基本の30冊、平川南『律令国郡里制の実像』
平川南『律令国郡里制の実像』(上下、吉川弘文館、2014年)
著者は、東北の多賀城の研究所にいたとき、漆桶の蓋紙に使われた奈良時代の反故紙が漆でコーティングされ、赤外線ビデオで透視すれば文字が読めるのを発見した。木簡に次ぐ、発掘文字史料の登場である。これは古代史研究のあり方を大きく変えた。つまり、従来の古代史研究は中央集権というイメージの下に、おもに法制史料を中心に進められ、そのため、国家の地方支配も「国・郡・里(郷)」という地方制度の形式的な枠組にそって論じられてきた。それに対して、著者は、考古学者と協同して、発掘された地域史料を中心に問題を組み立ててきた。本書は、書名が示す通り、古代の「律令国郡里制」の形式的な制度研究に対して、その「実像」をはっきりと対置したものである。
まず最初に取り上げられるのは、七道の制度である。そこでは、諸国の国名の語義が抜本的に見直される。国名は、ヤマトの支配層が七道を行き来するなかで、その視点にもとづいて名付けられたものであるというのである。たとえば、本居宣長以来の通説によれば、武蔵はムサ上、相模はムサ下、両国は牟佐国という国を上下二つに分けたものだということになっていたが、武蔵は本来東山道ルート、相模は東海道ルートで上総・下総につながる以上、相模と武蔵の国名は個別に考えるべきだ。サガミは関東の入口、足柄坂のサカに関係し、ムサシは「六差」であって周囲六国に道が通じている意味だという。同じように甲斐も「交ひ」、つまり北の東山道と南の東海道の結節点にある国であるといことになり、それは有名なヤマトタケルが甲斐酒折宮を拠点にして、東山・東海の両道を制圧したという伝説に結びつくというのである。
国家機構は交通形態から生まれる。つまり中央と地方を結ぶ「道」から生まれたということになるだろう。とくに東国の場合は、その先端の「道の奥」(陸奥)や「出羽」(イデハ=出端)に蝦夷地への軍事植民組織、「柵・城」が置かれており、それをふくめて奈良時代になっても、「道」にそって陸奥出羽按察使などの広域軍事行政が残ったということになる。越が越前・越中・越後、吉備が備前・備中・備後、筑紫が筑前・筑後に分割されたのも同じことである。
こういう「道」にそった広域支配が実際に大きな影響をあたえていることは、諸国の「国」自体が、道にそった地理的な条件によって「道前・道後」などとブロック分割されたことにも現れる。これは鎌倉時代になっても国府・守護所を中心として各地に「奥郡」というブロックがみられるのと同じことであろう。このブロックの形態はきわめて多様であるが、しばしばそれに関係して出羽・加賀・丹波などの国の分出、さらには国府の移転が行われたという。しかも、こういうブロックは、国司の守・介・掾・目の四等官による地域担当に結びついていた可能性があるという。従来は、ややもすると、国司のうちの守のみが指揮系統のトップに位置すると考えられがちであったが、実際には、各地から、「守」だけではなく、「掾・目」に「大夫」という尊称を付した木簡が出土している。これは国内の各地域において四等官が独自の権限をもっていたことを示すというのである。
これは国内の郡里のレヴェルでも同様であって、丹波、甲斐、陸奥などの事例から郡が内部で「東西」分割されている様相が明らかにされる。郡には郡家郷(郡衙の所在する郷)のほかに、それに準ずる大家郷、さらにたとえば氷上郡に氷上郷というような郡名郷が同時的に存在する場合がある。これらには様々な経緯が想定されるが、ようするに本質的には、それらは郡衙別院などと史料に現れる郡衙の支所というべき存在であるという。こういう分郡といわれる現象は、制度が崩れていくということでなく、郡そのものが分掌と分割の可能性を最初から含んでいるのである。
さらに下の「里(郷)」レヴェルも一枚岩ではない。著者は郡が「里刀自」に令して労働動員する様子を示す木簡史料などから、里(郷)の内部に「氏」の集団が存在していることに注目する。そもそも「郡・里」のあいだの分割・分掌は「氏」に関係しているのではないか。さらに著者はこの「氏」と重なって「村」(ムラ)があったことをも示唆するようである。この「村」はおもに里(郷)内部の地点や領域表示、さらに五十戸の戸籍を施行する前の集落表示に使用される用語であり、ようするに郡里の内部には一定の集落性をもつ「村」が隠れていたのである。ただ注目すべきなのは、「村」が郡内部の複数の里(郷)をふくむような広域表示として使用される場合もあることで、著者によれば、これは「村」が「群集一般=ムレ」というより一般的な語義をもっていたために、それをつかって里(郷)のような単位を外れたまとまりの呼称として使ったのであるという。これは複数の里(郷)をふくむまとまりという意味では、郡の分割と同じことであろう。里(郷)と村の関係というのは、第二次大戦前の清水三男の提言以来の大問題であるが、ここに確実な検討の方向が明らかになったように思える。
しかも、この村のレベルに照応して、郡郷の内部には駅家・厨家・烽家・津司などという多様な交通組織が存在していることを示す木簡が続々と出土している。そこに明らかになるのは、地域支配機構が網の目のように広がる陸路と海路の交通網に瘤のように結節している様相である。これらの組織の駅長・厨長・津長・庄長などの史料も出土しており、9世紀になると中央の文献にも税長・調長・服長などが登場する。「里長」もふくめると各郷に相当の「長(役人)」が生まれているのであって、私は、これらの人びとのうちの有力者は「刀禰」といわれているに相違ないと考えている。刀禰は男の有力者で、前述の「(里)刀自」は女の有力者ということになる。
こうして、「国郡里」の行政組織は、実際には「道>国>郡>里(郷)>村」という五階層を越える重層的な実態をもっており、その間の指揮・分掌系統も単純なものではないことが明らかになった。これによって8・9世紀の地方組織のイメージは根本的に塗り替えられてしまったということができる。ただ、本書は上下二冊、全体で八〇〇頁余の大冊であって、その分析は詳細・極微にわたるから、その全体のイメージをつかむには、著者が本書の各論文を基礎にして一般向けに叙述した日本歴史の通史シリーズの一冊『日本の原像』で読まれた方が分かりやすいだろう。著者は石母田正ー青木和夫と続くいわゆる「在地首長制論」の直系の位置にある研究者なので、その古代社会論の大枠のイメージも通説を前提とすれば分かりやすいものである。この『日本の原像』を脇において、その詳細な史料実証編として本書を読めばさらに眺望は広がるだろう。
しかし、私は、本書は、おそらく石母田首長制論の大崩壊の開始の記念碑になるのではないかと思う。すでに紹介したように(■■■頁)、石母田は、奈良時代の国家支配、いわゆる「個別人身支配」は建前であって、その内実は首長制的な郡司による共同体支配にある。それこそが一次的関係であって、国家の地方支配はそこから派生した二次的関係にすぎないという。しかし、首長制的な関係は宗教やイデオロギーには残っているものの、すでに国家的な関係による地域社会の直接組織が中軸となっているというほかない。六世紀ころまでは地方社会にいきづいていた首長制は、すでに断片化し分散して、国家の地方支配のなかに埋め込まれ、それと一体になっている。律令制的な「個別人身支配」が、本書が明らかにした重層的な役所の構造によって実現しているのである。そこから切り離した首長制支配というものを「一次的生産関係」であるとして仮想する必要はないのである。
その条件となったのは、奈良時代が、文明化と急速な開発と交通によって、国郡里の行政組織の周囲に経済組織が無秩序に群生したことにあるだろう。九世紀の国家と社会は、それに連続して、京都の都市王権を中軸とする、より安定的な王朝国家のシステム=国衙荘園体制の大枠を形成したのである。地域社会では開発にともなって郡郷の組織がさらに個別化し、「郷倉・里倉」が分立・増加していく。村井康彦が論じた「里倉負名」である。彼らは「倉」を拠点として田地耕作を「負名(=村の氏の名を負う身分)」として請け負う。この田地耕作契約は、律令制では「班田」といい、9世紀後半には「散田」といわれるようになるが、「班」も「散」も「あがつ(分与する)」と読む行為であって、両者を厳密に分けることはできない。ようするに「個別人身支配」が基本的には連続しているのである。
戸田芳実が明らかにしているように、10世紀以降の地域社会の秩序は刀禰によって作られている。前述のように彼らは、8世紀以来の「長」たちに連続する存在であり、耕作の共同体的な秩序を指導する者としては「田刀(=田刀禰)」と呼ばれ、国家(および庄園)に対する田地の契約主体としては「負名」といわれた。この田刀が平安時代なかばに「田堵」という普通の農民に対する呼称に変化し(「田や屋敷を堵で囲む人びと」という意味)、負名が「名主」に変化するのである。
従来の古代史研究は、普通、奈良時代の「国郡里」の地方組織は9・10世紀に解体していくという制度史的な解体史観が多かったが、平川による国郡里制の実像の捉え直しによって、このような連続的な把握が可能になったのである。ただ、そうであるだけに、私は、石母田の首長制論の理論の枠組を詳細に点検して、その影響から自立していくことが、今後、必要なのではないかと思う。平川も、遺跡の観察から9・10世紀の地域の有力者たちが新しい経営を作り出す様子を論じているが、しかし、それは平安時代の農村史研究と噛み合うレヴェルにはなっていない。そのためにもまず石母田ー青木の見通しを清算しておくことがどうしても必要だろうと思う。
『日本史学』(基本の三〇冊、人文書院)に所収のものです。新学期ですので、公開します。ただし本になったものの下稿ですので、正確なところ、引用参考文献その他は本をみてください。
参考文献
平川南『よみがえる古代文書』岩波新書、1994年
平川南『日本の原像』小学館、2008年
戸田芳実『日本中世の民衆と領主』校倉書房、1994年
村井康彦『古代国家解体過程の研究』岩波書店、1965年
保立道久 『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年
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