南海トラフ巨大地震と『平安京右京七条一坊七町跡』
以下、京都市埋蔵文化財研究所からいただいた報告書『平安京右京七条一坊七町跡』への礼状ですが、その次に9世紀の南海トラフ巨大地震についての私見の論文を載せました(再掲、加筆)。
拝復
『平安京右京七条一坊七町跡』を御送付いただき、たいへんにありがとうございました。
放射性炭素の分析によって、やはり九世紀の地震であることが確定ということ、文献資料の多い九世紀京都地震の初めての確認となり、たいへんに大きな成果と存じます。
また放射性炭素のみでなく土柱試料のX線写真による地震動による撹乱変形構造の観察の結果の報告、そういうことが可能であることを知りませんでしたので、たいへんに驚きました。
土木工事の際の地質調査情報を公開し、データベース化することを学術会議が提言しておりますが、今後、このような分析が発掘調査時のみでなく、一般工事でも必要な費用と手間をかけて行われるようなこととなれば、相当の詳細な観察が可能になるように思いました。
今後もこの時期の調査が進み、面的に京都地震の実態が浮かび上がりますように。
御仕事の発展を御祈りします。
敬具
二〇一七年二月二七日
保立道久
なお放射性炭素の分析ですと、九世紀前半の可能性もあるのではないかとも考えます。
推測が多すぎますし、発表したものにミスが多く修正をしたというつたないものですが、何かの参考になればということで論文を以下に転載しました。
八世紀末の南海トラフ大地震と最澄 保立道久
原掲載、『CROSS T&T』No.52.2016.2(一般社団法人 総合科学研究機構)。
ただし、刊行論文には大きな錯誤があり、刊行直後に読んでいただいた石橋克彦氏の指摘をうけ、論の基本部分に変更を加えた。氏の教示に感謝したい。なお論の責任はすべて筆者にあることはいうまでもない。(2016,4,4。さらに加筆2017,2,27)。
よく知られているように、南海トラフ地震は、だいたい100年から150年の周期で発生するといわれている。14世紀南海トラフ地震(1361年)以降については、それを語る資料が明らかになっているが、しかし、それ以前については、その可能性のある地震は、まず265年の間をおいて11世紀(1096年)、209年の間をおいて9世紀(887年)、203年の間をおいて7世紀(684年)という間隔になってしまう。これはおもに、それらの時代では正確な文献史料が少ないことによるのであろう。しかし文献史料の読み方によっては、さらに若干の推測が可能となる。
ここで述べるのは、八世紀末期にも南海トラフ地震があったのではないかという推定である。それは797年(延暦16)8月の地震であって、もし、この推定が成立するとすると、九世紀南海トラフ地震(887年)と七世紀南海トラフ地震(684年)の間で、現状、203年の間隔があるものが、90年と113年という間隔に分割されることになる。
さて、この797年(延暦16)は、いわゆる平安遷都の直後の時期で、この時期は六国史でいえば『日本後紀』という記録があるべき時期なのであるが、この時期、残念ながら『日本後紀』の伝本はない。六国史の抄録本の『日本紀略』の8月14日条には「地震暴風」とあるのみである。これだけでは地震の詳細はわからないが、しかし、幸いなことに菅原道真が「六国史」などを主題ごとに整理して編纂した『類聚国史』(巻171、地震)には、この地震が「地震暴風。左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」とやや詳しく記録されている。『日本後紀』の原文はもっと詳しかった可能性はあるが、この記録によって「地震・暴風」の被害が相当のものであったことがわかるのである。
もちろん、史料に余震がみえないのは南海トラフ地震ではしばしば余震が続くとされることからすると問題があるが、『日本紀略』も『類聚国史』も抄出にすぎないから、余震についての記載が省略されることは考えられるであろう。それよりも問題なのは、「地震暴風」とあることで、そこから、被害は地震被害ではなく、実際は暴風被害であったのではないかという意見もあるかもしれない。しかし、この頃、坊門はまだ新築であったはずである。それが左右の両京で倒壊したというのをすべて暴風とするのはむずかしいのではないだろうか。
もちろん、これは蓋然性の指摘にすぎないから、この地震の規模は、将来、考古学が葛野遷都直後、いわゆる「平安京」の最初期における坊門の発掘調査に何カ所かで成功した後になるかもしれない。事柄が大きいだけに、そういう証拠がなければ自然科学の側で史料として使うのは難しいだろう。しかし、歴史学の側から、この地震の大きさを傍証する上では、この地震が早良親王の怨霊が起こした地震と考えられたことが大事なように思う。
この早良親王とは、時の天皇、桓武の同母の弟で皇太子の地位にあった早良親王のことである。早良親王は、785年、大伴家持などの教唆によって、桓武の近臣、造長岡京使、藤原種継を暗殺し、謀反を起こそうとした廉で処断された。しかし、彼は最後まで罪を認めず、しばらく後になって桓武も冤罪であったとして、その霊に陳謝したという人物である。『歴史のなかの大地動乱』で述べたように、聖武天皇の時代から怨霊が地震を起こすという恐れは朝廷に根付いていたが、桓武の父、光仁天皇も同じであった。つまり光仁は、妻の井上内親王と(桓武の前の皇太子)他戸親王を迫害し死に追い込んだが、775年、彼らが幽閉された場所で死去した直後に地震が連続した。恐怖にかられた光仁は内裏に僧侶二百人を集めて大般若経の転読を行い、「風雨と地震」の「恠異」を払う大祓を行ったという。
そして桓武にも同じことが起こったのである。つまり、この七九七年(延暦16)地震の三年前、七九四年(延暦一三)正月一五日に、『類聚国史』によれば小さな地震が起きているが(『日本紀略』には載っていない)、その六日前、「雉あり、主鷹司の垣の上に集まる」(『日本紀略』同日条)という事件があった。主鷹司の垣に雉が集まるというのは、当時の人びとにとって異様なことにみえたであろうが、実は、雉は雷電や地震を察知してなくという観念があった。その種本は「説文」に「雷の始動するや、雉すなわち鳴きてその頸(くび)を句(ま)げる」とあるように中国にあったが、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で論じたように、日本でも、そういう史料は多い。この主鷹司への雉の群衆は、三日後の地震の予兆と受け止められたに相違ない。そして、四月に日食の恠異があった上で、五月二八日、時の皇太子、安殿親王の妃の藤原帯子が「忽ちに病あり。木蓮子院に移す。頓逝」という大事件が発生した。しかも、六月一三日にまた地震があったのである。
そもそも、この三年ほど前、七九一年一〇月から皇太子安殿親王は重病に陥っており、それは早良親王の怨霊の祟りとされていた。私は、これによって長岡京から愛宕京(平安京)への遷都がすすめられたと考えている。そういう状態のなかであったから、皇太子妃の頓死が深い恐怖をよんだことは明らかである。
こうして六月末には諸国から人夫が動員されて新京を掃除し、七月一日には東西市も移ったのですが、同じ一〇日、「宮中ならびに京畿の官舎および人家に震す。あるいは震死者あり」という落雷事件が起きました。落雷と地震がどちらも怨霊の仕業で深く関係するものと考えられていたことは『歴史のなかの大地動乱』にも書いた通りである。そして、だめ押しのようにして九月一日・二日と連続して地震が起きる。桓武は、これによって耐えられなくなったものとおぼしく、その翌日三日に、天下諸国に、三日間、殺生禁断をし、仁王経を読誦するように命令を下した。そして二八日には諸国名神に奉幣し、二九日には念を入れて新宮(新内裏)で仁王経を読誦したのちに、一〇月五日、桓武は愛宕京に移動したのである。
冒頭で南海トラフ巨大地震ではないかと推定した七九七年(延暦16)八月地震は、その三年後に起きた。しつこいようだが、その経過を確認してみると、『日本紀略』によれば、この地震の三ヶ月前、五月一三日に「雉あり、禁中正殿に群集す」(『日本紀略』同日条)という事件があり、さらに、この雉事件の六日後、『日本紀略』五月十九日条に「禁中并に東宮において金剛般若経を転読す、恠異あるをもってなり」と金剛般若波羅蜜経の転読が行われたことが記され、さらにその翌日、二〇日条に二人の僧侶を早良親王の陵墓のある淡路国に派遣し、仏経を転読させて、早良の霊に陳謝したという経過である。
問題は、五月十九日条にある金剛般若経転読の対象となった「恠異」とは何かということになる。その中身については、これまで「どんな恠異があったのかわからない」(村山修一『変貌する神と仏たち』人文書院、八九頁)、「宮中での不思議な出来事」(大江篤「早良親王の霊」(『史園』1号、二〇〇〇年、園田学園女子大学)などとされるのみであったが、それが五月一三日の「雉あり、禁中正殿に群集す」という事件であったことは明らかである。しかも今度は、「禁中正殿」である。桓武朝廷は、三年前の経過を想起して怖気を振るったのであろう。その結果が「禁中并に東宮」における金剛般若経転読であったことは明らかである。
これまで早良親王の怨霊はもっぱら雷神としての性格をいわれるのみであったが、以上から、早良親王の怨霊が地震を起こす霊威とも考えられていたことはまったく明瞭となる。
この恐れのなかで、三ヶ月後、七九七年(延暦16)八月地震が発生したのである。このような経過は桓武の王廷に長く続く恐怖をもたらしたらしい。八〇〇年(延暦一九)年六月には富士が噴火し、火口の光が天を照らし、雷声が轟く様子が都に伝えられるが、おそらくこれも早良の祟りと考えられたものと思われる。地震霊が富士の噴火霊に転変したというわけである。翌月二三日に、早良に対して崇道天皇の号を追称し、淡路の墓を「山陵」と呼ぶということになったのは、おそらくそれを契機としたものではないだろうか。
また、私は、この崇道天皇の怨霊から都を守るために羅城門の上に置かれたのが、現在、羅城門の近くの東寺におかれている兜跋毘沙門であったと思う。松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370号、1998年)によれば、この毘沙門天像は、崇道天皇号追贈の4年後、804年(延暦三)8月に遣唐僧、最澄が持ち帰って桓武に献上したものである。興味深いのは、当時、唐で大きな権威をもっていた不空(アモーガヴァジュラ、鳩摩羅什や玄奘とならぶ三大訳経家の一人。七〇五~七四)の訳した毘沙門天王経の偈の冒頭部分には、「假使(たとひ)日月の、空より地に墮ち、あるいは大地傾き覆ることあるとも、寧(やす)らかに是(か)くのごとくある事、應に少しの疑いも生ずべからず、此法は成就すること易きなり」とあることで、つまり、「大地傾き覆る」ような地震があっても、毘沙門天の経の功徳によって安らかにすごすことができるというのである。
結局、この年末に桓武は身体の調子を崩し、翌年にかけて淡路の崇道天皇陵のそばに寺院を建てたり、「怨霊に謝す」ため、諸国に郡別に倉を作って崇道に捧げるなどの措置をとったが、3月に死去してしまう。しかし、最晩年の桓武が怨霊からの守護を求めて最澄に帰依したことの影響はきわめて大きかった。最澄が八一二・八一三年(弘仁三・四)にまとめた「長講法華経先分発願文」は、「崇道天王」を筆頭として、井上内親王、他戸親王、伊予親王・同夫人などの怨霊を数え上げている(櫻木潤「最澄撰「三部長講会式」にみえる御霊」(『史泉』九六号、二〇〇二年)。
最澄の『顕戒論』(巻中)の一節「災を除き国を護るの明拠を開示す、三十三」が、護国仁王経の力によって、「天地の變怪、日月衆星、時を失い、度を失う」などの「疾疫厄難」を起こす「鬼神」を除き愈やすことができるとし、その天変地異の例として「日の晝に現われず、月の夜に現れず」「地に種種の災ありて、崩裂震動す」などを上げたのは、まさにこれに対応していると思う。
説明は紆余曲折したが、私は、こういう文脈で、七九七年(延暦16)八月地震を「崇道天皇地震」と呼んでおきたいと思う。そして、この地震が桓武がその最晩年を恐怖の中で過ごさせるだけの規模をもったものであったと推定しておきたいのである。
さて、私は3・11の直後に東京大学地震研究所で開催された研究集会に出席したことが縁となって、2012年12月より科学技術学術審議会地震火山部会次期研究計画検討委員会に歴史学関係の専門委員として参加した。参加して驚いたのは、地震噴火の研究予算が年に4億しかなく、研究体制と人員の手当もきわめて不十分であることであった。しかも、地震学の研究をサーヴェイしてみて、3・11のような巨大な地震が起こりうることは、たとえば産総研の行った地質学・地震学の調査によって以前からはっきりしていたことを知った。
もちろん、現在の所、何時、どこでどの程度の規模の地震が起きるということを、つねに確実に予測することは不可能である。しかし、「予め知る」という意味での「予知」は相当の確度でだされており、それに対応する警告もされていたのである。ここでは、その証拠として、日本地震学会の出版した『地震予知の科学』(東京大学出版会、2007年)に「東北から北海道の太平洋側のプレート境界では、過去の津波堆積物の調査によって、五〇〇年に一度程度の割合で、いくつかのアスペリティをまとめて破壊する超巨大地震が起きることもわかってきた」とあることをあげておきたい(前回の奥州大津波は1454年であるから、これはそろそろという予知であった)。
政府や責任諸官庁あるいは東京電力などは、それらの警告を無視し、マスコミも、地震学の研究者を「予知」できないものを「予知」できるといって攻撃し、地震学界を一種のスケープゴードのように扱ったのである。これはとても科学先進国とはいえない事態であったというほかない。
右の地震火山部会の建議「災害の軽減に貢献するための地震火山観測研究計画の推進について」が、大略、「地震・火山観測研究計画を地震学・火山学などの自然科学としてでなく、災害科学の一部として推進する。災害誘因(自然現象)のみではなく、災害素因(社会現象)も見通して学融合的に災害を予知する」という趣旨のものとなったのは、それを踏まえたものであった。この建議については2月刊行の『地殻災害の軽減と学術・教育』(日本学術叢書22、日本学術会議編)に詳しく解説される予定で、私も、そこに歴史学からの意見を書いたので、そちらを参照していただければと思う。
こうして、私は、東日本大震災も東京電力の原発事故も人災であったことを詳しく知って一種の義憤にかられざるをえなかった。これを忘れずに、歴史学者として、命のある間は、歴史上の地震の問題についての研究に取り組みたいと考えている。ともかく、地震の経験と、それへの畏怖は、以上に述べたような政治史や宗教史のみならず、日本の歴史において根本的な意味をもっていることは明らかだからである。