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2016年9月17日 (土)

日本史の時代名と時代区分

保立道久

 私は、3・11の後、地震史研究の必要を痛感し、急遽、8・9世紀の地震と火山噴火を調べ、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)という本を書いた。その中で、この時代の政治史には地震や噴火が深く影響しており、その意味でも「大地動乱の時代」といってよいことを確認した。

 そのなかで、いわゆる「薬子の変」についても言及したが、事件名は「平城上皇奈良復都事件」とした。「薬子の変」というのは「薬子=悪」という決めつけが目立ちすぎるし、「変」という言葉自体に「秩序=善」という価値観が含まれている。また、春名宏昭がいうように、この場合は上皇・平城に対して弟で王位を譲られた嵯峨が反逆し、いわば王自身がクーデターに踏み切ったという事件(春名『平城天皇』吉川弘文館)であるからさらに「変」という用語は使いにくいのである。

 もちろん、歴史教育の現場ではむずかしい問題が発生するだろう。たとえば私は春名の意見が正しいと思うが、普通は、クーデターを起こしたのは平城上皇の側であるとされる。また、本来、この事件の真相を伝えるためには相当の背景説明が必要である。つまり、桓武天皇は多数の男子のなかから平城・嵯峨・淳和の三人の男子を選び、彼らに姉妹(桓武の娘)をあてがって近親婚を組織し、それを三人の王子の王位継承資格の象徴とした。そして桓武は、末っ子の淳和の妻・高志内親王が兄弟の姉妹妻のなかではただ一人妊娠し、初孫の男児を生んだことを喜んで、死の直前にこの男子を「正嗣」と定めたのである(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館)。

 右の新書では、ここに根を置いて平城と淳和の関係が悪化するなかで高志内親王が重病におちいり死去したという経過が、平城が自分の息子を皇太子とし、王統を自己の許に止めようとしたことの伏線となったと論じた。そういう理解からすると、この事件の関係人物としては薬子よりも高志内親王の方が重要であって、この事件を「薬子の変」というのはどうみてもおかしいということになる。

 問題はこのような桓武の実態は、ほとんど知られていないことである。それは日本の支配的な社会意識のなかで、王家内部の争いが一種のタブーのようになっているためである。タブーを破るのは学問の責任であるが、現状では研究も歴史叙述も少なすぎる。そういう状況のなかでは、歴史教育の側が慎重になるのは当然である。しかも、こういう種類の問題は歴史学の教育と研究の間にきわめて多数存在する。

 これをどこから議論していくかであるが、私は、そもそも歴史知識の用語法、ターミノロジーの問題にさかのぼって問題の全貌を考えることが意外と早道でないかと思う。上でふれたこととの関係では、たとえば、事件の名称として「薬子の変」といいつづけるか、「平城上皇奈良復都事件」を採用するかという問題である。それは「承和の変」「承平天慶の乱」「安和の変」「保元の乱」「平治の乱」「治承寿永の乱」「承久の乱」などなどの事件名の固有名詞は適当かという問題にすぐに連なっていく。これらの固有名詞において元号は何も意味せず、ただ覚えれば何か分かった気がするという錯覚しかあたえない。これは、「承和の変」は恒貞廃太子事件、「承平天慶の乱」は将門・純友の反乱、「安和の変」はいわば冷泉天皇躁鬱代替紛争、「保元の乱」は崇徳上皇クーデター事件、「平治の乱」は『平家物語』の説明をそのままとって二条天皇二代后紛争とでもいった方が内容的な理解には近くなる(これらについては保立『平安王朝』や『義経の登場』NHK出版を御参照願いたい)。そして「治承・寿永の乱」は源平合戦、「承久の乱」は後鳥羽上皇クーデター事件でよいだろう。

 歴史教育を「暗記物」から解き放つためには、このくらいのことは考えた方がよいのでないか。でてくる人名は多くなるが、元号はどうしても現状の常識として必要なものに限ることにすれば、固有名詞の記憶負荷は全体としては減少するだろう。私たちの歴史学は、いまだに教科書に登場する固有名詞について必要な吟味もしていない原初段階にあるということは自覚しておいた方がよいと思う。

 これは歴史学と社会という知識社会学的な問題の全般に関わってくるから、検討すべき事は多いが、ここでは、以下、前近代の「時代名」について論じてみることにしたい。若干、話しが飛ぶことにはなるが、おそらくこの問題が、歴史教育においてもっとも影響が大きいように思うからである。

 さて、時代名としてもっとも普通で教科書などでも使われているのは、「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」という時代名であろうか。私はこれらはきわめて問題が多いと思う。おそらく学術的にいって問題がないのは、古墳時代くらいではないだろうか。そこで、容易に賛同をえられないであろうことは分かっているが、それらとはまったく異なったコンセプトで、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という用語を提案してみたいと思う。

 以下、順次に説明すると、まず古墳時代は、普通、3世紀終末あるいは4世紀初頭から始まるとされているが、3世紀初頭から6世紀までとするのが分かりやすい。つまり寺沢薫のいう「纏向型」前方後円墳(寺沢『王権誕生』講談社)が造営される時代、200年代前葉を古墳時代の開始としたい。それは纏向近辺の古墳群の時代であって、箸墓古墳に葬られたのが誰であれ、卑弥呼の擁立期に重なり、4世紀半ばまで続く時代である。その意味で古墳時代の第一期は卑弥呼期である。そして古墳時代は大和の北に墳墓がうつる佐紀王朝期を挟んで広い意での河内王朝期(5~6世紀)までとなる。河内王朝論には文献史学では異論が多いが、私は考古学の白石太一郎『古墳からみた倭国の形成と展開』(敬文舎)分社古墳とヤマト政権』(文春新書)を援用して、河内王朝論を維持することが可能だと考えている。なお前方後円墳という用語は幕末の蒲生君平が案出した言葉で、ただの形式的な符丁にすぎない。その形状は山尾幸久氏が判定しているように(『古代王権の原像』学生社)、「壺型」と理解するのが正解で、纏向型はいわば短頸壺、箸墓型は長頸壺ということになる。神仙思想において、壺は天との交通を可能にする媒体であって、その意味では前方後円墳は火山神話を表現しているのである(「日本の国の形と地震史・火山史」『震災学』7号)。その意味では古墳時代は神話時代といってもよい。

 次の大和時代という用語は、だいたい7世紀から8世紀まで、いわゆる飛鳥時代と奈良時代をあわせた時代をいう。ヤマト王権を4世紀前半から7世紀後半までとするのが一種の通説であるが(たとえば吉村武彦『ヤマト王権』岩波新書)。卑弥呼「共立」期の大和から7世紀を系譜的につなげるのは大和中心史観であって、「万世一系の天皇」というイメージを支えるものであると考えている。7世紀こそ、6世紀末に前方後円墳の築造が終了し、西国を中心とする部族連合国家(「西国国家」)が文明化の道を歩み出し、上宮王家や舒明王統が大和を直接掌握する時代であって、大和が西国国家の機構的な中心として位置づけられる時代であると考える。河内王朝からの過渡期をどう考えるかはむずかしいが、7世紀はおおざっぱにいって舒明(在位は629~641)、その妻皇極(642年踐祚。655年に重祚して斉明)の王統が安定した時代であって、その二人の息子天智(在位661~671)・天武(在位672~689)の時代が続く。そこでは皇極=斉明の位置は大きく、この時代はいわば天智がそのマザーコンプレクスを解消すると同時に兄弟喧嘩の種をまく母子王朝の時代と考えている(その趣旨の一部は「石母田正の英雄時代論と神話論を読む――学史の原点から地震・火山神話をさぐる」『アリーナ』18号、中部大学編で書いた)。それは天武・大友の近江戦争(壬申の乱)を引き起こし、8世紀の「奈良王朝」も激しい王家内紛が続く。その内紛は天武と持統(天智の娘)の血を引く嫡系王子(つまり天武の血と持統を通じた天智の血をひく王子)にのみ王位を継がせ、他を排除したことに根ざしたものである。

 「飛鳥時代→奈良時代」という図式は、この時代の連続性を分断してしまう。とくに一〇〇年にたらぬ平城京の時期を「奈良時代」と称して独立させるのは「古代」に特権的な位置をあたえる手垢のついた日本史イデオロギーの表現であって賛成できない。

 次の山城時代は天武王統の自壊の後、桓武の長岡京遷都に始まる時代であって、それはすぐに「平安遷都」に連続する。時代呼称としては長岡京遷都以降を「山城時代」とした方がすっきりする。王朝名は「山城王朝」であろう。私は、この時代の国家形態を都市王権と呼んでいるが(保立『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房)、そこでいう「都市域」は平安京には一致せずむしろ山城首都圏というべきものである。そもそも平安時代という用語は実態を示さず無意味な用語である。この時代の第一期は怨霊期、九世紀から10世紀半ばは桓武の弟の早良の怨霊化に始まる王権内部の激しい対立に特徴づけられる時期である。先に触れた高志内親王も、結局、夫の淳和を恨んで怨霊となって、その治世期の827~828年に京都を襲って激しい群発地震を引き起こしたとされている。『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、この時期は王権の内紛と地震が続いて騒然とした時代であり、高志内親王は、その意味でも重要な人物であったことになる。

 その次ぎの山城時代第2期は10世紀後半から11世紀の冷泉・円融の兄弟の王統の迭立期である。道長は、その両統に娘を配置することによって王統を合流させる役割を負ったのであって変な過大評価はやめたい。後三条天皇はそれを前提として、両統を統一したのであって、これが山城時代の第三期、院政期の開始である。それまでの王家内紛が兄弟間の内紛であったのと対比して、院政期の内紛は親子間の対立(後三条―白川、白川―鳥羽―崇徳、後白川―高倉など)となった関係できわめて激しいものとなり、そのなかで国家の本格的な軍事化が進展した(保立前掲『平安王朝』なお前述のことからいってこれは機会があれば『山城王朝』として書き直したいものである)。清盛・頼朝が、この国家の軍事化を推進したのが山城時代の第四期であって、1180年代の源平合戦から後鳥羽クーデタまで。ここで山城時代は終わる。なお、院政期から後鳥羽クーデタまでを一連の時期と捉えるのは石井進「院政時代」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』2)の考え方である。山城時代が400年以上にわたる長い時代となるのが扱いにくいが、それは「平安時代」でも同じであろう。

 なお大和・山城の二つの時代については、王家の内紛をきちんと伝えないと生き生きとした理解はできない。たとえばヨーロッパや中国などでは、歴史知識のなかに、王家の内紛や交替あるいはいわばハムレット的な問題がかならず位置づけられている。それが歴史教育の中に位置づけられないことこそ異様な風景であって、そこには無意識に「万世一系」の論理が貫徹しているというほかない。

 なお、時代区分は政治史を中心にするべきだが、もちろん、それだけでよいというのではない。いわゆる社会構成史的な観点が歴史学にとって必須であり、その基本線においては「戦後派歴史学」の業績がいまだに重要であるというのが私などの考え方である。それについては拙著『日本史学』(人文書院)の第5部「研究基礎:歴史理論」を御参照願いたいが、現在の私見では、8世紀から13世紀初頭(後鳥羽クーデタまで)を王朝国家、それ以降を武臣国家と規定している。王朝国家は邪馬台国以来の「西国国家」の性格をもっているが、その末期の軍事化と内戦が強力な武装地域権力を各地に生み出した。これは一種の地域ブロック権力であるが、それらを統合した武臣が天皇=「旧王」の下で覇権を握り、身分的にも「覇王」としての実質を深めることになる。19世紀まで続く「旧王―覇王」体制である。重要なのは、平清盛や源頼朝を特権化して語るのではなく、そういう覇王という観点から、ただの過渡的な存在として即物的に説明することである(前掲『中世の国土高権と天皇・武家』)。

 以上、山城時代までは前近代の国家形態を強く規定する地域性に着目する時代名称となる。これに対して、以降の武臣国家段階は、覇王の氏族名で表記するのがよい。以下、紙数もないので、それを前提として、これまでの用語法の難点を指摘していくと、まず鎌倉時代というのは武家権力が全国権力である実際を隠蔽する、一種の裏返しの朝廷史観である。実際には後鳥羽クーデタを討伐して後鳥羽を流罪とした北条氏の権力は全国的なものであって、その時代は北条時代というのが適当である。この時代にこそ全国的な経済が新たな形で制度化され、都市が明瞭に展開した。

 次の足利時代については、たとえば原勝郎に『足利時代を論ず』という論文があるように、「足利時代」という言葉は明治大正のアカデミーではよく使われた言葉である。この用語で織豊時代の前までは通した方が理解がしやすいだろう(戦国期は過渡期と処理する)。それなのに、なぜ「室町時代」という無内容な用語が一般化したかといえば、これは足利尊氏が逆賊とされた皇国史観の時期の慣習が残ったのではないか。また「室町」という語には「都」は京都を中心とするという通俗的な中央意識がかいまみえる。

 次の「安土桃山時代」という時代名称には、大阪城と大阪を無視する中央根性がある。これは本稿を考える上で大きな意味をもった井上章一氏との対談(「歴史対談、東と西――やはり日本に古代はなかった」『HUMAN』8号、2016年1月、人間文化研究機構)の後、京都でばったり会った氏からうかがった意見であるが、たしかに「古代」の河内王朝論がなかなか進展しない状況をみていても、この国の支配的な歴史常識のなかには、畿内の中枢をしめる大阪平野を無視する伝統が流れているように感じる。

 「徳川時代」についても同じ理由で、覇王=大君の位置にある徳川家を時代名称にもってくるのが適当だろう。「江戸時代」という用語は東京バイアスがある言葉で、関西の歴史家には「徳川時代」という用語を使う人が多い。徳川は東海地方出自で、それは幕藩制社会の歴史像を考える上でも大きな意味があるので、その意味でもこの呼称をとりたい。

 なお、以上のような時代呼称を採用する場合には、時代の移行期となる源平内戦、南北朝内戦、戦国期内戦を十分に位置づけることが重要である。その場合、「内乱」や「乱」という言葉も「世の乱れ」という価値観を含むものなので使用せず、藤木久志がいうように、ザッハリッヒな「内戦」という語がよい(藤木『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日選書)。

 なお念のために述べておけば、現代歴史学はすでに「古代・中世・近世・近代」という時代区分に依拠することはできない。実際に、「古代」とか「中世」とかいっても学術的な定義もなく、研究者によって意見は区々で、論争さえも行われていない。これらの用語を使えという学習指導要領の規制には学術的な意味はないのである(参照、保立「時代区分論の現在――世界史上の中世と諸社会構成」『史海』52号、学芸大学歴史研究室、2005年)。また「封建制」という時期区分の仕方も問題が多すぎる。有名な『資本論』の本源的蓄積章の一注記を、新渡戸稲造以来、徳川時代は純粋封建制だと訳してきたのは、マルクスの『資本論』の草稿類をみると誤訳・誤読というほかないのである(参照、前掲『日本史学』、および誤訳問題自体については「C・ギアーツのInvolutionと『近世化』」(岩波講座日本歴史月報13)。

 以上、あわただしい論述となったが、そういうなかで、歴史学にとってどうしても必要な時代区分を考えるなかで、上記のような一応の結論にたどり着いたということを最後に付言しておきたい。

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