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2017年4月

2017年4月30日 (日)

日本史の30冊。武田清子『天皇観の相剋』

武田清子『天皇観の相剋』(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)

 現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。終戦時の国民の力量は、実際上、天皇の位置のような国制問題についてイニシアティヴを発揮できるようなものではなかった。やはり天皇の位置はアメリカによって作られたものである。

 本書は、今から40年近く前に発行されたものである。その時期にこれだけの史料に目配りすることができたのは、著者が20代の初めにオランダで開催された世界キリスト教青年会議に出席し、そのまま日米交換学生としてアメリカで3年間を過ごし、神学者のラインホルト・ニーバーに師事したという経歴にあったろう。武田は1942年にニーバーにアメリカに残ることを進められたが、同じ日本人として苦難をともにするという覚悟の下に、交換船で日本に帰国した。しかし、帰国後、日本YWCAに就職し、終戦後も、その延長上で国際的な活動を続けたのである。

 そのなかで著者は世界の人々が日本をどうみているのかを実感した。本書には、その経験が生きており、アメリカ、イギリス、オーストラリア、中国(および付論として韓国)の外交官、学者、宗教者などの多様な「天皇観」が原史料や直接のインタヴューによって手際よく紹介されている。ただ、「社会主義」の側の動きを示す史料がかけているのは執筆時期からいってやむをえない。私は、国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、当時、武田の師のニーバーなどのキリスト教神学者たちが、20世紀社会主義の全体主義的性格を強く批判していたことは正しかったと考えている。現在、この時期の世界政治史を見通すためには、どうしても「20世紀社会主義」なるものの問題性をまとめて考えなければならないだろう。私は「社会主義」がすべて全体主義に帰着するとは考えないが、体制崩壊のみによってスターリンが朝鮮戦争を仕掛けたという史料がでてきたことは深刻な問題である。

 さて、本書の検討の起点はアメリカである。著者が注視したのは、この時期のアメリカの駐日大使ジョセフ・C・グルー。彼は日米開戦によって、六ヶ月間、大使館内に幽閉されたのちに送還され、途中で日本に帰国する武田らとすれ違っている。

 アメリカに帰ったグルーは国務省の「知日派」の中心として活動し、国務次官に就任し、戦争末期に重大な役割をになった。グルーはアメリカの日本占領にとって天皇は有用であり、アメリカによる天皇制の廃止、さらには天皇の戦争責任の追及はさけるべきであるという主張をもっていた。天皇は、中国と南方諸地域にいる数百万の日本兵に武器を捨てよと命じることのできる唯一の人物であるというグルーの指摘は正しいといわざるをえない。

 これに対して、アメリカ国務省には中国の位置を重視し、日本の天皇制と戦争犯罪に対して厳しい立場をとる「親中国派」と呼ばれるグループがあった。有名なのは中国研究者のオーウェン・ラティモアである。ラティモアは天皇および皇族をできれば中国に抑留することを提案している。

 「天皇観の相剋」とは、このアメリカにおける二つの立場を中心にいうのであるが、重要なのは、その両者を相対化しうる立場として中国の見地があったという指摘である。つまり、蒋介石がルーズヴェルトとの会談において、天皇制の処置については、戦後の日本国民自身の意思決定にまかせるべきだと述べたといい、また中国共産党の庇護の下にあった日本の共産主義者、野坂参三が天皇打倒ではなく、軍部打倒、民主日本の建設という目的の下に広く連帯すると述べたことに注目している。

 また個人レヴェルでも、そのような意見は多かったというのが武田の実感であるようである。とくに日本で生まれ、朝鮮で、医療宣教師として活動し、朝鮮での神社崇拝を拒否し、ブラックリストにのり、70日間、獄中で過ごして交換船でどうにか故国に帰り着いたというオーストリアのチャールズ・マクレランとの会見の記録は感動的である。彼も戦争中に同じような立場を表明したという。また同じような境遇で活動したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンについても記述があり、ノーマンが、やはり日本に長く滞在したB・H・チェンバレンの小冊子『新宗教の発明』について論じているのが紹介されている。ここには日本に親しみをもちつつ批判的な見地を維持した欧米の知識人の系譜がみえるように思う。これは近代日本思想史に位置づけるべき問題であろう。

 これらは「天皇観の相剋」を相対化しうる第三の立場というべきものであろう。武田は、それと対比すると、アメリカ国務省内部の両派は、結局、どちらも「日本を自分たちのデザインによって自由に作りかえることができるとの確信」の下に行動するパワーポリティクスの思想、一種の西洋合理主義であるといっている。

 しかし、本書の面白さは、やはり第二次世界大戦の終了という世界史的な転機の渦中で行動した政治家や外交官の個々人の息づかいのようなものが史料にそくして語られることにある。

 中心は、先にふれたグルーで、たしかにグルーの系統的な主張とイニシアティヴがなければ、アメリカの日本占領の経過は、もう少しギクシャクしたものとなったかもしれない。グルーについては、その姿勢の基本はヨーロッパ情勢との関係での強力な反ソ連の立場があったことを論じた藤村信『ヤルタ――戦後史の起点』、またより新しい研究として日本との関係を論じた中村政則『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』をあわせ読むべきであるが、中村も、グルーの現実主義的な見通しの確かさについては舌をまくと述べている。そして、グルーの行動でもっとも注目すべきことは、アメリカの終戦戦略としての原爆投下問題への関わりであろう。

 1945年4月12日、ルーズヴェルトが死去し、副大統領からトルーマンが昇格し、5月7日にはドイツが降伏する。それをうけて、5月末、グルーはトルーマンに面会し、日本の「無条件降伏」は軍事的無条件降伏ではあるが、君主国であることをも否定するものではないという声明案に同意を求めた。それが日本の降伏を早め、犠牲を少なくする方策であるという説得であって、新任の大統領トルーマンは、一時、それに賛成したが、しかし、結局、陸軍長官スティムソンなどの反対によって、この声明は潰えた。アメリカ軍部中枢は原爆投下のマンハッタン計画に突き進んでいたのである。原爆の実験成功は7月16日のことであったが、彼らにとって計画に消極的であったルーズヴェルトの死去は願ってもないことであったろう。

 グルーはポツダム宣言の起草、通告の経過のなかで、最後まで、「天皇」を「鍵」として使う案を先行させようとして、トルーマンとスチムソンに働きかけ、ポツダムに立つために空港に向かう国務長官バーンズのポケットにメモを突っこむという「異常なほどの執拗さ」をみせたが、結局、原爆の実験成功がすべてを帳消しにした。翌年、スティムソンは、原爆投下によって多くの人命を救ったという論文を発表したが、それにたいしてグルーは、持論を再説し、「原爆投下」と「ソ連の対日参戦」といういまわしい出来事なしに無条件降伏の可能性があった、そうすれば世界は本当の勝利を喜べたのに――と、つきせぬ恨みを書き連ねた手紙をスティムソンに出したという。このような終戦の経過を正確に認識することは、ルーズヴェルトの死のような歴史的偶然の評価をふくめて、いまでも当事国にとっては必須のものであろう。

 本書は、それを考える上で、現在でも基礎的な意味をもっている。とくに、武田が終戦にむかう日本において、当時の日本政府の最大の関心事が、国民の運命ではなく、「国体護持」なるものであったことをまず銘記しなければならないと指摘しているのは基本点をついている。

 ただ、史料の検討と批判が進んだ現在の立場からみると、すでに本書には日本側の昭和天皇とその側近の動きについては史料批判が甘いところがある。枠組みはアメリカが決めていたとしても、ある時期からは、戦争責任の波及を怖れた昭和天皇側近の宮中派が、その下に取り入って戦後の天皇のあり方について合作した。そこにはグルーの段階とは違う形で、戦後におけるアメリカの戦略があり、アメリカが日本を握る利権・国益についての判断があり、また日本で戦争を遂行した支配層の動きがあった。

 私は、アメリカの当初の占領政策が、「知日派」も「親中国派」も、君主制の行方については最後は日本国民が決定することであるという態度をとったことは正しいと思う。そこから「国体護持」を国際的に認めてもらうために「憲法九条」が定められたという結果となったのだという側面もたしかにあるように思う。しかし、それと、右のような合作を推進した日米の諸勢力の評価は、すでに別問題であろう。たとえば、天皇の「人間宣言」やマッカーサーの『回想』などの史料が、昭和天皇の退位をはじめとする諸問題を回避するという占領軍と昭和天皇側近の合作であることは、近年の研究が詳細に明らかにしたところである。

 もちろん、著者は思想史家であって、本書のスタンスは占領・被占領経験を思想史的に考えるということにある。それは著者が「敗戦と天皇制」の問題を一つの異文化問題として経験した以上、当然のことである。しかし、現在となってみると、この時期の異文化交錯が、いったい何を残したかを真剣に考えざるをえないように思う。

 問題は、この時期、元首相近衛文麿、東大総長南原繁、さらには志賀直哉その他の多くの人々が、少なくとも昭和天皇は退位すべきだという意見を表明したことである。武田が強調するように、終戦時、国民の大部分がアジア侵略についての責任意識にかけ、天皇制を維持することを当然と考えていたなかで、これを日本人自身の責任で実現することは最低の倫理的な筋の通し方であったのではないだろうか。逆に、この点では、この時期、ほぼ唯一の反戦勢力としての権威をもっていた日本共産党が、さきにふれた野坂の見解とは相違して、獄中に長く囚われていた徳田球一など指揮の下にもっぱら「天皇制打倒」をスローガンとして過激に行動したことも問題となろう。また戦後派の知識人一人々々の思想と行動も問われるに違いない。

 このような問題をふくめて国民全体が、より成熟した態度をとれなかった理由を思想史の外からも詰めていき、そのような視野の下で現在の政治と文化を考えることが必要であるに違いない。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
中村政則『象徴天皇制への道』(岩波新書)
吉田裕『昭和天皇の戦後史』(岩波新書)

日本史の30冊。石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会

石橋克彦『南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』(岩波書店、2014年、叢書、震災と社会)

 本書は21世紀に相当の確度で発生する南海トラフ巨大地震についての、現在、もっとも明解な解説であって、そして歴史地震学の最良の入門書でもある。その構成は第一章「南海トラフ巨大地震の歴史」、第二章「南海トラフ巨大地震の科学」、第三章「南海トラフ巨大地震と社会」となっている。

 以下、専門分野の違いもあって、要約がどこまで正確かについて躊躇もあるが、順次に紹介していくと、まず第一章では、昭和(1946、1944年)、幕末(1854年)、江戸期(1707、1605、1614年)、室町期(1498、1361年)、平安期およびそれ以前(1096、1099、887、684年)の各時期の南海トラフ巨大地震について、歴史をさかのぼるようにして、説明されている。史料の多い新しい時代の地震で南海トラフ地震の説明をして、史料の少ない古い時代にさかのぼっていくという叙述がわかりやすい。これによって、これらの大地震のもつ(1)伊豆から九州までの強震動、(2)静岡県御前崎などの隆起と伊勢湾沿岸などの沈降という地殻変動、(3)海底の上下にともなう大津波、(4)和歌山県熊野の湯峯温泉、四国の道後温泉の湧出停止などの特徴的な現象が過不足なく解説されている。

 このような南海トラフ巨大地震の系統的な分析は、「14世紀前半までのまとめ」という副題をもつ著者の論文(1999年)によって手がつけられたものであるが、本書で通史の枠組みが完成したことになる。歴史学者としては、このような研究が地震学研究者のほどんど独力によって遂行されたことに驚嘆する。私などは新参者だが、著者とほぼ同時期に歴史地震学の構築を開始した矢田俊文氏(参照、矢田『中世の巨大地震』2009年、吉川弘文館)を初めとする歴史学者がよく知っているように、著者の史料収集と分析の力は、地震学的な視野と直感に支えられているだけに、プロの歴史学者も容易には追尾できないレベルにある。歴史学徒は、本書を読んで、それを実感することが必要だと思う。

 第二章は、南海トラフ巨大地震の発生機構がプレートテクトニクスの概論、地震・津波現象それ自体の理解、現在政府が想定している南海トラフ巨大地震の地震像などを素材として、最先端の研究視野から説明されている。その説明は自然科学にとくに詳しくなくても理解可能なもので、たいへん興味深い。本章によって南海トラフ大地震の全体像をどう予知するかという地震学の最新の到達点を知ることができると思う。

私などにとっても興味深いのは、著者が主張して有名になった駿河湾地震説を始め、七〇年代以来の地震学の研究史が概括されていることで、そのなかで著者の旧説が、いわゆる「アムールプレート東縁変動帯仮説」に新らしい形で統合されていることである。アムールプレート(以下AMプレート)とは、中国の南部地塊を中心とするユーラシアプレートの部分プレートであるというが、これが毎年一定のスピードで東進していることが明らかになっている。AMプレート南東端が、太平洋プレートと押し合うようにして、静岡の遠州ブロックまで伸びており、南海トラフ巨大地震によってプレート間の固着が剥がれると、それを条件としてAMプレートが一挙に東進し、糸静線断層帯周辺が破壊されるというのが、著者の主張する「駿河湾地震」の発生機構である。さらに著者によれば、この仮説によって、南海トラフ巨大地震前後に、北海道沖から下ってくる日本海東縁変動帯からフォッサマグナ、中央構造体沿いに発生する地震・続発地震などが理解可能になるという。またプレート間地震と内陸地震の関連の基礎理解の道が開かれるともいう。

 この「アムールプレート東縁変動帯仮説」は地震学界のなかでも論争は続いているようで、もとより、私には、この仮説の地震学的な評価はできないし、また正しく要約しているかどうか自体にも自信はない。しかし、第一章の歴史地震の様相をみても、この仮説には説得力があるように感じる。ともかくインド亜大陸の北上衝突によって中国大陸が東へ押し出されることを原動力とするというAMプレートの東進の観察を基礎に構築された雄大な仮説である。これが学説として具体性をましていけば、日本列島の自然史を現在と関係させて理解するうえで大きな意味をもつことは明らかであろう。地球科学の側での論争を期待したいももである。

 第三章は、地震学の目からみた巨大な危険施設として原発とリニア中央新幹線をあげ、南海トラフ巨大地震が超広域複合大震災のトリガーとなることを警告している。著者は一・二章がふくれあがったために、三章が短く不十分なものとなったとしているが、これについては著者の『原発震災』(七つ森書館2012年)が参照されるべきである。著者が「自然災害は輸出も移転もできない地域固有のもので、自然の恵みと表裏一体だから、それと賢く共存していくこと(自然との共生)こそが大事なろう」「いまの日本の社会経済システムが被災者を一人も切り捨てることなく試練を乗り越えることができるかどうか、見きわめる必要がある」などと述べるのは学者としての自然な発想であろうと思う。

 さて、私は、二〇一二年から二〇一三年にかけて、科学技術・学術審議会の地震火山部会におかれた次期計画検討委員会に専門委員として参加して、2014年度から5ヶ年間の観測研究計画の審議に参加した。そこでは従来の地震学研究において歴史地震データの注目が不足していたことへの反省がなされ、今後のことを考えると歴史地震を研究する研究機関がどうしても必要であることが文部科学大臣への「建議」の形で決定された。研究機関といっても、地震学・火山学・地質学などの理学系計四人、歴史文献・考古で四人からなるセンターを、たとえば自然科学研究機構・人間文化研究機構の学際領域として設定するというような小規模なもので出発すればよいのだと思う。現在のアカデミーの実力ではこれを政策として実現させることはなかなかむずかしいが、社会的に訴え、遅くない時期に実現するべきものであると思う。それは防災行政に責任をもつ政府の責任であろう。

 そして、日本のような火山列島・地震列島で国民の税金から給料をうけている学者にとっては、どのような分野であれ、噴火と地震に関わる災害科学の仕事に参加することは、その職能的責務である。災害科学とは、必然的に発生する自然的な災異natural hazardsが社会的な災害に転化するのを抑制し、自然的な災害誘因trigerがどのような災害disastersの複合を結果するかを理学的・社会学的に予知し、それを防止するための巨大な科学分野である。そこでは地球科学の第一線から、経済学・法学などの社会科学の実働部隊から歴史学などの人文社会系の基礎学術分野にいたるまで、すべての学術分野がおのおの独自の役割を果たさなければならない。

 この科学分野を体系的で有効なものに育て上げ、かつそれについての社会的・国際的な理解を深めていき、それを担えるような政府機構を各国に形成することは、二一世紀の人類にとっての最大の課題であるということができるだろう。これについては、発展途上国における社会的災害の研究から出発して災害科学の大系をはじめて創成したBen Wisnerの、"At Risk: Natural hazards,people's vulnerability and disasters"(邦訳『防災学原論』築地書院)を参照することができる。

 社会的な災害は一般に生態災害(Biological Hazards)、気象災害(Meteorogical Hazards)、地殻災害(Geological Hazards)に区分できるといわれる。生態災害とは虫害・鳥獣害から広域流行病(パンデミック)にいたるまでの生態系の災異を誘因として発生する災害をいい、気象災害とは落雷・竜巻・台風から温暖化や冷涼化にいたるまで大気の運動にかかわって発生する災害をいい、最後の地殻災害とは山崩れあるいは土壌の深層崩壊から地震・噴火にいたる地殻の変異を誘因として発生する災害をいう。

 歴史学には、このような災害科学を、その基礎から支える役割があるのである。そして、その試金石は明らかに地殻災害であろう。そもそも、歴史学が全面的に関わることなしに、国民に地震・噴火というものの実態を伝えることができるとは考えられないのである。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

2017年4月29日 (土)

アメリカの人種主義イデオロギーとキリスト教ヨーロッパ帝国

アメリカの人種主義イデオロギーとキリスト教ヨーロッパ帝国

 アメリカには多数の民族集団、先に述べた意味でのエスニック集団がいる。ネーティヴ・アメリカンやアフリカン・アメリカン、次に様々なヨーロッパ系の人々(イギリス系、ドイツ系、ラテン系、ユダヤ系)、またアジア系の人々、さらに最近ではアラブ系の人々など、ほとんど世界中の民族に出自をもつ人々がアメリカにいて、多数か少数かは別としてエスニック集団を作っているのである。

 アメリカではしばしばこれらの民族集団を「人種」と呼ぶが、この「人種」観念が右のようなエスニック集団を反映している以上、それをたんに作られた虚構にすぎないということは適当ではないが、しかしそれが身分的な性格をもった虚偽観念であることは先に述べたとおりである。その意味でアメリカは「多人種国家」ではなく「多民族国家」なのである。アメリカの国勢調査には今でも「人種」という項目があるが、これは近代国家においては許されない人間に対する身分的な扱いである。これは一日も早く廃止し、「アメリカは多民族国家です。エスニックアイデンティティをご記入ください」と差し替えるべきものであろう。このような国勢調査項目自体がほとんどアメリカにしか残っていない異様なものであることが現在でもほとんど意識されないことは、アメリカの人種主義がきわめて根の深いものであることを示している。

 近代の人種主義は、だいたい一六世紀に始まった資本主義の形成の中で、世界的なイデオロギーとして登場したのであるが、そのなかで、アメリカは根本的な役割を果たした。そして、その時に形成された世界資本主義の構造の相当部分は、変形しながらも現在に続いており、それに対応して、ほぼ五〇〇年以上の歴史をもつ人種主義のイデオロギーとその影響は、現在、世界の中でもアメリカにもっとも濃厚に残っているのである。

 世界資本主義は、ヨーロッパの諸王国が北アフリカから中東をおさえるイスラム帝国に挑戦する中で形成された。それは十字軍から始まったが、成功の道はスペイン・ポルトガルによって敷かれた。両国はアフリカ西海岸に進出して金・砂糖・アフリカ人奴隷の交易を組織し、すでに一五世紀にはマディラ諸島・カナリア諸島に奴隷によるプランテーションや砂糖工場をおいており、コロンブスによる大西洋横断以降、それがアメリカ大陸に広がっていく。これがマルクスのいう「血と火の文字で人類の年代記に書き込まれた」資本の本源的蓄積の時代の出発であった。『資本論』(本源的蓄積)は、それを「アメリカにおける金銀の発見と原住民の絶滅と奴隷化、インドの征服と略奪の開始、アフリカの商業的奴隷狩猟場への転化、これらが資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている。そのあとに続くのが、地球を舞台とするヨーロッパ諸国民の商業戦争である。それはネーデルランドのスペインからの離脱によって開始され、イギリスの反ジャコバン戦争で巨大な範囲に広がった」と要約している。

 ここでヨーロッパの諸王国は、あたかも多頭の龍のように相互に競合しながら激しい侵略行動を展開した。アメリカの歴史家、ウォーラーステインは、この時代のヨーロッパ勢力は帝国を形成しない「世界経済」であり、その強みによって、他の旧態依然たる「世界帝国」対して優越したのだというが、しかし、十字軍以来の経過をふまえれば、それは、イスラム帝国に対抗するキリスト教帝国の行動というべきものである。そしてこの帝国は多頭であっただけにアジアの諸帝国と比してきわめて狂暴であった(『近代世界システム』)。こういうヨーロッパとアジアを絶対的に区分してしまう論理は、実際上、当時のヨーロッパ勢力の「自由貿易イデオロギー」を言い直したものにすぎず、根本的に間違っている。この点ではウォーラーステインの観点もいわゆるヨーロッパ中心史観を抜け出てはいないのである。

 このヨーロッパキリスト教帝国は、自己自身をイスラムに対抗する一つの「人種」として意識していた。それは十字軍遠征におけるユダヤ教徒の虐殺で最初のピークをむかえた。イスラム教徒に対しても異族視は顕著であったが、この時期のイスラムは経済的にも文化的にも最盛期であって、キリスト教徒はユダヤ教徒をスケープゴートに適当な異なる「人種」として迫害したのである。この他集団に対する人種化によってキリスト教徒自身が人種としてとらえられた。キリスト教史の専門家、W・ハウイットは、その『植民とキリスト教、ヨーロッパ人による全植民地における原住民の取り扱いの通俗的歴史』(一八三八年、ロンドン)においてヨーロッパの世界制覇の時代を論じて、「いわゆるキリスト教人種が、世界のあらゆる地域で、また彼らが征服することのできたすべての人民に対して演じてきた野蛮行為と無法な残虐行為とは、世界史上のどの時代にも、またどの人種のもとでも、どんなに未開で無教養であり、無情で無恥であっても、その比をみない」と述べている。これは『資本論』に引用されたものであるが、そこに「キリスト教人種」とあるのは、歴史的事実を反映している。

 歴史学は、このような人種主義がヨーロッパと環大西洋地帯を被う世界的なイデオロギーに展開する上で、一四九二年が画期の年となったとしている。まず一月、スペインがイベリア半島でイスラム勢力の最後の拠点となっていたグラナダを攻略し、三月にはユダヤ教徒に対して改宗を迫り、非改宗者を追放した。彼らはオランダやオスマン帝国などに居を移したものの、長かったスペイン居住を追われたユダヤ人のディアスポラは一挙に深まり、ヨーロッパ全域でのユダヤ教徒に対する「人種」差別と迫害の体制が決定したのである。

 この一四九二年をコロンブスの大西洋横断の年と教え記憶するのが、日本の風習であるが、これはヨーロッパ中心主義そのものであることになる。スペインがグラナダ攻略の勢いにのって、コロンブスへの援助を承認したことを知らなければ、一四九二という数字の記憶は無意味である。それは中東ーインド貿易を独占していたヴェニス商人を追い落とし、インドに西回りで到達してイスラムを世界を包囲しようという野望にもとづいていた。このためコロンブスは最後まで自分はインドを発見したと固執したのであるが、これが世界資本主義の形成、資本の本源的蓄積の最大の条件となったことはいうまでもない。スペイン・ポルトガルの両国は、これによってヨーロッパ・アフリカ・アメリカを結ぶ巨大な三角形、環太平洋地帯を世界侵略のための広大な拠点であり、実験場であるものとして獲得したのである。

 その中軸がネーティヴ・アメリカンの大地への侵略と収奪、そして一挙に展開したアフリカの人々の捕囚と奴隷化、アメリカへ向けての奴隷貿易であったことはいうまでもない。それが一六・一七世紀を通じた本国におけるユダヤ教徒に対する人種主義的な迫害と激化と同時進行したことが重要であろう。これによってイベリア帝国主義はユダヤーアメリカンーアフリカンという人種主義のまったく新たな世界的スタイルに到達した。

 このような新たな人種主義を新大陸アメリカに持ち込んでいったのは植民者は本国人に対して植民地人=クレオールと呼ばれた。その本国は、スペイン・イギリス・フランス・オランダなどさまざまであったが、それが逆に彼らにヨーロッパ人=白人という「人種」性をあたえることになった。そもそも「白人種」という観念はヨーロッパを外からみる観念で、出自にもとづく社会的不平等が一般的であったヨーロッパの内部から発展する余地がなかったことは先にもふれた通りである。クレオールとはスペイン語のcriollo、ラテン語のcreare、英語でいえばCreate(作る)という意味の言葉であるが、逆にいえば、「白人」という人種観念自体がクレオールによって作り出されたということもできる。スペイン本国では両親がスペイン人であっても植民地で生まれただけでクレオールと蔑視されたというから、クレオールというのはいわば本国身分に次ぐ位置を示す人種身分なのである。英語の人種=レースraceという言葉が、スペイン語のrazaにさかのぼるといわれることも、ここに原因があるに違いない。スペインはたしかに人種主義イデオロギーを生み出す本場であったというべきであろう。そこにキリスト教の影響が大きかったことは、『ドン・キホーテ』のサンチョ・パンザが自分のことを「良き生まれにして紛うかたなき古きキリスト教徒」といいつのっているように、スペインでは庶民が自分たちはムーア人やユダヤ教徒を先祖にもたないから高貴な血筋だと称するのが普通であったという。

 このようなキリスト教に根をもつ宗教知識が、アフリカン・アメリカンとネーティヴ・アメリカンを一つの「人種」として扱う観念材料を提供した。まず、アフリカ人の祖先は旧約聖書に登場するノアの息子のハムであり、ハムは父を嘲笑した罪によって肌の色が黒くなってアフリカ人の祖となったと広く信じられていた。この迷信がアフリカ人を奴隷として扱うこと理由として動員されたのである。しかし、捕囚とされた人々は、(1)モーリタニア、(2)ギネア=ヴェルデ岬、(3)シェラ・レオーネ=黄金海岸、(4)バンツー・ダホメ、(5)アンゴラ、(6)東海岸などまで、北から南に広大なアフリカ大陸に拡大しており、彼らは異なる民族に属する人々である。彼らを「船積み」する際の書類には、たとえば「ギネア種」などという「種(カスト)」という言葉が使われていたのは、まさに人種観念の発生場所を示している。このように、捕囚と奴隷貿易による故国アフリカの大地からの暴力的切り離しの結果として成立した、アメリカにおけるアフリカン・アメリカン「人種」の成立はあくまでも二次的なものであったのである。

 アメリカ先住民についても同じことであって、キリスト教知識の下で、彼らはイスラエルの失われた部族の子孫であると一般には信じられていた。それは現在でもアメリカの福音派(エヴァンジェリカル)のもっているアメリカこそが「新しいイスラエル」であり、神の御業を最後の審判の前に実現する選ばれた民であるというピューリタンに多いキリスト再臨説に奇妙な形で流れ込んでいたはずである。一八世紀にアメリカでエルサレム巡礼が流行し、マーク・トウェインも出かけ、「(そこにいたのは)アメリカのインディアンとよく似た、服装も粗末なら、質も悪い野蛮人どもで」(『イノセント・アブロード』)という感想を残しているのは『ハック』を愛読したものとしては興ざめな話である。ここでは広大なアメリカ大陸、北アメリカ大陸に古くから居住し、現代人にとって何よりも大事な食用食物種を作り出してきたアメリカ先住民の諸民族を「野蛮人」と一括する傲慢さがあらわである。

2017年4月21日 (金)

多民族国家アメリカと「人種」という言葉ー人種という言葉は使わないのが常識

 多民族国家アメリカを考える上で、第三に定義をしておかなければならない問題は、いうまでもなく、「人種」(レースrace)をどう考えるかであるが、 この言葉はきわめて問題の多い言葉である。

 ユネスコは一九六七年にだした声明『人種および人種偏見についての声明』で「人類を『人種』raceに区分することは、因習的で恣意的なもので、それを何らかの段階秩序に結びつけることは許されない」と述べた。「人種race」という言葉の使用自体が人種主義racismへの感染を意味しているというのである。生物学の分類用語としての「種」は相互に融和・通婚できないという意味をもっているから、とくに「ヒトの種」を意味する漢語の「人種」という言葉を使うこと自体が、現在では、いわば無知の証明であろう。

 また「人種」と翻訳される英語のレースraceという言葉はスペイン語のrazaやイタリア語のrazzaにさかのぼるものであるが、本来は植物や動物をグループ化する用語であった。これが一七・八世紀にベルニエやリンネによって人間の集団に転用されたのであるが、問題は、彼らが「人種」というとき、もっぱら肌の色や顔かたちなどの人びとの見かけの相違が地球上にどう分布しているかを論じたことである。「白色人種・黒色人種・黄色人種」などという見かけを優先した分類が、そのなかから生まれたのであるが、しかし、これは現在のDNA解析を駆使した研究成果からいうと、科学的に無意味な分類、ナンセンスである。『老子』に「色に囚われれば何も見えなくなる」(一二章)とあるが、こういう囚われは、まさに因習的・恣意的なものでしかない。

 最近の分子人類学は、現生人類はアフリカに起原をもち、人類の地球全域への移動にともない、異なる地域環境への適応を遂げたことが明らかにした。肌の色や顔かたちなどは移動していった各地の自然条件におうじて遺伝子に生じた末梢的な相違にすぎない。哺乳類サル目ヒト科ヒト亜科ヒト属に属する現生人類(ホモサピエンス)は生物として完全に一体であって、むしろ人類の類的特徴はきわめて移動性が高く、環境に適応する能力をもっていながら生物的な一体性(相互理解と性的紐帯の強さ)を維持する点にこそある。分子生物学の尾本恵一(『分子人類学と日本人の起原』)はこれらの点をふまえて「人種」という用語は学術的にも破綻しており、使用すべきではないと述べている。

  それ故に、アメリカにすむネーティヴ・アメリカンやアフリカン・アメリカン、ヨーロッパ系、アジア系などの様々な人々を「人種race」と呼ぶのは正しくないことになる。彼らはどの場合もエスニック集団なのであって、ブラックの人々がエスニック集団であれば、WASPの人々もエスニック集団なのである。だからこそ、アメリカを「多人種国家」とはいわず「多民族国家」というのである。そういう中で、たとえばブラックの人々のみを「人種race」という言葉でとらえること自体が、もし口に出さないとしても人種差別であり、最悪の人種主義であることは銘記されなければならない。

 そもそもリンネやブルーメンバッハなどの生物分類学者の仕事は、ヨーロッパが世界に進出し、世界各地の民族を「文明」の名において支配し、さらにはしばしば虐殺したり、奴隷化したりするのと同じプロセスで進んだ。ヨーロッパの博物学的な生物分類学は、それに対応する人種主義偏見を作り出したのである。人類の高い移動性・適応性は、本来は先述の「民族=エスニシティ」の相違、文化的・習俗的な相違を柔軟に受け入れる素地であったはずであるが、それが「身体の相違」であり、「生き物」としての相違であるとするところに他民族嫌悪(ゼノフォビア)・人種主義が発生するのである。

 こういうことからすると、結局、人類の分子生物学的分類をする場合にも「人種」という用語は一切使用せず、たとえばDNA系グループというような学術的に正確な用語を使うほかないだろう。これは人文社会科学にとっても深刻な問題であって、たとえば、マルクスも『資本論』で「労働の生産性は人種などのような人間そのものの自然と人間を取り巻く自然に還元される」「(世界には)すでに調査が行われた地域だけでもなお四〇〇万人の人食い人種が住んでいる」などと述べている(Ⅰ535)。もちろん、マルクスはダーウィンの見解にふれて、人類の間での性的な交流は差異を作り出すのではなく、むしろ種の典型的な単一性を作り出していく。差異を作り出すのは地質などの環境的自然であり、そのような自然的基礎の上に民族性も存在しているという趣旨のことを述べており、「人種」が環境の産物であることを認めている。しかし、上記のような記述が人種主義な偏見に満ちたものであることは明らかであり、この点でマルクスもヨーロッパ的な偏見のなかにいたのである(全集(31)248)。

 なお、以上からみると、先に見たスターリンの論理は、最悪の人種主義であることがわかる。前述のようにスターリンは「民族=エスニックグループ」を「国民となる資格をもつ民族」と、その可能性がない「人種的な共同体」に区別する。スターリンは、「ギリシャ人、エトルリア人、ゲルマン人、ゴール人、アラビア人」などから「ユダヤ人、ラトヴィア人」以下のロシア帝国内の「ーー人」と表記した集団を「人種的な共同体」とした上で、その中から「民族=国民」の資格あるものを選別するというやり方をする。ようするに特定のエスニック・グループを「人種あるいは種族」にすぎないという形で差別するのである。

 とくにユダヤ人の問題は大きかった。ユダヤ人は、DNA系グループとして独自なグループをなす訳ではなく、あくまでもエスニック・グループである。スターリンは、ユダヤ人について、ロシア帝国内でいえばロシア・グルジア・カフカーズ高地などの異なる地域に住み、異なる言語を使っているから、単一の民族を構成しない「人種」であるとした。ユダヤの人々の広域的な都市間・地域間のネットワークは否定され、その各居住地に同化させるほかないという訳である。この論理が直接に、後のスターリンによるユダヤ人に対する迫害と虐殺につながったことはいうまでもない。

 ソビエト連邦が旧ロシア帝国内から東欧に広がる多様なエスニックグループの自治と自決の権利をどのように保障し、民主主義的な地域間、国際間の関係を作り上げていくかは、現在までも尾を引く大問題である。一九世紀に大国化したロシアとアメリカは同じ問題をもっていたことになるだろう。

 よく知られているように、死去直前のレーニンはスターリンを「粗暴な大ロシア人主義者」と激しく批判し、石にかじりついても糺すと述べたというが、しかし、結局、スターリンの民族理論と人種主義は徹底的に批判されることなく過ぎたのである。

東日本大震災の宮城県以南の死者はすべて国に責任がある

 前橋地裁判決のいうのは3・11の被害は人災だったということです。判決の論理からいうとそれは原発事故に限りません。これを震災後六年たって、国の機関が初めて認めた訳です。
学会では常識でしたから、これが「初めて」というのが悲しいところです。もし国が常識をもって運営されていれば、こんなに損害賠償が少ないことはなかった筈です。

 二〇〇二年に地震学者が中心になって発表した地震本部の「長期評価」は三陸沖から房総沖でマグニチュード8・2クラスの地震が、今後二〇年以内に二〇%の確率で起こりうると予測しました。そのころ同時に八六九年の津波が残した痕跡砂層の研究が進んでいて、日本地震学会が二〇〇七年に出版した『地震予知の科学』には東北には近く巨大な地震・津波が来ると書くまでになっていました。

 そんなことは知らなかったと言われるでしょうが、これは当時の小泉首相を会長とする中央防災会議が、原発業界におされて岩手沖津波しか認めず、「長期評価」を防災計画に反映しなかったためです。
ですから、震災の犠牲者の八割、宮城県以南の死者はすべて国に責任があるということです。小泉さんが、最近、原発廃止の立場に立たれているのは正しいと思いますが、この過誤の責任は曖昧にできないもので、本来、膨大な賠償が必要なものです

 私も三・一一を経て、日本が地震火山列島であることをはじめて本当の意味で認識しました。歴史の根本から考え、それが国民の常識にならねば死者は浮かばれません。(了)

 先日、赤旗(日曜版)のインタビューに答えたもの。23日付けででるらしく、見本紙が届いた。新聞だから出しておいてよいのだろう。

 原告の方の談話がのっていて、胸にせまる。

基本の30冊、日本史、黒田俊雄『権門体制論』

黒田俊雄『権門体制論』(『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、1994年)

 黒田俊雄は、平安時代から南北朝時代までを対象として、国家と宗教、そしてそれに関わる身分制度にいたるまでの広範な問題を論じた研究者である。その仕事は、「中世」を論じようとするならば、どの分野を研究するのでも、掛け値なしの必読書となっている。とくに重要なのは、本書にまとめられている「権門体制論」といわれる国家論であって、ここではそれを解説し、さらに必要な批判も行っておきたい。

 黒田は「権門」という言葉を、「中世」における貴族を指し示す概念として利用している。それは、普通、「公家・武家・寺社(寺家・社家)」などの史料用語で表現されるが、それらは貴族の門閥としては同じものであって、職能は違っても、同じように「権門」と表現することができるというのである。後に述べるように「権門」という言葉の理解には微妙な問題があるが、この貴族論的視角はきわめて重要なものである。

 これは普通の常識とは異なっている。つまり、日本では、貴族とは「お公家さん」のことで、武家のことを貴族とは言わない。新井白石の『読史余論』は、律令時代には天皇が国家を支配したが、柔弱な「公家」が都との実権を握るなかで、世の中が乱れ、それを立て直した質実剛健な「武家」が国家を握ったという。明治政権の自己意識も、この枠組を前提としたもので、果断な草莽の武士が英明な天皇を担いだというものである。そこでは徳川将軍家も本来の武士の質実剛健さを失った存在であるとされたが、公家を軽愚する感じ方もさらに強められたのである。この国は、尊貴な血統や生得の特権をもつ存在に対する、フランス革命のような徹底的な闘争を経験していないから、それを表現する「貴族」という用語の理解が鍛えられることがなかったともいえよう。これが現代の「一億総中流意識」といわれる風潮にも適合したのである。

 黒田の「権門体制論」は、このような歴史常識に対する挑戦であった。これが歴史学にとって決定的であったのは、白石のような見方が、「公家=古代的支配階級」、「武家=中世的(封建的)支配階級」などという図式の形で石母田正・松本新八郎などの「戦後派歴史学」の初期代表者に影響していたためである。こういう考え方は、安易な「武士発達中心史観」に帰結してしまう。こうして平安時代は「古代」であるといい、鎌倉幕府の創建から徳川幕府までの歴史は、そのまま歴史の進歩であるということになる。

 これが黒田の石母田・松本批判なのであるのであるが、「権門体制論」が本当に目指したのは、実は、国家論・王権論における戦後派歴史学批判であった。つまり、歴史学は戦後、まずは戦前の「皇国史観」に対する学術的批判を重視した。しかし、黒田は、現憲法において天皇が儀礼的象徴に局限されたことに対応して歴史学の課題は異なってきたという。つまり、そのなかで象徴天皇制イメージが過去の天皇制のすべてに延長してしまう非歴史的な見方が、国民の歴史意識のなかにもちこまれた。そこでは天皇は(1)政治的責任から外れた地位にあり(不執政論)、(2)天皇は文化支配を行う存在であり(徳治主義論)、(3)万世一系の神秘存在である(神話的血統論)などの側面が超歴史的な特徴として強調されることになる。黒田は、こういうのっぺりとした理解ではなく、天皇制王権の歴史的な波動と変遷を具体的に明らかにし、王権として最小化した場合でも政治的な権威を失うことなく持続してきたことを正確に説明しなければならないとしたのである。

 私は、ここまでは黒田の意見に全面的に賛成である。ともかく権門体制論は、これを説明するための構想だったのである。その出発点は「権門」による国家職能の分掌という捉え方にあった。つまり公家は「公事」を司どる文官的な門閥、武家は武士集団を組織する源平両氏の棟梁、寺家は「王法」に対置される「仏法」によって「鎮護国家」に勤める勢力(社家もこれに準ずる)であるという。これらの「家」は家産制権力として、どれも荘園の知行体系を有して国土を分割していた。こうして「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は諸々の権門に分掌されていた」のであるが、「しかしそのほかにどの権門にも従属しきらない国家独自の部面」あり、このいわば「超権門」的な虚空間というべき場に王権が巣くうというのが黒田の図式である。「権門体制論」は貴族論的な視角であるよりも、実は、国家を職能論的に分割して、王権の基礎としての超権門領域を析出することこそが最初からの目的であったのである。こうして、天皇制の「不執政」「徳治主義」「神話血統」などは、この虚空間から生み出される様々な意匠として説明されることになった。

 これは巧妙な説明であるが、黒田説の真価は、むしろこの先にあった。つまり、黒田は、これにもとづいて顕密体制論といわれる中世仏教論を体系化した。それは最澄の教学に由来する顕教(比叡山)と空海の事行を中心とする密教(高野山)を両翼にもつ「顕密」の体制という議論であるが、黒田はその職能的な役割が「鎮護国家」であることを確認しつつ、その中で神道が実際上は教義的にも経済社会的にも顕密の仏教によって支えられている様相を明らかにした。顕密の寺家の職掌は虚空間の神秘の周囲に存在する神道を荘厳することにあったというのである。

 そして、黒田は、さらに権門の諸職能はそれに照応する職業の人びとを民間世間に組織していったという身分論を展開した。主論文の「中世の身分制と卑賎観念」は著作集の第六巻におさめられているが、黒田が強調するのは、それらの身分制には深く世襲と浄穢の観念が浸透しているという事実である。ようするに、黒田は、ここにあるのはインドのカーストに似た関係であり、仏教用語でいえば「種姓」にあたるという。社会の職業身分全般を浄穢観念にそって組織することに成功した権門体制は、この「種姓身分」制によって、その中心に存在する超空間の清浄を確保したということになる。

 こうして権門体制と顕密体制は神道と清浄のシステムを作り出すことによって完成した。権門体制に結集した国家中枢と卑賎観念にまといつかれた民衆身分との間に対抗的な関係が成立し、中世における「日本国全体をまとめた一個の国家」「幕府をこえた(朝廷と公家をふくむー筆者注)大きな国家秩序」が組織され、その下に、カースト制的な特徴をもったきわめて公的階層的な特徴をもった社会が組織されているというのである。

 私は、以上のような黒田の課題意識と体系的な説明への意思の鋭さには感嘆するが、しかし、そこには大きな疑問が残る。その最大のものは、権力の地域的な基盤は国家に何の影響もあたえないのかということである。つまり鎌倉時代をとれば武家は鎌倉を根拠とし、公家の中枢が京都に位置する。そもそも鎌倉権力は1180年代内乱(源平合戦)から後鳥羽クーデターへの反撃(「承久の乱」)にかけて西国国家に侵入し、それを支配した。東国の御家人たちが大規模に西国に移住・侵入していったこをもよく知られている。鎌倉時代の東国には公権力が存在し、小国家・半国家としてむしろ西国国家を支配したのである。室町時代には、足利尊氏の子供、義詮と基氏が兄弟で京都と鎌倉をおさえ、基氏の系列は関東公方としてなかば独立な権力を維持した。細川氏が四国・中国東部、山名氏が山陰をおさえたなどの広域権力の例も多い。鎌倉室町時代に朝・幕の両方をふくむ「日本国」が存在したことは事実であろう。しかし、このような広域権力が複合する構造を無視しては事実にそくした議論にはならないだろう。

 これは、黒田の貴族範疇(=権門)が荘園を支配するというだけで、その居住と領主制のあり方が顧慮されないことに関わってくる。マルク・ブロック『封建社会』の言い方をかりれば、貴族とは血統・生活様式・法などによって柔軟に設定されるべき範疇である。黒田の貴族論は、複雑な階級的な結集や従属関係の中にいる貴族を、職能という側面からのみ裁断しすぎる。現実の国家権力と貴族階級を権門に職能論的に分解することを先行させるという出版点が間違いなのである。そもそも、黒田は、「権門勢家」という用語を「権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語」とまとめて理解する。しかし「権門」と「勢家」には重要な区別がある。つまり、「権」には「斤」「ハカリゴト」という意味があり、権門は、本来、国家の枢密の計に参加する支配的な王族・貴族をいうのである。権門は、国家意思の具体的な形成プロセスに関わる用語なのであって、その意味では黒田のいう「国家独自の局面」に関わる用語であって、この局面を黒田のように「超権門」領域と理解することがボタンの懸け違いなのである。

 さて、黒田説には、細かく論じれば、さらに多くの論理的な問題があるが、しかし、歴史学は論理ではない。黒田の歴史史料、とくに宗教史料の解析能力と直覚力は第一級のもので、先述の顕密体制論、種姓身分論の達成が示すように、史料の重層を断ち割って深部の実態を明らかにする黒田の振る舞いには独壇場というべきものがある。とくに、この国の歴史にカーストの範疇を持ち込んだことは、石母田正・網野善彦・大山喬平が挑み続けた問題であって、そこで黒田がもっとも深いところにまで立ち入ったことは歴史学者はみな認めるところである。

 なお、黒田説の歴史学にとっての重大性は、徳川時代の「朝幕関係」を論じた宮地正人の『天皇制の政治史的研究』にも明らかである。宮地は黒田とほとんど同じ現代天皇制についての課題意識から出発し、次のようにのべる。「徳川時代の公儀権力は、朝幕が一体となった構造をもつ。その一体性は、天皇による将軍職補任という形式をとるが、その前提には武士集団の中心となる棟梁的な門閥組織、黒田的にいえば「権門」が存在する。そして朝幕関係の周囲には国制的な儀礼と法意識が組織されるが、’日本というまとまりの意識が朝廷の存在を不可欠のものとして現れる’なかで、学芸や諸職の組織を公的に統属させるシステムが広がっていく」(趣意要約)。

 宮地のみでなく、徳川時代の論者で、「中世」を黒田説にそって理解する研究者は多いが、ともかく宮地説は黒田説に酷似しており、宮地説が徳川国家論において通説の位置をしめる以上、このことは、黒田説の道具立てが前近代国家史の全体の脈絡のなかで有効に働くことをよく示しているのである。

 これは奇妙なことのようにみえるのであるが、おそらくこれは黒田権門体制論の「中世国家論」としての無謬性を示すものではなく、ぎゃくに黒田の描き出した公的階層的でr稠密な社会組織のあり方は、むしろ徳川幕藩体制にこそ適合するということを示しているように思う。幕藩体制においては兵農分離という条件の下で支配層は巨大都市(都城)に集住し、列島社会は職能を中心に階層的に組織されていくる。カーストというものをどう理解するかは別の重大な問題であるが、ここに列島社会の東アジア文明への一体化、いわばその中国化が考えられることは明らかなのである。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。


宮地正人『天皇制の政治史的研究』(校倉書房、1981年)
大山喬平『ゆるやかなカースト社会・中世日本』(校倉書房、2003年)

基本の30冊、榎森進『アイヌ民族の歴史』(草風館、2007年)

 待望のアイヌ民族の通史。約1600年間を追跡した大冊であるから、事前に明治時代の北海道にふれた大河小説、池澤夏樹『静かな大地』と、登別のアイヌ民族の豪家に出身した知里幸恵の『アイヌ神謡集』を読まれるのがよいかもしれない。池澤がアイヌ語について指導をうけた萱野茂は金田一京助の学統をうけている。金田一は知里幸恵『神謡集』の出版を世話した当人でもあり、金田一は幸恵の弟の知里真志保を指導している。真志保はアイヌ学を創成した人物であるが、そのユーカラ論は本書を読む上でも必読のものである(『アイヌ神謡集』岩波文庫巻末)。

 現在、アイヌ民族の歴史は、少なくとも「続縄文文化」までは辿ることができると考えられている。続縄文文化というのは、縄文文化から継続して、奥羽北部から北海道を中心にいた文化で、本土でいえば弥生時代にあたる。系譜的にいえば、アイヌの人びとは縄文人からの連続性がもっとも高いのである。つまり、アイヌの人々の由来を考えることは「日本人はどこから来たか」という大問題に直結するの。

 しかし、研究の現状は、まだアイヌの通史を前縄文文化からたどるところまで熟しては以内。それ故に、本書は7世紀から12世紀ころまでの擦文文化期から始められている。擦文文化は幾何学的な擦痕文様をもつ土器を特徴とし、奥羽(岩手・秋田以南)のエミシ文化の強い影響をうけて、青森県から北海道に広がっている文化であり、アイヌ社会への連続性が非常に高い。

 この時代、北海道と奥羽は交易ルートを通じて社会的にはほぼ一体であったが、奥羽は倭人の侵略的な植民・戦争にさらされている。それと抗争するなかで、10世紀以降の奥羽には、「東夷の酋長(安倍氏)」「出羽山北の俘囚主(清原氏)」「俘囚の上頭(奥州藤原氏)」などと呼ばれた地域権力が形成される。これらは和人の浸透もうけているが、それ自体としては、津軽・北海道をバックにしたアイヌ境界国家と呼ぶべきものであろう。12世紀、これが源頼朝の平泉攻めによって倒壊させられたことは、アイヌ史における国家形成の動きが挫折したことを意味する。

 こうして奥羽エミシは関東の武臣国家の強力な支配をうけて最終的な混住の道を歩むことになった。だいたい北緯40°ライン(津軽以北・以南)を境としたアイヌの大地(アイヌ・モシリ)の第一次分割である。しかし、北の擦文文化はしぶとかった。擦文文化は、さらにオホーツク文化と呼ばれるアムール下流域からカラフト・千島列島に広がるギリヤーク諸族の狩猟文化との交流・競合関係をバックとしており、また奥羽の最北端とも海峡をまたぐ活発な交流を維持していたのである。鎌倉時代、日本海交易ルートの最北、津軽半島西岸の十三湊を押さえた「蝦夷管領」津軽安藤氏は、津軽海峡をまたぐ境界権力を形成した。津軽安藤氏の権力それ自体がアイヌとの混淆に根付いていた可能性も高い。

 1264年、モンゴルが女真族を動員し、さらにギリヤーク諸族を味方につけて北から北海道に侵入しようとしたことは、鎌倉後期から南北朝期の列島の歴史に巨大な影響をあたえた。これはアイヌの抵抗によって失敗したが、それをみた、モンゴルは大元国を建国し、体制を立て直して1274・1281年の九州攻撃にまわる(いわゆる「文永・弘安の役」)。モンゴルは、それにも失敗したが、今度は、1284年から三年間、大軍をカラフトに派遣し、ふたたびアイヌに迎撃されて退いた。モンゴルにとっては、本拠に近い北からの侵入こそがもっとも重要な政治・軍事課題であったという。

 知里真志保はユーカラに描かれたヤウンクル(陸の人)とレプウンクル(海の人)の争いは、この時期前後におけるアイヌとギリヤークの闘いを反映したものであるとしている。著者は、この仮説を東北アジアの実際の軍事国際情勢のなかに見事に位置づけた。しかも、重要なのは、この緊張した情勢のなかで、蝦夷管領の津軽安藤氏が内紛を起こし、それがアイヌの軍事力をかりた反鎌倉の蜂起に結びつき、それが鎌倉幕府滅亡の重要なきっかけとなったとされることである。その背景には北海道を守ったアイヌの人びとの誇りと軍事力があったことは確実であろう。安藤氏は津軽海峡の北にも拠点をかまえていたが、そこには「渡党」と呼ばれた渡島半島のアイヌが参加していたという。『諏訪大明神絵詞』には、この時期の渡党は倭語が通じ、容貌も倭人と似ているとあるから、渡島半島のアイヌは倭人の血も受け入れていたものと思われる。

 ようするに、「元寇」をもっぱら九州での合戦においてのみ考え、鎌倉幕府滅亡を朝廷は西国情勢からのみ考える常識は虚像にすぎないのである。しかもそれはユーカラの理解に関わるのみでなく、さらに『御伽草子』の「安寿と厨子王」の理解にも関わる。つまり、安寿と厨子王の父、岩木判官正氏の「岩木」は津軽岩木山の岩木であって、そこには「日の本将軍」といわれた室町期の津軽安藤氏のイメージが投影されているというのである。アイヌ史の投げかける問題は文化論の上でもきわめて大きいといわねばならない。

 しかし、室町時代の後期、津軽安藤氏(下国安藤氏)の一党が渡島半島南部に多数の館をおくようになっていた。北海道のアイヌ・モシリへの倭人の本格的な侵略と、それへの抵抗の時代が到来していたのである。1456年、函館近辺の村で、小刀の代価をめぐって和人の鍛冶屋がアイヌの青年を刺殺した事件をきっかけに、翌年、アイヌの首長コシャマインを中心とした大蜂起が発生し、渡島半島南部に分布する和人の10箇所ほどの館を焼き尽くしたのである。

 それに対する反攻のイニシアティヴをとり、奸計によってコシャマインを倒したのが、後の徳川大名、松前氏の祖先であった。アイヌ・モシリの第二次の決定的な分割である。これまで、北海道と津軽のアイヌは連携して本州との交易を行っていたが、これが不可能となり、下北半島、津軽半島北岸に残ったアイヌ集落も徐々に消滅の道に追い込まれたのである。アイヌの無国家社会は、戦国時代に突入していた倭人の武家権力に対抗できなかったのである。また、大陸に成立していた明帝国がカラフトへの支配を強め、北海におけるアイヌの自由な行動が制約されるにいたっていたことの影響の大きかったという。

 こうして徳川時代以降、アイヌ民族にとって苦難の時代が始まった。まず、松前藩は、徳川初期、渡島半島の南半部を「和人地」として囲い込むと同時に、アイヌとの交易を松前の市庭に限った。さらに、アイヌが松前に来ることも禁止して、藩主直営もしくは家臣の経営する交易の場(「商場」)を北海道内地に設定し、アイヌの生産物の買い叩いた。その深刻さは、これに対して、1669年、日高地方、静内の首長シャクシャインが呼びかけた蜂起が北海道北東部をのぞく全民族的なものとなったことに示されている。緒戦では優勢な闘いをしたものの、幕府軍の到着と鉄砲による反撃、和睦儀式でのシャクシャインのだまし討ちによって、この反乱は無惨な結果に終わる。北海道全土が松前藩の直接支配の下におかれ、アイヌ民族は、「商場」における交易相手という立場から、事実上、漁場における下層労務者の地位に転落したのである。

 アイヌ民族のこのような窮境は、アムール川流域の女真族がヌルハチの下に結集して清帝国に成長し、カラフトアイヌとのネットワークが抑圧されるようになっていたこととも関係しているという。そして、さらに、唯一アイヌの手に残っていた東の千島列島との交易関係も18世紀後半には、松前藩に握られる。そのなかで、クナシリに設定された「商場」での虐待に抗議する1789年のクナシリ・メナシの蜂起も弾圧された。こうして、19世紀には、アイヌ・モシリは南から、北から、さらに東からも囲い込まれ、その内側は、「商場」ではなく、商人資本による場所請負に開放され、激しい収奪の場となっていった。

 それでも、アイヌ民族の先住者としての共同体的な大地占有は潜在的には残されていた。しかし、明治維新をへた後、1872年の「地所規則」などの制定以降、北海道の大地は私有地に払い下げられ、山林原野は国有地となっていく。そして明治時代なかば、北海道庁の設置とともに和人資本の大規模な進出のなかで、アイヌ・モシリは最終的にアイヌの手から切り離されていった。1898年の「北海道旧土人保護法」によって給与された土地も五町歩以内とはいうものの、多くは条件が悪く、漁業や狩猟の生業の場を奪われたアイヌに貧窮と差別の道を強制する同化政策であったというほかない実態のものであった。第二次大戦後の農地改革が、北海道においては、この給与地を不在地主と称してアイヌから取り上げる結果をもたらしたことは知られていない。そ

 こうして、現在でもアイヌ民族に対する構造的な差別が存在していることは本書が引用した諸統計に明らかであり、これをどう受け止めるかは日本の歴史学にとって根本問題の一つである。私は、日本の歴史の最大の特徴は、近代にいたるまでその北部に原始の伝統をひく無国家の共同体社会が続いていたことにあると思う。強靱な生命力をもって北海の自然と共生し、それを維持することを社会秩序としてきた民族の存在である。しかも、彼らは大陸から千島列島にいたる交易ネットワークに適合する形で、北海の自然に対して持続可能な開発を行ってきた。

 まず確認するべきことは、このような列島の棲み分けが政治的にみて倭人国家とアイヌにとって長期的な安定要因であったことであろう。和人国家はアイヌ民族を「北の障壁」とし、アイヌ民族はながく和人を主要な交易相手としてきたのである。もとより、この関係には一方的な性格があり、倭人国家がアイヌ民族社会とその富を順次に収奪してきたことは直視されなければならないだろう。源頼朝の奥州戦争がアイヌ境界国家を消滅させ、室町時代以降の「近世化」から明治維新のなかで民族間関係としてはあってはならない行為が行われたことは明瞭な事実である。これは国連が勧告するようにアイヌ民族の先住民族としての諸権利を正面から認め、民族間関係を恢復する取り組みによってしか取り戻すことのできない歴史的負債であるといえよう。私はアイヌ民族のコミュニティを十全に維持することは日本の歴史と文化のために必須の問題であると考えるが、同時にそのためには、北海道をふくめた列島社会自体がコミュニティの連鎖する協同社会となることを必要としているように思う。それは明らかに将来社会の構想に関わる問題なのである。それを社会的な合意としていく上で歴史学の役割はきわめて大きい。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
入間田宣夫「北方海域における人の移動と諸大名」(『北から見直す日本史』大和書房2001年)
大石直正など『周縁からみた中世日本』(『日本の歴史14』講談社、2001年)
菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』(朝日選書、1994年)
児島恭子『アイヌ民族史の研究』(吉川弘文館、2003年)
瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015年)

基本の30冊、平川南『律令国郡里制の実像』

平川南『律令国郡里制の実像』(上下、吉川弘文館、2014年)

 著者は、東北の多賀城の研究所にいたとき、漆桶の蓋紙に使われた奈良時代の反故紙が漆でコーティングされ、赤外線ビデオで透視すれば文字が読めるのを発見した。木簡に次ぐ、発掘文字史料の登場である。これは古代史研究のあり方を大きく変えた。つまり、従来の古代史研究は中央集権というイメージの下に、おもに法制史料を中心に進められ、そのため、国家の地方支配も「国・郡・里(郷)」という地方制度の形式的な枠組にそって論じられてきた。それに対して、著者は、考古学者と協同して、発掘された地域史料を中心に問題を組み立ててきた。本書は、書名が示す通り、古代の「律令国郡里制」の形式的な制度研究に対して、その「実像」をはっきりと対置したものである。

 まず最初に取り上げられるのは、七道の制度である。そこでは、諸国の国名の語義が抜本的に見直される。国名は、ヤマトの支配層が七道を行き来するなかで、その視点にもとづいて名付けられたものであるというのである。たとえば、本居宣長以来の通説によれば、武蔵はムサ上、相模はムサ下、両国は牟佐国という国を上下二つに分けたものだということになっていたが、武蔵は本来東山道ルート、相模は東海道ルートで上総・下総につながる以上、相模と武蔵の国名は個別に考えるべきだ。サガミは関東の入口、足柄坂のサカに関係し、ムサシは「六差」であって周囲六国に道が通じている意味だという。同じように甲斐も「交ひ」、つまり北の東山道と南の東海道の結節点にある国であるといことになり、それは有名なヤマトタケルが甲斐酒折宮を拠点にして、東山・東海の両道を制圧したという伝説に結びつくというのである。

 国家機構は交通形態から生まれる。つまり中央と地方を結ぶ「道」から生まれたということになるだろう。とくに東国の場合は、その先端の「道の奥」(陸奥)や「出羽」(イデハ=出端)に蝦夷地への軍事植民組織、「柵・城」が置かれており、それをふくめて奈良時代になっても、「道」にそって陸奥出羽按察使などの広域軍事行政が残ったということになる。越が越前・越中・越後、吉備が備前・備中・備後、筑紫が筑前・筑後に分割されたのも同じことである。

 こういう「道」にそった広域支配が実際に大きな影響をあたえていることは、諸国の「国」自体が、道にそった地理的な条件によって「道前・道後」などとブロック分割されたことにも現れる。これは鎌倉時代になっても国府・守護所を中心として各地に「奥郡」というブロックがみられるのと同じことであろう。このブロックの形態はきわめて多様であるが、しばしばそれに関係して出羽・加賀・丹波などの国の分出、さらには国府の移転が行われたという。しかも、こういうブロックは、国司の守・介・掾・目の四等官による地域担当に結びついていた可能性があるという。従来は、ややもすると、国司のうちの守のみが指揮系統のトップに位置すると考えられがちであったが、実際には、各地から、「守」だけではなく、「掾・目」に「大夫」という尊称を付した木簡が出土している。これは国内の各地域において四等官が独自の権限をもっていたことを示すというのである。

 これは国内の郡里のレヴェルでも同様であって、丹波、甲斐、陸奥などの事例から郡が内部で「東西」分割されている様相が明らかにされる。郡には郡家郷(郡衙の所在する郷)のほかに、それに準ずる大家郷、さらにたとえば氷上郡に氷上郷というような郡名郷が同時的に存在する場合がある。これらには様々な経緯が想定されるが、ようするに本質的には、それらは郡衙別院などと史料に現れる郡衙の支所というべき存在であるという。こういう分郡といわれる現象は、制度が崩れていくということでなく、郡そのものが分掌と分割の可能性を最初から含んでいるのである。

 さらに下の「里(郷)」レヴェルも一枚岩ではない。著者は郡が「里刀自」に令して労働動員する様子を示す木簡史料などから、里(郷)の内部に「氏」の集団が存在していることに注目する。そもそも「郡・里」のあいだの分割・分掌は「氏」に関係しているのではないか。さらに著者はこの「氏」と重なって「村」(ムラ)があったことをも示唆するようである。この「村」はおもに里(郷)内部の地点や領域表示、さらに五十戸の戸籍を施行する前の集落表示に使用される用語であり、ようするに郡里の内部には一定の集落性をもつ「村」が隠れていたのである。ただ注目すべきなのは、「村」が郡内部の複数の里(郷)をふくむような広域表示として使用される場合もあることで、著者によれば、これは「村」が「群集一般=ムレ」というより一般的な語義をもっていたために、それをつかって里(郷)のような単位を外れたまとまりの呼称として使ったのであるという。これは複数の里(郷)をふくむまとまりという意味では、郡の分割と同じことであろう。里(郷)と村の関係というのは、第二次大戦前の清水三男の提言以来の大問題であるが、ここに確実な検討の方向が明らかになったように思える。

 しかも、この村のレベルに照応して、郡郷の内部には駅家・厨家・烽家・津司などという多様な交通組織が存在していることを示す木簡が続々と出土している。そこに明らかになるのは、地域支配機構が網の目のように広がる陸路と海路の交通網に瘤のように結節している様相である。これらの組織の駅長・厨長・津長・庄長などの史料も出土しており、9世紀になると中央の文献にも税長・調長・服長などが登場する。「里長」もふくめると各郷に相当の「長(役人)」が生まれているのであって、私は、これらの人びとのうちの有力者は「刀禰」といわれているに相違ないと考えている。刀禰は男の有力者で、前述の「(里)刀自」は女の有力者ということになる。

 こうして、「国郡里」の行政組織は、実際には「道>国>郡>里(郷)>村」という五階層を越える重層的な実態をもっており、その間の指揮・分掌系統も単純なものではないことが明らかになった。これによって8・9世紀の地方組織のイメージは根本的に塗り替えられてしまったということができる。ただ、本書は上下二冊、全体で八〇〇頁余の大冊であって、その分析は詳細・極微にわたるから、その全体のイメージをつかむには、著者が本書の各論文を基礎にして一般向けに叙述した日本歴史の通史シリーズの一冊『日本の原像』で読まれた方が分かりやすいだろう。著者は石母田正ー青木和夫と続くいわゆる「在地首長制論」の直系の位置にある研究者なので、その古代社会論の大枠のイメージも通説を前提とすれば分かりやすいものである。この『日本の原像』を脇において、その詳細な史料実証編として本書を読めばさらに眺望は広がるだろう。

 しかし、私は、本書は、おそらく石母田首長制論の大崩壊の開始の記念碑になるのではないかと思う。すでに紹介したように(■■■頁)、石母田は、奈良時代の国家支配、いわゆる「個別人身支配」は建前であって、その内実は首長制的な郡司による共同体支配にある。それこそが一次的関係であって、国家の地方支配はそこから派生した二次的関係にすぎないという。しかし、首長制的な関係は宗教やイデオロギーには残っているものの、すでに国家的な関係による地域社会の直接組織が中軸となっているというほかない。六世紀ころまでは地方社会にいきづいていた首長制は、すでに断片化し分散して、国家の地方支配のなかに埋め込まれ、それと一体になっている。律令制的な「個別人身支配」が、本書が明らかにした重層的な役所の構造によって実現しているのである。そこから切り離した首長制支配というものを「一次的生産関係」であるとして仮想する必要はないのである。

 その条件となったのは、奈良時代が、文明化と急速な開発と交通によって、国郡里の行政組織の周囲に経済組織が無秩序に群生したことにあるだろう。九世紀の国家と社会は、それに連続して、京都の都市王権を中軸とする、より安定的な王朝国家のシステム=国衙荘園体制の大枠を形成したのである。地域社会では開発にともなって郡郷の組織がさらに個別化し、「郷倉・里倉」が分立・増加していく。村井康彦が論じた「里倉負名」である。彼らは「倉」を拠点として田地耕作を「負名(=村の氏の名を負う身分)」として請け負う。この田地耕作契約は、律令制では「班田」といい、9世紀後半には「散田」といわれるようになるが、「班」も「散」も「あがつ(分与する)」と読む行為であって、両者を厳密に分けることはできない。ようするに「個別人身支配」が基本的には連続しているのである。

 戸田芳実が明らかにしているように、10世紀以降の地域社会の秩序は刀禰によって作られている。前述のように彼らは、8世紀以来の「長」たちに連続する存在であり、耕作の共同体的な秩序を指導する者としては「田刀(=田刀禰)」と呼ばれ、国家(および庄園)に対する田地の契約主体としては「負名」といわれた。この田刀が平安時代なかばに「田堵」という普通の農民に対する呼称に変化し(「田や屋敷を堵で囲む人びと」という意味)、負名が「名主」に変化するのである。

 従来の古代史研究は、普通、奈良時代の「国郡里」の地方組織は9・10世紀に解体していくという制度史的な解体史観が多かったが、平川による国郡里制の実像の捉え直しによって、このような連続的な把握が可能になったのである。ただ、そうであるだけに、私は、石母田の首長制論の理論の枠組を詳細に点検して、その影響から自立していくことが、今後、必要なのではないかと思う。平川も、遺跡の観察から9・10世紀の地域の有力者たちが新しい経営を作り出す様子を論じているが、しかし、それは平安時代の農村史研究と噛み合うレヴェルにはなっていない。そのためにもまず石母田ー青木の見通しを清算しておくことがどうしても必要だろうと思う。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。

参考文献
平川南『よみがえる古代文書』岩波新書、1994年
平川南『日本の原像』小学館、2008年
戸田芳実『日本中世の民衆と領主』校倉書房、1994年
村井康彦『古代国家解体過程の研究』岩波書店、1965年
保立道久 『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年

基本の30冊。安田浩『天皇の政治史』(青木書店、1998年)

 日本の天皇家は20世紀をこえて珍しく残存した王家の一つであるが、憲法第一条が規定するように、その地位は、主権者としての国民の総意に依存している。そして憲法の規定では、実際のところ、天皇は内閣の通告のもとに10項目の国事行為のみを行う国家の儀礼要員である。ここに現憲法の天皇規定の最大の特徴がある。

 つまり現在の天皇は厳密にいえば、「王」ではあっても「王権」はもたず、「君」ではあっても君「主」ではない。天皇に残っているのは、その王としての身分のみである。その身分は「法の下の平等、貴族制度、身分または門地による差別の禁止」(14条)の唯一の例外的存在として、宮内庁などの儀礼部局や特権的な財産などによって支えられているが、しかし、さらに根本的に考えると、その身分は、そこに付着する文化によってできあがっている。そしてその文化的あるいはイデオロギー的な性格は、ほとんどその過去に関わっている。過去の王についての記憶、歴史意識が現在の王を支えているのである。

明治・大正・昭和ーー三代の天皇

 最近の歴史学は、このような現代天皇制のあり方を前にして王権論を組み直す努力を重ねてきた。安田浩の本書は、その動きを代表する位置にある。対象は、明治・大正・昭和の三代の天皇。安田は、彼らの言動を詳細に追跡しており、このような通史的な分析の試みは現在でも本書のほかにはない。

 まず明治天皇については、明治維新のときの17歳の青年が君主として作られていく経過が語られる。西郷・岩倉らの維新首脳部の感化と演出によって、洋風の扮装の下に政務、軍務などに取り組みつつ、祖霊と神慮を信じる王者となっていく様相が興味深い。彼はそのような王として、欧州から帰国した岩倉使節団と留守政府のあいだでの不調和、政変のなかで、それなりの聖断の役割を果たし始め、有名な儒学者、元田永孚などの側近をえて政治主体としても自立していく。

 明治憲法は天皇大権と国務大臣による多元的な輔弼を規定するだけで、政府・行政・内閣についての規定を一切もたない異様に短文の憲法である。そこまで削りこんだ意図と経過が、維新首脳の内紛への天皇の介入と伊藤博文の役割を焦点にして解明されている。憲法公布から日清戦争をへて天皇大権が議会を通じて作動するシステムが形成され、そこに軍隊権威と国家神道の確立をともなって専制君主制が成立する過程の記述もわかりやすい。

 大正天皇の心身は不調であったが、逆に明治憲法を前提として君主のあるべき姿が強調され、枢密院の強化などの王権の構造強化が起きる。心身不調の王の代に王権が強化されるのは、王権がイデオロギー的な存在である以上、珍しいことではない。原敬内閣も君主不調のなかでの元老と議会の状況的統合という本質をもっていたのであって、いわゆる「政党内閣」も天皇親政の名目化ではあっても天皇制機構の名目化では決してなかった。

 こうして天皇大権は、多様な形態を取りながらも一貫して強化され、その上に昭和天皇が行動する。安田の記述で印象的なのは、まず満州事変における関東軍の行動への追認の素早さであろう。英米との合意によるアジア分割を一貫して重視する天皇とその周辺の姿勢は中国の抵抗力への蔑視ともいえる過小評価と表裏の関係にあったことがよくわかる。また、天皇の君主としてのプライドが御前会議への執着となり、それが結局内閣制を破綻させ、大本営政府連絡会議に権力中心が移動し、大元帥天皇が打ち出されるという筋道の描写も見事である。

 明治憲法成立前後に専制君主制が確立した以上、政治史の主語が天皇であるのは当然のことであるが、これが本書以前には明瞭でなかった。私もほぼ同時期に『平安王朝』という新書で同じ問題意識にたって王権の通史を叙述したが、安田は現代史家として、三代の天皇の言動を論理的に見通すことは、たとえば昭和天皇の戦争責任を論ずるためにも必須なことを痛感していたに相違ない。

丸山真男を引証する必要はあるのか

 私のような前近代の研究者からみて興味深いのは、国家中枢部のやりとりが「謀議、輔弼、元老は関白」などの古代以来の政治語彙に満ちていることである。これは安田が基軸史料を丁寧に引用しながら論じているためわかるのであるが、これらの語彙を体系的に読み込んでいけば、さらに明瞭な王権身分論も可能になるのではないかと感じる。

 つまり、安田は天皇の行動形態を受動的君主、能動的君主、委任君主、統帥権的天皇などなどと分類することによって、君主の多様な行動を跡づけていく。それは当初作業としては不可欠であろうが、多様な君主の言動が一つの人格において可視的となっていることこそが王権の構造であろう。実際、君主の受動性には、つねに「よきに計らえ、下手をやれば俺は知らん、叱責するぞ」という能動的要素が含まれるのであって、安田が近代天皇の行動様式を基本的には「受動的君主」であり、状況におうじて「能動的君主」となるとするのはやや形式的に過ぎる。君主身分は国家機構の人格的反映として君主の主観を離れた客観的な存在である以上、政治責任はそのレヴェルで問われるべきものであろう。

 これは君主の多様な諸側面に対する多元的輔弼なるものの理解にも関わってくる。つまり、一般に制度的に整えられた君主制、とくに立憲君主制においては憲法が君主権限を制約する代わりに君主権は無答責原則によって守られる。安田もいうように、そこでは、君主の無答責と輔弼者の有限責任によって政治決定の無責任体系が形成される。ただ、安田が、この無責任体系を直接に丸山真男の評論的エッセイを追認するかのように説明することは不適当であろう。つまり、安田こそ、無責任体制の政治的創出という事実、そしてその本質が君主の擁護と責任の回避のための意識的な政治にあることをはじめて論証したのである。法的に無答責という虚偽を作っても、非人道的行為などの歴史的責任、行為責任は絶対的なものであって、それを明示することこそが歴史学その他の学術の役割であることはいうまでもない。

 またそもそも日本近代の専制的な天皇制は立憲君主制と比べて特殊に歴史的・日本的なものであって、天皇大権の下に、国家権力の枢密部の巨大な領域が独立して憲法規定の外側に存在する。明治憲法は、実際には近代憲法ともいえないような特異な構造をもち、しかも天皇の告文などが明示するように神権制によって支えられていた。このような構造を、丸山流の印象批評で論ずることは学術的にはほとんど無意味である。

 明治天皇は個人では統御できないような巨大な非法的部分を君主身分において統合することを自身の制度身分として選択し、昭和天皇はそれをファナティックな神権的軍事支配という巨大な非法領域にまで拡大した。彼らは広大な法外領域=「密室」のなかに設置した「密室」をその身分生活としていた。この二重の「密室性」は一般の国家秘密と本質的に異なるものであって、王とは最高の身分的な生活様式である以上、そこには王家に骨絡みの責任が宿る。

絶対主義範疇の放棄は必要か
 安田は2011年に死去してしまったが、本書を実証編とすれば、その死去直前に校正を終えた『近代天皇制国家の歴史的位置』は理論編というべきものであって、二冊あわせて検討しなければならない。そしてその焦点は、安田が近代天皇制に対する「絶対主義規定」を放棄する立場を明らかにしたことにある。

 私は、この点には賛成できない。私は大学院に進学しようとしたとき以来、なんども著者に会い、一緒に仕事もしたが、結局、研究内容に立ち入った議論をすることもなくすぎた。それにもかかわらず、議論のできない今になって意見をいうことは申し訳ないように思うが、しかし、学問は永遠のものであることに免じて御許し願いたいと思う。

 もちろん、安田が資本主義に変容していく最末期の封建社会の権力を絶対主義と規定し、いわゆる日清戦後経営後に日本資本主義が確立して以降も、その権力の本質は封建制にあるという議論、戦前の「日本資本主義論争」における講座派の絶対主義論にそのまま従えないのは当然であろう。安田のいうように近代天皇制はまずは20世紀にも諸国に登場した後発資本主義国の権威主義秩序の初例の一つというべき側面があることは明らかである。また、安田が、講座派が、絶対主義の社会的基盤をもっぱら封建制あるいは半封建的な寄生地主制におくことを批判するのにも賛成である。『近代天皇制国家の歴史的位置』の第四論文は、近代天皇制に対応する基礎的社会関係は、財界を別とすれば、むしろ中小地主を名望家として重層的に組織する地主国家的関係にあり、この疑似共同体的な名望秩序を「帝国議会」によって動員するシステムこそが重要だとしており、これは学界の強い支持をうけている。

 私は、これらの点に批判がある訳ではない。しかし、すでに述べたように(■■■)、そもそも徳川幕藩制を封建制とは考えない立場からすると、絶対主義という範疇は封建制論という呪縛から切り離した上で、なお活かすべきものではないかと思う。近代天皇制が立憲君主制というべきものではなく専制君主制であることは、最晩年の安田がむしろ積極的に強調したところである。そして絶対君主も専制君主も英語にすれば同じようにAbsolute Monarchyなのである。

 そもそも講座派は天皇制をドイツのカイザートゥム、ロシアのツァーリズムとの比較のなかで論じようとした。絶対主義を封建制の最終段階と固定的に捉える考え方は別として、この問題設定の正統性は承認すべきであろう。安田のいうように、日本の近代天皇制が後発資本主義国の権威主義秩序の一類型であることは疑えないが、問題は、このような国際比較をふくめて日本天皇制の歴史的な特殊性をどう考えるかにこそあるはずである。それは大石嘉一郎がいうように、「近代絶対主義」というほかないものであると思う。

 私は、世界の資本主義化のなかで、ロシア・ドイツそして日本のように「帝国」としての伝統をもつ諸国家が、資本主義的な社会変化をも条件としてその国家システムと君主制を強力化し、資本主義的帝国を構築していった場合、古典的な定式化を尊重して、それを絶対主義と呼び続けたい。

『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。
参考文献
大石嘉一郎「第一次大戦後の国家と諸階級の変容」(同『日本資本主義史論』東京大学出版会、1999年)
安田浩『近代天皇制国家の歴史的位置』(大月書店、2011年)
山田朗『大元帥 昭和天皇』(新日本出版社。1994年)

2017年4月20日 (木)

レーガン「アメリカ市民権は国民のもっとも神聖な所有物」?

 アメリカは多民族国家であるが、その実態を知るためには、国民・民族・「人種」の三つの言葉の区別を正確にとらえておかなければ話が混乱する。まず第一の国民とは「ナショナルNatinal」であって、日本国憲法一〇条に「日本国民Japanese Nationalたる要件は法律でこれを定める」とあるように法律的な関係ということができる。具体的にいえば、同二二条に「国籍nationalityを離脱する自由」とあるように、国家の国籍、市民権であり、それによって法律の上で国家に所属するということである。だからそれは離脱可能な関係であるが、その意味ではそれは「幻想的共同体」、ベネディクト・アンダーソンの言い方を採用すれば「想像の共同体」であるということができる。

 社会には、この「想像=幻想」は、一種、神聖なものなのであって、人々がそこから離脱することは許されないという考え方がある。アメリカで典型的なのは、第四〇代元首レーガンが、アメリカ市民権は「わが国民のもっとも神聖な所有物」であると称したことであろうか。市民権とは「物」であって、しかも「神聖な所有物」であるという訳である。ここでは、紙に書かれていることは「約束」に過ぎず、物ではないという常識は通用しない。国籍とは法的な約束ではなく、執着したり、他人に誇ることができるような「物」であるというわけであって、こういう狭い執着心のことを「国家主義」という。

 もちろん、国家は現実の存在であり、そうである以上、国家の利益=国益というものは現実に存在する。それを別の国家が頭から決定することは許されないというのが、いわゆる自決の原則である。この自決権とは、本来は、第一次大戦の中でレーニンが「平和に関する布告」で述べた民族独立、植民地解放の要求であり、それがウィルソンの「十四か条の平和原則」の提唱に影響し、ヴェルサイユ条約での原則となり、さらに第二次大戦後に国連に引きつがれたものである。ただ現在では自決権というものは、国民国家を形成する権利を意味するだけではなく、同時にその国民国家が自己決定する権利であると理解されている。

 国連憲章(第1条2)に「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」とあるように、それは国際社会=国家間社会における民主主義の原則なのである。それらの国家の利害は異なっており、そこには正当なものも不当なものも存在するだろう。しかし、それを他の国家が判定することは許されない、国家間関係においては、相互に国益を認め、自決権を認めることこそが無用な衝突や戦争をさけるために必要であるという考え方である。

 この自決権の原語は、The Right of Nations to Self-Determinationであるが、日本では、普通、これは民族自決権と翻訳される。しかし、これは国民的自決権あるいは国民国家の自決権と翻訳した方がよい。ネーションという英語はたしかに民族というニュアンスももっているが、基本的には国家というニュアンスが強い。ようするに、それは国籍をもって法的に国家に所属する人々、つまり「国民」が他の「国民」からは自立して国家の意思を形成する権利(あるいはそれを要求する権利)意味するのである。

2017年4月18日 (火)

人類が類(類的存在)であることと「霊」スピリットという言葉


人類が類(類的存在)であるというのは、人類が身体でも霊的にも自身の類や他の類をも類として対象とするからであるが、そればかりでなく、むしろ、人類は個々に自分自身に対して目の前にいる類それ自身であるかのように振る舞うし、自分自身が人類の霊の一部をなしている自由な存在であるかのように振る舞うからである。

 この超越に人類の霊的な性格と自由が現れている(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」藤野訳一〇四頁の一節をパラフレーズすると、こうなるのだと思う。「霊」スピリットという言葉でないと言い表せないことがあると思う)。

 これは「本来の物質的生産の領域の彼岸にある」「自由の王国」、分業もなく、個人が中心の連なりあった社会という場合にも、この人間が類的な存在であるという本質規定は生きていく。つまり「必然性の国」を超越する存在であるということになる。霊は身体に宿り、そこを越えていくことはないが、社会的な分業の排他領域を越えていく。

戦前社会には家族国家論というのがあった。

 戦前社会には家族国家論というのがあった。「国家は家族のようなものだから我慢、我慢」という論理である。国家と家族は違うから、こういう論理はもちろん成り立たない。しかし、当時は、国家のイメージは家族のイメージと同様に分かりやすかったのであろう。

 現在の国家はいってみれば「非家族国家」。その意味は、家族の中ならできないような常識はずれのことをやっても平気な国家という意味である。あるいはすでに家庭も崩れているから「現代家族国家」でもよいという意見もあるかもしれない。たしかに政治家たちの姿をみていると「家族・親族」の中のおかしなオジサンという感じも強い。

 こういう国家がはじまったのはもう30年前か、中曽根某氏が「絶対に消費税は上げません。この顔が嘘をつく顔にみえますか」と大見得をきって選挙に勝ち、手のひらを返したようにではななく、手のひらを返して消費税を導入して以来のことである。政治家はうそつき、常識はずれというのがあれ以来決定的になった。「うそつきは泥棒の始まり」という人生訓の効き目が一挙になくなった。道徳を人並み以上に強調していた政党が社会倫理を壊した。この政党はなにしろ「道徳教育法案」というのをだした。たしか私が小学生のころのことである。小学校時代の恩師が怒っていた。倫理を壊し家庭を壊してきた人々、「非家族国家」であれ、「現代家族国家」であれ、そういう国家を作ってきた人々である。

 そういう人々を、それでも選出し続けていたから、こういうことになる。日本社会はつねに上からくずれるから、あるいはこれは国民の高等戦術か。

 二〇一一年六月の再掲

2017年4月17日 (月)

「無知が先か、無責任が先か」

 国家中枢部の状態について「これは無知のせいなのか、無責任のせいなのか」ということを考えさせられるというのはきついことである。

 もちろん、「無知が先か、無責任が先か」という言い方にはやや語弊がある。いうまでもなく、「知があればよい(賢ければよい)」、「責任をとっていればよい」ということではないからである。

 また、「無知が先か、無責任が先か」というのは、「鶏が先か、卵が先か」というのと同じことかもしれない。そして、こういう鶏・卵問題には通常、より根本的な問題があるということが多い。無知が中枢に侵入するというのは、いわば「無知」が社会的に浮上するという動力が働いているということである。その動力が何かということを、よく考えてみる必要があると思う。その側面からみれば、「無知」「無責任」が社会の中枢で脚光を浴びてしまうのは、同じ構造によるものだろう。

 しかし、それにしても、やはり「無知が先か、無責任が先か」というのは重要な問題だと思う。そして、どちらかといえば、これは「無知」が先なのではないか。「失敗学」という考え方があるが、「無知」というのは、そこからいえば「失敗」の初期条件だろう。
 「無責任」というのは、どちらかといえば「結果責任」に関わることで、うまくいっているうちは、「無責任」は問われないで済んでしまうことも多い。そういう局面が、これまで多かったのだろう。間違った初期条件から出発して、「責任」を取っていると、結局、「無責任」になるという訳である。

 日本の政治風土を「無責任の体系」として特徴づけたのは、よく知られているように、丸山真男であるが、ここから考えると、むしろ「無知の体系」というものが日本社会に根づいているということの方が重大な問題なのかもしれない。
 
 ともあれ、問題は日本社会の「体質」とか、社会風土、文化意識、政治意識などといわれる問題ではなく、社会のシステムや構造の問題、上の言い方では「無知」が中枢に押し上げられるような社会的動力の問題である。これをキチンと考えておかないと、私たちの国家は国際的に恥をかくということになりかねない。これも日本的な「恥の文化」かも知れないが、ともかく信じられない話である。

 以上、再掲。二〇一五年七月より。

2017年4月14日 (金)

朝鮮半島情勢、政府と野党は全力で軍事危機を避ける対応を

 朝鮮半島で緊張が高まっている。明日15日が韓国の大統領選挙告示、かつ北朝鮮の故金日成主席の生誕105年に当たる。北朝鮮の核実験の可能性が指摘されており、アメリカ・北朝鮮・韓国・日本の間で緊張が高まっている。米ジョンズ・ホプキンズ大の北朝鮮分析サイト「38ノース」は13日、北朝鮮北東部の咸鏡北道・豊渓里にある核実験場で核実験の準備が完了したとする衛星写真の分析結果を示したという。北朝鮮がどうでるかはわからないが、緊張が高まっただけに状況は軽視できない。

 北朝鮮とトランプは、両方とも何をやりだすかわからない。トランプの背後には確実にアメリカ軍部と兵器産業がいる。湾岸戦争、イラク戦争以来、押さえ込まれていた軍部のなかに、ブッシュの下での戦争の全能感が復活している。彼らはシリア・アフガン・東アジアの各所で戦争体制を構築しようとしている。アメリカはいわば戦争慣れしており、とくに東アジアを自由行動可能な勢力圏と軽くみている。偶発事件が起こりうる。

 政府は急ぎ韓国政府と協議し、アメリカに対して、「日本・韓国の頭越しでの火遊びは許さない、軍事的対応を行なうな」などの申し入れを行わなければならない。実際に戦争被害が起きる可能性があることを正面からみてほしい。トランプの戦争では何も解決しない。そもそもトランプは支持率を落としており、戦争をアメリカ国内へ向けての宣伝のためにやっていることは明らかだ。

 また民進党・共産党・社民党・自由党など日本の野党は、アメリカ・韓国の戦争反対の勢力に対して、急ぎ共同メーッセージを発してほしいと思う。今後の状況を観測しようというのではなく、最初に明瞭な姿勢を示すことが大事だろう。これは国民は誰も異論がない。そして、トランプに対応する上では国際的連携をとることが決定的に重要であり、国際的な理路がみえないままでは状況は悪化する。

 東アジアで戦争が実際に問題となるのは、60年代のベトナム戦争以来である。アメリカでは、第二次世界大戦における太平洋戦線の記憶は遠くなっており、またベトナム戦争の記憶も後景に退いている。この中で、アメリカでは、世界をヨーロッパを中心にみる傾向が強くなっている。ヨーロッパ→イスラエル→パレスチナ→中東という視線だ。しかし、現実には、アメリカの世界戦略は、むしろ逆の方向、つまり太平洋→日本→インド洋という空と海の軍事網によって支えられていることはいうまでもない。

 心配なのは、アメリカの反戦争勢力も、同じようなヨーロッパ中心の視線をもっているようにみえることである。彼らは、バーニー・サンダースをふくめてアジアの状況についての認識に敏速さを欠く。これはアメリカの戦争が中東を中心としていたことの影響でもあるが、同時に、アメリカの反戦争の勢力の間ではアメリカのベトナム戦争への総括が、アジアへの目を深める形で進んでこなかったことを意味するのではないかというのが心配である。東アジアに対する認識が弱い状態が続いている。

 野党は、合同でまずアメリカの民主党に対して直接に呼びかけてほしいと思う。アメリカ民主党の一部はシリアへの爆撃を支持したが、現在、アジアでの戦争には賛同しないと考えられる。万が一の状況の混乱の前に、理路をはっきりさせることが重要だと思う。

 日本の国際的な位置と責務はきわめて高い。アメリカとの間では、各政党は、すでにそういう直接の議論を恒常的にもっていく責任がある。

高校の同期会の記念誌に書いた人生紹介

 私は中学高校時代はバトミントン部、生物部、修養部、数研などにいました。一年浪人した後、国際キリスト教大学に行きました。

 ご記憶のような学生運動の状況で、高校三年くらいから大学の最初、当時「反帝・反スタ」といわれた広い意味でのトロツキズムの運動と思想に大きな影響を受けました。ただ、大学の学生運動の現実のなかで、友人が(後には私個人も)暴力をうけたこともあり、また増島先生、右遠先生、山領先生、そして深木先生などの影響もあって、大学の中途から考え方が明瞭に変わり、それとともに社会科学と歴史学の研究に進むことにしました。学生運動への参加もあって、授業への出席も不安定でしたが、日本思想史の武田清子、西洋経済史の大塚久雄の両先生の教えを受けることができたのは好運でした。またともかく高校から大学にかけて反スターリンということを突き詰めて考えたことは結果的にきわめて大事な経験になったと、今では考えています。

 そして一年留年した後に、都立大学の大学院の修士課程に入ることができ、日本中世史の戸田芳実先生の指導をうけて、奈良時代から鎌倉時代の研究に入ることができました。そしてさらに好運にも東京大学史料編纂所の入所試験を受けて、同研究所の助手に採用され、何年か前の定年まで、そこにいました。

 いまやっていることは、一つは歴史地震・噴火の研究です。東京大学の文理融合的研究に研究所長の立場で少し関わっていた関係で、三・一一東日本大震災の直後に東大地震研究所の研究集会の案内をうけて参加したことがそのきっかけです。そのとき、地震学界では、東北沿岸の地質調査で巨大で部厚い津波痕跡が発見されたことによって、二〇年以上前から、次の宮城県沖地震は巨大なものになり、近くやってくる可能性が高いことが常識になっていたことを知りました。この津波痕跡は、私の専門の時代の一つでもある九世紀の大津波であったにも関わらず、それを知らなかったというのがショックでした。

 ただ、二〇一六年のアメリカ大統領選挙をみていて、バーニー・サンダースについて、そしてアメリカ史について研究をしたいと考え、今は、しばらく地震噴火の研究を離れています。さすがに専攻の違うことについての執筆は苦しく、前途がまだ見えませんが、高校大学時代にベトナム反戦運動や、沖縄返還運動のなかで考えさせられたこと、またマーティン・ルーサー・キングJr.牧師の公民権運動について考えたことを思い出しています。大学時代に興味をもった法学についての勉強も少しして、アメリカ憲法と日本国憲法の比較をするというのが主な内容になるはずですが、日本国憲法がアメリカ憲法の古さ、不足分を補う位置にあることを実感しています。

 だいたい、私の現状はこういうところです。右遠先生が先年なくなられたのが残念ですが、先生方がお元気で過ごされることを願っております。
                   保立道久

2017年4月11日 (火)

大塚史学の方法と労働論・分業論・共同体論

以下、はじめにだけです。初めにはすぐ書けるのですが、ーーー。

大塚史学の方法と労働論・分業論・共同体論

 はじめにーー永原慶二の仕事との関係について

 戦後派歴史学は、その歴史理論の中核となる歴史経済学の方法を大塚久雄『共同体の基礎理論』に求めていた。もちろん、大塚の理論研究はマルクスやウェーバーの仕事による抽象度の高いもので、またヨーロッパ史研究を直接の対象としていたから、日本史の研究者が、直接に引用することは多くはなかった。しかし、歴史理論といえば多くの研究者がつねに『共同体の基礎理論』が意識していたのは、私などは、経験上、よく知っている。そして、日本史の研究者はいくつかの例外を除いて歴史の理論的考察を経済学理論として純粋に研究課題とすることは少なかったが、それはおそらく大塚の仕事以上のものを構想することが難しかったためではないかというのが、私の推測である。

 ここで紹介したいのは、日本史研究者の中でも経済史の理論的理解に意識的であった永原慶二への大塚理論の影響である。たとえば永原の名著として知られる『日本の中世社会』は、中世社会においては、王権と荘園制が共同体間に広がる社会的分業の世界を固有の支配領域として確保しており、それは共同体が自己の社会的諸機能のうちの賎視される部分を、外部の諸賎民身分に付着させることによって支えられていたとしている。この賎民層の社会的機能が非農業部門の下層に位置して社会的分業の階層制を強め、それによって王権の求心的支配構造が可能になっているという訳である。永原は、このような理解の理論的典拠を「M・ウェーバーの内部経済と外部経済の構造的二重性の理論や、それに依拠しつつ、大塚久雄が指摘した、共同体間に存在する真空地帯がいわゆる前期資本の成長と活動の本来の基盤であるという理論」に求めている(『永原慶二著作選集』第一巻、四一六頁)。これに対して、永原の盟友であった網野善彦は、この共同体間世界を「無縁の自由」に引きつけて捉えた。これは歴史的な評価や位置づけは大きく異なっているが、共同体間の世界に注目し、そこに王権の支配根拠を求めること自体は共通していた。

 ようするに、大塚の理論は、戦後派歴史学の中枢部においては一種の常識であったのである。とくに経済学部で教鞭をとり、日本経済史の通史を講じていた永原が大塚の議論から様々な影響をうけていたのは当然のことであった。ただ、永原にしても歴史経済学の理論そのものを論じた論文は少なく、その詳細は明らかでないが、ただ「経済史の課題と方法」(一九七一年)という論文は間接的ではあるが、永原と大塚理論の関係を示しているように思う(『永原慶二著作選集』第九巻)。

 この論文で、永原は前近代の経済史研究の課題について「奴隷制や封建制生産様式の論理体系と、その生成・発展の運動をも対象とし、それを解明することによって、資本主義経済の位置と特質に歴史的照明をあてる」と述べている。そして、ここで永原が「奴隷制や封建制生産様式の論理体系」というのは、明らかに高橋幸八郎が『資本論』における資本主義社会分析の論理体系、商品ー貨幣ー資本の論理序列にならって設定したフーフェーゲマインデーグルントヘルシャフトの論理構造、つまり、より一般的にいえば、小土地所有ー村落共同体ー領主制の論理序列という議論を受けたものである(『市民革命の構造』、お茶の水書房)。永原は、ここで大塚の議論を参照していないが、この高橋の議論が大塚の影響の下に構想されたものであることはいうまでもない。

 永原の経済史理論は、普通、レーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』に依拠したウクラード論であるといわれる。永原が、これによって、いわゆる単一ウクラード論とそれにもとづく単系発展段階論とは異なる視座を獲得した。それ故に、永原は、この論文において自身の経済史理論をそのようなものとして説明している。しかし、注意されるのは、永原が「ウクラードとはロシア語であるが、英語のエレメントにあたるほどの意味である。経済史の理論問題としては、ウクラードの理解をめぐって論争があるが、私は経済構造(構成体)をかたちづくる諸エレメントであると考える」とし、さらに「封建的構成体を直接に規定するウクラードとしての封建的ウクラードとは封建的土地所有制下の小農民経営である」と述べていることである。これが高橋のいう「フーフェ=小土地所有」を意味していることは明らかであろう。それが『資本論』冒頭で「資本制社会における富の要素的形態」として提出された商品範疇、つまり資本制社会の分析の端緒範疇に対応するものであることもいうまでもない。

 なお、このような議論が、日本経済史研究において当然の理論的前提となっていたことについては、永原の次の世代の中世史研究者、大山喬平が、その『中世日本農村史の研究』(岩波書店、一九七八年)において高橋のフーフェーゲマインデーグルントヘルシャフトの論理序列の議論にそって領主制と村落研究の課題を設定していることに明らかである。

2017年4月10日 (月)

戦後派歴史学と永原慶二氏

 日本読書新聞のインタvユーがでてきました。相当以前なので掲載します。


 「戦後歴史学」を代表する存在であった、永原慶二氏の仕事を集成した『永原慶二著作選集』全一〇巻が刊行された。専門の日本中世史研究のみならず、史学史や歴史教育、歴史学の方法論といった、永原氏の幅広い業績の全体像をうかがい知ることができる。本著作集完結を機に、第九巻『歴史学序説 20世紀日本の歴史学』の解説を執筆した東京大学史料編纂所の保立道久氏に、「永原史学」をめぐって話をうかがった。(5月12日、東京大学にて/聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)
 日本読書新聞
 


「戦後歴史学」内部からの戦後歴史学批判

 ――保立さんは、『歴史学をみつめ直す――封建制概念の放棄』(校倉書房、二〇〇四年)の中で、永原さんを「もっとも戦後歴史学らしい学風をもった歴史家の一人」と書かれています。
保立 それが実感です。私は一九四八年生まれですけれども、私ともう少し下の世代までは、石母田正さんの『中世的世界の形成』を読んで中世史に誘われ、次ぎには永原さんの仕事をテキストにして勉強を始めたという人が多いのです。
 戦後歴史学を代表するというのは、まずはそういう経過の問題です。たしかに永原さんは、皇国史観に対する強い批判、経済史を基礎にした普遍的で透明な論理などの点で、いかにも戦後歴史学という方です。しかし、戦後歴史学の最初の指導者であった石母田さんや松本新八郎さんとは、関係も強いだけに一定の批判があったはずで、早くから戦後歴史学の限界面について意識的な発言をされています。
 これは石母田さんの自己批判にも関わっているのですが、すでに一九六〇年代半ばには、戦後歴史学の発展段階論が一国史的、単線的、西洋中心主義的な傾向をもっており、天皇制に対する批判が国内的視野に偏っていたと指摘されています。近代歴史学は「帝国主義支配民族の歴史学という宿命」の中にあり、戦後歴史学も、その宿命から自由ではなかったという言い方をされています。
――いわゆるオリエンタリズム批判を、一九六〇年代に自覚的になされたわけですね。
保立 いや、オリエンタリズム批判ということになれば、もっと早く、既に一九五〇年代の後半、『日本封建社会論』(本著作集第一巻に収録)の冒頭に、その趣旨を書かれています。もちろん、オリエンタリズム批判という言葉ではありませんが、いわゆる「アジア的停滞性論・宿命論」がヨーロッパ思想の中に組み込まれているという批判は、日本の戦前の学界でも相当高いレヴェルで議論されています。永原さんは、これを明瞭に引き継いで議論を立てています。
ーーそんなに早いのですか。
 こうした批判は、ここ二〇年ぐらいで誰もが言うようになりました。しかし、それは実は、早くから戦後歴史学の中枢部にあったということです。その事情も知らずに周知のことを繰り返しているのはあまりにジャーナリスティックで、研究者の場合は無教養の証明です。
 最近は歴史学がいろいろ批判を受けますし、たしかにそのとおりかもしれません。しかし、では他の学問はいったい何をしていたのか。法学や経済学は、それだけ自前で自慢できることをしているかどうか。他人事ではないはずです。
 いま二〇世紀の人文社会科学全体が問い直されています。その中で、歴史学の問い直しは決定的な位置をもっています。なぜなら、歴史学からみると、我々の対極にあるのは哲学です。そして歴史学と哲学の間には実用性をもった法学・経済学その他の個別科学があります。法・経済などは個別科学であるというのは永原さんの言い方ですが、歴史学は哲学と同じように総合と論理で勝負する学問です。ただ哲学と違って、個別科学と素材を共有し、その全体を直接に総合する位置にあります。ですから、人文社会科学の問い直しの上では、いちばん重要なのです。
 永原さんの歴史学は、いわば全面展開の歴史学です。対象とした時代の幅も広く、たとえば『日本経済史』(本著作集第八巻に収録)などは、原始から明治時代末期までを一人で書いています。そして社会構造論から政治史、思想史まですべて展開しています。ですから、歴史学を問い直す上では、まずこれに挑まないといけません。
――そうした永原さんの仕事の理論的な基盤には、戦前の『日本資本主義発達史講座』の「講座派」の大きな影響があったのですね。
保立 その通りです。ただ、講座派の中心は明らかに経済学と法学でした。講座派によって歴史学ははじめて法学・経済学の厳密な方法を学び、対等な地位に進みました。現在の法学や経済学が講座派の議論をなかば忘れつつあるのではないかと心配ですが、事柄の性格からいって、歴史学は講座派を忘れる訳にはいきません。
 もちろん、歴史学の中でも講座派の議論については批判が強くなりました。私も、戦前の日本社会をすべて封建制というイメージで塗り込めるような傾向には賛成できません。江戸時代の広い意味での「近代性」も無視できないと考えますし、明治以降に発達した市民社会の実質はやはり相当のものです。しかし、戦争遂行のために市民的自由が抑圧され、その抑圧の仕方に前近代的性格が非常に強かったことをことは明かです。いわゆる労農派が基本的なところで錯誤をおかしたのはまったく明らかです。日本社会をはじめて社会構造と歴史に踏み込んでとらえることに成功した講座派の議論の意義は何をおいても再確認する必要があります。
 講座派は、戦争に対する批判をし、戦争の結果がどうなるかについて予測しました。彼らの相当部分は現実に行動して牢獄に囚われたわけですから、経過からしても、永原さんを含めて当時の若い研究者が講座派に流れたのは、自然なことだったと思います。
ーーやはり吉川弘文館からでている『永原慶二の歴史学』(永原慶二追悼文集刊行会編、二〇〇六年)によると、永原さんは学生時代に東大の前の古本屋で講座の一部を入手されたということですね。
 私たちからみると、あの戦争体制の時代に、ひそかに『講座』を読んでいたというのは驚きです。第二次世界大戦を推進したイデオロギーは、ご承知のように皇国史観でした。それがつぶれた訳ですから、戦前社会で階層的にも上の方にいて、エリート教育の中にいた人々がドッと歴史学を専攻するということが起きたわけです。ただ永原さんは、戦争の最中から批判的であった訳で、こういう言い方はよくないかもしれませんが、それは永原さんが、飛び抜けて優秀な人であったことの証明だと思います。
 永原さんが、小学校から秀才で通した人だというのは歴史学界では有名な話しです。戦前にもエリート小学校というものがあったそうですが、永原さんは青山の青南小学校の卒業です。それから、たとえば、永原さんは高校時代、ギリシア史の村川堅太郎氏に習っていますし、大学時代にも東大法学部の川島武宜氏の研究会に出ています。戦後、結婚されたときは戦前からの著名な歴史家・川崎庸之さんが保証人ですが、川崎さんのいとこが戸坂潤です。母子家庭で育った戸坂潤は川崎さんの実家に寄留して、永原さんと同じ青南小学校に通っています。川崎先生は網野善彦さんの仲人もされています。私は、それを知った時、戦後中世史学というのは本当に狭いところから出発しているんだと奇妙な感じになりました。
 話しがずれましたが、人間関係の上でも、戦前の市民派ないしマルクス主義知識人のそばに、永原さんたちの生活圏があったわけですね。講座派を担った経済学者や法学者たちは、戦前の日本社会の中でトップレベルの知識人だったわけですが、さらに一回り広い範囲の若手の研究者が戦争に大きな衝撃を受けて歴史学の道に進んだのです。
――戦後歴史学の人間関係の狭さというのは、はじめて聞きました。
 保立 「戦後歴史学」という言葉ですが、現在の歴史学界では「現代歴史学」とか「批判的歴史学」という言い方をします。なぜかというと、戦後歴史学という言い方では、二〇世紀後半の歴史をすべて「戦後」、それ故に長い平和の時期として見てしまう落とし穴に陥りかねません。第二次世界大戦の終わりから、もう六〇年以上たっているわけですし、しかも世界各地はもとより、東アジアでも戦争が連続してきたことを、学問の論理の中で忘れかねないからです。
 ただ、戦後歴史学という言葉にこだわらざるをえない面もあって、第二次世界大戦に対する本格的な反省が、日本社会では行なわれていないためです。いうまでもないことですが、戦後処理の課題を、日本社会は持ち続けている。もちろん、これは学問的な問題であるよりも先ず政治の問題です。ヨーロッパでは、政治的な問題として決着がついているわけですから。けれども、長い間の政治の不決断が続いていることを他人事とみるわけにもいきません。

 アカデミズムの自己認識、職業としての学問

――永原さんは晩年、『20世紀日本の歴史学』(本著作集第九巻に収録)を書かれますが、ご自身もその史学史のなかの歴史家として、近代以降の歴史学の自己検証という大きな課題を担われた、といえるのでしょうか。
 保立 永原さんは、歴史学研究会などの学会の運営に関わり、日本学術会議の中心メンバーでもありました。文化庁の文化財保存の委員でもありましたし、『中公 日本の歴史』などのほとんどの通史や、学会編集の講座など、大規模な出版のほとんどすべてに企画委員の立場で関わりました。さらに、家永三郎さんが始められた教科書検定訴訟でも中心的な役割を果たされ、教科書をめぐって中国と韓国の間で問題が起きたときも、必ず必要な発言をしました。
 『20世紀日本の歴史学』は歴史学のアカデミズムの通史です。アカデミズムというとあまりよいイメージでないかも知れませんが、それは「職業としての学問」ということです。永原さんは職業人の責任として、歴史教育のあり方や社会に対する歴史の情報の提供の仕方について学界の責任を取るということを、非常に強く意識されていた。
 歴史学が社会的に負っている課題と責任とは何か、それを担うために我々がどういう方法を組み立てなければいけないか、どういう形で議論を展開しなければいけないかを、経験を通じて書いた。これは、永原さんでなければ書けない本です。そして、その特徴は、じつは、歴史学のアカデミズムに対して見方が非常に厳しいことです。中心にいたからこそ、そうみえるのでしょうが、日本の歴史学がどうしても無思想になり、史料の細部を分析するだけに陥りがちであることを、厳しく批判しています。
 ――厳しいということでいえば、たとえば『20世紀日本の歴史学』の中で、網野善彦さんの歴史観に関して、それは一種の空想的浪漫主義であり、日本浪漫派の歴史観に通底する、という評価をされています。その点に関して、どのようにお考えですか。
 保立 このところ、黒田俊雄さん、石井進さん、網野さん、永原さんと、戦後歴史学を担った中世史家が次々に亡くなっています。我々にとってはとてもきついことです。私などは、彼らの関係を目撃した最後の世代に属するのかもしれません。本当に仲がよく、互いに信頼しあっていて、しかも相互にメチャクチャにいいあうのです。
 見ていて羨ましいというのが第一でしたが、なぜ、こういう人間関係が可能なのかということはずっと不思議でした。やはり戦中から戦後への一番大変な時代を共有したことが、決定的だったのだと思います。我々はそんな歴史的経験をもっていません。歴史が大きく動き、その中で歴史学と学問が行動せざるをえないという時代には生きていないわけです。
 私的な話ですけれども、青山の永原さんのお墓にお参りをした時に、奥様の話をうかがいました。網野さんが亡くなった後、永原さんが山梨の網野家にお墓参りをしたときに、泣いたというんですね。奥様は「私は永原が泣くのを初めて見ました」と言われていました。それは網野さんも同じで、笠松宏至さんが永原さんにガンが発見された直後に、それを聞いて、網野さんに電話で伝えたところ、網野さんが絶句して、異様といってよいほど取り乱されたそうです。
 網野さんは永原さんの高校の後輩で、史料の読み方、論文の書き方などは永原さんに教わったといいますから、ほとんど兄弟の関係のような感じだったのだと思います。そういう関係には立ち入れないものを感じます。そもそも、こんなことを伝聞でいう資格はないのですが、五〇年以上、肝胆相照らすという関係で学問をしてきた研究者同士の関係が独特なものとなることくらいはわかります。
 浪漫主義というのは一面では、永原さんが熟知する網野さんの人柄なのだと思います。それは網野さんは本当に魅力的な人でしたから。ただ、他面で、要するに永原さんは、網野さんをだしにして、歴史学が陥りがちな傾向、つまり「無思想」でなければ浪漫主義になる、いわゆる歴史主義の陥穽をいいたかったのだと思います。若い頃から言いあっていたのではないですか。網野さんにしたら、「まったくもう」という感じでしょうけれど。
 ともかく、我々は、網野さんと永原さんの両方を乗り越えなければいけない。そういう立場にありますから、表面でなく、内容に踏みこんで二人一緒に批判することになります。そして、そういう観点から二人の仕事を見てみると、表面的にはまったく違うかのようですが、実は意外と似たところが多いんです。


 永原史学の特徴と方法

 ――永原さんの歴史学の特徴とはどのようなものだったのでしょうか。
保立 二つあって、第一の特徴は、中世社会を構造論的に捉える立場で、『日本の中世社会』(本著作集第三巻に収録)や『日本中世の国家と社会』(本著作集第七巻に収録)などに典型的に表れています。永原さんはそれを、日本社会の集中的・求心的構造といわれますけれども、天皇制的な都市、首都による全国支配の構造がなぜ成立し、発展し続け、残り続けているのかを、執拗に問い続けたわけです。これが、永原さんの社会構造論の中心に据えられています。
 それから第二の特徴は、南北朝・室町時代の研究の開拓者だったことです。戦後中世史学というのは、石母田さんの『中世的世界の形成』で始まりましたから、平安・鎌倉時代が最初の舞台だったわけです。それに対して永原さんは、南北朝・室町・戦国時代を固有のフィールドとして、その時代の研究に責任を持ちました。永原さんが研究を始められた当時は、室町時代と戦国時代については、研究がそれほどありませんでしたし、史料も整っていませんでした。永原さんはそこを配慮しながら共同研究を組織しました。その功績がきわめて大きいことは、この時代の研究を知っているものの共通認識です。
 ――研究方法についても、永原さんの独自性を指摘されていますね。
保立 研究の方法としては、第一の側面として、経済史と社会構成の移行の理解をベースにおいて通史的な枠組みを描き出したことです。その中心となったのは、室町時代の経済発展の理解で、永原さんは、この時代の生産諸力の発展、商品経済と社会的分業の展開を高く評価します。
 耕地は安定化し、都市が発展し、それを基礎にして文化が民衆化する。永原さんは、明らかに、この段階を一三世紀以降のヨーロッパ封建制と同じような経済のテイクオフ、新しい技術と文明という脈絡で捉えています。これを封建制の第一段階というわけで、それをベースとして比較すると、平安時代はやはり古代であり、江戸時代は封建制の第二段階で別の社会ということになります。
 日本の社会構成論にとっては、中間の「中世」をどう捉えるかというのが、決定的な位置をもっているのですが、この点を永原さんがつかんだ訳です。その特徴は、封建制とは支配や抑圧の問題とイコールではなくて、むしろ室町時代はヨーロッパと似て、内乱と地域的な分権、それに庶民と村々が巻き込まれるような時期という意味で封建制概念を理解しています。そして戦乱を中心としてみると、大変暗い時期だけれども、同時に室町時代の社会は逆に不羈奔放で経済が発展するという二面的な把握です。暗黒といわれていた室町時代を中心において、ともかく鎌倉から戦国時代まで理解を通すために、経済史の方法が一番有効に働いたということだと思います。こうして、全体の通史が一応の枠組みとしてできたわけです。
 それから第二には、民衆史を大事にしたことが大きいですね。特に『下剋上の時代』(『日本の歴史』一〇、中央公論社、一九六五年)が有名ですけれども、民衆を主体にして室町時代を描いたわけです。『内乱と民衆の世紀』(『体系日本の歴史』六、小学館、一九八八年)では、室町時代は、貨幣と都市の魔力が本格的に始まった時代といわれています。文化にしても、連歌にしても、村々を中心に生産と交通・分業が発展し、その中で民衆が社会的な地位を向上させる。これは内藤湖南と鈴木良一さんの影響だと思いますが、『下剋上の時代』でマルク・ブロックを引用して、この時代の民衆心性の「野性」を論じていることも印象的でした。
 ――ブロックのマンタリテ、心性論への注目などというのは相当早いですね。
 保立 そうですね。我々は、永原さんというと端正な方と考えがちなのですが、永原さんは、実際には、室町期の民衆の野性的なところが好きなのではないかと思います。社会史の先駆ということですが、社会史研究との接点ということになると、いわゆる公共性の問題についての議論も重要です。これが第三の研究方法の特徴になるかもしれませんが、永原さんの仕事は、いわゆる階級史観でなく、公共性論だったということです。単純に階級原理から論ずるのではなく、社会的・公共的な機能を誰がどう果すかということを中心に、議論を組み立てるスタイルですね。
 室町時代の文化や経済の発達は、国家と支配層と中間層と民衆が一緒にやったことであって、すべてを階級原理で解くことはできない、前近代の民衆の構造を無媒介に階級原理で捉えたり、もっぱら戦うものとして捉えることは正しくないというわけです。庶民の動きはベースにあるけれども、他のさまざまな諸階層の動きが全体として絡まり合って歴史は動くと、明瞭にいわれています。
 ですから逆に、知識人や支配層、および国家の社会的責任を問うことになるわけですね。国家は、公共的機能をどこまで果たしてきたか。室町期の国家は結局それを果せなかった。だから、戦国大名が出てきたというのが、永原さんの把握です。


 永原慶二氏と網野善彦氏の共通点と相違点

 ――網野さんは、永原さんの仕事を強く意識されていたのでしょうね。
 保立 網野さんは、永原さんの『下剋上の時代』(中央公論社、一九六五年)をよく読まれていたと思います。この本は室町時代の非農業民や社会的分業を構造として明瞭に位置づけた初めての通史ですが、網野さんが『蒙古襲来』(小学館、一九七四年)でそれに対抗しようとしたことは明かです。
 我々から見て、お二人に共通するのは、何よりも、天皇制と日本社会の特質論です。網野さんのいう「日本論」ですね。永原さんの議論は『日本の中世社会』で明示されていますが、ようするに天皇制的な諸関係の根拠を、共同体間の世界と都市・社会分業に対する公共的支配に求めるわけです。網野さんも「無縁」の場、都市と境界領域に王権の根拠を求める訳です。二人とも、日本社会は東アジアやヨーロッパと比べて相当独特な社会であるが、それが何故なのかということを執拗に問い続けられたという姿勢の点でも同じです。というよりも姿勢が同じだから、相似する議論枠組みを取られたといった方がよいかもしれません。
 もう少し詳しく見ると、お二人の共通性は三つあります。一つは、室町時代を、網野さんも日本の歴史の「近世化」の画期とみます。それを「資本主義化」ともいえるなどといわれるので、永原さんは猛反発をするのですが、けれども実態認識としては、先ほどいいましたように、永原さんもそう違わないのです。ですから、全体の通史イメージについて、二人は意外と似ているというのが、私の昔からの考え方でした。
 それから二つ目に、領主と百姓の関係についてですけれども、網野さんは、領主と百姓の関係は単に支配だけではなくて、一種の契約関係だといわれます。永原さんは鎌倉時代以前についてはそんなことはいわれませんが、室町戦国期になると、農民は領主に対して庇護される代償として年貢を出すのだといわれます。つまり、領主と農民の関係には双務性があって、庇護に対して年貢を出すというかたちです。これは永原さんの公共性論からいって当然のことなのです。
 網野さんは、永原さんは暴力と強制で領主制を捉えると批判します。鎌倉期以前について永原さんがそう考えていたのは事実でしょうが、室町期をふくめて考えると、そんなに議論枠組みは違わないのです。もちろん、永原さんは、農奴支配を強調されます。封建制というべきかどうかは別として農奴的な人身隷属があったことは事実ですから、この点では、私は永原さんの見方が正しいと思います。
 それから三つ目ですが、永原さんも網野さんも、中田薫という戦前の法制史家の仕事を前提にしています。中田薫は、日本の中世社会がヨーロッパと似ていて、ヨーロッパの水準によって日本社会を理解できると指摘した研究者ですが、その中田薫をどう読むかということを、お二人は考え続けたわけですね。石母田さんの議論が中田を前提にしていたことはよく知られていますが、戦後歴史学論からいうと、お二人は石母田さんの仕事の根拠を、中田まで戻って問われようとしたということになると思います。

――ようするに中田薫の「職」論ですか。
保立 ええ、その通りです。荘園制の土地所有なり土地関係は「職」という言葉で表現されるわけですが、その職を持っている人びとの間を年貢が動き、職の間で年貢が分割される。その職というものをどう考えるのかを最初に打ち出して「日本中世=封建制」論を組み立てたのが中田薫です。
 単純化していうと、網野さんは年貢所当は租税であるという中田説を認めた上で議論をし、永原さんはむしろ地代であるとして議論を組み立て直しました。ただ、それが国家的な性格を持っているということは、永原さんも網野さんも共通していわれますので、見かけほどは違わないのです。私は、年貢所当というのは租税でもあり地代でもある、いわゆる「租税と地代の一致」と考えていますが、お二人の議論を乗り越えていく上での要点はここにあると考えています。

ーーけれども、理論の上での相違は大きいのではないかと思いますが。
 保立 理論的に一番大きい相違点は、生産諸力の発展をどう捉えるか、ということです。永原さんは、生産諸力が百姓の小経営と私的な所有の中で徐々に蓄積され発展していくというところを、非常に重視されるわけです。網野さんは、そういう私的な所有と経営の中での発展ではなくて、いわゆる「無縁」の場、つまり山野河海や、共同体と共同体の境界、都市的な場での生産諸力の発展を第一とするわけですね。
 私は、折衷するようですけれども、言われていることは両方とも正しいと考えます。農民経営と村落の内部での生産諸力の発展も重要だし、無縁の場も重要である。その意味では、永原さんと網野さんの言われていることは、互いに補い合うものなんですね。
 問題は両方の関係と組み合わせです。我々は、お二人の言っていることを、両方とも正しいと仮定した上で乗り越えることを考えます。その場合、率直に言って、論理が透明で、論理を通すことに全力を傾けるのが、永原さんです。それに対して、これは歴史学者として非常に重要な能力なのですが、新しい史料と、新しい史料の読み方を追求し、その面白さを感性的に理解するのが網野さんです。
 職人としては、網野さんの方をどうしても大事に思いますけれども、歴史学全体として考える場合には、永原さんのいわれるように、論理と分析が通っていない歴史学はあり得ないということは明瞭です。我々は、努力すればどちらももてる世代です。


 歴史学の職能と責務、そして課題

――永原さんは、アカデミズム実証主義史学の「無思想」を指摘され、現実に向き合う姿勢を説かれました。虫の目をもちながら鳥の目をもつといいますか、個々の史料の分析に入りながら、トータルな視野を失わない総合の学たることを見失うべきではない、ということなのですね。
 保立 日本の歴史史料は、ものすごくたくさんあるのです。ヨーロッパや中国よりもたくさんあるので、実際に研究していると「無思想」にならざるをえないんです。永原さんはそれをよくご存知で、その上で、全体の見通しと理論、方法と思想がなくては、これだけ大量の史料の分析はできないという発言を繰り返されました。
 職業として日本の歴史を専門にし、研究している者にとっては、『20世紀日本の歴史学』を読んでいるとその通りということになるわけです。それを永原さんは学史として書いてくれ、それを共有し、そこから再出発しようと呼びかけてくれた。そういうことができる人は、なかなかいないわけです。
 ――たくさんある史料を分析する、歴史家の理論と方法、思想が問題である、ということなのですね。
 保立 現在、東京大学史料編纂所が中心になって、学界の協力を得て、平安時代、鎌倉時代の文献史料の基本部分を、コンピュータにフルテキスト入力したところです。ほかの分野でも歴史学の情報化は進んでいます。永原さんも『20世紀日本の歴史学』で、そうした研究体制と研究条件の拡充について、昔では考えられないことだといわれていますが、これによって、大量の史料を一望のもとに、理論的、全体的に統括して分析できるようにしたいと思っています。
 ともかく、歴史学者は基本的には虫の目になりますので、その職業的な義務は果たしてきていると思います。アカデミズムの歴史学にまず必要なことは、歴史史料を保存し、それを誰もが読みやすい形にし、提供をすることです。歴史学に委ねられている社会的な職能に関わる問題については、着実に成果を積み上げてきています。

 
 グランドセオリーを作り直す、二一世紀の歴史学へ

――『永原慶二著作集』を踏まえながら、二一世紀の歴史学はどう展開されていくのか、今後の課題についておうかがいします。
 保立 歴史学者にとっては、具体的な史料から見えてくる具体的な事実と、その上で組み立てられるイメージが、どうしても第一になります。
 実際には、永原さんだってそうだったわけです。永原さんの最後の著作である『苧麻・絹・木綿の社会史』(著作集第八巻に収録)は、まさに社会史です。永原さんがおばあさんの作ってくれた麻の服をずっと使っておられて、それへの思いが、この本には明らかに見られるわけですね。
 特に、現代の歴史家としては、過去の具体的なイメージを提供するというのは、非常に重要なことです。今の日本社会はバチアタリ社会ですから、日本の風土と歴史、文化に即した過去のイメージが、大量に破壊されて消えていっています。それを残すことは、文化の多様性を残すことに直結します。文化の多様性というのは、世界史的に見ても非常に意味が大きいわけですから、その多様性を維持するために尽力するというのは、歴史学者の主要な役割になります。
 もちろんそれには、他のさまざまな学問分野の協力が必要になります。とくに自然環境保護、いわゆるサステナビリティについて、自然科学分野の研究者との学際的な協力が必要になります。
ーーしかし、それだけでは迂遠な話しのように思いますが。とくに自然科学者は本質的に理論家というか、明解な図式を要求しますから、善意だけでは難しいのではないですか。
 保立 それはその通りで、結局、歴史のグランドセオリーを、もう一度作り直すことを考えざるをえません。それがなければ、過去を認識できないからです。歴史学は、多様な事実を総合して、その上で理論的な解析を加えて、透明な論理的理解をえたいと考えます。その場合、現代社会に対する論理的な理解を、方法的につきつめ延長する形で、過去を理解するということになります。
 ただし、これまでは、現代の市民社会あるいは資本主義社会の理解を延長するかたちで過去を理解するというのが基本でした。ヘーゲル、マルクス、ウェーバーなどすべてそうです。
 しかし、現在は、それでは済まなくなっています。つまり、第一には「二〇世紀社会主義」、自称社会主義なるものの体たらくです。これがどのような「社会構成」であったのかを論理的に明示しなければ、所詮、歴史理論は無力です。そして、私見では、ようするにこれは、集団所有を基礎としながらも、上位の代表集団が特権的・階級的支配を展開するというマルクスの『資本制生産に先行する諸形態』に描かれた論理が現代に実現してしまったということです。これによって集団所有・共同所有がかならずしも協和的なものではなく、強い階級的な性格をもつことがありうるという、石母田さんの首長制論や戸田芳実さんの議論など、戦後歴史学の内部で議論されていたことが劇的に証明されてしまった訳です。
 従来、社会構造論、社会構成体論というと、私的所有を基準にして組み立てられた訳ですが、こういう論争史をふまえると、私的な階級的所有と集団的な階級所有が融合してシステムを作り上げている構造こそが問題となります。これが論理的な帰結です。それはいわゆる「アジア的社会構成」に限った問題ではなく、ほとんど通時代的な問題です。しかも網野さんのいうような「無縁の場」の位置、「無所有」、境界的所有の位置がきわめて重要です。社会構成というのは、それらの所有形態の組み合わせによって出来上がるものですから、非常に多様になる。しかもそれに自然的・歴史的条件(空間・時間条件)の多様性が加わるのですから、四つ五つの範疇ですむようなものではなく、数百の単位で考えなければならないというのが、私の考え方です。
 たとえば柄谷行人さんでさえ、『世界共和国へ』(岩波書店、二〇〇六年)で、依然として原始社会、古代社会、封建社会、資本主義社会という枠組みで議論しています。しかし、それはマルクス段階でもヨーロッパにおける社会構成の変遷の素描なので、世界史をそれで解こうなどというのは無理な話しです。所詮、スターリン型のロシア・マルクス主義のシェーマにすぎません。すべてやり直すほかないのです。
 第二に問題なのは、現代世界における国民国家ごとの社会構成の多様性です。もちろん、現代は、基本的には、社会構成論の問題としては資本主義一本でいけます。ですからグローバル資本主義なのですが、しかし、だからこそ国民国家ごとの社会構成の特徴は、これが同じ資本主義社会か、というほど違ってくる。それを規定しているのが各地域の前近代社会のあり方です。もちろん、そこで問題となるのは、前近代社会そのものではなく、近代化の過程で「創造された」要素もふくみます。
 現代の世界史はそういうが過去からの規定を受けて、さまざまな矛盾を抱え込んでいます。たとえば原住民の抑圧にもとづいて形成されたアメリカ「銃社会」の本質的な野蛮性が、前近代ユーラシアの中心であったイスラム世界と衝突している訳です。世界史の総体分析のために、前近代社会論が必須になってきているというのがグローバル化の帰結です。
ーーそういうグランドセオリーは本当にできるのですか。
 保立 『永原慶二の歴史学』での対談で、質問者が永原さんに、どのようなグランドセオリーを考えるべきかと何度か食い下がっているのですが、永原さんは、それを考えるのはあなたたち若い人の責任だと取り合いませんでした。これは仕方ないのかもしれないと思います。
 しかし、我々としても見通しは暗くはありません。永原・網野の世代と明らかに違うのは、ここ二〇年ぐらいの間に、ヨーロッパや東アジアの歴史研究者との関係が日常的になってきたことです。海外の研究者にメール一本で疑問をきけるというのは決定的です。
 それから、ヨーロッパ・アフリカから南アメリカまで、どの地域の歴史についても、基本的な研究文献が自国語で読め、研究者の層が厚いなどというのは世界中で日本だけです。たとえばアミンだとか、ウォーラーステインだとかがいますけれども、ほとんど講座派段階での議論レヴェルと同工異曲でたいしたことはありません。大塚久雄・宮崎市定・井筒俊彦などをもった日本の歴史学界の実力というのは、総合力でみれば世界トップです。とくにやはりアジアに属しているというのが強みで、その意味でも、最近、中国・韓国の研究者と歴史教材とか歴史意識の問題で共同作業が積み重ねられてきたことは大きいです。
 心配は、何しろ研究条件が貧困なこと。とくに、政府財務省が学術・大学の恒常予算をどんどん削っていますから、後継者が確保できない。私の職場でも、毎年、助教の人件費を一人分づつ切っていかないとならない。実際に首切りなどということはできませんから、その分、事業費を削っていく。だから新しい人は採用できない。私はもうすぐ定年ですけれど、私の跡のポストは採用できないといわれています。
 大変なのは若い人たちです。トラップにはまったようなもので、その上、学術自身が衰退していく。補給を絶たれれば、それは必然的です。いったい何を考えているのか。それこそ「戦後」作ってきたものをすべて崩壊させたいのか。
 けれども、新しい世界史のグランドセオリーを考えなければならない時期に入っているのは客観的な状況の問題ですから、これは必然的に進むとは思います。結局、学術・理論より人間の方が大事ですけれども。
ーー最後に読者に何か付け加えたいことがありますか。
 保立 『永原慶二著作集』が完結しましたので、永原さんが何を言われたかを点検することが可能になりました。網野さんの著作集も刊行中です。二一世紀の歴史家にとって、この二つはとても大切なテキストです。そしてそれのみでなく、広く読書人にとっても、津田左右吉や三木清、鈴木大拙らの著作集を座右に置くのと同様に、常に立ち返って読み直す価値のある仕事だと思います。
                                    (了)

スウィージーの『革命後の社会』のノート作り

 今日は病院で検査。スウィージーの『革命後の社会』のノート作りをしていた。私たちの世代だとレオ・ヒューバーマン(高校のM先生の推薦)からスウィージー、マグドフという形で、アメリカの革新思想の勉強をした。そしてパッペンハイムの『近代人の疎外』。なつかしい。いまだに価値があると思う。


 私たちの世代の役割は、やはりあのベトナムの反戦運動、沖縄の「返還」運動、アメリカの公民権運動、そして「学生運動」の時代のもっていた問題、解けなかった問題をもう一度捉え直すことだと思う。さらに荒涼たる風景に世界はみえるが、世代的感傷でなく、ともかく貫かれてきたものもあるのだから。

 アメリカと日本の先進派の思想と学問の関係。それはあの時代、実を結ばずに終わったが、それを縒り直したいと思う。それは戦後思想と「思想の科学」の再評価につながる。日本の歴史学はヨーロッパ史が強すぎて、都留さんと鶴見俊輔氏の仕事の意味、そして講座『アメリカ思想史』の意味を軽視してきた。

 こういうことを考える条件もおそらく整ってきている。

 経済学ではおそらく宇沢弘文氏の仕事が大きいのだろう。ヴェブレンの仕事からケインズーーガルブレイスへの流れをアメリカ経済学との関係で追ってきた仕事。これはアメリカ思想に内在して問題を捉える上では大事なことだ。ヴェブレン『有閑階級の理論』は読み損ねていたが、新訳を買った。

 私のような経歴だと、ウェーバーとパーソンズが次の問題だが、もうパーソンズの勉強をする時間はないから、ロバート・ベラを読み直すことだ。これはできそうな感じがする。

 しかし、もっとも難しいのは、W・ジェームズとプラグマティズムだろう。、そこまでは私の担当ではないが、ジェームズの周辺の神秘主義、スウェデンボルグの影響は、ケーラスを通じて鈴木大拙にも及んでいることを知った(『『日本史学』(人文書院)で紹介した安藤礼二『場所と生霊』)。

 講座『アメリカ思想史』は二巻目しかもっていないが、戦前からの講座派的アメリカ史の研究者、菊池謙一氏の仕事は見事なもの。ここでの歴史学・哲学・文学の研究の協働が維持できなかった理由は、おそらく戦後政治史の激動に深く関わっている。

 アメリカと日本の先進派の思想と学問の関係縒り直すためには、いろいろなことをたぐり寄せなければならないはずだ。大塚久雄先生が、アメリカ思想に深い興味をもたれていたことを思い出す。
 

2017年4月 8日 (土)

トランプのシリア攻撃とサンダースの姿勢

 
 トランプのシリア攻撃について、民主党の一部は、実質上、それを支持する態度を出している。ニューヨーク・タイムズによれば、民主党の下院院内総務のナンシー・ペロシの態度表明は下記のようなもの。これが民主党のだいたいの路線であろう。

「今夜のシリアに対する攻撃は、その政権の化学兵器使用に照応する反応であるように見えます。もし、大統領がシリアへの米軍の関与を拡大するつもりであるならば、彼は議会に来て、中東において、脅威に対処し、また終わりなき戦争をさけることに適合するような、米軍の行動についての承認を求めなければなりません」。

 ニューヨーク・タイムズは、これを「監視したい」という態度表明としている。しかし、このペロシの態度表明の前提となっているのは、これが一時的な攻撃でなく、一定期間は続くという判断を背景にしているようにみえることである。

 問題は、ニューヨーク・タイムズがサンダースのシリア攻撃についての態度表明を「懐疑的」という見出しで紹介していることである。それは次のようなもの。

「私は、この攻撃がアメリカ連邦を、もう一度、中東における長期の軍事的関与の泥沼に引きずり込むのではないかと深く憂慮している」。

 これはペロシのものよりは反対というに近いが、反対という明瞭な態度表明ではない。サンダースは、しばしばストレートに反対をいわずに、最初は疑問にとどめ事態をみながら反対の態度を明示するというやり方をとる。今回もその可能性はある。イラク戦争の時にもそれに似た態度をとった上で、明瞭な反対演説を行った。
 しかし、サンダースは、前回のオバマのシリア攻撃の際も、「私は、オバマ大統領から、なぜ彼がシリアの血なまぐさくて複雑な内戦に介入することがなぜアメリカ合衆国の最大の利益であると信じているのかについてもっと十分な説明を聞く必要がある」という程度の態度表明ですませている。

 サンダースは、このトランプの攻撃がまったく国際法上の根拠がないということを明瞭にいうべきである。これはアメリカの利害がどうかという問題ではない。

 今回のアメリカのシリア空軍基地に対する攻撃は、国際法上、何の根拠もないものである。ヨーロッパ列強、日本が賛同し、中国が理解を示したからといって許されるものではない。アメリカとイギリス・フランスは五日に安保理決議案を提示し、化学兵器の使用事実について国連による調査を求めていた。その結果をみることもなく、こういう行動にでたことは国連無視であり、ようするに一晩・二晩のトランプの判断で独走したということである。これは国連に問題を移さねばならないというのが当然のことである。

 アメリカにおいても、この攻撃は緊急の自衛的なものではない。しかも、憲法では、本来、議会による宣戦が必要であって、それも、一切、手続きをとらない突然の攻撃である。ただ、憲法において大統領が「総司令官コマンド・イン・チーフ」とあることのみを根拠にしたものである。

 もちろん、アメリカ大統領は、一九世紀からほとんどの戦争をこのようにして開始してきた。これはアメリカ大統領制が戦争大統領制といわれる理由であって、19世紀の大統領は相当数がインディアンファイターの軍人経験をもっていた。そして20世紀も世界戦争大統領である(油井大三郎『好戦の共和国アメリカ』岩波新書を参照)。彼らはほとんど連邦憲法に規定された議会による宣戦を守らずに戦争を泥沼化させてきた。

 これがまたまた繰り返されたのである。
 
 トランプの行動に対して議会で正面から反撃がないと、状況は心配である。アメリカの国民は相当部分が戦争の状況に入ると攻撃的な心理を強める可能性がある。たしかにアサドの行動はひどいものである。トランプは化学兵器でやられた子供のことを攻撃の理由としている。しかし、だからといってこのような軍事攻撃によって解決する状況ではない。まずはなぜ、この「内戦」が起きているのか、そこへの列強諸国家への責任は何か、とくにアメリカがどういう責任をもっているかから問題を出発させなければならないのは明らかである。
 
 トランプが国内世論の動き方の目先を変えるために戦争という手段を利用することは予想されていたことである。ここでどういう動きがアメリカで展開するかは、しばらくの間の情勢を決めるだろう。

 基本的な判断は、サンダースの正式な態度表明が何らかの形ででるときを待ちたいが、現在のところ(日本四月九日、七時三〇分現在)、サンダースのツイートや、サンダースの組織アウワ・レヴォリューション(Our Revolution)にも態度表面がでていないのが心配である。

 他国のことを心配しても仕方がないことである。しかし、サンダースは本来は第三党の形成をめざしている。そして、政党であるならば、時々刻々の対応はしないとならないはずだ。Our Revolutionが政党となっていくかどうかは、このような問題について即時に機敏に反応できるかどうか、しかもそれを政党組織としてできるかどうかにかかっている。現在のところやはりサンダース個人の力量に依存しているところがあるのではないか。それがアメリカでのいわゆる第三党形成にとってはつねに大きな制約になってきたのではないかと感じる。こういう戦争問題がアメリカ政治のもっとも困難なところであることが明らかな以上、シリア問題はサンダースにとっても大きな試練であろう。

 もちろん、サンダースは、ユダヤ系でありながら、イスラエルに対する批判を明瞭にもっており、中東問題の理解の基本はあると考えている。イスラエルロビーに対して明瞭な態度をとるアメリカの有力政治家はサンダースのみしか知らない(これは私の視野の狭さ)。

 しかし、オバマに対する発言で、「シリアの血なまぐさくて複雑な内戦」といっていることも気になるところである。このような状況はサンダースも激しい反戦演説をしたアメリカのイラク戦争から生まれたことである。サンダースの視野はどうしてもヨーロッパからの視点、西側からの視点で、中東・インドそして東アジアへの歴史的視野が狭いようにみえる。アメリカの政治家としては、アメリカを中心にしてみるというのは、ある意味では自然なことかもしれない。しかし、サンダースは公民権運動についてしばしば語るが、やはりその青春の時代に関わったはずのベトナム戦争についての言及がほとんどないことが気になるのである。

 環太平洋世界のなかで東アジアをみて、そこからさらに西に向かっていくという、東から西にむかう歴史的視座が、もう少し、ほしいように思う。もちろん、それを作り出すのは、今後の日本・東アジアとアメリカの民間レヴェルの交流かもしれないが。

民族の定義についてーーアメリカ論の前提

 アメリカは多民族国家であるが、その実態を知るためには、国民・民族や「人種」というものの定義を正確にしておかなければならない。まず第一の国民とは「ナショナリティ」であって、具体的にいえば、国家の国籍、市民権によって法的に国家に所属し、政治的な関係を結んでいるということを意味する。そこでは「国家」と「国民」が一対一で面と向かい、国民一人一人が国家と契約し、国家にに属しているという法的な感覚と想像力が前提になっている。ベネディクト・アンダーソンの言い方を採用すれば、国民=ナショナリティとは「想像の共同体」あるいは「幻想的共同体」なのである。

 ここでは第二の「民族」について論ずる、

 もっとも古典的なものはジョン・スチュアート・ミル『代議制統治論』の定義で、ミルは、人種と血統、言語と宗教、さらに地理的境界などの共通性などを条件として歴史的な沿革によって生まれる協働と共感に結ばれた集団のことをいうと述べている。これはかってオーストリアの学者政治家オットー・バウアによりつつ述べた定義とほぼ同じものであって(阪東宏『歴史の方法と民族』1985)、基本的に依拠できるものであるが、もう少し述べれば、これは社会が様々な集団と共同体によって組織されていることを前提に生まれる。つまり、それらの集団や共同体は、必ず相互のネットワークのなかに自然的な共通性やそれにもとずく分業をもっている。そのまとまりが、ミルのいうように、激しい争闘、抑圧、迫害、戦争などの重たい歴史的経験の共通性と運命によって、協同意識をもち、その内部に公共圏や歴史文化を作り出した場合、それについて民族性が生まれたというのである。

 これは国民=ナショナリティとは違って想像上のもの(法的なもの)ではなく、きわめてアドホックな多様で状況的なものであるとはいえ、それなりの共同的利害をもった実在的な関係なのである。もちろん、その民族性がどの程度の広さと正統性をもつか、どの程度の強さや持続性をもつのか、現実は極度に多様であって、決して固定的なものではない。しかし、それはやはり一つの大きな共同体、共同組織なのであって、その意味では人類学のいう「エスニシティ」のことであるといってよい。

 なお、この民族の定義については、ソビエト連邦を全体主義化してヒトラーとともにポーランド分割を強行して第二次世界大戦を引き起こしたスターリンの定義なるものが有名である。スターリンの定義は右のオットー・バウアの仕事を利用して「民族とは言語、地域、経済生活、文化にあらわれる心理状態の四つの共通性を必然条件とする歴史的に構成された人間の堅固な共同体である」と述べたもので(スターリン『マルクス主義と民族問題』)、その特徴は、この四つがないと「民族」とはいわないという点にある。しかし、ミルやオットー・バウアもいうように、これらの標識は固定的なものではなく、どれか一つの標識だけでは民族は成立しないが、逆にある標識が欠けても民族として存在することはありうるというのが実態である。言語学の田中克彦が言語の近接性は民族の必然条件ではないとしていることも注意したい(『言語からみた民族と国家』)。

 スターリンの図式は、近年にいたっても、学術的に何か意味があるような扱いをうけているが、それは「堅固な共同体=民族」にのみ自治と国家的自律の権利を与えることに眼目がある。つまり、スターリンは、この「民族の定義」をソビエト連邦内部において、その異民族・少数民族を「民族」として承認するかどうかの基準として提出しているのである。実際、スターリンの右のパンフレットは、たとえばラトヴィア人は民族ではないなどの恣意的な断定をしている。またユダヤ人についても、ロシア・グルジア・カフカーズ高地の異なる地域に住み、異なる言語を使っているから、単一の民族を構成しないと判定している。ユダヤ人はその広域的な地域間・共同体間のネットワークは否定され、その各居住地に同化させるほかないという訳である。これがスターリンによるユダヤ人に対する迫害と虐殺の原因となり、ひいてはイスラエル建国にあたって、多くのユダヤ民族がソビエト連邦から離れたこと、あるいはソビエト連邦が進んでユダヤ民族をイスラエルにを追い出す結果を導びいたことはいうまでもない。

 ようするにスターリンの定義は、いわば民族の行政的定義であって、そのエスニックな側面を無視することによって成り立っている。それは民族=エスニシティと国民=ナショナリティを区別しないのである。スターリンの論理でとくに問題なのは、「民族とは人びとの人種的な共同体ではない」として「ユダヤ人」を含む「ゲルマン人、エトルリア人、ゴール人」などの「ーー人」と表記した集団を例示していることである。つまり、スターリンは人類の生物学的な分類を民族の定義においてまったく無視するのが特徴である。ユダヤ人が、普通、「人種」といわれることは決して学術的に正確ではないとはいえ、ここにスターリンがユダヤ人を民族から排除したことの重要な伏線があったことは明らかである。

2017年4月 4日 (火)

おきなわという地名、素人語源論

 沖縄という地名がはじめてみえるのは、七五三年に帰国の途についた遣唐使が「阿児奈波島」に到着したという記録である(鑑真訪日の記録『唐大和上東征伝(とうだいかしょうとうせいでん)』)。阿児奈波は「うちなー」に由来するというが、語源については、伊波普猷が「沖漁場」といい、東恩納寛惇が「沖の場所」であるといっている。

 自然としての大地、「地」を古く「な」といい、「奈良」の「な」も「地」であるというから、あるいはこの「なは」も大地というような意味ではないだろうか。「おき」は「沖」ではなく、あるいは「息」の母音交替形で「行ふ」の「おこ」。つまり、「活動する地」というような意味ではないだろうか。別の漢字で書けば「息土」という訳である。

 これが素人語源論であることは認めざるをえないが、ともかくも倭国神話の世界では、列島の島々は火山噴火によって生まれたものであるという地理認識は根強かった。九世紀の伊豆神津島の噴火で、今の火山の女神、阿波神が「三嶋大社の本后にして、五子を相生む」とされていることは、女神が火山島を生むという観念を物語っている(『続日本後紀』承和七年九月二十三日条)。そして、この神津島の阿波神の「御子神」の名前は「物忌奈乃命」であったが、大隅国の海底火山の噴火によって島を「神造」した神は「大穴持神」(おほあなむち)であった。この両者には「な」が共通する。「な」は「地」こことであるから、これは火山の女神が大量の「な=地」を生むという観念を示していると考える。私は、この女神が阿波神といったこと自体にイザナミの国生神話の雰囲気を想定した(『歴史のなかの大地動乱』)。

 なお『延喜式』に残された「鎮火祭祝詞」は、国生神話を「神伊佐奈伎・伊佐奈美乃命妹妋二柱、嫁継給弖、国乃八十国・島乃八十島乎生給比、八百万神等乎生給比弖、麻奈弟子尓、火結神生給弖、美保止焼かれて石隠れ座して」と語っている。鎮火祭は、平安時代以降もさまざまな展開をみせる祭祀であるが、それが「八十国、八十島を生み給い」と九世紀の火山史料と同じ神話観念を語っていることは重要であろう。この祝詞は続けてイザナミが火結神(カグツチ)を生んで「ミホト」(陰部)を焼いて死去したと述べているが、神話学の松村武雄は、この地母神・イザナミの死去は、彼女が火山の女神として火の神を生んで傷ついたことを暗喩したものであるとしている。残念なことに松村は、そこで議論を止めてしまったのであるが、そうである以上、カグツチが生まれる前に生まれた他の国・島も、同じミホトから、火山の女神イザナミが生んだものであることは明らかなはずである。

 そして、こういう観念は南島についてとくに強かったのではないだろうか。たとえば、平安時代末期の平氏政権の時代、俊寛が流された硫黄島について、『平家物語』は「嶋の中に高き山あり。嶺には火燃え」、噴煙と火山灰が降下し、「百千万の雷の音」(火山雷)が響き、「地震」によって山崩れが起きると述べている。

 復興大臣が原発の自主避難者を「自己責任」と言い放つ発言を読んで仕事の手がとまってしまった。ともかく何ということだというツイートをして仕事から少し離れてコンピュータの中に入っていったら、上記のような文章を発見。以前、世界の臨時増刊号の沖縄特集(865号)で書いた文章の削り残しである。

 そろそろ夕食。気を取り直して机の片付け。

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