人類が類(類的存在)であることと「霊」スピリットという言葉
人類が類(類的存在)であるというのは、人類が身体でも霊的にも自身の類や他の類をも類として対象とするからであるが、そればかりでなく、むしろ、人類は個々に自分自身に対して目の前にいる類それ自身であるかのように振る舞うし、自分自身が人類の霊の一部をなしている自由な存在であるかのように振る舞うからである。
この超越に人類の霊的な性格と自由が現れている(『経済学・哲学手稿』「疎外された労働」藤野訳一〇四頁の一節をパラフレーズすると、こうなるのだと思う。「霊」スピリットという言葉でないと言い表せないことがあると思う)。
これは「本来の物質的生産の領域の彼岸にある」「自由の王国」、分業もなく、個人が中心の連なりあった社会という場合にも、この人間が類的な存在であるという本質規定は生きていく。つまり「必然性の国」を超越する存在であるということになる。霊は身体に宿り、そこを越えていくことはないが、社会的な分業の排他領域を越えていく。
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