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2016年10月

2016年10月29日 (土)

親鸞の「善人なおもて往生」は『老子』からきている

 やっと「日本文化論鵜「についての文章を書き終える。疲労。いまからチェックである。

 下記は、親鸞の「善人なおもて往生」のフレーズが、『老子』からきているという主張。

 『老子』の思想は中国における農民反乱をささえたが、日本でも親鸞の思想が足利時代の農民反乱をささえたのだろうと思う。

 

 このように「清浄」「和光同塵」などの『老子』の重要な章句に関するの誤解が日本における「仏教・儒教・道教」の関係を支えていたのであるが、そのような『老子』の定型的な読みを破ったのが親鸞であった。記録の残る限りでは親鸞の営為は老子の思想を本格的に日本語として日本の思想のなかに取り入れたものと位置づけることができるだろう。それは下記の『老子』第二七章の理解のことである。

善く行くものは轍迹なく、善く言うものは瑕讁なく、善く数うるものは籌策を用いず。善く閉ざすものは、関鍵なくして而も開くべからず。善く結ぶものは、縄約なくして而も解くべからず。是を以て聖人は、常に善く人を救い、故に人を棄つること無し。常に善く物を救い、故に物を棄つること無し。是れを襲明と謂う。故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばす、其の資を愛せざれば、智ありと雖も大いに迷わん。是れを要妙と謂う。

善行無轍迹。善言無瑕讁。善數不用籌策。善閉無關鍵、而不可開。善結無縄約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師、不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。

 いちおうの解釈をすると「旅するものは車馬の跡を残さず、善い話し手は他者を傷つけず、善く数えるものは計算棒は使わない。そして、善い門番は貫木を使わないのに戸を開けられないようにし、荷物を善みに結ぶものは縄に結び目がないのにゆるまないようにできる。神の声を聞く人は常に善く人を世話して、人に背を向けることがない。また物に対しても同じで、物を大事に世話して、それを棄てるようなことはしない。それらの善は襲された光によって照らされているのだ。そしてそもそも、善き人は不善の人の先生であるのみでなく、不善の人の資けによってこそ善人なのである。(そして師と資(師と弟子)の関係も同じように見えない光によって結ばれている)。師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師は、賢こいかもしれないが、かならず自分が迷うことになる。ここに人間というものの不思議さがある」ということであろうか。


 ここには「善い」ということの説明がある。老子は、「善」とは丁寧で善らかな気配りにあるが、それは人間関係を照らす見えない光と、その不思議さへの感性にもとづいたものであるというのである。これは孟子が「性善説、性悪説」などという場合の「善」ではない。老子は、人間が個体として「善」か「不善」かを問うのではなく、人間の「善」とは人間の関係にあるというのであり、人間の内面は見えないようだが、実は不思議な光の下で相互に直感できるというのである。それが人間が「類」的な存在といわれる理由なのであろうが、老子は、それを人類の「道」の基本には「善」があり、それを照らす「襲明(隠された光)」があるのだと表現する。「師を貴ばない弟子、弟子を愛せない師」や「親を愛さない子、子を愛せない親」は、迷いの中でその光を失ったものだというのが老子のいうことである。

 ここから、「不善人は善人の資」という老子の思想が導かれた。つまり、善が関係に宿るのだとすれば、人が善であるのは、不善の人を資けるからであり、逆にいえば、善人は不善人の資けによってこそ善人であるということになる。私は、これは人間の倫理や宗教にとって決定的な立言であろうと思う。老子の立言は、福永光司『老子』(三八六頁)がいうように、少なくとも思想としては親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人においておや」(『歎異抄』)という決定的な断言に相通ずるところがある。もちろん、親鸞が「況や悪人においておや」というのは老子の思想をさらに越えているところがあろう。福永が「親鸞の信仰が深い罪業意識に支えられ、鋭い宗教的な人間凝視をもつのに対して、老子には親鸞のような罪業意識がない」というのはうなずけるところがある(福永光司『老子』二〇〇頁)。しかし、「弥陀の光明」の下で、「あさましき罪人」が許されるということと、老子の「道は罪を許す」という思想が基本的には同じことであることを否定する必要はないということも明らかなように思う。とくに私には、「弥陀の光明」ということと、老子のいう「襲明(隠された光)」ということは詩的なイメージとして酷似しているように思う。

 私は福永の指摘を超えて、親鸞は老子の「善人は不善人の師、不善人は善人の資なり」という格言を知っていたのではないかと思う。親鸞の『教行信証』の化身土巻の末尾には「外道」についての書き抜きがあるが、孔子についての言及は少なく、ほとんどは老子についてのメモとなっている。『教行信証』に明らかなように、親鸞は一面でたいへんな学者であり、勉強家であった。もちろん『教行信証』の結論は老子を外道とするものではあるが、その筆致はけっして拒否的なものではない。親鸞は、『歎異抄』を述べた晩年までの間には老子「五千文」を熟読していた可能性はあると思う。

 もう一つ、老子の第六二章は次のようなものである。

道は万物の奥。善人の宝、不善人の保せらるる所なり。美言の以って尊を市うべくんば、行いの以て人に加わうべし。人の不善なる、何の棄つることか之れ有らん。故に、天子を立て、三公を置くに、璧を供めて以て駟馬に先だたしむること有りと雖も、此れを進むに坐すに如かず。古の此れ貴ぶ所以の者は何ぞや。求めて以て得られ、罪有るも以て免ると曰わずや。故に天下の貴ぶものたり。

道者万物之奥、善人之寶、不善人之所保。美言可以市尊、行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有共璧以先駟馬、不如坐進此。古之所以貴此者何。不曰以求得、有罪以免耶。故爲天下貴。

 これもいちおう解釈をしておくと、「道は万物の奥にある。善人の宝は、不善の人の保つものである。美言によって尊敬を得るのは、実行を人より加えなければならない。人の不善であるというのは棄ててはならない。そもそも天子を冊立し、三公を任命するときは、璧玉を先に立てた四頭だての馬車を前駆させることがある。そのときでも私たちは、この道を進むだけだ。古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で貴ばれているのだ」ということになろうか。

 ここでは二七章のいう「不善人は善人の資」という考え方が、善人の宝は、不善の人の保つものであるという言い方で繰り返されている。老子は、天子即位や三公(大臣)任命はどうでもいいという。これは『老子』五章の「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」に並ぶ強烈な王侯観である。「老子の思想は、君主の存在や国家の行政機構そのものをも否定する無政府主義的な傾向をその根底に内包する」と述べたのは福永光司『老子』(三四四頁)であるが、その通りだと思う。

 上記の現代語訳では、それにそって直截な読みをしてみた。これで、文章の通りは非常によくなる。それに対して、これまでの現代語訳は、(福永のそれをふくめて)「王の即位式などに、見事な玉や四頭だての馬車を並べるのは虚飾なので道にもとづく進言を行う」と解釈する。しかしそれでは「人の不善なる、何の棄つることか之れ有らん」という前段と文脈が続かず羅列的な現代語訳になってしまう。昔日の中国には、老子の思想を徹底的な王権批判と受け止めた人びとは実際に相当数いた。中国の歴史において、老子を始祖とあおぐ道教が大反乱の旗印となった例はきわめて多いことはいうまでもない。もっともよく知られているのは、紀元一八四年に起きて後漢の王朝を崩壊に追い込んだ黄巾の大反乱であろうそれは張角という道士が起こした太平道と呼ばれた宗教運動にもとづいていたが、この反乱は数十万の信徒をえて各地に教団を組織したのである。張角の太平道の教典であった太平経には、天の命をうけた真人が有徳の君主に地上世界の救済を教えるという筋書きがあるが、それは『老子』の本章にいうような王侯への進言という考え方にもとづいて創出されたものではないだろうか。そもそも、道教は、この張角という道士が起こした太平道から始まったことは特記されるべきことである。

 以上を前提とすると、本章の後半部に「古くから、この道が貴ばれているのは何故か。それはこの道によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で無上の価値をもっているのだ」とあることの意味も明瞭となる。これは前項二七章のいう「不善人は善人の資」(悪人と善人は相身互い)という考え方にもとづく赦しの思想である。福永『老子』は、これが老子の思想のなかでももっとも独自なもので、この赦しの思想こそが、老子の教説が宗教化していく基底にあったのではないかという。ここは決定的なところなので、福永の見解の中心部分を引用しておきたい。

「『汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり』というのはイエスの教えであるが、人間の犯した罪が天に対する告白によって許されるという(老子の)思想は、初期の道教のなかにも顕著に指摘される(いわゆる「首過」の思想)。これは告白という宗教的な有為によって人間が天(道)に帰ろうとする努力であり、老子の不善に対する考え方とはそのままでは同じくないが、道の前に不善が赦されるとする老子の思想は原理的に継承されているといえるであろう」(福永『老子』三八六頁)

 たしかに「求めて以て得られ、罪有るも以て免る」というのは、『マタイ福音書』の「求(もと)めよさらば与えられん」「汝ら悔い改めよ、天国は近づきたり」と酷似しているのではないだろうか。それは是非善悪の区別を説く儒教や、義と律法の神であるユダヤ教のエホバの神とは大きく異なっている。老子の思想が宗教的な展開をみせたのは、たしかにそれが「罪の赦し」という側面をもっていたためではないだろうか。なお右の引用の中段にある「首過」の思想とは、太平道の教祖にして、実際上、宗教としての道教を作り出した、黄巾の乱の組織者、張角による罪の懺悔(「首過」)のことである。張角は、それによって苦難や病からの解放を説いたという。そのような思想として、老子の思想は「中国における宗教思想の展開のなかで一貫した底流として生命をもちつづけた」のである(福永『老子』)。

 『老子』の教義は、このように、早い時期から宗教的な救済と政治的な急進性の結合をもたらすような内実をもっていたのであるが、もし、前項の末尾で述べたように、老子の思想が親鸞の「善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや」の思想に影響していたとすれば、親鸞の「赦しの思想」が一向一揆を支えたことも、老子に共通するということになる。東アジアの精神史においてもっとも基底にすわるのは老子の思想であろうから、鈴木のいう「鎌倉時代における日本的霊性の目覚め」という図式を採用できないとしても、私は日本の精神史が親鸞段階で東アジアレヴェルの成熟に達したことは事実であろうと思う。

2016年10月19日 (水)

キルケゴール『死にいたる病』の冒頭部分を「人はたしかに霊的な存在である」と訳してみた。

 キルケゴールの『死にいたる病』の冒頭部分を訳してみた。

 「人はたしかに霊的な存在である。しかし、霊(スピリット)とは何かといえば、それはまずは心であろう。しかし心とは何かといえば、心とはそれ自身を自分の心に関係させる一つの関係意識である。心は、その関係において、その関係自身として自分の心を意識する関係である。心というのはただの意識関係ではなく、そこではその関係がそれ自身を自分の心に関係させるのである。人は、つねに全能感と閉塞感、瞬発感と日常感、自由の感情と窮乏の感情などの結び目である。人はそういう結び目なのである。それは二つの要素を意識する関係である。しかし、そうみるだけでは、人の心は捉えられない。
 つまり、二つの要素の関係においては、関係それ自体は三番目に位置する控えめな影となってしまう。二つの要素がたがいに結びついて関係を作り、関係のなかでたがいに関わり合い関係を作るという訳だ。たとえば、人を精神と身体の関係として考えるというのは、そういうことであって、そこでは、結局、人は精神とみなされることになる。これに対して、逆に関係がそれ自身を自分の心に関係させているのだとみれば、そのとき、その関係の自身が能動的な第三者として目に見えてくる。こういうものこそが心なのである」

 高校時代に読んだ桝田啓三郎さんの訳は下記のようなもの。

「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である(以下省略)」

 これはなつかしいが、やはり意味が通らないと思う。
 私は「人が霊的な存在である」というのは、「人は類的な存在である」、つまり、常に人類全体と関わっている存在であるということになっていくと思う。

2016年10月15日 (土)

ブラタモリ。貞観噴火は。日本の神と火山の関係をもっとも明瞭にしめす

 
 ブラタモリをみた。貞観噴火の噴火口を千葉達郎さんが案内いしているというもので、これはみれてよかった。

 スパターの解説がよくわかった。宮沢賢治の「気のいい火山弾」には「牛の糞」というのがでてきたと思うが、あれがスパターなのではないかというのが感想。

 『歴史のなかの大地動乱』を書いたときには、貞観噴火の割れ目、側火山列のことまでわからず、ともかく書いたという記憶である。
 
 ただ、歴史家からみると、この貞観噴火は、日本の神と火山の関係をもっとも明瞭にしめす資料になる。

 つまり、史料には「富士郡正三位浅間大神の大山」が自ら「火」を発したとあるように、人々は、これを「浅間大神」の仕業とみたのである。

 以下は上記拙著からの引用。

 人々は、火山の神が光炎を噴出し、雷電の大音声を発し、神体=山体を震わせ、地上を暗闇にして溶岩流を押し出して、動植物と人間を殺したとみていたのである。火山の神は、噴火のみでなく、雷電・地震の神と三位一体になり、すべての生殺与奪の権限をもつ恐るべき姿を顕わにするのである。

 人々は、噴火の最中は、富士山に近づくこともできなかったが、そのうちに、富士山の西北部の本栖湖に溶岩流が流れ込んでいるのが発見された。この溶岩流は、富士山の「西峯」=西側斜面で起きた側噴火から流出した大規模なもので、駿河国の報告によれば、全長、三十余里(約二〇㌔余)、幅、三.四里ほど(二.三㌔)で、遠く甲斐国の堺まで到達しているという。

 そして、約一月半の後の甲斐国の報告によれば、溶岩は本栖湖と剗湖の二つの湖水に流入し、水は沸騰し、魚類は全滅。住居は埋没するか、無人の廃屋となってしまい、多くの人が焼け死んだという。これによって、最も西に位置する本栖湖が狭くなり、また広かった剗湖が精進湖と西湖に分かれた。そして、溶岩流は、さらに東の河口湖にも向かったというが、この溶岩流の流れは、現在の青木ケ原溶岩流の状況にほぼ対応している。ようするに、この大噴火によって、現在の富士五湖の原風景が形成されたのである。

 この甲斐国の報告は「地は大震動し、雷電は暴雨のごとく、雲霧は晦冥にして、山野も弁じがたし」としているが、このような強力な火山神のイメージを作りだす原動力は地域社会の内部にあった。つまり、この噴火は駿河国が「年来疫旱、荐ねて臻る」という旱魃と疫病の流行の真っ最中に発生した(『三代實録』貞觀六年十二月十日)。これをうけて、噴火の翌年、八六五年(貞観七)に、甲斐国八代郡の郡司に富士大神が憑依して、「我は浅間明神なり」と称して、神社を建立せよと命令したという。富士大神は、甲斐国司が兇悪で、百姓が病死などの辛苦にあっているのを顧慮しないことに対して怒って、この「恠」をあらわしたのだ。大神に「鎮謝」し、「齋祭」を行えというのが、その託宣であった。この託宣をした時、郡司の身体が八尺(二.四㍍)と二尺(六〇㌢)の間を伸縮するようにみえたという噂が広がったという。これは地域に強力な神を抱え込むことによって、国家に対して要求を強めるという点で、怨霊を祭る御霊信仰と軌を一にするものである。

 今まで、富士を祭る神社は駿河国の側にしかなかったが、これによって甲斐国の側でも富士の山裾、八代郡の郡衙の南側に「浅間明神」の「神宮」が立ったのである。そして、それを検分しにきた国司の使者、溶岩流が剗湖の千余町の広さを埋め尽くしているのを確認し、そこから仰ぎ見たところ、「正中の最頂」にも「社宮」が出来上がっているのを目撃したという噂が広がった。

 火山には「神宮」があって、そこには神が棲むというのは、阿蘇火山の例を筆頭にして、伊豆神津島の例にいたるまで、すでに指摘したように、この時代の一つの通念であった。しかし、富士の「神宮」の様子はさすがに華麗である。目撃譚によると、富士の神宮は四隅に丹青の石でできた垣が組んであり、下からみると、その垣石は、高さは一丈八尺許(五,五㍍)、広さ三尺ほど、厚さ一尺余という巨大なもので、その石垣の中央には、やはり石でできた門があったという。入り口は一尺ほどの狭き門にみえるが、内部には、多彩の石でできた「一重高閣」がそびえ立っていて、その美しさは言葉にすることもできないものであったという。

 九世紀の著名な文人、都良香が作った「富士山記」には、噴火の約一〇年ほど後、国司・郡司や民衆が収穫祭(新嘗祭)の季節に、富士の浅間明神の祭礼をしている時、山峯に「白衣の美女」が二人現れて、天空を舞ったという幻想が記録されている。また、山頂には甑釜のような窪地の底に、周囲を青竹の林でかこまれた純青の「神池」があって、周囲からは沸騰する青い蒸気が噴き出ている。そして、そこに虎のような形をした石が踞っているという。火山学の小山真人は、この「虎石」らしき石はいまでも富士火口にあるから、、これは現実に火口まで上った人の伝聞にもとづいたイメージだろうといっている。これらの幻想が九世紀末の『竹取物語』に実を結ぶことはいうまでもない。

2016年10月 7日 (金)

ひょうごラジオカレッジで3年ほど前にはなしたこと。

 以下は神戸の兵庫県高齢者放送大学、ひょうごラジオカレッジで3年ほど前にはなしたものです。
 

 みなさんおはようございます。保立道久です。

 もう20年近くまえになるわけですが、1995年の阪神大震災の時、震災の直後から、神戸の歴史家たちは歴史史料の保存、レスキュー運動ということにとり組みました。あるいは、ご存じでしょうか。わたしも、ちょうど、そのとき、歴史学研究会という学会の事務局長でしたので、その関係で、神戸大学の方々と連絡をとって必要な相談をしました。また、しばらく後、神戸大学で授業をすることをたのまれて、一週間ほどのあいだ、神戸にいました。あの時の神戸の町の様子はわすれられません。

 そして、ちょうどその時に、市民の集会があって、小説家の永井路子さんと一緒に講演をしました。その集会は、歴史の史料をまもるという問題と、地震被害の国家補償をもとめるという二つのテーマをもっていました。この列島では、地震は、どこをおそうかわかりません。ですから、この国に棲むものは、いざという時、地域をまもることを意識する必要がある。その中で、地域に残った歴史史料もまもっていただく必要があるというのが歴史家の考え方です。それと同じように、この国では誰でもが地震被害にあう可能性があるのだから、それは個人的な不運ということではなく、みんなで支えあって国家補償が必要だということでした。東日本太平洋岸地震が起きてみると、これは必要な考え方だということが明らかになっているように思います。

 それにしても、三、一一はショックでした。実は、私はまだ東京大学につとめておりましたので、その直後、東京大学の地震研究所で開催された研究集会に参加しました。そこで、9世紀、869年に東北地方でおきた地震が、三、一一の大地震とほぼ同じような規模をもつものであることを知りました。この九世紀の地震の史料は当時の朝廷の残した記録に残っていて、私もその史料は読んだことがあったのですが、それだけでなく、それに対応する証拠が地面の下に残っていたのですね。つまり、巨大な津波は海底の砂を巻き上げて内陸に運びますが、そこには海洋性のプランクトンがふくまれています。ですから、顕微鏡でみれば、この砂は海からきたものだというのがわかるのです。そういう砂が3㌢だとか、場所によっては10㌢以上の厚さで残っている。9世紀にも海岸線から内陸へ3㌔以上も津波がやってきていた。それは3,11の津波がのぼってきた範囲とほぼあうということなのです。そしてこれだけ津波がのぼってくるためには九世紀の津波もマグニチュード8、5前後あるいはそれ以上の地震が起きているはずだというのが地震学の人の研究でした。ショックだったのは、このことは3、11のほぼ15年前には明らかになっていて、しばらく前から、一部ではどう対応するかという議論もされていました。とくに原発についても九世紀の例からいって危険だということが東電に対して指摘されていたということです。研究集会では地震学・地質学の人々が、もう少し早く研究をまとめることができて、東北地方の人々にそれが広く伝わっていれば、いろいろな点で、事態は違っていたと嘆いているのを目前にしました。

 それなのに地震の動きの方が一瞬早かったということでしょうか。これはショックでした。つまり、地震学の人々のこういう研究を、この時代を専門とするほとんどの歴史研究者が、もちろん私をふくめて、知らなかったのです。これは歴史学の方に責任があります。私は、何ということだと考えて、急遽、8世紀、9世紀、奈良時代と平安時代初期の地震の研究をして、岩波新書で『歴史のなかの大地動乱』という本を書きました。

 今回はこの仕事を通じて知ったことについて御話しをしたいと思います。とくに御話ししますのは、この869年の陸奥大津波の前年、868年に、兵庫県で発生した地震のことです。これは、この本を書く中で気づいたのですが、阪神大震災との関係で、もっと早く研究しておかねばならない問題だったと考えています。

 さて、この九世紀の兵庫県地震の震源は山崎断層にありました。山崎断層というのは、岡山県の東部から兵庫県の南東部にかけて広がっている断層帯です。主要部は約80㌔の長さで、美作市から斜めに姫路市・三木市までさがってきています。これは日本で一番最初に発掘調査をされた断層で、いまでも京都大学の防災研究所の観測点がおかれています。そして、そのボーリング調査で、868年の地震の痕跡が掘り当てられたのです。これについては、朝廷の記録も残っています。それによると、播磨国の役所や寺院の建物がほとんどたおれた、京都でも、大内裏の垣根がくずれたといいます。

 文字の史料とボーリング調査の両方がありますので、1000年以上前の地震の実態が正確にわかる訳です。震源断層は山崎断層。マグニチュード7。0以上ということです。まだまだ人口密度も少ない時代ですから、幸い、人命の被害はありませんでしたが、もしいま起きればただではすまない強い地震でした。

 問題は、この地震のとき、山崎断層だけではなくて、それにつられて六甲山の断層帯が激しくゆれたことです。つまり、朝廷が神戸の広田社と生田社に捧げた御祈りの文章が残っています。そこには神戸の近辺が何度も激しくゆれた。それは広田社の神の「ふしごり」によるということで恐れ多いとあります。「ふしごる」というのはめずらしい言葉ですが、木にフシが出来るようなごつごつした怒りという意味です。しかも、それがでてくる御祈りの文章は、神主さんの唱え言葉そのままの史料でしたから、読みにくい史料です。そのためもあって、この史料は、これまで地震史料と認識されていなかったのです。この史料を知ったときに、これは本来、阪神大震災の時から研究しておくべきであったということを実感させられました。

 阪神大震災の前、都市計画を作るうえで、神戸ではそんなに地震がないという風評があったといいます。地震学の人たちは、当時からそんなことはないといっていた訳ですが、そういう声は影響をもちえなかった訳です。ですから、この史料をもっと前に知っていれば、それが神戸の人々の常識になっていれば話しは少しは違ったかもしれないということです。後知恵ということになるかもしれませんが、今後はそういうことがあってはいけない。地震学や歴史学のような学問は我々の毎日の生活にとってあまり関係のないものにみえるかもしれません。しかし、そんなことはないので、こういうことから災害を予知する文化というものを根っこから作っていかねばならないと思います。

 さて、以上をまとめてみますと、この868年の地震は、兵庫県の西部が震源で、山崎断層という大断層がゆれた。それがはねかえって神戸も相当にゆれた。そしてそれが京都まで響いたということになります。
 重要なのは、朝廷が、この地震が起きた原因を広田社の神の怒りに求めたということです。実は、これがどのような神の怒りかというのは、朝廷にとっては相当に深刻な問題だったのです。つまり、応天門の変というのをご存じだと思います。伴大納言、伴善男が応天門に放火して政敵をおとしいれようとしたという大事件です。伴善男は、そのためにぎゃくに罪をこうむって伊豆に流されました。この伴大納言が、この年、流罪地の伊豆で、恨みを呑んで死んで、怨霊になっていたのです。怨霊、つまりこの世に災害をもたらすという訳ですが、奈良時代・平安時代の人々は、地震は怨霊によって起こると信じていました。この地震は伴善男の怨霊によるのだという噂が出まわったことは確実です。

 そして、さきほどいいましたように、翌年、陸奥大津波が起きました。三,一一の後、先日の淡路の地震はありましたが、幸い大きな被害をもたらす地震は起こっていません。ところが九世紀は現在よりもっと地震や噴火が激しい時代で、しばらく前には富士が大噴火を起こしています。その上で二年連続して相当の地震が起き、東北地方の津波では、一〇〇〇人もの人が死んだとされます。これは衝撃であったに違いないと思います。
 問題は、この陸奥の大津波の翌月、六月に京都で御霊会があり、京都の祇園社の伝承によれば、このときに播磨国の広峰神社の牛頭天王が京都にやってきたとされていることです。こういう由来で広峰神社は祇園の本社ともいわれています。

 御霊会というのは、しばらく前から京都だけでなく、各地で行われるようになっていたのですが、これは怨霊を鎮めるための祭りです。ですからこの時期に祇園の御霊会がはじまったというのはありそうな話しです。祇園御霊会というのは、連続した播磨地震・陸奥地震の中で、それを引き起こした怨霊の力を鎮めるということで始まったに違いありません。普通は、御霊会というともっぱら疫病の流行を鎮めるということだといわれるのですが、当時の考え方だと地震を起こす神と疫病を起こす神は同じ神さまなのです。実際に、伴善男も怨霊として疫病の神であったという史料があります。

 表面では、こういうことはなかなかみえませんが、日本の文化の中には地震、そして火山噴火に直面してきた人々の考え方というのが深いところに存在していたに違いないというのが、私の考え方です。祇園会はいうまでもなく、日本を代表するお祭りですが、その始まりには9世紀の地震の影響があったということです。これは、この列島に棲む人々の常識となってもよいことだと私は考えています。

 さらに、今日、申し上げたいのは、そこには兵庫県の歴史が深く関わっていたということです。大事なのは、祇園の牛頭天王が、本来は播磨国の広峯神社の神であったことです。広峯神社は、姫路の北、播磨地震の震源、山崎断層がとおる場所の少し南の谷にあります。この広峰の神が播磨から摂津の神戸を通って、地震とともに京都までやってきたと人々は想像したのではないでしょうか。広峰神社は、奈良時代には決して有名な神ではありませんでしたが、このとき以降、京都の人々には有名な神社になります。そういうことですから、広峯と祇園の関係は祇園会の開始の時期にさかのぼると考えてよいと思います。

 なお、意外と大事なことかもしれないと考えているのは、平家のことです。私は、平家は祇園社と深い関係があったのではないかと思います。白河天皇が祇園に縁のある女性、いわゆる祇園女御を中心として一種のハーレムといいますか、後宮ですね、を作ったということはご存じでしょうか。清盛が白河天皇の御落胤だという話しはお聞きになったことがあると思いますが、鼻は祇園女御(あるいはその妹)などといわれます。これは疑問はあるのですが、ただ、この祇園女御と清盛の父の忠盛は深い関係があったことは事実です。そもそも忠盛が出世したのは、祇園女御を通じて白河院に取り入ったためです。平家と祇園社の関係が深いのは確実だと思います。祇園社にいまでも「忠盛灯籠」というのがあるのはその証拠でしょう。

 ここからすると、平家は祇園社の本社といわれた広峰社との縁も深かったのではないかと考えています。ここから先は、まだいま考えているということなのですが、平家は、なにしろ忠盛・清盛と播磨国をもっとも重要な縄張りにしていましたから、そこにある祇園の本社、広峰と深い関係をもっていた可能性というのはありうるのではないかと考えているのです。そうだとすると、平家の作った福原京の山際に祇園社があることは無視できません。平家は祇園の神、地震の神を味方にしていたのではないかなどと考えています。

 以上、駆け足になりましたけれども、このところ勉強したことを報告いたしました。まだ時間が少しありますので申し上げますが、私は、去年、地震学の知人から歴史学はもっと地震学に協力してほしいといわれました。そして、文部科学省におかれた地震予知の研究計画を議論する委員会に参加してほしいといわれて地震学の人たちと議論してきました。そのなかで、地震学と歴史学の協力のためには、地震の歴史を専門的に研究する組織が必要であるということについて一致しました。これだけ豊かな国なのに、日本の政府はそういうことには十分な予算をだしませんので、こういう組織は、いつ、実現するかは分かりませんが、少しでも歴史学が役に立つように、今後も研究を続けたいと思っています。

 日本は地震・火山列島です。ですから、どの地域の歴史をとっても、地震や火山との関わりが刻まれています。そしてそれは文化の中にも刻まれているということを御伝え出来たとしたら幸いです。こういうことは、毎日毎日の生活の中からはなかなかみえてきません。しかし、私たちは、そういう国で生きている訳で、そこで行われた先祖の経験を尊重しなければならないと思います。またそれが娘・息子や子孫の世代に対する責任であるようにも思います。

2016年10月 5日 (水)

ノーベル賞の大隅さんの見方を「たしなめる?」鶴保庸介科学技術担当相の発言。

 ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大隅良典氏が、「この研究をしたら役に立つというお金の出し方ではなく、長い視点で科学を支えていく社会の余裕が大事」という趣旨のことをいったのに対して、鶴保庸介・科学技術担当相が4日、「社会に役立つか役立たないかわからないものであっても、どんどん好きにやってくださいと言えるほど、この社会、国の財政状況はおおらかではない」と述べたという。

 科学技術担当相は2001年の中央省庁再編における科学技術庁の廃止、文部省の文部科学省への拡大にともなって設置された内閣の特命大臣である。制度的には、予算や人材などの資源配分を所管しており、その職務は重い。しかし、こういう発言が、それにふさわしいものだろうか。

 私などは、文部省の文部科学省への変化に期待した。これによって学術の文理融合が進むのではないかと期待した。私は学術の文理融合という枠組みがあれば、学術の研究を自由にやっていても、何年かかかるかはわからないとしても、社会に、結局はやくだつものだと思う。たとえば、地震の研究などは過去の歴史史料にのっている地震資料の人文学による細かな研究がどうしても必要で、私も及ばずながら、3・11陸奥海溝地震の後に研究を始め、理系の地震学の方々と議論をしてきた。これは確実に役に立つ。

 そういうことはきわめて多い。たとえば、医学の分野で言えば、有名な三年寝太郎の話は、青年期の欝にかかわる物語であることもあきらかになった。歴史史料にはまだまだ検討を必要としている病気の資料は多い。それは社会にとって、医学にとって、どこでどう役立つものかはあらかじめきめることはできない。しかし、かならず役に立つ。

 学問がつねに役に立つかどうかは、何を「役に立つ」と考えるによって違ってくるだろう。そもそも量子力学なしにはコンピュータ技術はありえなかった訳だが、量子力学の研究の初めの時期に、そんなことに役に立つとは考えられていなかった。

 だから、学問が役に立つかどうかという問題は簡単に議論できない。これは大隅氏がいう通りだと思う。しかし、私は文理融合という枠組みがあれば、その中から出てくる成果はほとんどかならず役に立つのではないかと思う。その意味で文部科学省の成立に期待した訳である。

 しかし、このような文理融合の必要性の強調は、2001年の中央省庁再編の後、むしろ文部科学省の側からいわれることは少なくなり、御承知のように、現在では、人文系の縮小のみがいわれるようになっている。私の見通しは甘かった。

 遅まきながら、気づいたのは、二つ。

 一つは、文部科学省の「上」には、こういう内閣特命大臣がいて、予算や人材などの資源配分を所管していたのだということである。そしてその人が、「社会に役立つか役立たないかわからないものであっても、どんどん好きにやってくださいと言えるほど、この社会、国の財政状況はおおらかではない」というようなことをいう人であるということである。これが内閣特命大臣を設置した本音なのであろう。そういうことだから、せっかくの文部科学省も、「文」と「科」を融合したものにならないのであろう。

 もう一つは、この間、何人ものノーベル賞受賞者がいて、みな大隅氏と同じようなことをいっていたことをどう考えるかである。普通ならば、少しは考えそうなものであるが、この鶴保大臣は、それに対して、「受賞者は、この社会、国の財政状況をしらずにいいたいことをいっているのだ」と冷水をあびせた。これは、いかにも偉そうな言い方であるということではすまないだろう。そこまでいうかという感じである。

 そっちょくにいって、私などは、何をみても、無駄遣いが多い政権のいうべきことではないだろうと思う。この国はいったいどうなってしまったのであろう。

 

2016年10月 4日 (火)

イギリスのメイ首相が、移民制限を当然のこととしてEUと折衝するという。

 今日の東京新聞によるとイギリスのメイ首相が、移民制限を当然のこととしてEUと折衝するという。中東の悲劇と戦争の根源にはイギリス・フランス・ロシアが中東を分割したサイクスピコ協定がある。第一世界大戦のなかで行われたオスマン帝国の分割である。大戦の経過からいって、それはドイツにも深い歴史的責任があるのだが、しかし、イギリスは、さらに責任が重い。

 イギリスはパレスティナ問題の原点を作り出したバルフォア宣言を発した国である。メイ首相の発言は厚顔無恥というものである。イギリスは植民地支配の責任と負担と利権を20世紀にすべてアメリカに渡して自分は局外に多頭とした。そこにあるのは、私はアングロサクソン人種主義だと思う。

イギリスも、ドイツもフランスも、中東には責任はないという立場に立っている。ナチス問題は、基本的にはヨーロッパ内部問題の側面が強い。自分たちの内部だけ見て、外をみれないヨーロッパの態度は許し難い。多頭ヨーロッパ帝国である。彼らにとっては各国民国家は目くらましの道具にすぎないのだ。
 
 私は、現代の直接の起点をなしている、16世紀のヨーロッパも一種の「世界帝国」であったことは明らかであると思う。たしかにそれは帝国の中枢がポルトガル・スペイン・フランス・オランダ・イギリスなどに分散しており、中心勢力が順次に交替していった点で、むしろ安定した構造をもっていたユーラシアに広がる他の世界帝国とは異なっていた。しかし、外から客観的にみれば、ヨーロッパも一つの帝国、競合する複数の国家からなる多頭の帝国であったというべきであろう。

 ヨーロッパの帝国主義は、しばしばいわれるように貪欲な海賊帝国主義、探検帝国主義、あるいは「自由貿易帝国主義」というべきものだったのである。それはいわば多頭の龍=帝国だったのであって、普通の龍=帝国とは比較にならないほど凶暴であった。

 イギリス帝国はインドとアメリカに対する帝国的支配の上に立って、一八世紀末期から産業革命によって、この多頭の怪物を世界資本主義システムのなかに囲い込んむことに成功した。アメリカ植民地は、イギリスとフランスの敵対関係を利用して独立することに成功したが、しかし、ナポレオンの敗北によって、イギリス・アメリカ関係は復旧し、ここにイギリスを主としアメリカを従とするアングロサクソン帝国が世界に覇をとなえたのである。「こんにち合州国で出生証書なしに現れる多くの資本は、きのうイギリスでやっと資本化されたばかりの子どもの血液である」(『資本論』二四章七八四)といわれるように、アメリカとイギリスの資本関係は一体であり、それは今日までも続いている。

 アメリカとイギリスがいざとなると助け合うのは見ていて気持ちがわるい。

2016年10月 3日 (月)

石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーの編別構成です。

石母田正の英雄時代論と神話論を読むーーの編別構成です。
長いものをかかせていただいた編集部に感謝しています。

はじめに
一 英雄と英雄神論――イワレヒコとヤマトタケル
A津田史学と混迷した英雄時代論争
(1)津田史学の評価について
(2)「英雄・英雄神」への着眼への正当性と誤り
(3)石母田のヘーゲル依存の問題性について
B石母田のイワレヒコ論とヤマトタケル論の限界
(1)イワレヒコと久米歌――益田勝実の見解
(2)イワレヒコのタカミムスヒ祭祀
(3)ヤマトタケルは浪漫的英雄か?
(4)ヤマトタケルの遍歴と神々との戦い
C前方後円墳論と英雄時代論争
(1)王権祭祀と前方後円墳
(2)前方後円墳と骨カルト
(3)前方後円墳と「屍=骨=カバネ」身分
(4)英雄時代論争をどう考えるか
二 地震神・火山神論――オホナムチ・オホクニヌシ
A松村神話論への石母田の批判
(1)松村武雄『日本神話の研究』--神話学と歴史学
(2)松村武雄のオホナムチ論と小川琢治「東西文化民族の地震に関する神話及び伝説」
(3)石母田正のオホナムチ論
Bスサノヲ論--前提として
(1)国生・神生神話と火山の女神イザナミ
(2)海神スサノヲと穢のスサノヲ
(3)根国の无間大火と気吹戸主
(4)スサノヲとオホナムチの遭遇--地震と火山
C火山地震神としてのオホナムチ・スクナヒコナ
(1)オホナムチの神名の理解--前提として
(2)オホナムチの火山神としての本質
(3)巨人神オホナムチの地震神としての本質
(4)スクナヒコナの土壌神としての本質
(5)土壌神スクナヒコナと硫黄・焼畑
(6)津波の光と海から来た土
D生業神・性神としてのオホクニヌシ・大年神
(1)オホクニヌシの神名の理解--前提として
(2)三輪山の龍神、王権の性神
(3)三輪山の大年神
(4)大年神の系譜
(5)山末の大主神(日吉と松尾)の系譜
(6)オホナムチ(+スクナヒコナ)からオホクニヌシ(+大年神)へ
三 『古事記』と出雲、根の堅州国
A出雲神話の位置
(1)石母田の出雲神話論
(2)村井康彦『出雲と大和』の観点
(3)七世紀の地震と斉明・天智・天武の母子王朝
B根の堅州国ーー出雲
(1)「根の国」の語義
(2)「堅州国」の語義
(3)「根の堅州国」の空間的位置 
(4)出雲の火山と地震
C奈良王朝と多元神話
(1)出雲神話の本質
(2)多元神話の収斂と伊勢・東大寺
(3)天武の「吉野神話」とその変容
おわりに--津田批判と松村武雄批判

石母田正の英雄時代論と神話論を読む

以下、アリーナ(中部大学編、2015年、18号に書いた論文の最初の部分です。


石母田正の英雄時代論と神話論を読む
---学史の原点から地震・火山神話をさぐる-


はじめに
 一九四八年に発表された石母田正の「古代貴族の英雄時代」という著名な論文は、まだしかるべき研究史的な評価をえていない。この論文の達成と限界、そして誤りを確認することはきわめて重要である。私には、それが曖昧になっていることは、この国の「古代史」研究における戦後派歴史学の初心に関わる問題であるように思える。
 この論文のことを考えるためには、まずその時代に戻って考えてみる必要がある。そこで、最近、たまたま目に触れた、岡本太郎の証言を紹介するところから始めたい。以下は岡本の『日本再発見ー芸術風土記』の出雲の項の一節である。
先日、石母田正に会ったら、大国主命は土着の神ではないという新説をたて、いずれ発表して定説をくつがえすと言っていた。出雲大社は伊勢神宮や鹿島神宮と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり、大国主命の伝説も、むしろ近畿、ハリマあたりの方が本場だというのだが。
 岡本太郎と石母田正の交友の経過は知らないが、気の合う仲間だったのであろうか。この文章がのった『芸術新潮』は一九五七年七月号だから、岡本が出雲を訪れたのは、その年の初夏らしい。だから、石母田が岡本に右のようなことを語ったのは、それ以前である。
 石母田が出雲神話を論じた第一論文「国作りの物語についての覚書」は、この年、一九五七年の四月に刊行された『古事記大成(二)』(平凡社)に載り、第二論文「古代文学成立の一過程(上・下)は、同じ四月・五月に発行された『文学』(二五-四・五)に載っている。つまり、石母田は、おそらくこれらの論文を書いている途中か、書き終えた頃に岡本と話しているのである。これは、この時期の石母田の研究関心を示す重要な情報である。
 岡本の文章の傍点部に注意されたい。「出雲大社は伊勢神宮や鹿島神宮と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり」という部分である。これらの論文では、まだそこまでは踏み込んでいない。石母田はこれらの基礎となる論文を書き上げた段階で、その先の抱負を岡本に語ったのであろう。この出雲大社論が実際に論文「日本神話と歴史ーー出雲系神話の背景」に発表されたのは、二年後の一九五九年六月となった(『日本文学史三』(岩波書店)。
 しかし、これによって石母田が「定説をくつがえし」、新たな神話論の方向を示すことに成功したかといえば、私はそうはいえないと思う。なにしろ石母田は歴史学の社会的責務にかかわる運動に大きな責任を負っていて多忙であった。私のように、平安時代・鎌倉時代を専門にしているものにとっては、一九五六年というと、石母田が『古代末期政治史序説』の刊行を終えると同時に、佐藤進一との協同研究を始め、いわゆる国地頭の研究に入った年であり、その結果としての「鎌倉幕府一国地頭職の成立」の発表は一九六〇年となった。この国地頭論が、いわゆる治承寿永内乱論、鎌倉期国家論において決定的な意味をもつ論文であったことはいうまでもない。凡人の常識からすると、この時期の石母田は、研究時間のほとんどを、それに費やしていたはずである。
 そして、それを終えた段階でも、石母田は神話論に戻ることはできなかった。それはもちろん、神話論固有の難しさという問題があったろう。しかし、何よりも、石母田は、第二次大戦終了後も古代史のアカデミズムがぱっとしないのに強い危惧を感じて、ともかくも古代史研究に筋を通す仕事を急がねばならないと考えていた。よく知られているように、当時、『中世的世界の形成』の影響は大きく、直接の影響をうけた稲垣泰彦・永原慶二・黒田俊雄・網野善彦・戸田芳実などが群をなすようにして研究を進めていたから、あとは委ねてよいという判断があったといわれる。そして、この古代史研究への転進は、一九六二年の岩波講座(第一次)では「古代史概説」と「古代法」に最初の結実をみせ、一九七一年の『日本の古代国家』の刊行で完結した。
 そして、一九七三年には『日本古代国家論』の第一部と第二部が出版された。この『日本古代国家論』(第二部神話と文学)のあとがきで、石母田は折から企画されていた『日本思想大系 古事記』の編纂・解説作業のなかで「古代貴族の英雄時代」を再検討する課題に立ち戻ると宣言した。ところが、石母田は、その直後一一月に発病して新たな仕事をする条件を失ってしまったのである。これはいわゆる戦後派歴史学の学史では著名な経過である。
 それ故に私たちは、第二次大戦直後の諸論文から、石母田の構想を読みとり、その意義と限界を考えるほかないのである。そして、その中心はやはり岡本に石母田が語ったというオホナムチ=オホクニヌシ論である。その内容はさすがに見事なものであるが、現在の段階では詳細な再検討が可能となっている。本稿は、「古代貴族の英雄時代」から出発して、このオホナムチ論の点検に進み、それに対置してオホナムチを地震火山神とする私説を述べることを課題としている。

一 英雄と英雄神論――イワレヒコとヤマトタケル
 まず論文「古代貴族の英雄時代」の内容にそくして、石母田の神話論を紹介していくことにするが、石母田が神話論の課題としたのが何だったかは、相対的に明瞭な問題であろうと思う。つまり、日本が帝国と侵略の道を歩み、アジア太平洋戦争を引き起こすうえで、神話にもとづく国家イデオロギー(皇国史観)は決定的な意義をもっていた。それを全面的に再検討し、神話とは、日本列島に棲むものにとって何を意味するのかを論ずることが、国民の歴史意識を考える上で欠くことができない。石母田は、そう判断していたのであろう。「古代貴族の英雄時代」の「はじめに」は、古代史研究の誘惑的な魅力は「古代世界が成立してくる過程」において働いた「原始的な力という以外にはない運動」「人間の原始的創造的な力」の発見にあるとはじまる。このことは、石母田の神話論がなかば世界観的な要素をもっていたことをよく示していると思う。また石母田が『古事記』について「その文学としてのあり方を研究することはそのまま歴史学の課題とならなければならない」としたのは(一~二頁、以下、頁数は断りのない場合は、『石母田正著作集』一〇巻の頁である)、もちろん、学術的な方法の問題であったが、そこには神話を一つの民族的な文化として受けとめるという趣旨が含まれていたことも明らかである。
 もちろん、石母田は、それを「古代」の社会と国家の形成過程論を構想するなかで解こうとした。その姿勢は本格的で、かつ強烈なものであった。第二次大戦後の石母田が、このような高い地点から出発しえたのは、『日本歴史教程』の中心であった渡辺義通を囲んでもたれていたグループの一員として、戦争体制下においても神話の研究を蓄積していたためであることはいうまでもない。

A津田史学と混迷した英雄時代論争
(1)津田史学の評価について
 石母田の神話研究は津田左右吉の仕事に学び、それを乗り越えようとする営為であった。津田の『古事記』『日本書紀』の研究はリベラルで徹底的なものであった。それが天皇制ファシズムによって問題とされ、津田は大学から辞職するところまで追い込まれたことはよく知られていよう。
 石母田は皇国史観との戦いを担った津田史学を評価する点では人後におちない。津田史学が国家的なイデオロギーとの戦いのなかから生まれたという見方が石母田の津田史学に対する評価の基本であった。石母田は「記紀における英雄物語をそのまま歴史的事実として、あるいは歴史的事実に根拠のあるものとして考え、記紀の作者が後代の政治組織に適合するように意識的に述作した英雄物語をそのまま民族の英雄時代であるとしいる」(八四頁)、そういう国家イデオロギーに対して、津田は果敢に戦ったという。
 津田は『古事記』『日本書紀』の神話史料について厳密な批判を加え、その枠組がきわめて強い政治性をもっていることを詳細に明らかにした。津田は、『古事記』『日本書紀』の記述には、中国六朝の神秘思想、神仙思想の文学的な影響が強いとしているが、私も、それに依拠して『古事記』から『竹取物語』へは中国神仙思想の影響が筋のように貫いていると論じたことがある(『かぐや姫と王権神話』洋泉社新書二〇一〇年)。倭国においては、少なくとも七世紀までは神話時代が続いており、奈良時代は神話時代から完全に分離していたわけではなかった。『古事記』『日本書紀』は、そういう時代に、隣接の中国・朝鮮からの急激な文明化の影響の下で生まれたものである。津田のいうように奈良時代の知識人は中国朝鮮の最新の文芸動向や神仙思想を受け入れ、それを下敷きにして自国の神話を語ったのである。『古事記』『日本書紀』の叙述の見事さは、ほとんどそれによっているといってよい。そして、逆にいうと、このような稀有な歴史経過によって、『古事記』『日本書紀』は、神話史料としては、世界でも珍しいほどに政治性が強く、見事な文芸作品という外見の下に強固な国家思想を秘めたものとなったというべきであろう。私は、津田のこのような業績と方法を知らずに、この国で歴史家であることは許されないと考える。
 しかし、問題はその先にあった。つまり、このような決定的な仕事をした津田が戦争の終了後にどのような発言をするかは必然的に歴史学者全体の注視をあびた。そのなかで、津田は一九四六年四月に「建国の事情と皇室の万世一系の思想の由来」(『世界』)を発表し、天皇制とその文化を擁護する立場を宣言して、いわゆるマルクス主義に対する批判を展開したのである。これに対して同年六月、石母田は「津田博士の日本史観」を発表して、津田の史観を「余りに浪漫的な」として、その「歴史に優位する民族の範疇」に対する原則的な批判を行った。
 そもそも津田は歴史学が社会科学であるということ自体を認めようとしなかったのであるから、私は、この石母田の津田批判はマルクス主義云々ということをこえて、歴史学と社会科学の方法論からいって当然の批判であると思う。しかし、網野善彦が指摘するように、「戦後派」の歴史学にとって、ここに現れた津田と石母田の関係をどう考えるかは、一つの根本問題である(『網野善彦著作集』第七巻)。そこで網野は、津田に対する石母田の姿勢に「思い上がり」があったという厳しい感想を述べている。これは、当時、石母田のそばにいた網野の実感であって、おそらく事態の核心をついている部分があるのであろう。
 しかし、この網野の論評は、率直にいって、やや個人的な発言となっていて、津田と石母田の間の学術的な論争の全体像をとらえていない。つまり、網野は、どういう訳か、一九四八年に発表された、この論文「古代貴族の英雄時代」における石母田の津田批判についてまったく論及していない。もちろん、すぐに述べるように、この石母田の論文を契機として始まった英雄時代論争は混迷としかいえない状況をもたらしたのであるから、石母田の津田批判の意味が極小にみえたのは当然であろう。しかし、石母田は、津田を批判した責任上、この論文を起点として、神話論のレヴェルにおいて、津田左右吉との格闘を生涯の最後まで続けたのである。網野の視野には、この石母田が最後まで津田批判を続け、学問的な責任を取ろうとしていたことは入っていない。これは網野のような研究者にとっても、他の時代の問題となると、戦後派歴史学の学史の要部に関わる問題であろうと、それがみえていなかったことを示している。
 とくに注意すべきなのは、この論文「古代貴族の英雄時代」において、石母田は右の「津田博士の日本史観」で述べたような歴史学と社会科学の方法論に属する問題にいっさい言及することなく、むしろ津田の神話論を高く正確に評価した上で学術的な論述内容に議論をしぼっていることである。石母田にとって、所詮、方法論の相違は二の次の問題であって、学術的な認識内容そのものこそが本質であることは明瞭なことであった。
 石母田は、『古事記』は、その基本的な性格としては、口承によって民衆の間に伝承されてきたような叙事詩、民衆の精神・感情・生活を体現しているような叙事詩ではないという津田の見解を承認する。そして『古事記』『日本書紀』などを古代貴族階級の精神的所産として読む津田の方法を共有すると明瞭に述べている。そして、石母田は、精神史の取り扱い方が、「歴史学的=唯物論的方法」において「従来あまりにも機械的俗流的であった」。その弱点を克服するためにも、津田に学ぶことが必要であるとして、津田史学の優位性が精神史的な視角にあることを認めている(四頁)。
 石母田の津田批判が優れていたのは、それを認めた上で、「津田博士の方法からすればまさにこの点こそ稔り多き収穫が予想され」るにも関わらず、津田の記紀論が「記紀のあいだに見られる微細ではあるが重要な相違」を見のがし、「物語としての歴史的評価はほとんど果たされていない」と指摘したことにある(八五頁)。石母田が「文学としてのあり方を研究することはそのまま歴史学の課題とならなければならない。(中略)歴史的事実であることだけが歴史の真理であるのではなく、文学的な真実もまた歴史学の事実でなければならない」(二頁)としたのは、その意味で津田への批判を含んでいたのである。たしかに石母田が「考証的学問が終わったと考えるところから実は真に学問的思惟を必要とする困難な問題がはじまるのである」と揚言していることは、考えようによっては石母田が津田の仕事を「考証的学問」と決めつける「思い上がり」のように読めるかもしれない。しかし、続いて「史家の文学史に対する無理解と文学史家の歴史的なものに対する無感覚は両者の協力と統一を困難なものとしてきた」(八五~六頁)とあることは、それが歴史学と文学史・精神史の協同を呼びかけるという趣旨であることを示している。石母田の津田批判は、いわゆる内在的な学術批判の節度をまもったものであったと考える。
(2)「英雄・英雄神」への着眼への正当性と誤り
 こうして石母田は文学史的な視座と精緻な分析こそ、津田に欠けているものであると判断して、『古事記』の中から英雄の物語を摘出し、それを「古代貴族の英雄時代」の精神的所産として読もうとしたのである。石母田は、その際、高木市之助『吉野の鮎』の指摘に依拠し、さらにヘーゲルが『美学』で述べた英雄と叙事詩の概念を援用した。石母田は、このようにして『古事記』『日本書紀』のテキストのなかに、支配層と国家による英雄時代の記憶あるいは回顧を発見し、これによって「その背後にある世界を歴史的に位置づけることは記紀の本文批判において従来まったくかえり見られなかった方法であって、ここに津田博士の文献批判を超えてゆく一つの道が存在する」(三六頁)と考えたのである。
 私は、神話テキストの分析においてまず英雄または英雄神の表現とイデオロギーに注目して、そこに神話の分析の端緒をもとめることは正当であると思う。英雄または英雄神の神話は現実の世俗世界との関係をもっとも濃厚にもつ神話だからである。歴史学はこの神話類型を超越して、直接に神話的想像力の世界に直行する訳にはいかないのである。また叙事詩、叙事文学は歴史の回顧であって、歴史の実体を表現するものではない。しかし、その文学的な特質が歴史性、実践性、客観性にある以上、歴史学の立場から行ってその分析が緊要な位置をもつことは否定できない。この研究段階で、このような問題設定をした石母田の天才は輝かしいものである。
 また石母田が『古事記』などの神話テキストから、英雄の諸類型を析出する手続きも、それ自体としてはテキストの総合的な分析をふまえたものであったと思う。つまり、石母田は、第一に神武東征物語の本文に描かれるような政治的顕彰の対象となった英雄の形象、第二に社会集団の中に描かれる戦闘指揮者としての英雄の形象、第三に孤立した遍歴する勇士として、神々と闘う英雄の三つを抽出した。これ自体は英雄物語の分析、類別として、十分な学術的な手続きと根拠をもっており、いまだに有効なものである。
 しかし、だからといって、石母田がそれを「第一は神武天皇に象徴され形象化されたいわば散文的英雄であり、第二には萌芽的であるが神武東征物語の歌謡群のなかにおける叙事詩的英雄であり、第三は日本武尊において典型的に見られる浪漫的英雄である」と特徴づけたことに(七〇頁)賛同できるとは限らない。
 石母田の説明を詳しく見ていくと、まず第一の散文的英雄とは、政治的理念の拙劣な実体化と顕彰を述べる単調な記述において描かれた英雄像であって、神武東征物語の本文、およびそれと相似した性格をもつ雄略天皇に関する物語の本文、あるいは『日本書紀』本文に描かれたヤマトタケルの物語などを事例として提出されている。物語は空虚に装飾されていて、そこに描かれるのは英雄とはいっても独立性も文学性もない散文的なものにすぎない。そこでは発端も結末も最初から決められており、行動する集団は主人と従者の絶対的関係にあって英雄的な対立も性格を欠く俗物的なものである。そして、その背景として、石母田は専制的な世襲君主と、族制的=カースト的傾向を措定している(三〇、四五頁、六二、六九頁など)。
 これに対して第二の叙事詩的英雄とは内的必然にもとづき独立的に行動し、運命に耐える意力と苦悩を起動力とする存在であり、同時に社会集団の代表として生き生きとした集団生活の中で描かれる肉体的な戦闘者であるという(二六頁)。この指摘は、高木市之助『吉野の鮎』を参考にしつつ、『古事記』のイワレヒコ=神武の大和攻略の物語に載せられた「久米歌」と呼ばれる歌謡群を素材としてなされている。たとえば「厳々し 久米の子らが 垣下に 植ゑし椒 口疼く 我は忘れじ 撃ちてし止まむ」という歌謡に登場する「我」は、久米という氏族集団に対して戦闘を呼びかける強盛な英雄的個人、首長、王である。これは、実際の神武あるいはイワレヒコではないことは当然としても、「四・五世紀の歴史時代を表現する断片」(三八頁)として宮廷に回顧的に伝承されたものであるという。
 第三の浪漫的英雄とは独立的個性をもち運命と闘う存在であって、英雄としての矜持をもち悲劇性も事欠かない存在であるが、孤立した勇士であって、あらゆる社会集団からはなれ、政治的世界から追放された存在として主観的・主情的な性格、浪漫的な性格に流された存在である。石母田は、これについても高木市之助『吉野の鮎』に依拠しつつ、ヤマトタケルを浪漫的英雄の典型としている。たしかに、タケルは景行天皇に嫌われ、遠ざけられ、ほとんど孤立して東国を放浪したのであって、それ故に、この物語は英雄的叙事詩を形成していないということになる。
(3)石母田のヘーゲル依存の問題性について
 前述のように英雄または英雄神に着目し、それ関係する史料を三つに分類して論じたことは妥当であるとしても、上記のような、散文的、叙事詩的、浪漫的などの意味付けに大きな問題がある。以下、少し長くなるが、論文「古代貴族の英雄時代」の「結語」から、それを示す部分を引用する。
 古代文学が創造した二つの典型的な英雄としての神武天皇と日本武尊との対立は、古代貴族の精神構造=政治構造の対立的側面の表現とみられる。すなわち帝王的専制的=散文的精神と族長的貴族的=詩的精神との対立である。この散文的英雄と詩的英雄とを別々のものとして考えるならば、それは古代貴族の精神を正しく理解することにはならない。二つのものは対立しながら補い合っているのであって、古代文学におけるみじめなものとすばらしいものとの混淆もかかる統一的立場からのみ理解しうるであろう。したがって日本武尊の物語のすばらしさも、ただあまりに俗悪的散文的である世界においてのみ珠玉のように見えるのであって、文学的価値から見て過大に評価することはゆるされない。全体として中途半端な迫力の弱さは誰しも否定しがたいのであるが、それは政治的な東征物語の外観のなかに神々と闘争する遍歴的英雄の物語を展開しようとし、しかもそれを主情的抒情的なものに形象化しようとした不純と混乱――おそらくこの混乱は一人の芸術家による創作でなかったことにも由来するのであろう――からきたものと考えざるをえない。古代貴族の精神の二つの側面は相互に規定し合って文学精神の創造力の薄弱さの根柢をなしているように見える。このように散文的英雄も詩的英雄もともに古代貴族の精神的表現であるから、それを何か国民的民族的英雄のごとく語ろうとすることほど誤った態度はないのである(しかしかかる態度をたんに国家主義的な文学史のぎまんとばかり責めることは、かかる英雄がいかなる意味で階級的文学であったかを具体的に法則的にわれわれにしめそうとしなかった文学史家の怠慢を覆いかくすことになろう)。階級的であると同時に民族的でありうるのは、ただ英雄時代の叙事詩的英雄のみである。わが国の古代貴族の文学は散文的英雄と浪漫的英雄を形成し得たが、叙事詩的英雄は、若干の断片的歌謡にかすかにその存在を記録したのみで、ついに物語として創造し得なかった。この文学における叙事詩的英雄の貧困ほど日本の古代貴族の運命を象徴する事実はない。それは国家の創造、列島の統一において英雄的役割を果たした古代貴族階級が、五、六世紀におけるその内部の激しい対立争闘を通してついに皇室に隷属するにいたった結果を――その争闘はいかに激しいものではあっても叙事詩的な何ものもなく、矮小で俗悪で散文的な過程であった――、すなわち古代貴族の努力の達成を皇室が収穫してしまった事実を語るものであり、古代貴族がその独立性と主体性を喪失して、皇室の祖先と系譜的血縁的につながること、天皇制的な神々の系統樹の一枝であるという自己ぎまんの中にみずからの存在価値と無上の誇りとを見出そうとしたその堕落を告白するものである。ヘーゲルは叙事詩の歴史を民族精神の画廊eine Gallerie der Volksgeister であるといったが(Ⅲ.333)、日本古代文学におけるさまざまな英雄類型の系列、すなわち歌謡群の主体としての叙事詩的英雄と神武天皇および日本武尊にそれぞれ形象化された散文的英雄と浪漫的英雄との三つの英雄類型の系列と対立もまた古代貴族精神の歴史と運命の画廊であるといえよう。
 このカオスのような文章に含まれる論理力と構想力をもって石母田は倭国神話の体系を英雄および英雄神の神話から解こうとしたのである。私は、このような石母田の志向そのものが無意味であったとは思わない。
 しかし、これには根本的に賛成できない。何よりも問題なのは、上記の文章のうちの傍点部分であって、散文的英雄・詩的英雄とことさらに区別して英雄時代の叙事詩的英雄を国民的民族的英雄のごとく語ることには偏ったナショナリズムというほかない。私は民族というものは、現実に一つの公共圏として存在するものであると考えるが**1、それは職能・地域・性別・年齢などに根拠を社会の集団編成の多様性を前提としたものでなければならず、そのすべてを代表する「国民的民族的英雄」などというものが存在するということ自体が「一つの誤った態度」であると考える。
 「英雄」というものは観念としては存在しうることは事実である。しかし、「英雄」というものを実態として設定し、「英雄時代」というものを設定することには賛同できない。そして、叙事詩的英雄の文学的形象の存在もしくは非存在を、その民族の歴史の価値評価の基準とするかのような石母田の論調には強い違和感をもつ。私は『美学』を読んではいないが、「すべての偉大にして顕著な民族は彼の本来的精神を表現するところの最初の書物をもっている」(九頁)というヘーゲルの英雄物語についての記述を肯定的に引用していることも了解できない。ヘーゲルの論理に依拠して相当の勢いで書いた「若書き」であることが想定される以上、これはやむをえないことかも知れないが、「英雄時代の王はあくまで彼の支配する世界といきいきした統一と連関をたもっている」「この時代にあっては人民の支配者たる王族のみが独立自由の個性たりえた」(一四頁)などという記述は無意味なヘーゲル主義である。石母田が、ここで「国家の統一、列島の統一」を無前提に意味のあるものとしており、「国家の形成という困難で壮大な仕事」(二三頁)などという国家幻想に類する用語を使用し、記紀の原形が成立する以前の倭国、「四・五世紀の時代がうつぼつたる英気をはらんでいた」(六〇頁)などとすることにも強い違和感がある。
 もちろん、石母田は英雄時代を国家の形成の時代と位置づけ、それはすでに根本的には階級社会として規定されることなどとしている(一八頁)。しかし、石母田は、その「英雄時代」の変化の方向を英雄的なものと停滞的カースト的なものの矛盾(四八、八九頁)という形で設定した。それは英雄的なものをギリシャ的なもの、カースト的なものをアジア的なものとする二元論であって、結局、カースト的なものが全体を押さえるというのが石母田の図式である。これはほとんどヘーゲル歴史哲学そのままの図式であって、そのままではとても歴史学的な仮説ということはできない種類のものである。石母田の議論には根本的な問題があったといわざるをえない。これはカースト論をどう考えるかとは別個の問題である。
 こうして神話とナショナルなもの、そして形成期の国家をどう考えるかなどの問題を中心とした英雄時代論争は、最初から稔りないものとして運命づけられていたというほかないであろう。もちろん、列島における国家形成をどのように捉えるか、そこにおける族長(首長)と共同体の関係をどのように段階的に捉えるかなど、大きくみれば現在でも確定していないような論争自体に意味がないという訳ではない。しかし、率直にいって、これは当時の研究段階では議論条件がなく、解くことは不可能な問題であったといわざるをえないと思う。

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