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2017年1月

2017年1月25日 (水)

オオナムチ(大国主)神話と西宮越木岩神社ーー兵庫ラジオカレッジでの放送原稿

 一月二一日の兵庫ラジオカレッジでの放送の原稿です。関西ラジオのページに放送ものっています。


 私は定年になりましたのが、二〇一二年三月でした。つまり、東日本大震災の翌年、震災からちょうど一年後に東京大学を退職したことになります。多忙な時でしたが、その退職直前に岩波新書の『歴史のなかの大地動乱』という本をだすことができました。この本を無理してかきましたのは、いうまでもなく東日本大震災がたいへんにショックだったからです。それまで少しは火山や地震の記録や史料をみていたのですが、これは本気で研究をしなければならないと考えました。そしてそのなかで自分の歴史学の位置や責任を一から考え直すということになりました。

 この本はなにしろ短い間に書いたものということもあって、間違いもあり、不十分なものですが、退職後の五年間、もっぱら地震・火山の研究をしてきました。今日は、そういうなかで気づいた一つの問題をお話したいと思います。それは、西宮市にあります越木岩神社についてです。この神社は、神社の方もいっておられますように、本来は、大国主命を祭るたいへんに由緒ある神社で、『延喜式』という一〇世紀初めの国家の正式の記録にでる大国主西神社という神社であろうということです。

 これは兵庫県の歴史に深く関係することですので、兵庫県の方々に、この話ができるのはありがたいことですが、この越木岩神社がなぜ、地震の話に関係するかといいますと、この神社の祭る大国主命という神様は、今いいました『歴史のなかの大地動乱』という本でくわしく論じましたように、日本の地震の神様だったからです。

 このオオクニヌシという神が日本の国を作った神、国作りの神であったことはいうまでもありません。ただ、この神の名前は若い頃はオホナムチといいましたので、しばらく、そう呼びたいと思いますが、このオオナムチのオオというのは大きいという意味です。そしてオオナムチのナというのは「つち」という意味の古い言葉です。細かい土を「スナ」といいますし、赤土のことを「ヘナ」といいます。ナというのは「つち」という意味なのです。またオオナムチのムチというのは尊いという意味になります。神様の名前のうちで最後にムチがついている神様は尊い神様です。

 ようするにオホナムチという大きな土の神、大地の尊い神様という意味で、『万葉集』には、この神が山を作ったというような和歌が残っています。私は、むかしの人がこの神が山を作ったというのは、この神が地震を起こすような大きな力をもっていたと考えていたのではないかと思うのです。

 ですけれども、それだけではオオナムチが地震の神であったということをはっきり説明することはできません。御納得いただけないだろうと思います。どう説明したらいいか迷うのですが、『播磨国風土記』などによるとオオナムチはいつも琴をもって出歩いていました。それから『出雲国風土記』でもある山の山頂にオオナムチのもっていた琴が石になって存在しているとあります。琴弾岩だとかよく言います。このオオナムチという神の形をした石が能登の国ではまつられていて、この神は石に縁が深いのですが、石の形をしたことがあったというのですね。

 問題はこの琴をオオナムチがどこで手に入れたかということですが、みなさんご存じのように『古事記』によりますと、オオナムチは兄たちに苛められて地下の国、「根の国」といいますが、そこに逃げ込んで、スサノヲノミコトの娘のすせり姫と恋いをするのですね。そして二人で密かに「根の国」を脱出しようとします。その逃げ出すときに、姫の父親のスサノヲが寝ているのを見計らって、スサノヲの宝物の琴をぬすみだします。オオナムチはすせり姫をおんぶして、さらに、肩に琴をかけて駆けだしたといいます。ところが、その琴が庭の木の枝にさわって大きな音がでてスサノヲが起きてしまい、スサノヲはオオナムチをおいかけるという物語です。

 これはジャックと豆の木というイギリスの童話と同じですね。ただジャックが行ったのは地下の国ではなくて空の上、雲の上にある巨人の国であったところが違いますが、巨人のもっとも大事な宝物がハープ、つまり琴だった。そしてジャックが琴を盗み出したときに自然に琴がなりだして巨人が起きてしまいジャックを追っかけたたという、細かなとこぉまで同じです。

 こういう日本とイギリスというまったく違う場所で同じような物語があるのはなぜかというのは神話や物語を研究する学問にとっては最大の問題であるわけですが、日本の神話のスサノヲとオホナムチの話が貴重なのは、この琴がどういう宝物なのかということがわかることです。つまり、ジャックと豆の木の話ではハープがなぜそんなに大事な宝物かはわからないのですが、スサノヲの琴は、『古事記』によりますと、木に触れたときに「地、とよみぬ」とあります。「とよむ」というのは「どよむ」と同じで大きな音がひびくということです。

 つまり琴がなると同時に大地が鳴り動いた。ようするに宝物の琴は地震を起こす道具だということです。『宇津保物語』という物語をご存じでしょうか。『源氏物語』より少し前、『古事記』が書かれた時より300年くらいあとになりますが、比叡山のあたりの山で母と息子が悪い武士に襲われそうになった。そこで宝物の琴をならすと地震がおきて武士を山崩れの中に閉じ込めてやっつけたという話が書いてあります。どうも、琴というのは大地の中の霊のようなもの、大地の霊、地霊ですね。この地霊を呼び出す力をもっているものだったようです。そのころの女の巫子はやはり琴をもっているのです。


 さて話が少しワキにそれましたが、実はスサノヲという神様自身がは地震を起こす神でした。ご存じのようにスサノヲは海の神ですが、父はイザナキ、母はイザナミです。ところが、イザナミが御産のときに死んでしまって、母なし子になってしまいます。そのためスサノヲは父親のイザナキが悪いんだということですねてしまいます。そして母を恋いしたって「哭(な)きいさちる」、つまり泣き叫んで、姉のアマテラスのいる天に昇るといいいだします。アマテラスはいわば母代わりという訳です。スサノヲは海の神だったわけですが、海を守るという役割を抛棄して天に駆け上ります。『古事記』によると、その時、スサノヲは「山川ことごとく動(とよ)み、国土みな震(ゆ)りぬ」という事態を引き起こしました。「山川ことごとく動(とよ)み」、つまり、山川の全体が鳴り動き、そして「国土みな震(ゆ)りぬ」、つまり国土全体がドーンとゆれたというわけです。

 こういう力をもったスサノヲが地震神だというのは明らかです。詳しくは私の本をみてほしいのですが、スサノヲが海の神であると同時に地震の神だというのは、ギリシャ神話のポセイドンと同じです。そういうことですから、スサノヲの宝物で、オホナムチが盗み出した琴というのは、ようするにスサノヲが地震を起こす力を意味しているのです。

 オホナムチがすせり姫と一緒に逃げ出したのを知ったスサノヲは、二人をおっかけますが、オホナムチは地下の国から地上に脱出するのに成功します。そして「根の国」「根の堅州の国」と、この世の間にある坂を一散に駆け下りました。追っかけてきて、やっとその坂の上についたスサノヲは坂の下をかけているオホナムチとスセリ姫をみつけます。そして、オホナムチに対して、「仕方がない。おまえはスセリ姫を妻として、その宝物を使って、地上の国の王となれ。そしてオオクニヌシと名乗れ。こいつめ」と叫んだといいます。いま「こいつめ」といいましたのは『古事記』の原文では「このヤッコや」とありますから、「この野郎」というようなことです。ムスメを取られて聟を「この野郎」とののしっているのですが、ここにはもうあきらめた、娘をよろしく頼むという感じもあります。

 こうしてオオナムチはオオクニヌシと名前を変えたのだというのが『古事記』の語るところです。土の神、大地の神であるだけでなく、国あるいは国家を作り、そのヌシとなった神ということでしょう。ただ、このオオクニヌシというのは『古事記』に独特な名称で、私は『古事記』の作者が作った名前なのではないかと疑っていますが、ともかく、こうしてオオナムチはオオクニヌシとなりました。そして、オオクニヌシは、山の麓に館を建て、スセリ姫と暮らし、宝物をつかって日本の王となったということです。

 ご存じのように、『古事記』では、この館は出雲にあります。ですから、「根の堅州の国」と、この世の境目は出雲国にある坂だというのですね。これは考えてみると奇妙な話ではないでしょうか。つまり、『古事記』は、地下から脱出してきて、この世に来るには長い坂をくだってくるのだというのです。これはどういうことなのでしょうか。地下からこの世に脱出するときに長い坂を上ってくるのなら自然ですけれど、ここには逆に坂を下ってくるとはっきり書いてあるのです。

 私、考えてみまして、地下からでてきて坂を下ってくるというのは、火山の火口をでてきて、その山を下ってくるということ以外に考えられないと思いました。そして「根の国」というのを『古事記』だけが「根の堅州国」といっているのですが、この「堅州」というのは鉄の鍛冶屋さん、鍛冶の「鍛」の字をカタスとよみます。つまり、「根の堅州の国」というのは、地下の鍛冶場の国、火の国という意味であると私は考えています。

 出雲には伯耆大山や三瓶山があって火山地帯ですからぴったり話はあうのです。出雲の国の神話、つまりそれを出雲神話といいますが、この出雲神話はようするに地震と火山の神話であることになります。これが正しいとすると、出雲神話の解釈が大きく変更されることになります。それだけに、これはまだ専門家のうちで一人しか賛成してくれていませんが、ともかく、こうしてスサノヲは地震の神であるだけでなく、火山の神であり、それはオオクニヌシも同じことだろうということになります。最近は火山と地震についての報道も多くなりましたので、ご存じのことと思いますが、火山の噴火の前後には火山性地震といいまして、かならず地震があります。むかしの人にとっては火山の噴火と地震は大事件ですから、噴火と地震の関係は多くの人びとが知っていたに違いないのです。その意味でも、火山の神と地震の神は同じ神だというのは納得いただけるのではないでしょうか。


 以上を前提にして、この地震の神のオオクニヌシが日本でどのように祭られていたかという話に入りたいと思います。史料からわかる限りのことですが、地震の神が祭られた最初は、推古天皇の時代、五九九年(推古七)のことです。つまり『日本書紀』という歴史書によりますと、このとき、たいへん大きな地震がありました。『日本書紀』には大地がゆれて家がことごとく倒れてしまったとあります。「ことごとく」というのはすべてということですから、これは誇張があると思うのですが、ともかく相当に大きな地震であったといってよいのでしょう。この時は推古天皇が即位して七年目ですが、推古天皇のころの『日本書紀』の記述は、すくなくとも年代については信頼してよいのではないかと思います。

 『日本書紀』を読みますと、「地動りて舎屋ことごとくに破たれぬ」、つまり、いま申しましたように大地が揺れて、建物や家がすべて倒れたとあります。問題はそれにつづく部分です。読んでみますと「則ち四方に令して地震の神を祭らしむ」(『日本書紀』)とあるのです。大きな地震だったので、飛鳥からみて四方、東西南北に命令して地震の神、つまりオオクニヌシを祭らせたという訳です。

 私はオオクニヌシは出雲あるいはその近くの播磨国などに本来は縁の深い神であったと思いますが、相当早くから全国で祭られるようになっていると考えています。遅くとも、このときには各地で祭られたのは明らかでしょう。当時の人びとも日本の各地で同じ地震、同じ災害を経験した。そして、同じ神を祭ったということです。そして逆に、この地震によって同じ神が各地で祭られたのではないかということになりますと、相当の災害があったと考えてよいでしょう。

 もちろん、この時にどのようにオオクニヌシが祭られたのかということはよくわかりません。ただ、この時に祭られた地震の神の中にまず入っていたろうと思われるのが、吉野のオオナムチ神です。オオナムチ、つまりオオクニヌシの本来の名前ですが、この神を祭る神社は、吉野渓谷への入口、吉野川右岸の妹山の麓にあります。このイモ山というのは、歌舞伎の「妹背山女庭訓」をご存じでしたら、あそこにでてくる妹背山のうちの妹山にあたります。これは潮の水が湧くなどという伝説がきわめて有名であったためであろう。それでも今ではあまり有名ではないと思いますが、奈良時代から平安時代のはじめにはたいへん有名な神様で、平安時代はじめに日本全国の神様に朝廷から位を授けることになったとき、この神の位が正一位だというのですね。これは伊勢神宮を別とすれば、淡路国の伊佐奈岐命の一品に並ぶという別格の位の高さです。もちろん、ほかに正一位として藤原氏の祖先の神の天児屋根命がいますが、藤原氏の祖先の神の位が高くなったのは奈良時代のことだと思います。ですから、それより前は、この吉野のオオナムチの神が伊勢のアマテラス、淡路にいるイザナキについで全国で三番目の位置にある神社であることになります。いまでは奈良で一番偉い神様だとされているのはおそらく三輪山の大神神社だと思います。三輪山の神様はオオモノヌシといって、この神はオオナムチ、つまりオオクニヌシと同じ神様だといいますが、ただ、この奈良の三輪神社の神様は、従二位でしたから、吉野のオオナムチ神社の方が高いのです。朝廷のまつるオオクニヌシの神、オオナムチの神のご本家は吉野だったわけです。

 ただ、いま、吉野のオオナムチ神社といってしまいましたが、このころイモ山に神社があったということではありません。もちろんあるいは鳥居くらいはあったかもしれませんが、このオオナムチ神社は徳川の時代に神殿ができただけで、それまでは完全にご神体は山そのものだったといいます*1。これは奈良の三輪神社も同じです。しかもどちらもこんもりと丸く盛り上がった山です。こういう山の形をカンナビ型などといいますが、お椀か、お鉢を伏せたような形、あるいは富士山のような形です。同じような山として有名なのが比叡山の日吉神社の神の山です。牛尾山といいますが、ここにもスサノヲとオオクニヌシの縁の深い神が宿るということです。

 どうも、よくいわれますように、昔の人びとはこういう形の山に神が宿るとみたらしいのです。突飛なことをいうようですが、私は、これはこの形が火山の噴丘の形ににているためだと考えています。阿蘇火山の中には、円錐形のきれいな噴丘がありますが、ああいう山の形に昔の人は山の神の神秘をみていたのではないでしょうか。ああいう形は火山の噴火で岩や火山灰がふきでるとああいう形になる訳ですが、地震で地面から砂が吹き出た場合も、ああいう形の小山ができます。こういうことを昔の人は不思議だと思い、そこに土地、大地の神様の力をみたのではないかと思うのです。人びとが、そこに神がいるということをどのように認識したのか、神様を感じたのかということを考えると、こういうことになるのではないでしょうか。こういう火山の神、地震の神がオオクニヌシであったという訳です。


 そろそろ結論に近づいておりますので、もう少しおつきあいください。さて、最初に申し上げましたように、平安時代の初め頃の国家の記録に、摂津の菟原郡にある神社として「大国主西神社」という神社がみえます。これが西宮市の越木岩神社にあたるだろうと私は思うのです。つまり、大国主「西」というのが問題で、西があれば東があるわけですが、この「東」は吉野のオオナムチ神でしょう。つまり吉野のオオナムチの神と「大国主西神社」は東西一対の神なのではないかということです。これまで大国主西神社は三輪神社と一対のものだという意見もありましたが、三輪神社はむしろ都のそばで真ん中ですから、「東」ではなく、東西一対というのはいいにくいと思います。

 ともあれ、こうして「大国主西神社」は、やはり、吉野のオオナムチの神の山や三輪山の神の山の様子と似たものだろうということになる訳です。そしてそうだとすると、越木岩神社は、いかにもオオクニヌシを祭っているという風景をもっているのです。つまり、越木岩神社には大きな磐座、岩のまとまりがあります。越木岩神社という名前が、そもそも、甑、つまり米を蒸すセイロの形をした巨岩があることによるのですが、それのみでなく、北へ斜面をのぼる途中により大きな磐座があり、この線を北に延ばしたところにある北山の頂上にも磐座らしきものがあるといいます。そして何よりも重要なのは、その北北東に甲山という、まさに先ほど申し上げたような神のこもる山、見事なカンナビ型の山があることです。お椀かお鉢を伏せたような形、あるいは富士山のような形といいましたが、この山は火山の一部がそのまま地上に残って、こういう形になった山として地質学の研究者の間では大変に有名な山です*2。もちろん、火山として噴火したもは1200万年前といいますから、いわゆる死火山あるいはすでに死火山でもない火山のあとといってよいのかもしれませあんが、安山岩からなる岩山なわけです。奈良・京都などの都にもっとも近い火山地帯は出雲な訳ですが、この甲山は火山ではないとしても、都の人びとはオオナムチの雰囲気を感じていたでしょう。なにしろ、もう少し西へ行けば有馬温泉なのですから。出雲も伯耆大山と玉造温泉のセットがありますから。

 人びとは昔の人も、なぜここにだけ、六甲山の山の連なりからぴょこんと離れて、見事な円錐形のあんな形をした山があるのだろうというのを不思議に思っていたに違いありません。四〇年ほど前に甲山からはお祭り用の銅戈(どうか)が出土し、西宮市立郷土資料館に西宮市の指定重要文化財として所蔵されているといいます。古墳時代から(?)甲山は信仰の対象であったのでしょう。それは越木岩神社も同じであったに違いありません。越木岩神社から甲山のあたりは一体として一種の聖地であったのであろうと思います。

 私は五九九年の推古天皇の時代の地震ののちに吉野のオオナムチが地震の神として祭られたろうと申しましたが、以上に申し上げたようなことからいって、そのときほぼ同時に大国主西の神、つまり越木岩神社の神も祭られたに相違ないと思います。ただ、大国主「西」という名前は、もう一〇〇年ほど後にできた可能性が高いと思います。つまり、オオクニヌシという神の名前は、先ほど申し上げたように『古事記』に独特な呼び名で古事記の作者が作ったものです。神社の名前としてもこの大国主西神社を除いてはすべてオオナムチ神社となります。古事記ができたのは七世紀の後半以降ですから、ようするに一〇〇年後です。

 そしてその時代は天皇家はしばしば吉野に行った時代で、吉野は大きな聖地になりました。それと同時に対になる大国主西神社も崇拝されたのではないかというのが私の推定です。しかも、このとき、天武天皇の時代、六八四年にきわめて大きな地震がありました。つまり南海トラフ地震です。ご存じと思いますが、南海トラフ地震は、日本の太平洋岸を西から駿河湾の沖まで走っている海溝、プレートとプレートがぶつかっているところで起こります。この大きな地震は天武天皇に大きな衝撃をあたえましたが、しばらく後の天武の死去も、当時の人々は、そのためと考えた可能性すらあります。この地震のときも兵庫県は大きく揺れたにちがいありません。越木岩の神にもお参りする人が多かったでしょう。私は、そういう中で、この時に使われるようになった大国主という神の名前が、この神社に着けられることになったのではないかと考える訳です。人々は安全の祈願をしたのでしょう。昔も今も、この地震火山列島に住む人間の考えることにはそう大きな相違はないのではないかと思います。
 残念なことに越木岩神社の磐座の一部が破壊の危機にあるというように聞いています。これは是非残していただきたいものです。調査も十分にされていないのではないでしょうか。詳細な調査をすれば何が出てくるかはわからないと思います。もしこれが事実だとするとことは日本全体にかかわってくる歴史遺産ですので、ぜひ、慎重に考えていただきたいものだと思います。

2017年1月12日 (木)

大国主命と越木岩神社と

昨日、放送の録音をした「ひょうごラジオカレッジ」での講演は一月二一日7時からの放送と言うことです。大国主命と越木岩神社というテーマで話しました。

二〇一三年九月にも放送をしました。それは
下記で聞くことができます。
自分の声を聞くのは奇妙でしたが、
http://jocr.jp/podcast/kouza.xml
【2013年9月7日放送分】兵庫県高齢者放送大学ラジオ講座
2013年9月9日 14:00
2013年9月7日放送
メディアファイル
kouza130907.mp3

 みなさんおはようございます。保立道久です。

 もう20年近くまえになるわけですが、1995年の阪神大震災の時、震災の直後から、神戸の歴史家たちは歴史史料の保存、レスキュー運動ということにとり組みました。あるいは、ご存じでしょうか。わたしも、ちょうど、そのとき、歴史学研究会という学会の事務局長でしたので、その関係で、神戸大学の方々と連絡をとって必要な相談をしました。また、しばらく後、神戸大学で授業をすることをたのまれて、一週間ほどのあいだ、神戸にいました。あの時の神戸の町の様子はわすれられません。

 そして、ちょうどその時に、市民の集会があって、小説家の永井路子さんと一緒に講演をしました。その集会は、歴史の史料をまもるという問題と、地震被害の国家補償をもとめるという二つのテーマをもっていました。この列島では、地震は、どこをおそうかわかりません。ですから、この国に棲むものは、いざという時、地域をまもることを意識する必要がある。その中で、地域に残った歴史史料もまもっていただく必要があるというのが歴史家の考え方です。それと同じように、この国では誰でもが地震被害にあう可能性があるのだから、それは個人的な不運ということではなく、みんなで支えあって国家補償が必要だということでした。東日本太平洋岸地震が起きてみると、これは必要な考え方だということが明らかになっているように思います。

 それにしても、三、一一はショックでした。実は、私はまだ東京大学につとめておりましたので、その直後、東京大学の地震研究所で開催された研究集会に参加しました。そこで、9世紀、869年に東北地方でおきた地震が、三、一一の大地震とほぼ同じような規模をもつものであることを知りました。この九世紀の地震の史料は当時の朝廷の残した記録に残っていて、私もその史料は読んだことがあったのですが、それだけでなく、それに対応する証拠が地面の下に残っていたのですね。つまり、巨大な津波は海底の砂を巻き上げて内陸に運びますが、そこには海洋性のプランクトンがふくまれています。ですから、顕微鏡でみれば、この砂は海からきたものだというのがわかるのです。そういう砂が3㌢だとか、場所によっては10㌢以上の厚さで残っている。9世紀にも海岸線から内陸へ3㌔以上も津波がやってきていた。それは3,11の津波がのぼってきた範囲とほぼあうということなのです。そしてこれだけ津波がのぼってくるためには九世紀の津波もマグニチュード8、5前後あるいはそれ以上の地震が起きているはずだというのが地震学の人の研究でした。ショックだったのは、このことは3、11のほぼ5年前には明らかになっていて、一部ではどう対応するかという議論もされていました。とくに原発についても九世紀の例からいって危険だということが東電に対して指摘されていたということです。研究集会では地震学・地質学の人々が、もう少し早く研究をまとめることができて、東北地方の人々にそれが広く伝わっていれば、いろいろな点で、事態は違っていたと嘆いているのを目前にしました。

 それなのに地震の動きの方が一瞬早かったということでしょうか。これはショックでした。つまり、地震学の人々のこういう研究を、この時代を専門とするほとんどの歴史研究者が、もちろん私をふくめて、知らなかったのです。これは歴史学の方に責任があります。私は、何ということだと考えて、急遽、8世紀、9世紀、奈良時代と平安時代初期の地震の研究をして、岩波新書で『歴史のなかの大地動乱』という本を書きました。

 今回はこの仕事を通じて知ったことについて御話しをしたいと思います。とくに御話ししますのは、この869年の陸奥大津波の前年、868年に、兵庫県で発生した地震のことです。これは、この本を書く中で気づいたのですが、阪神大震災との関係で、もっと早く研究しておかねばならない問題だったと考えています。

 さて、この九世紀の兵庫県地震の震源は山崎断層にありました。山崎断層というのは、岡山県の東部から兵庫県の南東部にかけて広がっている断層帯です。主要部は約80㌔の長さで、美作市から斜めに姫路市・三木市までさがってきています。これは日本で一番最初に発掘調査をされた断層で、いまでも京都大学の防災研究所の観測点がおかれています。そして、そのボーリング調査で、868年の地震の痕跡が掘り当てられたのです。これについては、朝廷の記録も残っています。それによると、播磨国の役所や寺院の建物がほとんどたおれた、京都でも、大内裏の垣根がくずれたといいます。

 文字の史料とボーリング調査の両方がありますので、1000年以上前の地震の実態が正確にわかる訳です。震源断層は山崎断層。マグニチュード7。0以上ということです。まだまだ人口密度も少ない時代ですから、幸い、人命の被害はありませんでしたが、もしいま起きればただではすまない強い地震でした。

 問題は、この地震のとき、山崎断層だけではなくて、それにつられて六甲山の断層帯が激しくゆれたことです。つまり、朝廷が神戸の広田社と生田社に捧げた御祈りの文章が残っています。そこには神戸の近辺が何度も激しくゆれた。それは広田社の神の「ふしごり」によるということで恐れ多いとあります。「ふしごる」というのはめずらしい言葉ですが、木にフシが出来るようなごつごつした怒りという意味です。しかも、それがでてくる御祈りの文章は、神主さんの唱え言葉そのままの史料でしたから、読みにくい史料です。そのためもあって、この史料は、これまで地震史料と認識されていなかったのです。この史料を知ったときに、これは本来、阪神大震災の時から研究しておくべきであったということを実感させられました。

 阪神大震災の前、都市計画を作るうえで、神戸ではそんなに地震がないという風評があったといいます。地震学の人たちは、当時からそんなことはないといっていた訳ですが、そういう声は影響をもちえなかった訳です。ですから、この史料をもっと前に知っていれば、それが神戸の人々の常識になっていれば話しは少しは違ったかもしれないということです。後知恵ということになるかもしれませんが、今後はそういうことがあってはいけない。地震学や歴史学のような学問は我々の毎日の生活にとってあまり関係のないものにみえるかもしれません。しかし、そんなことはないので、こういうことから災害を予知する文化というものを根っこから作っていかねばならないと思います。

 さて、以上をまとめてみますと、この868年の地震は、兵庫県の西部が震源で、山崎断層という大断層がゆれた。それがはねかえって神戸も相当にゆれた。そしてそれが京都まで響いたということになります。

 重要なのは、朝廷が、この地震が起きた原因を広田社の神の怒りに求めたということです。実は、これがどのような神の怒りかというのは、朝廷にとっては相当に深刻な問題だったのです。つまり、応天門の変というのをご存じだと思います。伴大納言、伴善男が応天門に放火して政敵をおとしいれようとしたという大事件です。伴善男は、そのためにぎゃくに罪をこうむって伊豆に流されました。この伴大納言が、この年、流罪地の伊豆で、恨みを呑んで死んで、怨霊になっていたのです。怨霊、つまりこの世に災害をもたらすという訳ですが、奈良時代・平安時代の人々は、地震は怨霊によって起こると信じていました。この地震は伴善男の怨霊によるのだという噂が出まわったことは確実です。

 そして、さきほどいいましたように、翌年、陸奥大津波が起きました。三,一一の後、先日の淡路の地震はありましたが、幸い大きな被害をもたらす地震は起こっていません。ところが九世紀は現在よりもっと地震や噴火が激しい時代で、しばらく前には富士が大噴火を起こしています。その上で二年連続して相当の地震が起き、東北地方の津波では、一〇〇〇人もの人が死んだとされます。これは衝撃であったに違いないと思います。

 問題は、この陸奥の大津波の翌月、六月に京都で御霊会があり、京都の祇園社の伝承によれば、このときに播磨国の広峰神社の牛頭天王が京都にやってきたとされていることです。こういう由来で広峰神社は祇園の本社ともいわれています。

 御霊会というのは、しばらく前から京都だけでなく、各地で行われるようになっていたのですが、これは怨霊を鎮めるための祭りです。ですからこの時期に祇園の御霊会がはじまったというのはありそうな話しです。祇園御霊会というのは、連続した播磨地震・陸奥地震の中で、それを引き起こした怨霊の力を鎮めるということで始まったに違いありません。普通は、御霊会というともっぱら疫病の流行を鎮めるということだといわれるのですが、当時の考え方だと地震を起こす神と疫病を起こす神は同じ神さまなのです。実際に、伴善男も怨霊として疫病の神であったという史料があります。

 表面では、こういうことはなかなかみえませんが、日本の文化の中には地震、そして火山噴火に直面してきた人々の考え方というのが深いところに存在していたに違いないというのが、私の考え方です。祇園会はいうまでもなく、日本を代表するお祭りですが、その始まりには9世紀の地震の影響があったということです。これは、この列島に棲む人々の常識となってもよいことだと私は考えています。

 さらに、今日、申し上げたいのは、そこには兵庫県の歴史が深く関わっていたということです。大事なのは、祇園の牛頭天王が、本来は播磨国の広峯神社の神であったことです。広峯神社は、姫路の北、播磨地震の震源、山崎断層がとおる場所の少し南の谷にあります。この広峰の神が播磨から摂津の神戸を通って、地震とともに京都までやってきたと人々は想像したのではないでしょうか。広峰神社は、奈良時代には決して有名な神ではありませんでしたが、このとき以降、京都の人々には有名な神社になります。そういうことですから、広峯と祇園の関係は祇園会の開始の時期にさかのぼると考えてよいと思います。

 なお、意外と大事なことかもしれないと考えているのは、平家のことです。私は、平家は祇園社と深い関係があったのではないかと思います。白河天皇が祇園に縁のある女性、いわゆる祇園女御を中心として一種のハーレムといいますか、後宮ですね、を作ったということはご存じでしょうか。清盛が白河天皇の御落胤だという話しはお聞きになったことがあると思いますが、鼻は祇園女御(あるいはその妹)などといわれます。これは疑問はあるのですが、ただ、この祇園女御と清盛の父の忠盛は深い関係があったことは事実です。そもそも忠盛が出世したのは、祇園女御を通じて白河院に取り入ったためです。平家と祇園社の関係が深いのは確実だと思います。祇園社にいまでも「忠盛灯籠」というのがあるのはその証拠でしょう。

 ここからすると、平家は祇園社の本社といわれた広峰社との縁も深かったのではないかと考えています。ここから先は、まだいま考えているということなのですが、平家は、なにしろ忠盛・清盛と播磨国をもっとも重要な縄張りにしていましたから、そこにある祇園の本社、広峰と深い関係をもっていた可能性というのはありうるのではないかと考えているのです。そうだとすると、平家の作った福原京の山際に祇園社があることは無視できません。平家は祇園の神、地震の神を味方にしていたのではないかなどと考えています。

 以上、駆け足になりましたけれども、このところ勉強したことを報告いたしました。まだ時間が少しありますので申し上げますが、私は、去年、地震学の知人から歴史学はもっと地震学に協力してほしいといわれました。そして、文部科学省におかれた地震予知の研究計画を議論する委員会に参加してほしいといわれて地震学の人たちと議論してきました。そのなかで、地震学と歴史学の協力のためには、地震の歴史を専門的に研究する組織が必要であるということについて一致しました。これだけ豊かな国なのに、日本の政府はそういうことには十分な予算をだしませんので、こういう組織は、いつ、実現するかは分かりませんが、少しでも歴史学が役に立つように、今後も研究を続けたいと思っています。

 日本は地震・火山列島です。ですから、どの地域の歴史をとっても、地震や火山との関わりが刻まれています。そしてそれは文化の中にも刻まれているということを御伝え出来たとしたら幸いです。こういうことは、毎日毎日の生活の中からはなかなかみえてきません。しかし、私たちは、そういう国で生きている訳で、そこで行われた先祖の経験を尊重しなければならないと思います。またそれが娘・息子や子孫の世代に対する責任であるようにも思います。

2017年1月10日 (火)

大国主神話と西宮越木岩神社

兵庫ラジオカレッジで話し。予告

なお、越木岩神社の磐座の様子は、磐座学会を参照。http://iwakura.main.jp/news/20150419_news/newst_20150419.htmlを参照。そのページには越木岩神社の磐座の様子がくわしく書いてあります。たいへんに興味深い物です。

大国主神話と西宮越木岩神社
 私は東京大学で歴史の教師をしておりましたが、4年ほど前に定年になりまして高齢者の仲間入りをいたしました。ともかくこれで責任が軽くなりましたので、定年後は少し日本の神話と地震の関係について自由な勉強をしております。今日は、その中で気づきました、西宮市にあります甑岩神社と大国主命について御話しをしたいと思います。

 芦屋の東を流れる夙川をさかのぼっていき、山地に入ろうとするところにある越木岩神社は、社殿の背後に高さ約一〇メートル、周囲が約三〇メートルもあるという巨岩があって、徳川時代にも「祭神、巨岩にして倚畳甑のごとし」(「摂津名所図会」)といわれて有名でした。山崎宗鑑の詠句に「照る日かな蒸すほど暑き甑岩」とありますから、この巨石は足利時代の後期からすでに広く知られていたわけです。甑というのは米を蒸す道具だから、「蒸すほどに暑き」というシャレが通用する訳だが、古くから、そういう形をした巨岩と考えられていたということです。

 私は、この神社こそ、『延喜式』神名帳の摂津兔原郡の項にみえる「大国主西神社」だと思います。莵原郡は明治時代に東の武庫郡に吸収されてしまって消滅しましたが、本来、夙川の西側で、芦屋市と神戸市東半分をふくむ地域でした。そこにはほかに「大国主西神社」と呼べそうな神社はない。越木岩神社の文書に明治五年に「西神社」、明治六年に「大国主西神社」とあるのは、少なくとも、当時、そう考えられていたことを示すと思います。

 さて今日お話ししようと思うのは、この大国主命という神がどういう神であったか、そして、それとの関係で、大国主西神社という神社の性格をどう考えたらいいかということですが、年輩の方は大国主命の物語を覚えておられると思います。兄たちにいじめられた大国主命、その頃の本来の名前はオホナムチですが、彼は出雲国の地下に広がる根の国に逃げ込むのですが、そこには素戔嗚尊がいます。それが逆にいい結果となって、スサノヲの娘のスセリ姫と恋愛をする訳です。そして二人は気脈を通じて、父のスサノヲをだまして逃げ出そうとした。その時、彼らはスサノヲの三つの宝物、「生太刀・生弓矢・天の沼琴」を盗み出すのですが、この時、スセリ姫をオンブしたオオナムチの担いだ「天の沼琴」が「樹に払れて地(つち)動鳴(とよ)みき」(木にさわって大地がゆれた)といいます。このジャックと豆の木の童話でジャックが竪琴を盗んで逃げ出したときに、竪琴が鳴り響いたことを想起させる物語は、「天の沼琴」が地震を発する呪具であったことを示しています。これはようするに、大国主命が地震の神となったということでしょう。

 詳しくは番組で御話しますが、こういう地震の神を祭る神社が、なぜここにあるのか、番組では、それについての私の意見をいおうと思います。

2017年1月 3日 (火)

ファシズムという言葉の意味をどう考えるか。

ファシズムという言葉

 ドナルド・トランプは「偉大なアメリカよ。再び」というスローガンで大統領になった。この主張は、しばしば「ファシズム」的であるといわれる。たしかに、アメリカの最近の動きをみていると、アメリカに、初めて、それらしいファシズム運動が生まれ、実現の道を歩んでいるようにみえる。しかし、ファシズムという言葉は歴史学においてもはっきりとした定義がない言葉であり、また欧米語としてもきわめて曖昧な言葉である。

 ファシズムの語義から調べていくと、まずこの言葉の語幹、ファッショは、もともとラテン語の「束」という意味の言葉、ファスケースFascesに由来するものである。左にファシズムという言葉を初めて使ったムッソリーニのファシスト党の標章を掲げた。この真ん中に描かれたものがファスケースである。斧に木の棒の束を革紐で結びつけている模様である。このデザインは当時のイタリア国王の紋章などにも描かれているが、ムッソリーニはイタリアの多くの建造物のレリーフなどに、このファスケースの模様をあふれさせた。ファシスト党は、立党のしばらく後、一九二二年、この党章を旗印として、ローマに進軍し、それを背景として政権を奪い、ファシスト大評議会を基礎とする一党独裁制を固め、ユーゴスラビアに進出し、アルバニアを保護国とするなど一挙に勢力を高めた。

 ヒットラーが、ムッソリーニのローマ進軍の翌年、ミュンヘン一揆を起こし、ベルリン進軍を呼びかけたが、それは失敗に終わった。それゆえに、当時は、ナチスのハーケンクロイツ(鉤十字)よりも、このファスケースの方が有名だったのであり、そこからファシズムという言葉が生まれたのである。

 もちろん、ファシスト党もナチスも、議会・憲法を停止して、軍事行動や謀略で独裁を行うという点では同じである。ドイツは、イタリアに一〇年遅れたものの、一九三二年の総選挙でナチスが第一党となり(ナチス二三〇、社会民主党一三三、共産党八九)、翌年首相に指名されるや、国会議事堂放火事件をでっち上げ、ワイマール憲法を停止する全権委任法を押し通してナチス一党独裁を実現したのである。それ故に、イタリアのファシスト党もナチスも同じようにファシズムといわれたことに不思議はなかった。

 ファスケースがラテン語の「束」という意味であることは右に述べた通りであるが、斧に木の棒の束を革紐で結びつけたファスケースという物、それ自体は、古代ローマの王あるいは執政官に付き従った護衛が、権威の標章として肩に担いでいたもので、日本語では儀式のための斧、つまり儀鉞(ぎえつ)とか、木の棒を束ねているという意味で束桿(そっかん)などと訳される。これはローマの王あるいは執政官の権限、命令権を象徴するものなのである。この命令権はインペリウムと呼ばれ、それがインペリアリズム(帝国主義)の語源となったのであるが、ようするにファスケースの模様は、国家の至高の命令権(インペリウム)の周りに結集せよという意味を含むわけである。

 ムッソリーニは、そこから「我々は束だ、ファッショだ」と呼びかけた訳である。ファッシネート(fascinate)というと「魅惑する」「魔法で人を縛り付ける」という意味であるが、その語源もファスケースと同じであるらしい。そして、そもそも、このファスケースの模様は国家を象徴するシンボルとして決してめずらしいものではなかった。アメリカでもワシントンが初代大統領に選出された年、一七八九年に連邦議会下院は、議会の衛視の標章として、このファスケスを採用している。アメリカ「独立革命」の指導者たちは、フランス革命にならって共和制の象徴としてローマの古典主義を尊重していたが、これはローマの儀礼をそのまま真似したものである。アメリカにはそのほかにもファスケースFascesのデザインは多く、ホワイトハウスの大統領執務室(オーバルオフィス)のドアの上や、下院本会議場の演壇の国旗の両側にあり、さらにリンカーン記念館のリンカーン像のイスの前面にも彫り込まれているという。そもそも、棒を束ねるということ自体は、イソップ物語に「一本の木の棒は折れやすいが束にすれば折れない」という話があるのと関係するらしい。毛利元就の「三本の矢」と同じ話である。

 七〇年ほど前、ジョージ・オーウェルは、「ファシズムとは何か」というエッセイで、ファシズムという言葉は、非常に定義しにくい。実際の使われ方からするとほとんど無意味な言葉だといっているが、しかし、そうはいっても、欧米では、ファシズムといえば、上記のような語義、語感、ニュアンスは伝わるのだろう。
 しかし、日本語でファシズムといった場合は、カタカナの外来語であって、その意味はオーウェルのいう以上に曖昧になる。それ故に、「トランプはアメリカに初めてファシズムを実現するかもしれない」といっても、学者、政治家、ジャーナリストでない人には正確なところは伝わらないことになるだろう。というよりも学者も、ファシズムの定義とナルトほとんど曖昧なのが実際なのである。

 私の専門領域をまったく外れるが、ファシズムという言葉について考えている。上が、その経過的な報告。

 それでは、このファシズムというのを日本語にどう訳すかだが、やはり、超国家主義という言葉に翻訳して使うことになるのではないかと思う。ただ、それは英語で言えば、ウルトラ・スタティズム(ultra-statism)である。丸山真男のいうようなウルトラ・ナショナリズムではないのではないかと思う。
 それは明日考えたい。

2017年1月 1日 (日)

ドナルド・トランプに対する私の新年の希望(ロバート・ライシュ)

ドナルド・トランプに対する私の新年の希望
                        2016年12月31日土曜日  ロバート・ライシュ
 ドナルド・トランプは、2016年の最後の日に次のようにツイートした:

 「すべての皆におめでとう。私の沢山の敵や、私に反対してひどく負けてしまって、どうしていいかわからない人へも。愛してるよ」。

 すぐにアメリカ合州国大統領になろうとしている男が、いやしい精神で、浅薄で、ナルシスティックな、そして報復的な性格を表し続けている。

 トランプは、世界を個人的な勝利か敗北か、敵か友人か、サポーターか批判者かという点から世界を見ている。
大統領は個人的な敵意を越えて、公共的に信託された職を維持しなければならないものなのだということもまだわかっていない。

 大統領は、彼に反対票を入れ、また彼に反対し続けるかもしれない人々を含む、すべてのアメリカ人を代表するものとされている。

 民主主義において、大統領の政策に対して戦う人々は、彼の個人的な敵ではない;
彼らは、反対党派であり、批判者である。

 中傷されたり、敵と分類されたり、報復されることを心配せずに、政権を握っている人々に反対する自由。それに民主主義は依存している。

 新年おめでとうございます、トランプさん。

 あなたには、大統領としての行動を学ぶために20日間あります。
 あなたの方針に反対し、あなたの人格について心配している我々のすべてが心から望むのは、その学びです。

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