には歴史的な理由や経過があるものであって、それらを解決するためには一定の時間がかかる。しかし、選挙の実際の運用に関わる問題は、それとは別のレヴェルの問題であり、アメリカの選挙の実際において何よりも驚くべきなのは、その恐るべき汚さである。

 ここでは大統領選挙に限らず、選挙一般について確認していくことにするが、まず第一は、選挙権そのものの問題である。民主主義国家においては国民に選挙権を保障することは何よりも重要な行政の義務である。しかし南北戦争後に制定されたアメリカ合州国憲法修正一五条は、黒人に投票権をあたえたものの「投票権は拒否されることも制限されることもない」という消極規定であって、選挙権を「国民固有の権利」とする(日本国憲法一五条)常識的な規定とは異なる不十分なものであった。しかも、アメリカでは二〇世紀初頭、投票権を国民に自動的にあたえずに事前登録を義務づけ、移民や黒人の投票を抑制する措置がとられた。これは公民権法のなかで成立した投票権法が成立した後も根幹として維持されており、そのためアメリカでは、七〇年代以降も、三〇%ほどの国民が選挙権をもっていない事態が続いている。とくに白人の有権者登録率は約七割、黒人は約六割、中南米系は約五割強にとどまるという実態は、アメリカが民主主義国家とはいえないことを示している。

 こういう国家における政治家や官僚その他、何らかの形で税金によって生活を維持している人間で、選挙権を国民に保障することを第一の義務として行動しない人間は、主権者を主権者と考えない人間であり、また主権者の税金を不当に所得している人間である。そのような人間は民主主義者ではないことはもちろん、そもそも非道徳な人間であって社会的に排除するべき存在である。彼らは、それだけでなく、こういう実態をさらに悪化させようとしている。

 これは社会的な犯罪者あるいはその予備軍であるとしかいいようがない存在であろう。問題は、アメリカではこういう社会的な犯罪者あるいはその予備軍が大きな顔をしていることである。つまり、二〇一三年、アメリカ最高裁は、投票権法にもとづくガイドラインの一部を違憲だとして、州による投票制限の道を開いた。これによって相当数の州が投票制限法を強行し、その中で、(すべての人がもっている訳ではない)運転免許証やパスポートなどの写真付き身分証明書の提示、選挙投票日当日の有権者登録の廃止、事前投票期間の短縮、日曜日の事前投票への制限、事前の住所変更申請などの問題が発生している。投票する時間や手続き条件をもたない人間は実力がないのであって、そういう人間は投票しなくてよい。そういう人間はアメリカ民主主義の誉れにふさわしい人間ではない。そういう人間は二級市民であって、その投票は抑圧してよいという訳である。最高裁は、アメリカの超富裕者(ヴェリー・リッチ)に対して「アメリカの経済のほとんどを所有しているあなた方は、ホワイトハウス、政府、連邦議会、州知事、州議会をも買い占めていい」といったのだ、というのがサンダースの評価である(サンダースHP、issues)。

 さらに汚らしいのは、アメリカでは国勢調査のある一〇年ごとに州の選挙区の形を操作して無風選挙区を作り出す二大政党の裏取引が行われることで、この選挙区の形を怪獣のようにするゲリマンダーといわれる詐術も、最高裁判決によってさらにやりやすくなってしまった。有り体にいえば民主党支持者が多い区域を作って、そこでは民主党が圧倒的に勝利をするが、他の地区では共和党がかならず勝利するか、いい勝負ができるように選挙区の形を操作するのである。とくに連邦下院議員選挙の選挙区は各州の知事・議会において圧倒的に共和党有利のゲリマンダーが行われており、これをくつがえすのはすぐには困難という状況ができあがっているという。
 こういう神経をもつ社会的犯罪者たちは、投票日当日に投票妨害を強行することも辞さない。サンダースは「人々はどの選挙でも投票するのに何時間もまたなければならない。これは国民的な不名誉だ」と述べているが、アメリカの野蛮な社会的犯罪者は、どれを不名誉とは考えない。今回の予備選挙でも問題になったように、不利になりそうなところでは民主党・共和党の裏取引の下で投票所それ自身を閉鎖したり、数を減らすという破廉恥な行動が行われている。

 二〇〇〇年のゴアとブッシュの大統領選挙の際に、投票機械がわざと古いままに置かれているという事実が明らかになったことは世界を驚かせたが、今回、二〇一六年の大統領選挙において、どのような不正が、どのような勢力によってどう行われたか。これはバーニー・サンダースに対する支持が、ここまでに達したという情勢のなかで、今後、さらに赤裸に明らかになっていくであろう。

 破廉恥政治の当人たちにとっては選挙はゲームの対象である。彼らは、そのゲームを巨大な金の動くビッグ・ビジネスとし、そこに巨大な害虫のように寄生している。たとえば、トランプの選対本部議長であったポール・マナフォートはウクライナのヤヌコヴィッチ前大統領のコンサルタントという経歴でロシアのプーチンとの関係もあるという人物で政治宣伝のプロである(二〇一六年八月に辞任)。またビル・クリントンの選挙参謀・政治コンサルタントをつとめたディック・モリスは、スキャンダルで辞任した後、共和党のマサチューセッツ知事、アルゼンチン・ウルグアイ・メキシコの大統領選挙で活動した選挙戦略家で、オンライン投票システム(Vote.com)の代表でもあるという人物である。以前の日本では、こういう存在を政治ゴロといっていたが、最近では、日本でも電通が同じような選挙ヤクザの役割を果たすようになったことはよく知られている。しかし、さすがにアメリカの「政治ゲーム市場」は国際的である。

 ゴアは、イラク侵攻の直前のアメリカ上院が静かだった理由を、議員たちの多数が間近の選挙でテレビコマーシャル枠を買うための資金集めイヴェントに出席していたためだと証言している(『理性の奪還』)。そしてゴアが敗北した大統領選挙の年の選挙戦全体にかかった費用は三〇億㌦であったが、二〇〇八年のオバマ選出の年には五三億㌦にまで達している。バーニー・サンダースがいうように、これは億万長者と企業権益による政治の買い占めである。しかも、二〇一〇年、最高裁のシティズン・ユナイテッド訴訟判決は、諸団体が選挙の前にテレビ宣伝をすることを禁止していた選挙運動改革法を「表現の自由」の名のもとに違憲であるとして金権選挙をさらに野放しにした。このような法律家のことを東アジアでは伝統的に「法匪」と呼ぶことになっている。

2016年9月 5日 (月)

平安時代、鎌倉時代という言葉をつかわない理由

ある研究会への報告準備ペーパーです。

 8世紀末から12世紀末までの日本の歴史を「平安時代」という用語で表現するのが普通であるが、「平安」というのは、山城愛宕郡への遷都における桓武の主観的希望の表現にすぎない。「平安京」という都城名は史料に登場するが、その実際が「平安」であった訳ではない。それに何時までも呪縛された時代名を使うことには疑問が多い。また奈良京→長岡京→愛宕京の遷都過程は既存建築などの施設を使用しつつ、西北、東北に平行移動したものであることが知られており、政治過程からしても、長岡京以降は同一の時代であって山城時代とし、王朝は「山城王朝」とするのがわかりやすい。私見では、時代名に山城という地名を入れることは、山城時代の国家が八世紀までの畿内国家(西国国家)という本質を残していることを示す上でも便宜である。
 この時代の国家形態を都市王権と呼ぶことができるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「首都域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。9世紀末・10世紀初頭の国政改革によって、五位以上の貴族は山城首都圏居住を標識とする都市貴族として身分化され、九世紀までの経過で各地方の豪族あるいは、そこに留住するにいたった支配層は地方貴族として区分されるにいたった。この山城王朝国家は、都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係、中央都市支配と地方社会における領主支配の関係という中心・周縁関係、都鄙関係を前提に存在していた国家であるということができる。
 山城時代を小区分すると、その第一期は怨霊期である。九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まり、八六九年陸奥地震の背後にいた怨霊としての伴善男、そして大国主命の籠もっていた吉野の地下に地震などの災害霊として籠もった菅原道真によって特徴づけられる。これらの怨霊は王権内部の激しい対立に関わって登場したものであり、この時代の政治史的本質を現している。いわゆる奈良時代、つまり大和時代後期の宮廷が直接の王族内部における殺し合いによって特徴づけられるのに対して、この時代に入って、王権内部における殺し合いが消えるのは、都市王権成立の反映である。殺されて怨霊となるのは、都市貴族であって、これは彼らが内部闘争に積極的に関わっていったことの反映である。
 この時期、初期荘園制の展開と班田収受システムの負名散田請負への移行(「班」は「あがつ」と読むが「散」の読みも同じ。両制度には連続性がある)を前提に、地方制度がいわゆる国衙荘園体制に再編成される。これが上記国政改革の重要な内容をなしていた。なお都市王権の成立は首都の都市的な社会関係が基準関係となることを意味しており、都市宮廷や都市貴族制に対応する官衙制、都市住人諸階層の形成、ジェンダー関係の変容(女性の秘面性など)などが注目される。仏教の顕密主義と神道の複合としての日本的宗教論理が成立することも、それと一連の事態であろう。神社は都市的な清浄論理を代表するものと考える。
 山城時代第二期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。この時期は、都市王権が吉田孝のいう「古典的」形態をとるようになった時期である。王権の代行システム(摂関制など)、後宮組織の充実、官僚貴族制、宮廷貴族と武家貴族の分化などに表現されるよって特徴づけられる。それは都市王権の内部に王身分・元首制(儀礼主宰)・執行権の複層構造をもたらした。王統の迭立は、それにもとづいていただけにきわめて根強いものとなった。道長の権威は、両統に娘を配置することによって王統を合流させることに根付いていたことなどはいうまでもない。この時代を摂関時代というのは、このような政治史の本質を捉えたものとはいえない。
 この時期、王家領荘園、摂関家領荘園の体系化が関係しながら進んだ。これは国司苛政上訴の動きなどにみえるような都鄙関係の展開、「高家」といわれるような地方名望家の形成に対応している。なお、この時期のイデオロギー状況としては、やはり比叡山と山王神道(およびそれとむすびついた賀茂、祇園、石清水など)を中心とした末寺・末社組織の展開が大きいだろう。そこに発生した神人組織が都市的な商工業の受け皿になっていく。
 山城時代の第三期は院政期である。後三条天皇は道長の下での縁戚的な両統の合一を前提として、両統を統一したが、それはすぐに別の形態の王権内部の紛議をもたらした。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期のそれは親子間の対立(後三条―白河、白河―鳥羽―崇徳、後白河ー二条、後白河―高倉など)となり、きわめて激しいものとなったのである。これは、山城王朝国家の全体的な変化に関わっており、基本的には都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係がより直接的な関係に変容していったためである。それは一方では院領荘園の拡大、他方では知行国制の拡大による中央・地方の統合を基礎としていた。
 この下で、院政期国家は国土高権を強化していったのであるが、他方でこの過程は後白河院政期に東国受領が院近臣集団によって統括されているように、各地に一国を超えたレベルの広域的な諸関係を生み出していった。このなかで、王権内部の激烈な矛盾と武家貴族の競い合いが結びつくこととなって。これが院政期国家に内戦と国家の本格的な軍事化をもたらしたのである。
 山城時代の第四期は、都市王権の国家から武臣国家に入っていく過渡期である。この時代は、平氏系王朝、高倉の即位によって開始された。平氏系王朝は、後白河が二条の「二代后」問題に介入したいわゆる平治の乱の経過のなかで形成されたものである。平氏による武臣執政は、地方社会における広汎な矛盾の展開を促し、それが一一八〇年代の源平合戦に展開した。清盛と頼朝の行動も連続性が高く、本質的な相違をおくべきものではない。また、源平合戦と幕初のテロに次ぐテロの時期も、軍事史・政治史の問題としては直結している。それゆえに山城時代第三期の終了は、後鳥羽上皇クーデター事件(いわゆる「承久の乱」)において、西国国家が軍事的に敗北する時点にもとめるべきだろう。
 従来は、幕府の成立によって時代を切り、それ以降を鎌倉時代というのが普通である。たしかに頼朝による東海道惣官職の獲得、東国小国家の形成と、それを前提として頼朝が獲得した日本国惣地頭・惣守護の地位はの意味は大きい。しかし、それらは後白河院政期の院近臣集団による東国支配の枠組みを換骨奪胎したものであり、惣官職自体も平氏政権の下で存在していたものの延長であって、日本国惣地頭の地位も一時的なものであった。これはやはり過渡期的な現象であって、後鳥羽クーデターの打破によって、国土高権の軍事的掌握と、全国的な武臣政権が画定したものと考える。これによって東国の武家領主連合国家は全国国家のなかに自己をビルトインし、それによって全国支配国家となった。これによって、地域名による時代区分は終わることになる。
 鎌倉時代という呼称は、このような政治史の実態にあわない。またなにより、この呼称は北条氏の武臣権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。後鳥羽クーデタ以降は武臣の氏族名によって、北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。
 山城時代第三期・第四期の政治・文化状況をどう論ずるかについては次の機会にゆずることとしたいが、ただ、第四期が地震の多かった時代で、地震が政治史に大きな影響を及ぼしたこと、また平氏が信仰する京都祇園社ー福原祇園社ー厳島神社はどれも地震神の信仰に関わっていることに注意しておきたい。院政期以降の文化状況論については、これらの問題をふくめて考察するべきであろう。

参考
保立道久
『平安王朝』(岩波新書、一九九九年)
『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房
「南海トラフ大地震と『平家物語』」(『災害・環境から戦争を読む』山川出版社、二〇一五年)

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