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2016年10月 3日 (月)

石母田正の英雄時代論と神話論を読む

以下、アリーナ(中部大学編、2015年、18号に書いた論文の最初の部分です。


石母田正の英雄時代論と神話論を読む
---学史の原点から地震・火山神話をさぐる-


はじめに
 一九四八年に発表された石母田正の「古代貴族の英雄時代」という著名な論文は、まだしかるべき研究史的な評価をえていない。この論文の達成と限界、そして誤りを確認することはきわめて重要である。私には、それが曖昧になっていることは、この国の「古代史」研究における戦後派歴史学の初心に関わる問題であるように思える。
 この論文のことを考えるためには、まずその時代に戻って考えてみる必要がある。そこで、最近、たまたま目に触れた、岡本太郎の証言を紹介するところから始めたい。以下は岡本の『日本再発見ー芸術風土記』の出雲の項の一節である。
先日、石母田正に会ったら、大国主命は土着の神ではないという新説をたて、いずれ発表して定説をくつがえすと言っていた。出雲大社は伊勢神宮や鹿島神宮と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり、大国主命の伝説も、むしろ近畿、ハリマあたりの方が本場だというのだが。
 岡本太郎と石母田正の交友の経過は知らないが、気の合う仲間だったのであろうか。この文章がのった『芸術新潮』は一九五七年七月号だから、岡本が出雲を訪れたのは、その年の初夏らしい。だから、石母田が岡本に右のようなことを語ったのは、それ以前である。
 石母田が出雲神話を論じた第一論文「国作りの物語についての覚書」は、この年、一九五七年の四月に刊行された『古事記大成(二)』(平凡社)に載り、第二論文「古代文学成立の一過程(上・下)は、同じ四月・五月に発行された『文学』(二五-四・五)に載っている。つまり、石母田は、おそらくこれらの論文を書いている途中か、書き終えた頃に岡本と話しているのである。これは、この時期の石母田の研究関心を示す重要な情報である。
 岡本の文章の傍点部に注意されたい。「出雲大社は伊勢神宮や鹿島神宮と同じように、政治的な意味で中央から派遣された神社であり」という部分である。これらの論文では、まだそこまでは踏み込んでいない。石母田はこれらの基礎となる論文を書き上げた段階で、その先の抱負を岡本に語ったのであろう。この出雲大社論が実際に論文「日本神話と歴史ーー出雲系神話の背景」に発表されたのは、二年後の一九五九年六月となった(『日本文学史三』(岩波書店)。
 しかし、これによって石母田が「定説をくつがえし」、新たな神話論の方向を示すことに成功したかといえば、私はそうはいえないと思う。なにしろ石母田は歴史学の社会的責務にかかわる運動に大きな責任を負っていて多忙であった。私のように、平安時代・鎌倉時代を専門にしているものにとっては、一九五六年というと、石母田が『古代末期政治史序説』の刊行を終えると同時に、佐藤進一との協同研究を始め、いわゆる国地頭の研究に入った年であり、その結果としての「鎌倉幕府一国地頭職の成立」の発表は一九六〇年となった。この国地頭論が、いわゆる治承寿永内乱論、鎌倉期国家論において決定的な意味をもつ論文であったことはいうまでもない。凡人の常識からすると、この時期の石母田は、研究時間のほとんどを、それに費やしていたはずである。
 そして、それを終えた段階でも、石母田は神話論に戻ることはできなかった。それはもちろん、神話論固有の難しさという問題があったろう。しかし、何よりも、石母田は、第二次大戦終了後も古代史のアカデミズムがぱっとしないのに強い危惧を感じて、ともかくも古代史研究に筋を通す仕事を急がねばならないと考えていた。よく知られているように、当時、『中世的世界の形成』の影響は大きく、直接の影響をうけた稲垣泰彦・永原慶二・黒田俊雄・網野善彦・戸田芳実などが群をなすようにして研究を進めていたから、あとは委ねてよいという判断があったといわれる。そして、この古代史研究への転進は、一九六二年の岩波講座(第一次)では「古代史概説」と「古代法」に最初の結実をみせ、一九七一年の『日本の古代国家』の刊行で完結した。
 そして、一九七三年には『日本古代国家論』の第一部と第二部が出版された。この『日本古代国家論』(第二部神話と文学)のあとがきで、石母田は折から企画されていた『日本思想大系 古事記』の編纂・解説作業のなかで「古代貴族の英雄時代」を再検討する課題に立ち戻ると宣言した。ところが、石母田は、その直後一一月に発病して新たな仕事をする条件を失ってしまったのである。これはいわゆる戦後派歴史学の学史では著名な経過である。
 それ故に私たちは、第二次大戦直後の諸論文から、石母田の構想を読みとり、その意義と限界を考えるほかないのである。そして、その中心はやはり岡本に石母田が語ったというオホナムチ=オホクニヌシ論である。その内容はさすがに見事なものであるが、現在の段階では詳細な再検討が可能となっている。本稿は、「古代貴族の英雄時代」から出発して、このオホナムチ論の点検に進み、それに対置してオホナムチを地震火山神とする私説を述べることを課題としている。

一 英雄と英雄神論――イワレヒコとヤマトタケル
 まず論文「古代貴族の英雄時代」の内容にそくして、石母田の神話論を紹介していくことにするが、石母田が神話論の課題としたのが何だったかは、相対的に明瞭な問題であろうと思う。つまり、日本が帝国と侵略の道を歩み、アジア太平洋戦争を引き起こすうえで、神話にもとづく国家イデオロギー(皇国史観)は決定的な意義をもっていた。それを全面的に再検討し、神話とは、日本列島に棲むものにとって何を意味するのかを論ずることが、国民の歴史意識を考える上で欠くことができない。石母田は、そう判断していたのであろう。「古代貴族の英雄時代」の「はじめに」は、古代史研究の誘惑的な魅力は「古代世界が成立してくる過程」において働いた「原始的な力という以外にはない運動」「人間の原始的創造的な力」の発見にあるとはじまる。このことは、石母田の神話論がなかば世界観的な要素をもっていたことをよく示していると思う。また石母田が『古事記』について「その文学としてのあり方を研究することはそのまま歴史学の課題とならなければならない」としたのは(一~二頁、以下、頁数は断りのない場合は、『石母田正著作集』一〇巻の頁である)、もちろん、学術的な方法の問題であったが、そこには神話を一つの民族的な文化として受けとめるという趣旨が含まれていたことも明らかである。
 もちろん、石母田は、それを「古代」の社会と国家の形成過程論を構想するなかで解こうとした。その姿勢は本格的で、かつ強烈なものであった。第二次大戦後の石母田が、このような高い地点から出発しえたのは、『日本歴史教程』の中心であった渡辺義通を囲んでもたれていたグループの一員として、戦争体制下においても神話の研究を蓄積していたためであることはいうまでもない。

A津田史学と混迷した英雄時代論争
(1)津田史学の評価について
 石母田の神話研究は津田左右吉の仕事に学び、それを乗り越えようとする営為であった。津田の『古事記』『日本書紀』の研究はリベラルで徹底的なものであった。それが天皇制ファシズムによって問題とされ、津田は大学から辞職するところまで追い込まれたことはよく知られていよう。
 石母田は皇国史観との戦いを担った津田史学を評価する点では人後におちない。津田史学が国家的なイデオロギーとの戦いのなかから生まれたという見方が石母田の津田史学に対する評価の基本であった。石母田は「記紀における英雄物語をそのまま歴史的事実として、あるいは歴史的事実に根拠のあるものとして考え、記紀の作者が後代の政治組織に適合するように意識的に述作した英雄物語をそのまま民族の英雄時代であるとしいる」(八四頁)、そういう国家イデオロギーに対して、津田は果敢に戦ったという。
 津田は『古事記』『日本書紀』の神話史料について厳密な批判を加え、その枠組がきわめて強い政治性をもっていることを詳細に明らかにした。津田は、『古事記』『日本書紀』の記述には、中国六朝の神秘思想、神仙思想の文学的な影響が強いとしているが、私も、それに依拠して『古事記』から『竹取物語』へは中国神仙思想の影響が筋のように貫いていると論じたことがある(『かぐや姫と王権神話』洋泉社新書二〇一〇年)。倭国においては、少なくとも七世紀までは神話時代が続いており、奈良時代は神話時代から完全に分離していたわけではなかった。『古事記』『日本書紀』は、そういう時代に、隣接の中国・朝鮮からの急激な文明化の影響の下で生まれたものである。津田のいうように奈良時代の知識人は中国朝鮮の最新の文芸動向や神仙思想を受け入れ、それを下敷きにして自国の神話を語ったのである。『古事記』『日本書紀』の叙述の見事さは、ほとんどそれによっているといってよい。そして、逆にいうと、このような稀有な歴史経過によって、『古事記』『日本書紀』は、神話史料としては、世界でも珍しいほどに政治性が強く、見事な文芸作品という外見の下に強固な国家思想を秘めたものとなったというべきであろう。私は、津田のこのような業績と方法を知らずに、この国で歴史家であることは許されないと考える。
 しかし、問題はその先にあった。つまり、このような決定的な仕事をした津田が戦争の終了後にどのような発言をするかは必然的に歴史学者全体の注視をあびた。そのなかで、津田は一九四六年四月に「建国の事情と皇室の万世一系の思想の由来」(『世界』)を発表し、天皇制とその文化を擁護する立場を宣言して、いわゆるマルクス主義に対する批判を展開したのである。これに対して同年六月、石母田は「津田博士の日本史観」を発表して、津田の史観を「余りに浪漫的な」として、その「歴史に優位する民族の範疇」に対する原則的な批判を行った。
 そもそも津田は歴史学が社会科学であるということ自体を認めようとしなかったのであるから、私は、この石母田の津田批判はマルクス主義云々ということをこえて、歴史学と社会科学の方法論からいって当然の批判であると思う。しかし、網野善彦が指摘するように、「戦後派」の歴史学にとって、ここに現れた津田と石母田の関係をどう考えるかは、一つの根本問題である(『網野善彦著作集』第七巻)。そこで網野は、津田に対する石母田の姿勢に「思い上がり」があったという厳しい感想を述べている。これは、当時、石母田のそばにいた網野の実感であって、おそらく事態の核心をついている部分があるのであろう。
 しかし、この網野の論評は、率直にいって、やや個人的な発言となっていて、津田と石母田の間の学術的な論争の全体像をとらえていない。つまり、網野は、どういう訳か、一九四八年に発表された、この論文「古代貴族の英雄時代」における石母田の津田批判についてまったく論及していない。もちろん、すぐに述べるように、この石母田の論文を契機として始まった英雄時代論争は混迷としかいえない状況をもたらしたのであるから、石母田の津田批判の意味が極小にみえたのは当然であろう。しかし、石母田は、津田を批判した責任上、この論文を起点として、神話論のレヴェルにおいて、津田左右吉との格闘を生涯の最後まで続けたのである。網野の視野には、この石母田が最後まで津田批判を続け、学問的な責任を取ろうとしていたことは入っていない。これは網野のような研究者にとっても、他の時代の問題となると、戦後派歴史学の学史の要部に関わる問題であろうと、それがみえていなかったことを示している。
 とくに注意すべきなのは、この論文「古代貴族の英雄時代」において、石母田は右の「津田博士の日本史観」で述べたような歴史学と社会科学の方法論に属する問題にいっさい言及することなく、むしろ津田の神話論を高く正確に評価した上で学術的な論述内容に議論をしぼっていることである。石母田にとって、所詮、方法論の相違は二の次の問題であって、学術的な認識内容そのものこそが本質であることは明瞭なことであった。
 石母田は、『古事記』は、その基本的な性格としては、口承によって民衆の間に伝承されてきたような叙事詩、民衆の精神・感情・生活を体現しているような叙事詩ではないという津田の見解を承認する。そして『古事記』『日本書紀』などを古代貴族階級の精神的所産として読む津田の方法を共有すると明瞭に述べている。そして、石母田は、精神史の取り扱い方が、「歴史学的=唯物論的方法」において「従来あまりにも機械的俗流的であった」。その弱点を克服するためにも、津田に学ぶことが必要であるとして、津田史学の優位性が精神史的な視角にあることを認めている(四頁)。
 石母田の津田批判が優れていたのは、それを認めた上で、「津田博士の方法からすればまさにこの点こそ稔り多き収穫が予想され」るにも関わらず、津田の記紀論が「記紀のあいだに見られる微細ではあるが重要な相違」を見のがし、「物語としての歴史的評価はほとんど果たされていない」と指摘したことにある(八五頁)。石母田が「文学としてのあり方を研究することはそのまま歴史学の課題とならなければならない。(中略)歴史的事実であることだけが歴史の真理であるのではなく、文学的な真実もまた歴史学の事実でなければならない」(二頁)としたのは、その意味で津田への批判を含んでいたのである。たしかに石母田が「考証的学問が終わったと考えるところから実は真に学問的思惟を必要とする困難な問題がはじまるのである」と揚言していることは、考えようによっては石母田が津田の仕事を「考証的学問」と決めつける「思い上がり」のように読めるかもしれない。しかし、続いて「史家の文学史に対する無理解と文学史家の歴史的なものに対する無感覚は両者の協力と統一を困難なものとしてきた」(八五~六頁)とあることは、それが歴史学と文学史・精神史の協同を呼びかけるという趣旨であることを示している。石母田の津田批判は、いわゆる内在的な学術批判の節度をまもったものであったと考える。
(2)「英雄・英雄神」への着眼への正当性と誤り
 こうして石母田は文学史的な視座と精緻な分析こそ、津田に欠けているものであると判断して、『古事記』の中から英雄の物語を摘出し、それを「古代貴族の英雄時代」の精神的所産として読もうとしたのである。石母田は、その際、高木市之助『吉野の鮎』の指摘に依拠し、さらにヘーゲルが『美学』で述べた英雄と叙事詩の概念を援用した。石母田は、このようにして『古事記』『日本書紀』のテキストのなかに、支配層と国家による英雄時代の記憶あるいは回顧を発見し、これによって「その背後にある世界を歴史的に位置づけることは記紀の本文批判において従来まったくかえり見られなかった方法であって、ここに津田博士の文献批判を超えてゆく一つの道が存在する」(三六頁)と考えたのである。
 私は、神話テキストの分析においてまず英雄または英雄神の表現とイデオロギーに注目して、そこに神話の分析の端緒をもとめることは正当であると思う。英雄または英雄神の神話は現実の世俗世界との関係をもっとも濃厚にもつ神話だからである。歴史学はこの神話類型を超越して、直接に神話的想像力の世界に直行する訳にはいかないのである。また叙事詩、叙事文学は歴史の回顧であって、歴史の実体を表現するものではない。しかし、その文学的な特質が歴史性、実践性、客観性にある以上、歴史学の立場から行ってその分析が緊要な位置をもつことは否定できない。この研究段階で、このような問題設定をした石母田の天才は輝かしいものである。
 また石母田が『古事記』などの神話テキストから、英雄の諸類型を析出する手続きも、それ自体としてはテキストの総合的な分析をふまえたものであったと思う。つまり、石母田は、第一に神武東征物語の本文に描かれるような政治的顕彰の対象となった英雄の形象、第二に社会集団の中に描かれる戦闘指揮者としての英雄の形象、第三に孤立した遍歴する勇士として、神々と闘う英雄の三つを抽出した。これ自体は英雄物語の分析、類別として、十分な学術的な手続きと根拠をもっており、いまだに有効なものである。
 しかし、だからといって、石母田がそれを「第一は神武天皇に象徴され形象化されたいわば散文的英雄であり、第二には萌芽的であるが神武東征物語の歌謡群のなかにおける叙事詩的英雄であり、第三は日本武尊において典型的に見られる浪漫的英雄である」と特徴づけたことに(七〇頁)賛同できるとは限らない。
 石母田の説明を詳しく見ていくと、まず第一の散文的英雄とは、政治的理念の拙劣な実体化と顕彰を述べる単調な記述において描かれた英雄像であって、神武東征物語の本文、およびそれと相似した性格をもつ雄略天皇に関する物語の本文、あるいは『日本書紀』本文に描かれたヤマトタケルの物語などを事例として提出されている。物語は空虚に装飾されていて、そこに描かれるのは英雄とはいっても独立性も文学性もない散文的なものにすぎない。そこでは発端も結末も最初から決められており、行動する集団は主人と従者の絶対的関係にあって英雄的な対立も性格を欠く俗物的なものである。そして、その背景として、石母田は専制的な世襲君主と、族制的=カースト的傾向を措定している(三〇、四五頁、六二、六九頁など)。
 これに対して第二の叙事詩的英雄とは内的必然にもとづき独立的に行動し、運命に耐える意力と苦悩を起動力とする存在であり、同時に社会集団の代表として生き生きとした集団生活の中で描かれる肉体的な戦闘者であるという(二六頁)。この指摘は、高木市之助『吉野の鮎』を参考にしつつ、『古事記』のイワレヒコ=神武の大和攻略の物語に載せられた「久米歌」と呼ばれる歌謡群を素材としてなされている。たとえば「厳々し 久米の子らが 垣下に 植ゑし椒 口疼く 我は忘れじ 撃ちてし止まむ」という歌謡に登場する「我」は、久米という氏族集団に対して戦闘を呼びかける強盛な英雄的個人、首長、王である。これは、実際の神武あるいはイワレヒコではないことは当然としても、「四・五世紀の歴史時代を表現する断片」(三八頁)として宮廷に回顧的に伝承されたものであるという。
 第三の浪漫的英雄とは独立的個性をもち運命と闘う存在であって、英雄としての矜持をもち悲劇性も事欠かない存在であるが、孤立した勇士であって、あらゆる社会集団からはなれ、政治的世界から追放された存在として主観的・主情的な性格、浪漫的な性格に流された存在である。石母田は、これについても高木市之助『吉野の鮎』に依拠しつつ、ヤマトタケルを浪漫的英雄の典型としている。たしかに、タケルは景行天皇に嫌われ、遠ざけられ、ほとんど孤立して東国を放浪したのであって、それ故に、この物語は英雄的叙事詩を形成していないということになる。
(3)石母田のヘーゲル依存の問題性について
 前述のように英雄または英雄神に着目し、それ関係する史料を三つに分類して論じたことは妥当であるとしても、上記のような、散文的、叙事詩的、浪漫的などの意味付けに大きな問題がある。以下、少し長くなるが、論文「古代貴族の英雄時代」の「結語」から、それを示す部分を引用する。
 古代文学が創造した二つの典型的な英雄としての神武天皇と日本武尊との対立は、古代貴族の精神構造=政治構造の対立的側面の表現とみられる。すなわち帝王的専制的=散文的精神と族長的貴族的=詩的精神との対立である。この散文的英雄と詩的英雄とを別々のものとして考えるならば、それは古代貴族の精神を正しく理解することにはならない。二つのものは対立しながら補い合っているのであって、古代文学におけるみじめなものとすばらしいものとの混淆もかかる統一的立場からのみ理解しうるであろう。したがって日本武尊の物語のすばらしさも、ただあまりに俗悪的散文的である世界においてのみ珠玉のように見えるのであって、文学的価値から見て過大に評価することはゆるされない。全体として中途半端な迫力の弱さは誰しも否定しがたいのであるが、それは政治的な東征物語の外観のなかに神々と闘争する遍歴的英雄の物語を展開しようとし、しかもそれを主情的抒情的なものに形象化しようとした不純と混乱――おそらくこの混乱は一人の芸術家による創作でなかったことにも由来するのであろう――からきたものと考えざるをえない。古代貴族の精神の二つの側面は相互に規定し合って文学精神の創造力の薄弱さの根柢をなしているように見える。このように散文的英雄も詩的英雄もともに古代貴族の精神的表現であるから、それを何か国民的民族的英雄のごとく語ろうとすることほど誤った態度はないのである(しかしかかる態度をたんに国家主義的な文学史のぎまんとばかり責めることは、かかる英雄がいかなる意味で階級的文学であったかを具体的に法則的にわれわれにしめそうとしなかった文学史家の怠慢を覆いかくすことになろう)。階級的であると同時に民族的でありうるのは、ただ英雄時代の叙事詩的英雄のみである。わが国の古代貴族の文学は散文的英雄と浪漫的英雄を形成し得たが、叙事詩的英雄は、若干の断片的歌謡にかすかにその存在を記録したのみで、ついに物語として創造し得なかった。この文学における叙事詩的英雄の貧困ほど日本の古代貴族の運命を象徴する事実はない。それは国家の創造、列島の統一において英雄的役割を果たした古代貴族階級が、五、六世紀におけるその内部の激しい対立争闘を通してついに皇室に隷属するにいたった結果を――その争闘はいかに激しいものではあっても叙事詩的な何ものもなく、矮小で俗悪で散文的な過程であった――、すなわち古代貴族の努力の達成を皇室が収穫してしまった事実を語るものであり、古代貴族がその独立性と主体性を喪失して、皇室の祖先と系譜的血縁的につながること、天皇制的な神々の系統樹の一枝であるという自己ぎまんの中にみずからの存在価値と無上の誇りとを見出そうとしたその堕落を告白するものである。ヘーゲルは叙事詩の歴史を民族精神の画廊eine Gallerie der Volksgeister であるといったが(Ⅲ.333)、日本古代文学におけるさまざまな英雄類型の系列、すなわち歌謡群の主体としての叙事詩的英雄と神武天皇および日本武尊にそれぞれ形象化された散文的英雄と浪漫的英雄との三つの英雄類型の系列と対立もまた古代貴族精神の歴史と運命の画廊であるといえよう。
 このカオスのような文章に含まれる論理力と構想力をもって石母田は倭国神話の体系を英雄および英雄神の神話から解こうとしたのである。私は、このような石母田の志向そのものが無意味であったとは思わない。
 しかし、これには根本的に賛成できない。何よりも問題なのは、上記の文章のうちの傍点部分であって、散文的英雄・詩的英雄とことさらに区別して英雄時代の叙事詩的英雄を国民的民族的英雄のごとく語ることには偏ったナショナリズムというほかない。私は民族というものは、現実に一つの公共圏として存在するものであると考えるが**1、それは職能・地域・性別・年齢などに根拠を社会の集団編成の多様性を前提としたものでなければならず、そのすべてを代表する「国民的民族的英雄」などというものが存在するということ自体が「一つの誤った態度」であると考える。
 「英雄」というものは観念としては存在しうることは事実である。しかし、「英雄」というものを実態として設定し、「英雄時代」というものを設定することには賛同できない。そして、叙事詩的英雄の文学的形象の存在もしくは非存在を、その民族の歴史の価値評価の基準とするかのような石母田の論調には強い違和感をもつ。私は『美学』を読んではいないが、「すべての偉大にして顕著な民族は彼の本来的精神を表現するところの最初の書物をもっている」(九頁)というヘーゲルの英雄物語についての記述を肯定的に引用していることも了解できない。ヘーゲルの論理に依拠して相当の勢いで書いた「若書き」であることが想定される以上、これはやむをえないことかも知れないが、「英雄時代の王はあくまで彼の支配する世界といきいきした統一と連関をたもっている」「この時代にあっては人民の支配者たる王族のみが独立自由の個性たりえた」(一四頁)などという記述は無意味なヘーゲル主義である。石母田が、ここで「国家の統一、列島の統一」を無前提に意味のあるものとしており、「国家の形成という困難で壮大な仕事」(二三頁)などという国家幻想に類する用語を使用し、記紀の原形が成立する以前の倭国、「四・五世紀の時代がうつぼつたる英気をはらんでいた」(六〇頁)などとすることにも強い違和感がある。
 もちろん、石母田は英雄時代を国家の形成の時代と位置づけ、それはすでに根本的には階級社会として規定されることなどとしている(一八頁)。しかし、石母田は、その「英雄時代」の変化の方向を英雄的なものと停滞的カースト的なものの矛盾(四八、八九頁)という形で設定した。それは英雄的なものをギリシャ的なもの、カースト的なものをアジア的なものとする二元論であって、結局、カースト的なものが全体を押さえるというのが石母田の図式である。これはほとんどヘーゲル歴史哲学そのままの図式であって、そのままではとても歴史学的な仮説ということはできない種類のものである。石母田の議論には根本的な問題があったといわざるをえない。これはカースト論をどう考えるかとは別個の問題である。
 こうして神話とナショナルなもの、そして形成期の国家をどう考えるかなどの問題を中心とした英雄時代論争は、最初から稔りないものとして運命づけられていたというほかないであろう。もちろん、列島における国家形成をどのように捉えるか、そこにおける族長(首長)と共同体の関係をどのように段階的に捉えるかなど、大きくみれば現在でも確定していないような論争自体に意味がないという訳ではない。しかし、率直にいって、これは当時の研究段階では議論条件がなく、解くことは不可能な問題であったといわざるをえないと思う。

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