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2017年4月21日 (金)

基本の30冊、日本史、黒田俊雄『権門体制論』

黒田俊雄『権門体制論』(『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、1994年)

 黒田俊雄は、平安時代から南北朝時代までを対象として、国家と宗教、そしてそれに関わる身分制度にいたるまでの広範な問題を論じた研究者である。その仕事は、「中世」を論じようとするならば、どの分野を研究するのでも、掛け値なしの必読書となっている。とくに重要なのは、本書にまとめられている「権門体制論」といわれる国家論であって、ここではそれを解説し、さらに必要な批判も行っておきたい。

 黒田は「権門」という言葉を、「中世」における貴族を指し示す概念として利用している。それは、普通、「公家・武家・寺社(寺家・社家)」などの史料用語で表現されるが、それらは貴族の門閥としては同じものであって、職能は違っても、同じように「権門」と表現することができるというのである。後に述べるように「権門」という言葉の理解には微妙な問題があるが、この貴族論的視角はきわめて重要なものである。

 これは普通の常識とは異なっている。つまり、日本では、貴族とは「お公家さん」のことで、武家のことを貴族とは言わない。新井白石の『読史余論』は、律令時代には天皇が国家を支配したが、柔弱な「公家」が都との実権を握るなかで、世の中が乱れ、それを立て直した質実剛健な「武家」が国家を握ったという。明治政権の自己意識も、この枠組を前提としたもので、果断な草莽の武士が英明な天皇を担いだというものである。そこでは徳川将軍家も本来の武士の質実剛健さを失った存在であるとされたが、公家を軽愚する感じ方もさらに強められたのである。この国は、尊貴な血統や生得の特権をもつ存在に対する、フランス革命のような徹底的な闘争を経験していないから、それを表現する「貴族」という用語の理解が鍛えられることがなかったともいえよう。これが現代の「一億総中流意識」といわれる風潮にも適合したのである。

 黒田の「権門体制論」は、このような歴史常識に対する挑戦であった。これが歴史学にとって決定的であったのは、白石のような見方が、「公家=古代的支配階級」、「武家=中世的(封建的)支配階級」などという図式の形で石母田正・松本新八郎などの「戦後派歴史学」の初期代表者に影響していたためである。こういう考え方は、安易な「武士発達中心史観」に帰結してしまう。こうして平安時代は「古代」であるといい、鎌倉幕府の創建から徳川幕府までの歴史は、そのまま歴史の進歩であるということになる。

 これが黒田の石母田・松本批判なのであるのであるが、「権門体制論」が本当に目指したのは、実は、国家論・王権論における戦後派歴史学批判であった。つまり、歴史学は戦後、まずは戦前の「皇国史観」に対する学術的批判を重視した。しかし、黒田は、現憲法において天皇が儀礼的象徴に局限されたことに対応して歴史学の課題は異なってきたという。つまり、そのなかで象徴天皇制イメージが過去の天皇制のすべてに延長してしまう非歴史的な見方が、国民の歴史意識のなかにもちこまれた。そこでは天皇は(1)政治的責任から外れた地位にあり(不執政論)、(2)天皇は文化支配を行う存在であり(徳治主義論)、(3)万世一系の神秘存在である(神話的血統論)などの側面が超歴史的な特徴として強調されることになる。黒田は、こういうのっぺりとした理解ではなく、天皇制王権の歴史的な波動と変遷を具体的に明らかにし、王権として最小化した場合でも政治的な権威を失うことなく持続してきたことを正確に説明しなければならないとしたのである。

 私は、ここまでは黒田の意見に全面的に賛成である。ともかく権門体制論は、これを説明するための構想だったのである。その出発点は「権門」による国家職能の分掌という捉え方にあった。つまり公家は「公事」を司どる文官的な門閥、武家は武士集団を組織する源平両氏の棟梁、寺家は「王法」に対置される「仏法」によって「鎮護国家」に勤める勢力(社家もこれに準ずる)であるという。これらの「家」は家産制権力として、どれも荘園の知行体系を有して国土を分割していた。こうして「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は諸々の権門に分掌されていた」のであるが、「しかしそのほかにどの権門にも従属しきらない国家独自の部面」あり、このいわば「超権門」的な虚空間というべき場に王権が巣くうというのが黒田の図式である。「権門体制論」は貴族論的な視角であるよりも、実は、国家を職能論的に分割して、王権の基礎としての超権門領域を析出することこそが最初からの目的であったのである。こうして、天皇制の「不執政」「徳治主義」「神話血統」などは、この虚空間から生み出される様々な意匠として説明されることになった。

 これは巧妙な説明であるが、黒田説の真価は、むしろこの先にあった。つまり、黒田は、これにもとづいて顕密体制論といわれる中世仏教論を体系化した。それは最澄の教学に由来する顕教(比叡山)と空海の事行を中心とする密教(高野山)を両翼にもつ「顕密」の体制という議論であるが、黒田はその職能的な役割が「鎮護国家」であることを確認しつつ、その中で神道が実際上は教義的にも経済社会的にも顕密の仏教によって支えられている様相を明らかにした。顕密の寺家の職掌は虚空間の神秘の周囲に存在する神道を荘厳することにあったというのである。

 そして、黒田は、さらに権門の諸職能はそれに照応する職業の人びとを民間世間に組織していったという身分論を展開した。主論文の「中世の身分制と卑賎観念」は著作集の第六巻におさめられているが、黒田が強調するのは、それらの身分制には深く世襲と浄穢の観念が浸透しているという事実である。ようするに、黒田は、ここにあるのはインドのカーストに似た関係であり、仏教用語でいえば「種姓」にあたるという。社会の職業身分全般を浄穢観念にそって組織することに成功した権門体制は、この「種姓身分」制によって、その中心に存在する超空間の清浄を確保したということになる。

 こうして権門体制と顕密体制は神道と清浄のシステムを作り出すことによって完成した。権門体制に結集した国家中枢と卑賎観念にまといつかれた民衆身分との間に対抗的な関係が成立し、中世における「日本国全体をまとめた一個の国家」「幕府をこえた(朝廷と公家をふくむー筆者注)大きな国家秩序」が組織され、その下に、カースト制的な特徴をもったきわめて公的階層的な特徴をもった社会が組織されているというのである。

 私は、以上のような黒田の課題意識と体系的な説明への意思の鋭さには感嘆するが、しかし、そこには大きな疑問が残る。その最大のものは、権力の地域的な基盤は国家に何の影響もあたえないのかということである。つまり鎌倉時代をとれば武家は鎌倉を根拠とし、公家の中枢が京都に位置する。そもそも鎌倉権力は1180年代内乱(源平合戦)から後鳥羽クーデターへの反撃(「承久の乱」)にかけて西国国家に侵入し、それを支配した。東国の御家人たちが大規模に西国に移住・侵入していったこをもよく知られている。鎌倉時代の東国には公権力が存在し、小国家・半国家としてむしろ西国国家を支配したのである。室町時代には、足利尊氏の子供、義詮と基氏が兄弟で京都と鎌倉をおさえ、基氏の系列は関東公方としてなかば独立な権力を維持した。細川氏が四国・中国東部、山名氏が山陰をおさえたなどの広域権力の例も多い。鎌倉室町時代に朝・幕の両方をふくむ「日本国」が存在したことは事実であろう。しかし、このような広域権力が複合する構造を無視しては事実にそくした議論にはならないだろう。

 これは、黒田の貴族範疇(=権門)が荘園を支配するというだけで、その居住と領主制のあり方が顧慮されないことに関わってくる。マルク・ブロック『封建社会』の言い方をかりれば、貴族とは血統・生活様式・法などによって柔軟に設定されるべき範疇である。黒田の貴族論は、複雑な階級的な結集や従属関係の中にいる貴族を、職能という側面からのみ裁断しすぎる。現実の国家権力と貴族階級を権門に職能論的に分解することを先行させるという出版点が間違いなのである。そもそも、黒田は、「権門勢家」という用語を「権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語」とまとめて理解する。しかし「権門」と「勢家」には重要な区別がある。つまり、「権」には「斤」「ハカリゴト」という意味があり、権門は、本来、国家の枢密の計に参加する支配的な王族・貴族をいうのである。権門は、国家意思の具体的な形成プロセスに関わる用語なのであって、その意味では黒田のいう「国家独自の局面」に関わる用語であって、この局面を黒田のように「超権門」領域と理解することがボタンの懸け違いなのである。

 さて、黒田説には、細かく論じれば、さらに多くの論理的な問題があるが、しかし、歴史学は論理ではない。黒田の歴史史料、とくに宗教史料の解析能力と直覚力は第一級のもので、先述の顕密体制論、種姓身分論の達成が示すように、史料の重層を断ち割って深部の実態を明らかにする黒田の振る舞いには独壇場というべきものがある。とくに、この国の歴史にカーストの範疇を持ち込んだことは、石母田正・網野善彦・大山喬平が挑み続けた問題であって、そこで黒田がもっとも深いところにまで立ち入ったことは歴史学者はみな認めるところである。

 なお、黒田説の歴史学にとっての重大性は、徳川時代の「朝幕関係」を論じた宮地正人の『天皇制の政治史的研究』にも明らかである。宮地は黒田とほとんど同じ現代天皇制についての課題意識から出発し、次のようにのべる。「徳川時代の公儀権力は、朝幕が一体となった構造をもつ。その一体性は、天皇による将軍職補任という形式をとるが、その前提には武士集団の中心となる棟梁的な門閥組織、黒田的にいえば「権門」が存在する。そして朝幕関係の周囲には国制的な儀礼と法意識が組織されるが、’日本というまとまりの意識が朝廷の存在を不可欠のものとして現れる’なかで、学芸や諸職の組織を公的に統属させるシステムが広がっていく」(趣意要約)。

 宮地のみでなく、徳川時代の論者で、「中世」を黒田説にそって理解する研究者は多いが、ともかく宮地説は黒田説に酷似しており、宮地説が徳川国家論において通説の位置をしめる以上、このことは、黒田説の道具立てが前近代国家史の全体の脈絡のなかで有効に働くことをよく示しているのである。

 これは奇妙なことのようにみえるのであるが、おそらくこれは黒田権門体制論の「中世国家論」としての無謬性を示すものではなく、ぎゃくに黒田の描き出した公的階層的でr稠密な社会組織のあり方は、むしろ徳川幕藩体制にこそ適合するということを示しているように思う。幕藩体制においては兵農分離という条件の下で支配層は巨大都市(都城)に集住し、列島社会は職能を中心に階層的に組織されていくる。カーストというものをどう理解するかは別の重大な問題であるが、ここに列島社会の東アジア文明への一体化、いわばその中国化が考えられることは明らかなのである。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。


宮地正人『天皇制の政治史的研究』(校倉書房、1981年)
大山喬平『ゆるやかなカースト社会・中世日本』(校倉書房、2003年)

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