平安時代、鎌倉時代という言葉をつかわない理由
ある研究会への報告準備ペーパーです。
8世紀末から12世紀末までの日本の歴史を「平安時代」という用語で表現するのが普通であるが、「平安」というのは、山城愛宕郡への遷都における桓武の主観的希望の表現にすぎない。「平安京」という都城名は史料に登場するが、その実際が「平安」であった訳ではない。それに何時までも呪縛された時代名を使うことには疑問が多い。また奈良京→長岡京→愛宕京の遷都過程は既存建築などの施設を使用しつつ、西北、東北に平行移動したものであることが知られており、政治過程からしても、長岡京以降は同一の時代であって山城時代とし、王朝は「山城王朝」とするのがわかりやすい。私見では、時代名に山城という地名を入れることは、山城時代の国家が八世紀までの畿内国家(西国国家)という本質を残していることを示す上でも便宜である。
この時代の国家形態を都市王権と呼ぶことができるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「首都域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。9世紀末・10世紀初頭の国政改革によって、五位以上の貴族は山城首都圏居住を標識とする都市貴族として身分化され、九世紀までの経過で各地方の豪族あるいは、そこに留住するにいたった支配層は地方貴族として区分されるにいたった。この山城王朝国家は、都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係、中央都市支配と地方社会における領主支配の関係という中心・周縁関係、都鄙関係を前提に存在していた国家であるということができる。
山城時代を小区分すると、その第一期は怨霊期である。九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まり、八六九年陸奥地震の背後にいた怨霊としての伴善男、そして大国主命の籠もっていた吉野の地下に地震などの災害霊として籠もった菅原道真によって特徴づけられる。これらの怨霊は王権内部の激しい対立に関わって登場したものであり、この時代の政治史的本質を現している。いわゆる奈良時代、つまり大和時代後期の宮廷が直接の王族内部における殺し合いによって特徴づけられるのに対して、この時代に入って、王権内部における殺し合いが消えるのは、都市王権成立の反映である。殺されて怨霊となるのは、都市貴族であって、これは彼らが内部闘争に積極的に関わっていったことの反映である。
この時期、初期荘園制の展開と班田収受システムの負名散田請負への移行(「班」は「あがつ」と読むが「散」の読みも同じ。両制度には連続性がある)を前提に、地方制度がいわゆる国衙荘園体制に再編成される。これが上記国政改革の重要な内容をなしていた。なお都市王権の成立は首都の都市的な社会関係が基準関係となることを意味しており、都市宮廷や都市貴族制に対応する官衙制、都市住人諸階層の形成、ジェンダー関係の変容(女性の秘面性など)などが注目される。仏教の顕密主義と神道の複合としての日本的宗教論理が成立することも、それと一連の事態であろう。神社は都市的な清浄論理を代表するものと考える。
山城時代第二期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。この時期は、都市王権が吉田孝のいう「古典的」形態をとるようになった時期である。王権の代行システム(摂関制など)、後宮組織の充実、官僚貴族制、宮廷貴族と武家貴族の分化などに表現されるよって特徴づけられる。それは都市王権の内部に王身分・元首制(儀礼主宰)・執行権の複層構造をもたらした。王統の迭立は、それにもとづいていただけにきわめて根強いものとなった。道長の権威は、両統に娘を配置することによって王統を合流させることに根付いていたことなどはいうまでもない。この時代を摂関時代というのは、このような政治史の本質を捉えたものとはいえない。
この時期、王家領荘園、摂関家領荘園の体系化が関係しながら進んだ。これは国司苛政上訴の動きなどにみえるような都鄙関係の展開、「高家」といわれるような地方名望家の形成に対応している。なお、この時期のイデオロギー状況としては、やはり比叡山と山王神道(およびそれとむすびついた賀茂、祇園、石清水など)を中心とした末寺・末社組織の展開が大きいだろう。そこに発生した神人組織が都市的な商工業の受け皿になっていく。
山城時代の第三期は院政期である。後三条天皇は道長の下での縁戚的な両統の合一を前提として、両統を統一したが、それはすぐに別の形態の王権内部の紛議をもたらした。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期のそれは親子間の対立(後三条―白河、白河―鳥羽―崇徳、後白河ー二条、後白河―高倉など)となり、きわめて激しいものとなったのである。これは、山城王朝国家の全体的な変化に関わっており、基本的には都市貴族と地方貴族の相対的に緩い従属関係がより直接的な関係に変容していったためである。それは一方では院領荘園の拡大、他方では知行国制の拡大による中央・地方の統合を基礎としていた。
この下で、院政期国家は国土高権を強化していったのであるが、他方でこの過程は後白河院政期に東国受領が院近臣集団によって統括されているように、各地に一国を超えたレベルの広域的な諸関係を生み出していった。このなかで、王権内部の激烈な矛盾と武家貴族の競い合いが結びつくこととなって。これが院政期国家に内戦と国家の本格的な軍事化をもたらしたのである。
山城時代の第四期は、都市王権の国家から武臣国家に入っていく過渡期である。この時代は、平氏系王朝、高倉の即位によって開始された。平氏系王朝は、後白河が二条の「二代后」問題に介入したいわゆる平治の乱の経過のなかで形成されたものである。平氏による武臣執政は、地方社会における広汎な矛盾の展開を促し、それが一一八〇年代の源平合戦に展開した。清盛と頼朝の行動も連続性が高く、本質的な相違をおくべきものではない。また、源平合戦と幕初のテロに次ぐテロの時期も、軍事史・政治史の問題としては直結している。それゆえに山城時代第三期の終了は、後鳥羽上皇クーデター事件(いわゆる「承久の乱」)において、西国国家が軍事的に敗北する時点にもとめるべきだろう。
従来は、幕府の成立によって時代を切り、それ以降を鎌倉時代というのが普通である。たしかに頼朝による東海道惣官職の獲得、東国小国家の形成と、それを前提として頼朝が獲得した日本国惣地頭・惣守護の地位はの意味は大きい。しかし、それらは後白河院政期の院近臣集団による東国支配の枠組みを換骨奪胎したものであり、惣官職自体も平氏政権の下で存在していたものの延長であって、日本国惣地頭の地位も一時的なものであった。これはやはり過渡期的な現象であって、後鳥羽クーデターの打破によって、国土高権の軍事的掌握と、全国的な武臣政権が画定したものと考える。これによって東国の武家領主連合国家は全国国家のなかに自己をビルトインし、それによって全国支配国家となった。これによって、地域名による時代区分は終わることになる。
鎌倉時代という呼称は、このような政治史の実態にあわない。またなにより、この呼称は北条氏の武臣権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。後鳥羽クーデタ以降は武臣の氏族名によって、北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。
山城時代第三期・第四期の政治・文化状況をどう論ずるかについては次の機会にゆずることとしたいが、ただ、第四期が地震の多かった時代で、地震が政治史に大きな影響を及ぼしたこと、また平氏が信仰する京都祇園社ー福原祇園社ー厳島神社はどれも地震神の信仰に関わっていることに注意しておきたい。院政期以降の文化状況論については、これらの問題をふくめて考察するべきであろう。
参考
保立道久
『平安王朝』(岩波新書、一九九九年)
『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房
「南海トラフ大地震と『平家物語』」(『災害・環境から戦争を読む』山川出版社、二〇一五年)
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