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2017年4月21日 (金)

基本の30冊、榎森進『アイヌ民族の歴史』(草風館、2007年)

 待望のアイヌ民族の通史。約1600年間を追跡した大冊であるから、事前に明治時代の北海道にふれた大河小説、池澤夏樹『静かな大地』と、登別のアイヌ民族の豪家に出身した知里幸恵の『アイヌ神謡集』を読まれるのがよいかもしれない。池澤がアイヌ語について指導をうけた萱野茂は金田一京助の学統をうけている。金田一は知里幸恵『神謡集』の出版を世話した当人でもあり、金田一は幸恵の弟の知里真志保を指導している。真志保はアイヌ学を創成した人物であるが、そのユーカラ論は本書を読む上でも必読のものである(『アイヌ神謡集』岩波文庫巻末)。

 現在、アイヌ民族の歴史は、少なくとも「続縄文文化」までは辿ることができると考えられている。続縄文文化というのは、縄文文化から継続して、奥羽北部から北海道を中心にいた文化で、本土でいえば弥生時代にあたる。系譜的にいえば、アイヌの人びとは縄文人からの連続性がもっとも高いのである。つまり、アイヌの人々の由来を考えることは「日本人はどこから来たか」という大問題に直結するの。

 しかし、研究の現状は、まだアイヌの通史を前縄文文化からたどるところまで熟しては以内。それ故に、本書は7世紀から12世紀ころまでの擦文文化期から始められている。擦文文化は幾何学的な擦痕文様をもつ土器を特徴とし、奥羽(岩手・秋田以南)のエミシ文化の強い影響をうけて、青森県から北海道に広がっている文化であり、アイヌ社会への連続性が非常に高い。

 この時代、北海道と奥羽は交易ルートを通じて社会的にはほぼ一体であったが、奥羽は倭人の侵略的な植民・戦争にさらされている。それと抗争するなかで、10世紀以降の奥羽には、「東夷の酋長(安倍氏)」「出羽山北の俘囚主(清原氏)」「俘囚の上頭(奥州藤原氏)」などと呼ばれた地域権力が形成される。これらは和人の浸透もうけているが、それ自体としては、津軽・北海道をバックにしたアイヌ境界国家と呼ぶべきものであろう。12世紀、これが源頼朝の平泉攻めによって倒壊させられたことは、アイヌ史における国家形成の動きが挫折したことを意味する。

 こうして奥羽エミシは関東の武臣国家の強力な支配をうけて最終的な混住の道を歩むことになった。だいたい北緯40°ライン(津軽以北・以南)を境としたアイヌの大地(アイヌ・モシリ)の第一次分割である。しかし、北の擦文文化はしぶとかった。擦文文化は、さらにオホーツク文化と呼ばれるアムール下流域からカラフト・千島列島に広がるギリヤーク諸族の狩猟文化との交流・競合関係をバックとしており、また奥羽の最北端とも海峡をまたぐ活発な交流を維持していたのである。鎌倉時代、日本海交易ルートの最北、津軽半島西岸の十三湊を押さえた「蝦夷管領」津軽安藤氏は、津軽海峡をまたぐ境界権力を形成した。津軽安藤氏の権力それ自体がアイヌとの混淆に根付いていた可能性も高い。

 1264年、モンゴルが女真族を動員し、さらにギリヤーク諸族を味方につけて北から北海道に侵入しようとしたことは、鎌倉後期から南北朝期の列島の歴史に巨大な影響をあたえた。これはアイヌの抵抗によって失敗したが、それをみた、モンゴルは大元国を建国し、体制を立て直して1274・1281年の九州攻撃にまわる(いわゆる「文永・弘安の役」)。モンゴルは、それにも失敗したが、今度は、1284年から三年間、大軍をカラフトに派遣し、ふたたびアイヌに迎撃されて退いた。モンゴルにとっては、本拠に近い北からの侵入こそがもっとも重要な政治・軍事課題であったという。

 知里真志保はユーカラに描かれたヤウンクル(陸の人)とレプウンクル(海の人)の争いは、この時期前後におけるアイヌとギリヤークの闘いを反映したものであるとしている。著者は、この仮説を東北アジアの実際の軍事国際情勢のなかに見事に位置づけた。しかも、重要なのは、この緊張した情勢のなかで、蝦夷管領の津軽安藤氏が内紛を起こし、それがアイヌの軍事力をかりた反鎌倉の蜂起に結びつき、それが鎌倉幕府滅亡の重要なきっかけとなったとされることである。その背景には北海道を守ったアイヌの人びとの誇りと軍事力があったことは確実であろう。安藤氏は津軽海峡の北にも拠点をかまえていたが、そこには「渡党」と呼ばれた渡島半島のアイヌが参加していたという。『諏訪大明神絵詞』には、この時期の渡党は倭語が通じ、容貌も倭人と似ているとあるから、渡島半島のアイヌは倭人の血も受け入れていたものと思われる。

 ようするに、「元寇」をもっぱら九州での合戦においてのみ考え、鎌倉幕府滅亡を朝廷は西国情勢からのみ考える常識は虚像にすぎないのである。しかもそれはユーカラの理解に関わるのみでなく、さらに『御伽草子』の「安寿と厨子王」の理解にも関わる。つまり、安寿と厨子王の父、岩木判官正氏の「岩木」は津軽岩木山の岩木であって、そこには「日の本将軍」といわれた室町期の津軽安藤氏のイメージが投影されているというのである。アイヌ史の投げかける問題は文化論の上でもきわめて大きいといわねばならない。

 しかし、室町時代の後期、津軽安藤氏(下国安藤氏)の一党が渡島半島南部に多数の館をおくようになっていた。北海道のアイヌ・モシリへの倭人の本格的な侵略と、それへの抵抗の時代が到来していたのである。1456年、函館近辺の村で、小刀の代価をめぐって和人の鍛冶屋がアイヌの青年を刺殺した事件をきっかけに、翌年、アイヌの首長コシャマインを中心とした大蜂起が発生し、渡島半島南部に分布する和人の10箇所ほどの館を焼き尽くしたのである。

 それに対する反攻のイニシアティヴをとり、奸計によってコシャマインを倒したのが、後の徳川大名、松前氏の祖先であった。アイヌ・モシリの第二次の決定的な分割である。これまで、北海道と津軽のアイヌは連携して本州との交易を行っていたが、これが不可能となり、下北半島、津軽半島北岸に残ったアイヌ集落も徐々に消滅の道に追い込まれたのである。アイヌの無国家社会は、戦国時代に突入していた倭人の武家権力に対抗できなかったのである。また、大陸に成立していた明帝国がカラフトへの支配を強め、北海におけるアイヌの自由な行動が制約されるにいたっていたことの影響の大きかったという。

 こうして徳川時代以降、アイヌ民族にとって苦難の時代が始まった。まず、松前藩は、徳川初期、渡島半島の南半部を「和人地」として囲い込むと同時に、アイヌとの交易を松前の市庭に限った。さらに、アイヌが松前に来ることも禁止して、藩主直営もしくは家臣の経営する交易の場(「商場」)を北海道内地に設定し、アイヌの生産物の買い叩いた。その深刻さは、これに対して、1669年、日高地方、静内の首長シャクシャインが呼びかけた蜂起が北海道北東部をのぞく全民族的なものとなったことに示されている。緒戦では優勢な闘いをしたものの、幕府軍の到着と鉄砲による反撃、和睦儀式でのシャクシャインのだまし討ちによって、この反乱は無惨な結果に終わる。北海道全土が松前藩の直接支配の下におかれ、アイヌ民族は、「商場」における交易相手という立場から、事実上、漁場における下層労務者の地位に転落したのである。

 アイヌ民族のこのような窮境は、アムール川流域の女真族がヌルハチの下に結集して清帝国に成長し、カラフトアイヌとのネットワークが抑圧されるようになっていたこととも関係しているという。そして、さらに、唯一アイヌの手に残っていた東の千島列島との交易関係も18世紀後半には、松前藩に握られる。そのなかで、クナシリに設定された「商場」での虐待に抗議する1789年のクナシリ・メナシの蜂起も弾圧された。こうして、19世紀には、アイヌ・モシリは南から、北から、さらに東からも囲い込まれ、その内側は、「商場」ではなく、商人資本による場所請負に開放され、激しい収奪の場となっていった。

 それでも、アイヌ民族の先住者としての共同体的な大地占有は潜在的には残されていた。しかし、明治維新をへた後、1872年の「地所規則」などの制定以降、北海道の大地は私有地に払い下げられ、山林原野は国有地となっていく。そして明治時代なかば、北海道庁の設置とともに和人資本の大規模な進出のなかで、アイヌ・モシリは最終的にアイヌの手から切り離されていった。1898年の「北海道旧土人保護法」によって給与された土地も五町歩以内とはいうものの、多くは条件が悪く、漁業や狩猟の生業の場を奪われたアイヌに貧窮と差別の道を強制する同化政策であったというほかない実態のものであった。第二次大戦後の農地改革が、北海道においては、この給与地を不在地主と称してアイヌから取り上げる結果をもたらしたことは知られていない。そ

 こうして、現在でもアイヌ民族に対する構造的な差別が存在していることは本書が引用した諸統計に明らかであり、これをどう受け止めるかは日本の歴史学にとって根本問題の一つである。私は、日本の歴史の最大の特徴は、近代にいたるまでその北部に原始の伝統をひく無国家の共同体社会が続いていたことにあると思う。強靱な生命力をもって北海の自然と共生し、それを維持することを社会秩序としてきた民族の存在である。しかも、彼らは大陸から千島列島にいたる交易ネットワークに適合する形で、北海の自然に対して持続可能な開発を行ってきた。

 まず確認するべきことは、このような列島の棲み分けが政治的にみて倭人国家とアイヌにとって長期的な安定要因であったことであろう。和人国家はアイヌ民族を「北の障壁」とし、アイヌ民族はながく和人を主要な交易相手としてきたのである。もとより、この関係には一方的な性格があり、倭人国家がアイヌ民族社会とその富を順次に収奪してきたことは直視されなければならないだろう。源頼朝の奥州戦争がアイヌ境界国家を消滅させ、室町時代以降の「近世化」から明治維新のなかで民族間関係としてはあってはならない行為が行われたことは明瞭な事実である。これは国連が勧告するようにアイヌ民族の先住民族としての諸権利を正面から認め、民族間関係を恢復する取り組みによってしか取り戻すことのできない歴史的負債であるといえよう。私はアイヌ民族のコミュニティを十全に維持することは日本の歴史と文化のために必須の問題であると考えるが、同時にそのためには、北海道をふくめた列島社会自体がコミュニティの連鎖する協同社会となることを必要としているように思う。それは明らかに将来社会の構想に関わる問題なのである。それを社会的な合意としていく上で歴史学の役割はきわめて大きい。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
入間田宣夫「北方海域における人の移動と諸大名」(『北から見直す日本史』大和書房2001年)
大石直正など『周縁からみた中世日本』(『日本の歴史14』講談社、2001年)
菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』(朝日選書、1994年)
児島恭子『アイヌ民族史の研究』(吉川弘文館、2003年)
瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年)

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