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2016年11月

2016年11月28日 (月)

世界には溶鉱炉の鞴のような激しい風が吹く(『老子』五章)

世界には溶鉱炉の鞴のような激しい風が吹く(『老子』五章)

天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す。天と地との間は、其れ猶お橐籥のごときか。虚にして竭せず、動きて愈々出ず。多言なれば数しば窮す。中を守るに如かず。
天地不仁、以万物為芻狗*1。聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶橐籥乎。虚而不竭*2、動而愈出。多言数窮。不如守中。

 天地の自然には仁愛などというものはない。万物を藁人形(芻狗)のように吹き飛ばす。(また社会も同じであって)、聖人と称する者も仁愛などはなく百姓を藁人形のように扱うのが実際である。天と地の間は溶鉱炉の鞴のようなものである。中は真空でも風が竭きることはなく、天と地が動けば風はいよいよ激しくなる。仁愛などということを多言していると行きづまる。真空という実態を知って置かねばならない。

解説
 橐籥とは溶鉱炉の鞴のことである。中国では春秋時代に鉄の鋳造技術が発展した。これは世界の鉄器製造の歴史では、普通、鍛鉄が先行するから、これは中国に独自なことと謂われているが、それを可能にしたのが溶鉱炉の熱を上げるための送風装置、鞴の開発であった。これは地域釈迦での鉄製器具・農具の利用を広げ、大きな意味をもったのであるが、ここで老子が天地の間で動く巨大な橐籥=鞴という喩えを語っているのは、老子にとっても製鉄技術の発展がめざましいものであったからであろう。

 天地の空間を鋳物を造るための巨大な空間と観想する神話イメージは『荘子』にもみえる。それは天地を鞴ではなく、溶鉱炉自体と考えるもので、『荘子』(大宗師篇)は「天地をもって大鑪となし、造化をもって大冶となす」(天地は巨大な溶鉱炉であって、その中で大冶=巨大な鋳物師がものを造る)と見えている。日本神話でも、最高神の高皇産霊は「天地を鎔造する」巨神とされている(『日本書紀』顕宗紀)。「鎔造」の「鎔」は鋳型による鋳造を意味する。また奈良時代に桜島が噴火したときのことを語る『続日本紀』には、それは大地の神・大己貴命(大国主命)が「冶鋳」(冶金と鋳造)の仕業を営んだのだと描き出している。そもそも、有名な「天孫降臨」は王家の祖先神が火山・高千穂が噴火するなかを「天の浮橋」(岩石の梯子)をつたって降りてきたという火山神話である(保立『歴史のなかの大地動乱』)。これは東アジアに古くからあった鞴や溶鉱炉の神話イメージが、日本では火山神話と結びついていたことを示している。そういう連想が文字化される上で、『老子』や『荘子』は相当の影響を与えたのではないかとおもわれる。

 さて、「天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す」というのは有名なフレーズである。人間を歯牙にもかけずに、圧倒的な力で規定してくるのが自然の本質だという老子の自然観を示す。漢学者の家に生まれた原子物理学の湯川秀樹は小さい頃から漢籍に親しんでいたが、原子爆弾の出現を見て、この老子の言葉を思い出し、科学文明によって人為の変化をうけた自然が人間を吹き飛ばすのではないかと危惧したという。二〇一一年三月一一日の東北大地震・津波と原発事故の後には、この老子の言葉はさらに新しい意味を帯びて迫ってくるように思う。自然はその表層では人間にとって有用なものにみえるが、より本質的には、それは人間に関わりなく存在する「無縁」そのものである。

 「聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す」というのも強烈なフレーズである。社会も個々人からみれば、無縁な自然と同じように、一つの無慈悲な自然のように人間を扱うというのである。社会が社会的自然ともいわれるのは、それが個々の人間からは疎外された一つの自然であるためである。自然のなかで働く人間は、直接に自然にしばりつけられているから、支配者は自然を所有し、それを通じて社会的自然をも支配することによって、人間を把握することができるのである。『老子』の社会思想は、こういう問題につらなってくる。『老子』というと「自然と親しむ思想」と考えられがちであり、もちろん、それは事実なのであるが、実は『老子』には、時と場合によっては、自然と社会は怖いもので、しかも、その怖さは関連しながら人間に迫ってくるという考え方がある。『老子』は深いのである。

2016年11月27日 (日)

老子第一章「万物を産む大地母神の母性原理」

 これは以前に書いたもの。明日から京都なので、準備をしているうちに見つけた。

老子第一章「万物を産む大地母神の母性原理」

道の道とすべきは、恒の道に非ず。名の名とすべきは、恒の名に非ず。名無し、万物の始め。名有り、万物の母。故に恒なるものは欲無くして*2、観るに以て其れ眇なり。恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり。此の両者、同じく出でて名を異にするも、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。
道可道、非恒道。名可名、非恒名。無名、万物之始。有名、万物之母。故恒無欲、以觀其眇。恒有欲、以觀曒*3。此兩者、同出而異名、同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

The way you can go
isn't the real way.
The name you can say
isn't the real name.

Heaven and earth
begin in the unnamed:
name's the mother
of the ten thousand things.

So the unwanting soul
sees what's hidden,
and the ever-wanting soul
sees only what it wants.

Two things, one origin,
but different in name,
whose identity is mystery.
Mystery of all mysteries!
The door to the hidden.

 普通にいわれる道と、ここでいう恒遠の存在としての「道」はまったく違うものだ。また、名声などの評判という意味での名も、ここでいう「名」、つまり名明な法則、理法という意味での「名」とはまったく違う。そもそも万物の始めの段階では、名明な法則はない。(天地が分かれ、陰陽、雌雄の違いとそれにもとづく欲求が生じ)、大地を母として万物が産まれる時に、はじめて名明な法則が顕現する。恒遠たるもの、「道」のなかに欲求がまだ生まれていないときは、全体の様子は混沌とした渺々である。その恒遠なるもののなかに欲求が生まれて、初めて名の差異が分明(曒)に顕現するのだ。そして、恒遠たる道の渺々とした混沌と、名明な法則的な事態の両者は、名目は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥な神秘である。そして、「道」と「名」の玄と玄が重なっている場所こそが世界万物がうまれる母たるべき衆妙の門(多数の妙なるものを生み出す門)が開いている場である。

解説

 本章は『老子』の第一章であって、『老子』を読む人にとってもっとも印象的な章である。これについては、特別に原文に続けて、『ゲド戦記』『所有せざる人びと』のSF小説家、アーシュラ・K・ルグィンの英訳を掲げた。意味を取ることがきわめて難しいが、まずは、漢文を暗唱し、また英訳を参照して哲学詩として読むのがよいと思う。
 極端に省略されているが、ここに前提されているのは、やはり宇宙論である。つまり「無名、万物之始。有名、万物之母」という部分、ルグィンの英訳の「Heaven and earth begin in the unnamed: name's the mother of the ten thousand things」という部分を宇宙の始めから天地の生成について論じたものと読むのである。たとえば「万物の始めのとき、宇宙に動きがあって、ビッグバンが始まる。そこでは混沌が広がっていくだけで、宇宙の法則的な展開は明らかではない。しかし、ビッグバンの後、宇宙が形成され、星ができて物理法則が働き始め、地球にも天地が分かれてくると、そこに生態系が生じ、生物の繁殖にともなう雌雄と欲求の関係が生じると、万物が生まれ、それにともなって生態学的な法則が登場する」ということになる。こういう宇宙論を援用するというのは、もちろん、『老子』を後知恵で読むことである。けれども、私の現代語訳に書いたように、「道」を恒遠な存在それ自体、「名」をそれをつらぬく法則=理法と考えれば、『老子』の筋道を大きく毀損することなく、話を通すことができると思う。

 ここでとくに強調しておきたいのは、この「無名、万物之始。有名、万物之母」というフレーズが伊勢神道の教説を集大成した鎌倉時代の書、『類聚神祇本源』に引用された「天地霊覚書」にそのまま引用されていることである。この「天地霊覚書」は道教の思想を自在に援用して神道の原理を論じている。私は、これをみる度に、『老子』を読むときの構え方はどうあるべきなのかを考えさせられる。

 ともあれ、このように宇宙論として本章を読むことによって、次の「故恒無欲、以觀其眇、恒有欲、以觀曒」の部分も万物の形成の論理を説いたものとして読めると思う。つまり、まずこの節の前半、「恒なるものは欲無くして、観るに以て其れ眇なり」という部分は、「無名、万物之始」ーー万物が名義分明な法則をもたない段階に対応するだろう。そこではまだ「恒なるもの」には欲求は内在しておらず、もっぱら渺々とした混沌があるというのである。それに続く「恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり」という後半部分は、明らかに「名有り、万物の母」という部分に対応している。つまり、通じて解釈すれば、万物の母の下で名義があるようになって、恒なるものの中に欲求が生まれ、初めて名義分明な理法が曒に顕現するのだということになる。

 もちろん、『老子』の議論をそのまま現代的な宇宙論そのものにもってこようというのではないが、以上のように読んでくれば、『老子』の本章が、恒遠な存在それ自体を意味する「道」と、それをつらぬく法則=理法を意味する「名」の両者を対応するものとして論ずるという明瞭な論理をもっていることは否定できないと思う。

 私が、以上のような解釈をする理由は、いわゆる上博楚簡のなかに発見された『恒先』という、これまで知られていなかった書物に「濁気は地を生じ、清気は天を生ず。気の伸ぶるや神なるかな。云云相生じて、天地に伸盈し、同出なるも性を異にし、因りて其の欲するところに生ず。察察たる天地は、紛紛として其の欲する所を復す。明明たる天行、惟お復のみ以て廃せられず」という一節があることを重視するためである。これは「天地の形成によって「気」が充満していき、その同じ気を発生源とする万物は、それぞれ性を異にしており、そこに欲求が生じ、その営みが繰り返される」と解釈することができるだろう。これを前提として『老子』第一章を読めば、天地の形成の後に、異なる性、つまり雌雄の関係において欲求が生まれたと解釈するのが自然であることになる。とくに重要なのは、この『恒先』という書物では宇宙の原初に存在するものが「恒」と呼ばれていることである。この点は「恒」なる存在の中に欲求が生まれるという『老子』に共通する論調であるといってよいのではないだろうか。『恒先』は『老子』とほぼ同時期に存在していたと考えてよいものであるから、それを参照として『老子』を解釈することは自然なことであると思う。

 従来、この「恒なるものは欲無くして、観るに以て其れ眇なり。恒の欲有るにいたれば、観るに以て其れ曒なり」という部分は、宇宙生成論として読まれることはなかった。たとえばもっとも一般的なのは「だから人は常に無欲であるとき、名をもたぬ道のかそけき実相を観るが、いつも欲望をもちつづけるかぎり、あからさまな差別と対立の相をもつ名の世界を観る」(福永一九九七)*1ということになる。これは右にかかげたルグィンの英訳も同じことである。

 ようするに、こういう考え方と解釈にもとづいて老子の思想は、一般に「無欲の思想」「無欲の哲学」といわれる訳である。率直にいって、これは老子の哲学を「無欲」の説教に矮小化することである。そういう風に理解する人々の善意を疑うものではないが、それは結局、老子の思想をおとしめるものではないだろうか。
 もちろん、それらと若干違う意見もある。それを代表するのは長谷川如是閑の「無において名づくべきもののない、絶対の境地(眇)を観、有において名づくべきもののある相対の境地をみる」などの解釈であって*1、そこでは無欲・有欲の両方が世界の認識において意味があるとされている。これらは、より冷静な見方であって、たしかに『老子』本章は、そのような人間の認識態度についての考え方を含蓄として含んでいることは否定できない。しかし、やはり、そこに還元してしまうのではなく、『老子』本章はまず宇宙生成論として読み切っておくことが必要であると考える。

 つまり、本章の解釈の最大の問題は、その最後の段「此の両者、同じく出でて名を異にするも、同じく之を玄(げん)と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり」である。私見のように、本章を宇宙生成論として読み切ることによってはじめて、この部分を宇宙と天地万物の生成にかかわる神話的イメージをベースとして筋を通して解釈することができるのである。この部分の現代語訳を次に再掲する。

そして、恒遠たる道の渺々とした混沌と、名義の差異が分明な法則の両者は、名目は異なっているが、同じところから出てきて、同じように玄冥なものである。そして、「道」と「名」の玄と玄が重なっている場所こそが世界万物がうまれる母たるべき衆妙の門(多数の妙なるものを生み出す門)が開いている場である。

 つまり、恒遠たる存在、混沌とした道それ自体とと、それを貫く差異を生み出す法則の世界は同根のものであって、そのような玄冥な実態と法則が重なる「衆妙の門」から万物が生み出されるというのである。この混沌したものから差異をもった万物が生まれる場、「衆妙の門」とは「万物の母」なるものの「門」であろう。この表現の背景には巨大な母なる神の神話的イメージが存在するのではないだろうか。

2016年11月22日 (火)

大国主神話と西宮越木岩神社

 以下は「ひょうごラジオカレッジ」での話しのためのテキストでの予告原稿。越木岩神社の文書については千葉大の引野先生の御教示をえました。ありがとうございました。


 私は歴史の教師をしておりましたが、4年ほど前に定年になりまして高齢者の仲間入りをいたしました。ともかくこれで責任が軽くなりましたので、定年後は少し日本の神話と地震の関係について自由な勉強をしております。今日は、その中で気づきました、西宮市にあります甑岩神社と大国主命について御話しをしたいと思います。

 芦屋の東を流れる夙川をさかのぼっていき、山地に入ろうとするところにある越木岩神社は、社殿の背後に高さ約一〇メートル、周囲が約三〇メートルもあるという巨岩があって、徳川時代にも「祭神、巨岩にして倚畳甑のごとし」(「摂津名所図会」)といわれて有名でした。山崎宗鑑の詠句に「照る日かな蒸すほど暑き甑岩」とありますから、この巨石は足利時代の後期からすでに広く知られていたわけです。甑というのは米を蒸す道具だから、「蒸すほどに暑き」というシャレが通用する訳だが、古くから、そういう形をした巨岩と考えられていたということです。

 私は、この神社こそ、『延喜式』神名帳の摂津兔原郡の項にみえる「大国主西神社」だと思います。莵原郡は明治時代に東の武庫郡に吸収されてしまって消滅しましたが、本来、夙川の西側で、芦屋市と神戸市東半分をふくむ地域でした。そこにはほかに「大国主西神社」と呼べそうな神社はない。越木岩神社の文書に明治五年に「西神社」、明治六年に「大国主西神社」とあるのは、少なくとも、当時、そう考えられていたことを示すと思います。

 さて今日お話ししようと思うのは、この大国主命という神がどういう神であったか、そして、それとの関係で、大国主西神社という神社の性格をどう考えたらいいかということですが、年輩の方は大国主命の物語を覚えておられると思います。兄たちにいじめられた大国主命、その頃の本来の名前はオホナムチですが、彼は出雲国の地下に広がる根の国に逃げ込むのですが、そこには素戔嗚尊がいます。それが逆にいい結果となって、スサノヲの娘のスセリ姫と恋愛をする訳です。そして二人は気脈を通じて、父のスサノヲをだまして逃げ出そうとした。その時、彼らはスサノヲの三つの宝物、「生太刀・生弓矢・天の沼琴」を盗み出すのですが、この時、スセリ姫をオンブしたオオナムチの担いだ「天の沼琴」が「樹に払れて地(つち)動鳴(とよ)みき」(木にさわって大地がゆれた)といいます。このジャックと豆の木の童話でジャックが竪琴を盗んで逃げ出したときに、竪琴が鳴り響いたことを想起させる物語は、「天の沼琴」が地震を発する呪具であったことを示しています。これはようするに、大国主命が地震の神となったということでしょう。

 詳しくは番組で御話しますが、こういう地震の神を祭る神社が、なぜここにあるのか、番組では、それについての私の意見をいおうと思います。

2016年11月19日 (土)

アメリカ政治はトランプ対バーニー・サンダースで動き始めた

アメリカ政治はトランプ対バーニー・サンダースで動き始めた

 11月16日、水曜日夜、バーニー・サンダーズ上院議員は、選挙が終わってからはじめて、まとまった演説をし、大きな注目を集めた。フェースブックでは、もう60万の人がみている。https://www.facebook.com/PoliticalRevolution/videos/1308001395918740/。

このワシントンのジョージタウン大学で行われた演説で、サンダースは、いくつかの問題についてトランプ次期大統領とともに働けることを希望しているといった。

 しかし、同時に、そのためにも、極右のジャーナリストのスティーヴ・バノンを戦略アドヴァイザーに選任することを再考するように要求した。スティーヴ・バノンは人種主義と性差別と外国人ヘイトと同性愛嫌悪で有名で、さらに反ユダヤ主義者でもある。 

 サンダースは、アメリカは徐々にさまざまな差別を克服するところに進み出てきたのであって、アメリカ合州国の大統領のそばに人種差別主義者がいることは受け入れられないと強い調子で釘をさした。

 彼のスピーチは、依然として激しい口調で、74歳とは思えないエネルギーに満ちているが、他方、その演説は、サンダースがきわめて柔軟な政治家であることも示した。つまり、サンダースは、ドナルド・トランプを攻撃するのではなく、むしろ、トランプが大統領選挙における演説で約束した、大多数の共和党の政治家とは異なる公約を具体的に取り上げて、その実行をせまったのである。それは下記のようなもの。

 (1)トランプ氏は社会保障予算をカットすることはしない。メディケアとメディケードを切ることはしないといった。私は拡充せよと主張するが、切らないというのは前提であり、重要な約束だ。

 (2)トランプ氏は、1兆ドルを我々の公共的なインフラ整備に投下すると約束した。それをすれば何百万もの給料の良い仕事口ができる。これも私の主張に共通する。

 (3)私は、今日の連邦の最低賃金が飢餓賃金であり、それは1時間につき15ドルにアップされねばならないと主張した。トランプ氏は、1時間につき10ドルまで最低賃金を上げなければならないと言った。これは十分ではないが、一つのスタートだ。

 (4)トランプ氏は、ウォール街の許しがたい強欲さと悪行を批判し、ニューディールで採用されたグラス・スティーガル法を復活するといった。これは最大の焦点のひとつだ。賛成なことはいうまでもない。

 (5)トランプ氏は、6週の有給出産休暇を実現すると約束した。地球上で主要な文明国といえば少なくとも12週の有給の家族と病気療養休暇が条件だが、これもスタートとしては重要だ。

 (6)トランプ氏はTPPなどの我々の壊滅的な貿易政策を変えるといった。これも賛成だ。


 時代錯誤の無知で頑迷な人種差別、外国人ヘイト、性差別などではまったく妥協はしない。しかし、以上が、誠実に行われるかどうかが問題だ。
 大統領候補が、この国の労働家族に偽善や嘘をいうことはゆるされないことは分かっているはずだ。これらを注意してみていくし、一緒にできることはいくらでも協力する。期待していると言ってもよい。
  
 以上が演説の主な内容の一部。

 面白いのは、サンダースの口調は、きわめて激しいし、表情も豊かだが、よい意味で、いつも同じことをいっていることだ。私は英語を聞き取るのは得意ではないが、民主党第一次選挙のときから聞き続けていたので、だんだんなれてきて分かるようになった。とくにデモクラシー・ナウというアメリカの番組では、書き起こしがついているので、分からないところはそこをみればだいたい聞き取れる。https://www.democracynow.org/2016/11/17/bernie_sanders_calls_for_trump_to_ax

 口調が、きわめて激しく表情も豊かだが、いうことが同じというのは、アジテーターであり、実際には霊性な知性派であるということでもあろうが、しかし、バーニー・サンダースは決して人に嫌われるタイプの人間ではないようだ。

 すでに『バーニー・サンダース自伝』(大月書店)が翻訳・発行されているが、『Our Revolution』という続編がアメリカでは11日に発行されたはずだ。

 日本の野党や市民勢力とアメリカの先進的な勢力との交流は必然的に進むだろうから、サンダースの演説を聞く機会はふえるに違いない。

 この日、水曜日、彼は、この日の昼、はじめて上院民主党の執行部に選出された。新設の普及(アウトリーチ)委員会の責任者となり、上院予算委員会の上級議員にも再任された。共和党は、上院で民主党に負けたら、サンダースが予算委員長になってしまうと危機感をあおり、一議席多数を維持したが、ぎりぎりだったわけだ。

 ウヲール外オキュパイ運動の中心をになったエリザベス・ワレンも執行部入りしたから、民主党上院執行部は先進派が有力な役割を担うことになる。

 なお、いまの焦点は民主党の全国委員会委員長に誰がなるかである。サンダースらはケイス・エリソンを推薦している。それが実現すれば、民主党は大きく変わり、アメリカ政治の非効率さの象徴である二大政党制は上から解体の方向に進むだろう。

 民主党が変わらなければ、4年後には第三党の形成に進むのかもしれない。共和党がどうなるかも波乱含みだからアメリカの政治はあきらかに激動期に入った。

 サンダースの主張は昨年までの民主党の枠組みを明らかに超えている。サンダースの行動は、舞台の外ではなく、舞台の中心にでてきている。サンダースは、この間、アメリカで起きるさまざまな問題に的確で適時のメーッセージをだし、演説をし、それは相当のインパクトをもっている。これが続くと、サンダースの行動は、このままでも、実質上、第三党の役割を果たすことになる。

2016年11月10日 (木)

ドナルド・トランプの勝利についてのサンダースの声明 20161009

ドナルド・トランプの勝利についてのサンダースの声明
                                 20161009
「ドナルド・トランプは支配勢力の左右する経済・政治・メディアにあきれて嫌になった没落する中流階級の怒りと響きあった。人々は、領事館の労働と低賃金が嫌になり、然るべき支払いのある仕事口が中国などの外国に行くのをみているのが嫌になり、億万長者が連邦の所得税を支払わないのに嫌になり、そして子供たちが大学へ行く学費の余裕もないのに嫌になっている。それにも関わらず、大富豪はさらにリッチになっているのにあきれているのだ。

 トランプ氏が、この国の労働者家族の生活をよくする政治に誠実に取り組むならば、それに応じて私と、この国の先進的勢力は協力する用意がある。人種主義者、性差別主義者や外国人ヘート、そして反環境主義の政治の道を行くならば、我々は精力的に彼に反対して行動するだろう。」

 アメリカの進歩勢力に頑張って欲しいと思う。トランプに対してはしばらく我慢をすること、軍警察、KKKのような危険な動きとできるかぎり連動させないようにすること。1年2年もたせて4年後への展望につなげることだと思うが、それらはバーニー・サンダースは十分わかっているだろう。

 しかし、ヒラリー・クリントンは政治家として終わり。彼女はバーニー・サンダースに謝らねばならない。それができなければ完全に終わる。政治家にも仁義というものはあろう。彼女が今後できる唯一の役割がそれだろう。

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