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2017年4月17日 (月)

「無知が先か、無責任が先か」

 国家中枢部の状態について「これは無知のせいなのか、無責任のせいなのか」ということを考えさせられるというのはきついことである。

 もちろん、「無知が先か、無責任が先か」という言い方にはやや語弊がある。いうまでもなく、「知があればよい(賢ければよい)」、「責任をとっていればよい」ということではないからである。

 また、「無知が先か、無責任が先か」というのは、「鶏が先か、卵が先か」というのと同じことかもしれない。そして、こういう鶏・卵問題には通常、より根本的な問題があるということが多い。無知が中枢に侵入するというのは、いわば「無知」が社会的に浮上するという動力が働いているということである。その動力が何かということを、よく考えてみる必要があると思う。その側面からみれば、「無知」「無責任」が社会の中枢で脚光を浴びてしまうのは、同じ構造によるものだろう。

 しかし、それにしても、やはり「無知が先か、無責任が先か」というのは重要な問題だと思う。そして、どちらかといえば、これは「無知」が先なのではないか。「失敗学」という考え方があるが、「無知」というのは、そこからいえば「失敗」の初期条件だろう。
 「無責任」というのは、どちらかといえば「結果責任」に関わることで、うまくいっているうちは、「無責任」は問われないで済んでしまうことも多い。そういう局面が、これまで多かったのだろう。間違った初期条件から出発して、「責任」を取っていると、結局、「無責任」になるという訳である。

 日本の政治風土を「無責任の体系」として特徴づけたのは、よく知られているように、丸山真男であるが、ここから考えると、むしろ「無知の体系」というものが日本社会に根づいているということの方が重大な問題なのかもしれない。
 
 ともあれ、問題は日本社会の「体質」とか、社会風土、文化意識、政治意識などといわれる問題ではなく、社会のシステムや構造の問題、上の言い方では「無知」が中枢に押し上げられるような社会的動力の問題である。これをキチンと考えておかないと、私たちの国家は国際的に恥をかくということになりかねない。これも日本的な「恥の文化」かも知れないが、ともかく信じられない話である。

 以上、再掲。二〇一五年七月より。

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