日本史の30冊。武田清子『天皇観の相剋』
武田清子『天皇観の相剋』(岩波書店現代文庫、2001年、初出1978年)
現代日本における天皇のあり方は国内的な政治によってきめられたものではない。終戦時の国民の力量は、実際上、天皇の位置のような国制問題についてイニシアティヴを発揮できるようなものではなかった。やはり天皇の位置はアメリカによって作られたものである。
本書は、今から40年近く前に発行されたものである。その時期にこれだけの史料に目配りすることができたのは、著者が20代の初めにオランダで開催された世界キリスト教青年会議に出席し、そのまま日米交換学生としてアメリカで3年間を過ごし、神学者のラインホルト・ニーバーに師事したという経歴にあったろう。武田は1942年にニーバーにアメリカに残ることを進められたが、同じ日本人として苦難をともにするという覚悟の下に、交換船で日本に帰国した。しかし、帰国後、日本YWCAに就職し、終戦後も、その延長上で国際的な活動を続けたのである。
そのなかで著者は世界の人々が日本をどうみているのかを実感した。本書には、その経験が生きており、アメリカ、イギリス、オーストラリア、中国(および付論として韓国)の外交官、学者、宗教者などの多様な「天皇観」が原史料や直接のインタヴューによって手際よく紹介されている。ただ、「社会主義」の側の動きを示す史料がかけているのは執筆時期からいってやむをえない。私は、国際キリスト教大学で著者の指導をうけたが、当時、武田の師のニーバーなどのキリスト教神学者たちが、20世紀社会主義の全体主義的性格を強く批判していたことは正しかったと考えている。現在、この時期の世界政治史を見通すためには、どうしても「20世紀社会主義」なるものの問題性をまとめて考えなければならないだろう。私は「社会主義」がすべて全体主義に帰着するとは考えないが、体制崩壊のみによってスターリンが朝鮮戦争を仕掛けたという史料がでてきたことは深刻な問題である。
さて、本書の検討の起点はアメリカである。著者が注視したのは、この時期のアメリカの駐日大使ジョセフ・C・グルー。彼は日米開戦によって、六ヶ月間、大使館内に幽閉されたのちに送還され、途中で日本に帰国する武田らとすれ違っている。
アメリカに帰ったグルーは国務省の「知日派」の中心として活動し、国務次官に就任し、戦争末期に重大な役割をになった。グルーはアメリカの日本占領にとって天皇は有用であり、アメリカによる天皇制の廃止、さらには天皇の戦争責任の追及はさけるべきであるという主張をもっていた。天皇は、中国と南方諸地域にいる数百万の日本兵に武器を捨てよと命じることのできる唯一の人物であるというグルーの指摘は正しいといわざるをえない。
これに対して、アメリカ国務省には中国の位置を重視し、日本の天皇制と戦争犯罪に対して厳しい立場をとる「親中国派」と呼ばれるグループがあった。有名なのは中国研究者のオーウェン・ラティモアである。ラティモアは天皇および皇族をできれば中国に抑留することを提案している。
「天皇観の相剋」とは、このアメリカにおける二つの立場を中心にいうのであるが、重要なのは、その両者を相対化しうる立場として中国の見地があったという指摘である。つまり、蒋介石がルーズヴェルトとの会談において、天皇制の処置については、戦後の日本国民自身の意思決定にまかせるべきだと述べたといい、また中国共産党の庇護の下にあった日本の共産主義者、野坂参三が天皇打倒ではなく、軍部打倒、民主日本の建設という目的の下に広く連帯すると述べたことに注目している。
また個人レヴェルでも、そのような意見は多かったというのが武田の実感であるようである。とくに日本で生まれ、朝鮮で、医療宣教師として活動し、朝鮮での神社崇拝を拒否し、ブラックリストにのり、70日間、獄中で過ごして交換船でどうにか故国に帰り着いたというオーストリアのチャールズ・マクレランとの会見の記録は感動的である。彼も戦争中に同じような立場を表明したという。また同じような境遇で活動したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンについても記述があり、ノーマンが、やはり日本に長く滞在したB・H・チェンバレンの小冊子『新宗教の発明』について論じているのが紹介されている。ここには日本に親しみをもちつつ批判的な見地を維持した欧米の知識人の系譜がみえるように思う。これは近代日本思想史に位置づけるべき問題であろう。
これらは「天皇観の相剋」を相対化しうる第三の立場というべきものであろう。武田は、それと対比すると、アメリカ国務省内部の両派は、結局、どちらも「日本を自分たちのデザインによって自由に作りかえることができるとの確信」の下に行動するパワーポリティクスの思想、一種の西洋合理主義であるといっている。
しかし、本書の面白さは、やはり第二次世界大戦の終了という世界史的な転機の渦中で行動した政治家や外交官の個々人の息づかいのようなものが史料にそくして語られることにある。
中心は、先にふれたグルーで、たしかにグルーの系統的な主張とイニシアティヴがなければ、アメリカの日本占領の経過は、もう少しギクシャクしたものとなったかもしれない。グルーについては、その姿勢の基本はヨーロッパ情勢との関係での強力な反ソ連の立場があったことを論じた藤村信『ヤルタ――戦後史の起点』、またより新しい研究として日本との関係を論じた中村政則『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』をあわせ読むべきであるが、中村も、グルーの現実主義的な見通しの確かさについては舌をまくと述べている。そして、グルーの行動でもっとも注目すべきことは、アメリカの終戦戦略としての原爆投下問題への関わりであろう。
1945年4月12日、ルーズヴェルトが死去し、副大統領からトルーマンが昇格し、5月7日にはドイツが降伏する。それをうけて、5月末、グルーはトルーマンに面会し、日本の「無条件降伏」は軍事的無条件降伏ではあるが、君主国であることをも否定するものではないという声明案に同意を求めた。それが日本の降伏を早め、犠牲を少なくする方策であるという説得であって、新任の大統領トルーマンは、一時、それに賛成したが、しかし、結局、陸軍長官スティムソンなどの反対によって、この声明は潰えた。アメリカ軍部中枢は原爆投下のマンハッタン計画に突き進んでいたのである。原爆の実験成功は7月16日のことであったが、彼らにとって計画に消極的であったルーズヴェルトの死去は願ってもないことであったろう。
グルーはポツダム宣言の起草、通告の経過のなかで、最後まで、「天皇」を「鍵」として使う案を先行させようとして、トルーマンとスチムソンに働きかけ、ポツダムに立つために空港に向かう国務長官バーンズのポケットにメモを突っこむという「異常なほどの執拗さ」をみせたが、結局、原爆の実験成功がすべてを帳消しにした。翌年、スティムソンは、原爆投下によって多くの人命を救ったという論文を発表したが、それにたいしてグルーは、持論を再説し、「原爆投下」と「ソ連の対日参戦」といういまわしい出来事なしに無条件降伏の可能性があった、そうすれば世界は本当の勝利を喜べたのに――と、つきせぬ恨みを書き連ねた手紙をスティムソンに出したという。このような終戦の経過を正確に認識することは、ルーズヴェルトの死のような歴史的偶然の評価をふくめて、いまでも当事国にとっては必須のものであろう。
本書は、それを考える上で、現在でも基礎的な意味をもっている。とくに、武田が終戦にむかう日本において、当時の日本政府の最大の関心事が、国民の運命ではなく、「国体護持」なるものであったことをまず銘記しなければならないと指摘しているのは基本点をついている。
ただ、史料の検討と批判が進んだ現在の立場からみると、すでに本書には日本側の昭和天皇とその側近の動きについては史料批判が甘いところがある。枠組みはアメリカが決めていたとしても、ある時期からは、戦争責任の波及を怖れた昭和天皇側近の宮中派が、その下に取り入って戦後の天皇のあり方について合作した。そこにはグルーの段階とは違う形で、戦後におけるアメリカの戦略があり、アメリカが日本を握る利権・国益についての判断があり、また日本で戦争を遂行した支配層の動きがあった。
私は、アメリカの当初の占領政策が、「知日派」も「親中国派」も、君主制の行方については最後は日本国民が決定することであるという態度をとったことは正しいと思う。そこから「国体護持」を国際的に認めてもらうために「憲法九条」が定められたという結果となったのだという側面もたしかにあるように思う。しかし、それと、右のような合作を推進した日米の諸勢力の評価は、すでに別問題であろう。たとえば、天皇の「人間宣言」やマッカーサーの『回想』などの史料が、昭和天皇の退位をはじめとする諸問題を回避するという占領軍と昭和天皇側近の合作であることは、近年の研究が詳細に明らかにしたところである。
もちろん、著者は思想史家であって、本書のスタンスは占領・被占領経験を思想史的に考えるということにある。それは著者が「敗戦と天皇制」の問題を一つの異文化問題として経験した以上、当然のことである。しかし、現在となってみると、この時期の異文化交錯が、いったい何を残したかを真剣に考えざるをえないように思う。
問題は、この時期、元首相近衛文麿、東大総長南原繁、さらには志賀直哉その他の多くの人々が、少なくとも昭和天皇は退位すべきだという意見を表明したことである。武田が強調するように、終戦時、国民の大部分がアジア侵略についての責任意識にかけ、天皇制を維持することを当然と考えていたなかで、これを日本人自身の責任で実現することは最低の倫理的な筋の通し方であったのではないだろうか。逆に、この点では、この時期、ほぼ唯一の反戦勢力としての権威をもっていた日本共産党が、さきにふれた野坂の見解とは相違して、獄中に長く囚われていた徳田球一など指揮の下にもっぱら「天皇制打倒」をスローガンとして過激に行動したことも問題となろう。また戦後派の知識人一人々々の思想と行動も問われるに違いない。
このような問題をふくめて国民全体が、より成熟した態度をとれなかった理由を思想史の外からも詰めていき、そのような視野の下で現在の政治と文化を考えることが必要であるに違いない。
『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。
参考文献
中村政則『象徴天皇制への道』(岩波新書)
吉田裕『昭和天皇の戦後史』(岩波新書)