ブラタモリ。貞観噴火は。日本の神と火山の関係をもっとも明瞭にしめす
ブラタモリをみた。貞観噴火の噴火口を千葉達郎さんが案内いしているというもので、これはみれてよかった。
スパターの解説がよくわかった。宮沢賢治の「気のいい火山弾」には「牛の糞」というのがでてきたと思うが、あれがスパターなのではないかというのが感想。
『歴史のなかの大地動乱』を書いたときには、貞観噴火の割れ目、側火山列のことまでわからず、ともかく書いたという記憶である。
ただ、歴史家からみると、この貞観噴火は、日本の神と火山の関係をもっとも明瞭にしめす資料になる。
つまり、史料には「富士郡正三位浅間大神の大山」が自ら「火」を発したとあるように、人々は、これを「浅間大神」の仕業とみたのである。
以下は上記拙著からの引用。
人々は、火山の神が光炎を噴出し、雷電の大音声を発し、神体=山体を震わせ、地上を暗闇にして溶岩流を押し出して、動植物と人間を殺したとみていたのである。火山の神は、噴火のみでなく、雷電・地震の神と三位一体になり、すべての生殺与奪の権限をもつ恐るべき姿を顕わにするのである。
人々は、噴火の最中は、富士山に近づくこともできなかったが、そのうちに、富士山の西北部の本栖湖に溶岩流が流れ込んでいるのが発見された。この溶岩流は、富士山の「西峯」=西側斜面で起きた側噴火から流出した大規模なもので、駿河国の報告によれば、全長、三十余里(約二〇㌔余)、幅、三.四里ほど(二.三㌔)で、遠く甲斐国の堺まで到達しているという。
そして、約一月半の後の甲斐国の報告によれば、溶岩は本栖湖と剗湖の二つの湖水に流入し、水は沸騰し、魚類は全滅。住居は埋没するか、無人の廃屋となってしまい、多くの人が焼け死んだという。これによって、最も西に位置する本栖湖が狭くなり、また広かった剗湖が精進湖と西湖に分かれた。そして、溶岩流は、さらに東の河口湖にも向かったというが、この溶岩流の流れは、現在の青木ケ原溶岩流の状況にほぼ対応している。ようするに、この大噴火によって、現在の富士五湖の原風景が形成されたのである。
この甲斐国の報告は「地は大震動し、雷電は暴雨のごとく、雲霧は晦冥にして、山野も弁じがたし」としているが、このような強力な火山神のイメージを作りだす原動力は地域社会の内部にあった。つまり、この噴火は駿河国が「年来疫旱、荐ねて臻る」という旱魃と疫病の流行の真っ最中に発生した(『三代實録』貞觀六年十二月十日)。これをうけて、噴火の翌年、八六五年(貞観七)に、甲斐国八代郡の郡司に富士大神が憑依して、「我は浅間明神なり」と称して、神社を建立せよと命令したという。富士大神は、甲斐国司が兇悪で、百姓が病死などの辛苦にあっているのを顧慮しないことに対して怒って、この「恠」をあらわしたのだ。大神に「鎮謝」し、「齋祭」を行えというのが、その託宣であった。この託宣をした時、郡司の身体が八尺(二.四㍍)と二尺(六〇㌢)の間を伸縮するようにみえたという噂が広がったという。これは地域に強力な神を抱え込むことによって、国家に対して要求を強めるという点で、怨霊を祭る御霊信仰と軌を一にするものである。
今まで、富士を祭る神社は駿河国の側にしかなかったが、これによって甲斐国の側でも富士の山裾、八代郡の郡衙の南側に「浅間明神」の「神宮」が立ったのである。そして、それを検分しにきた国司の使者、溶岩流が剗湖の千余町の広さを埋め尽くしているのを確認し、そこから仰ぎ見たところ、「正中の最頂」にも「社宮」が出来上がっているのを目撃したという噂が広がった。
火山には「神宮」があって、そこには神が棲むというのは、阿蘇火山の例を筆頭にして、伊豆神津島の例にいたるまで、すでに指摘したように、この時代の一つの通念であった。しかし、富士の「神宮」の様子はさすがに華麗である。目撃譚によると、富士の神宮は四隅に丹青の石でできた垣が組んであり、下からみると、その垣石は、高さは一丈八尺許(五,五㍍)、広さ三尺ほど、厚さ一尺余という巨大なもので、その石垣の中央には、やはり石でできた門があったという。入り口は一尺ほどの狭き門にみえるが、内部には、多彩の石でできた「一重高閣」がそびえ立っていて、その美しさは言葉にすることもできないものであったという。
九世紀の著名な文人、都良香が作った「富士山記」には、噴火の約一〇年ほど後、国司・郡司や民衆が収穫祭(新嘗祭)の季節に、富士の浅間明神の祭礼をしている時、山峯に「白衣の美女」が二人現れて、天空を舞ったという幻想が記録されている。また、山頂には甑釜のような窪地の底に、周囲を青竹の林でかこまれた純青の「神池」があって、周囲からは沸騰する青い蒸気が噴き出ている。そして、そこに虎のような形をした石が踞っているという。火山学の小山真人は、この「虎石」らしき石はいまでも富士火口にあるから、、これは現実に火口まで上った人の伝聞にもとづいたイメージだろうといっている。これらの幻想が九世紀末の『竹取物語』に実を結ぶことはいうまでもない。
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