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2017年4月18日 (火)

戦前社会には家族国家論というのがあった。

 戦前社会には家族国家論というのがあった。「国家は家族のようなものだから我慢、我慢」という論理である。国家と家族は違うから、こういう論理はもちろん成り立たない。しかし、当時は、国家のイメージは家族のイメージと同様に分かりやすかったのであろう。

 現在の国家はいってみれば「非家族国家」。その意味は、家族の中ならできないような常識はずれのことをやっても平気な国家という意味である。あるいはすでに家庭も崩れているから「現代家族国家」でもよいという意見もあるかもしれない。たしかに政治家たちの姿をみていると「家族・親族」の中のおかしなオジサンという感じも強い。

 こういう国家がはじまったのはもう30年前か、中曽根某氏が「絶対に消費税は上げません。この顔が嘘をつく顔にみえますか」と大見得をきって選挙に勝ち、手のひらを返したようにではななく、手のひらを返して消費税を導入して以来のことである。政治家はうそつき、常識はずれというのがあれ以来決定的になった。「うそつきは泥棒の始まり」という人生訓の効き目が一挙になくなった。道徳を人並み以上に強調していた政党が社会倫理を壊した。この政党はなにしろ「道徳教育法案」というのをだした。たしか私が小学生のころのことである。小学校時代の恩師が怒っていた。倫理を壊し家庭を壊してきた人々、「非家族国家」であれ、「現代家族国家」であれ、そういう国家を作ってきた人々である。

 そういう人々を、それでも選出し続けていたから、こういうことになる。日本社会はつねに上からくずれるから、あるいはこれは国民の高等戦術か。

 二〇一一年六月の再掲

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