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2016年10月19日 (水)

キルケゴール『死にいたる病』の冒頭部分を「人はたしかに霊的な存在である」と訳してみた。

 キルケゴールの『死にいたる病』の冒頭部分を訳してみた。

 「人はたしかに霊的な存在である。しかし、霊(スピリット)とは何かといえば、それはまずは心であろう。しかし心とは何かといえば、心とはそれ自身を自分の心に関係させる一つの関係意識である。心は、その関係において、その関係自身として自分の心を意識する関係である。心というのはただの意識関係ではなく、そこではその関係がそれ自身を自分の心に関係させるのである。人は、つねに全能感と閉塞感、瞬発感と日常感、自由の感情と窮乏の感情などの結び目である。人はそういう結び目なのである。それは二つの要素を意識する関係である。しかし、そうみるだけでは、人の心は捉えられない。
 つまり、二つの要素の関係においては、関係それ自体は三番目に位置する控えめな影となってしまう。二つの要素がたがいに結びついて関係を作り、関係のなかでたがいに関わり合い関係を作るという訳だ。たとえば、人を精神と身体の関係として考えるというのは、そういうことであって、そこでは、結局、人は精神とみなされることになる。これに対して、逆に関係がそれ自身を自分の心に関係させているのだとみれば、そのとき、その関係の自身が能動的な第三者として目に見えてくる。こういうものこそが心なのである」

 高校時代に読んだ桝田啓三郎さんの訳は下記のようなもの。

「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である(以下省略)」

 これはなつかしいが、やはり意味が通らないと思う。
 私は「人が霊的な存在である」というのは、「人は類的な存在である」、つまり、常に人類全体と関わっている存在であるということになっていくと思う。

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