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« スウィージーの『革命後の社会』のノート作り | トップページ | 大塚史学の方法と労働論・分業論・共同体論 »

2017年4月10日 (月)

戦後派歴史学と永原慶二氏

 日本読書新聞のインタvユーがでてきました。相当以前なので掲載します。


 「戦後歴史学」を代表する存在であった、永原慶二氏の仕事を集成した『永原慶二著作選集』全一〇巻が刊行された。専門の日本中世史研究のみならず、史学史や歴史教育、歴史学の方法論といった、永原氏の幅広い業績の全体像をうかがい知ることができる。本著作集完結を機に、第九巻『歴史学序説 20世紀日本の歴史学』の解説を執筆した東京大学史料編纂所の保立道久氏に、「永原史学」をめぐって話をうかがった。(5月12日、東京大学にて/聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)
 日本読書新聞
 


「戦後歴史学」内部からの戦後歴史学批判

 ――保立さんは、『歴史学をみつめ直す――封建制概念の放棄』(校倉書房、二〇〇四年)の中で、永原さんを「もっとも戦後歴史学らしい学風をもった歴史家の一人」と書かれています。
保立 それが実感です。私は一九四八年生まれですけれども、私ともう少し下の世代までは、石母田正さんの『中世的世界の形成』を読んで中世史に誘われ、次ぎには永原さんの仕事をテキストにして勉強を始めたという人が多いのです。
 戦後歴史学を代表するというのは、まずはそういう経過の問題です。たしかに永原さんは、皇国史観に対する強い批判、経済史を基礎にした普遍的で透明な論理などの点で、いかにも戦後歴史学という方です。しかし、戦後歴史学の最初の指導者であった石母田さんや松本新八郎さんとは、関係も強いだけに一定の批判があったはずで、早くから戦後歴史学の限界面について意識的な発言をされています。
 これは石母田さんの自己批判にも関わっているのですが、すでに一九六〇年代半ばには、戦後歴史学の発展段階論が一国史的、単線的、西洋中心主義的な傾向をもっており、天皇制に対する批判が国内的視野に偏っていたと指摘されています。近代歴史学は「帝国主義支配民族の歴史学という宿命」の中にあり、戦後歴史学も、その宿命から自由ではなかったという言い方をされています。
――いわゆるオリエンタリズム批判を、一九六〇年代に自覚的になされたわけですね。
保立 いや、オリエンタリズム批判ということになれば、もっと早く、既に一九五〇年代の後半、『日本封建社会論』(本著作集第一巻に収録)の冒頭に、その趣旨を書かれています。もちろん、オリエンタリズム批判という言葉ではありませんが、いわゆる「アジア的停滞性論・宿命論」がヨーロッパ思想の中に組み込まれているという批判は、日本の戦前の学界でも相当高いレヴェルで議論されています。永原さんは、これを明瞭に引き継いで議論を立てています。
ーーそんなに早いのですか。
 こうした批判は、ここ二〇年ぐらいで誰もが言うようになりました。しかし、それは実は、早くから戦後歴史学の中枢部にあったということです。その事情も知らずに周知のことを繰り返しているのはあまりにジャーナリスティックで、研究者の場合は無教養の証明です。
 最近は歴史学がいろいろ批判を受けますし、たしかにそのとおりかもしれません。しかし、では他の学問はいったい何をしていたのか。法学や経済学は、それだけ自前で自慢できることをしているかどうか。他人事ではないはずです。
 いま二〇世紀の人文社会科学全体が問い直されています。その中で、歴史学の問い直しは決定的な位置をもっています。なぜなら、歴史学からみると、我々の対極にあるのは哲学です。そして歴史学と哲学の間には実用性をもった法学・経済学その他の個別科学があります。法・経済などは個別科学であるというのは永原さんの言い方ですが、歴史学は哲学と同じように総合と論理で勝負する学問です。ただ哲学と違って、個別科学と素材を共有し、その全体を直接に総合する位置にあります。ですから、人文社会科学の問い直しの上では、いちばん重要なのです。
 永原さんの歴史学は、いわば全面展開の歴史学です。対象とした時代の幅も広く、たとえば『日本経済史』(本著作集第八巻に収録)などは、原始から明治時代末期までを一人で書いています。そして社会構造論から政治史、思想史まですべて展開しています。ですから、歴史学を問い直す上では、まずこれに挑まないといけません。
――そうした永原さんの仕事の理論的な基盤には、戦前の『日本資本主義発達史講座』の「講座派」の大きな影響があったのですね。
保立 その通りです。ただ、講座派の中心は明らかに経済学と法学でした。講座派によって歴史学ははじめて法学・経済学の厳密な方法を学び、対等な地位に進みました。現在の法学や経済学が講座派の議論をなかば忘れつつあるのではないかと心配ですが、事柄の性格からいって、歴史学は講座派を忘れる訳にはいきません。
 もちろん、歴史学の中でも講座派の議論については批判が強くなりました。私も、戦前の日本社会をすべて封建制というイメージで塗り込めるような傾向には賛成できません。江戸時代の広い意味での「近代性」も無視できないと考えますし、明治以降に発達した市民社会の実質はやはり相当のものです。しかし、戦争遂行のために市民的自由が抑圧され、その抑圧の仕方に前近代的性格が非常に強かったことをことは明かです。いわゆる労農派が基本的なところで錯誤をおかしたのはまったく明らかです。日本社会をはじめて社会構造と歴史に踏み込んでとらえることに成功した講座派の議論の意義は何をおいても再確認する必要があります。
 講座派は、戦争に対する批判をし、戦争の結果がどうなるかについて予測しました。彼らの相当部分は現実に行動して牢獄に囚われたわけですから、経過からしても、永原さんを含めて当時の若い研究者が講座派に流れたのは、自然なことだったと思います。
ーーやはり吉川弘文館からでている『永原慶二の歴史学』(永原慶二追悼文集刊行会編、二〇〇六年)によると、永原さんは学生時代に東大の前の古本屋で講座の一部を入手されたということですね。
 私たちからみると、あの戦争体制の時代に、ひそかに『講座』を読んでいたというのは驚きです。第二次世界大戦を推進したイデオロギーは、ご承知のように皇国史観でした。それがつぶれた訳ですから、戦前社会で階層的にも上の方にいて、エリート教育の中にいた人々がドッと歴史学を専攻するということが起きたわけです。ただ永原さんは、戦争の最中から批判的であった訳で、こういう言い方はよくないかもしれませんが、それは永原さんが、飛び抜けて優秀な人であったことの証明だと思います。
 永原さんが、小学校から秀才で通した人だというのは歴史学界では有名な話しです。戦前にもエリート小学校というものがあったそうですが、永原さんは青山の青南小学校の卒業です。それから、たとえば、永原さんは高校時代、ギリシア史の村川堅太郎氏に習っていますし、大学時代にも東大法学部の川島武宜氏の研究会に出ています。戦後、結婚されたときは戦前からの著名な歴史家・川崎庸之さんが保証人ですが、川崎さんのいとこが戸坂潤です。母子家庭で育った戸坂潤は川崎さんの実家に寄留して、永原さんと同じ青南小学校に通っています。川崎先生は網野善彦さんの仲人もされています。私は、それを知った時、戦後中世史学というのは本当に狭いところから出発しているんだと奇妙な感じになりました。
 話しがずれましたが、人間関係の上でも、戦前の市民派ないしマルクス主義知識人のそばに、永原さんたちの生活圏があったわけですね。講座派を担った経済学者や法学者たちは、戦前の日本社会の中でトップレベルの知識人だったわけですが、さらに一回り広い範囲の若手の研究者が戦争に大きな衝撃を受けて歴史学の道に進んだのです。
――戦後歴史学の人間関係の狭さというのは、はじめて聞きました。
 保立 「戦後歴史学」という言葉ですが、現在の歴史学界では「現代歴史学」とか「批判的歴史学」という言い方をします。なぜかというと、戦後歴史学という言い方では、二〇世紀後半の歴史をすべて「戦後」、それ故に長い平和の時期として見てしまう落とし穴に陥りかねません。第二次世界大戦の終わりから、もう六〇年以上たっているわけですし、しかも世界各地はもとより、東アジアでも戦争が連続してきたことを、学問の論理の中で忘れかねないからです。
 ただ、戦後歴史学という言葉にこだわらざるをえない面もあって、第二次世界大戦に対する本格的な反省が、日本社会では行なわれていないためです。いうまでもないことですが、戦後処理の課題を、日本社会は持ち続けている。もちろん、これは学問的な問題であるよりも先ず政治の問題です。ヨーロッパでは、政治的な問題として決着がついているわけですから。けれども、長い間の政治の不決断が続いていることを他人事とみるわけにもいきません。

 アカデミズムの自己認識、職業としての学問

――永原さんは晩年、『20世紀日本の歴史学』(本著作集第九巻に収録)を書かれますが、ご自身もその史学史のなかの歴史家として、近代以降の歴史学の自己検証という大きな課題を担われた、といえるのでしょうか。
 保立 永原さんは、歴史学研究会などの学会の運営に関わり、日本学術会議の中心メンバーでもありました。文化庁の文化財保存の委員でもありましたし、『中公 日本の歴史』などのほとんどの通史や、学会編集の講座など、大規模な出版のほとんどすべてに企画委員の立場で関わりました。さらに、家永三郎さんが始められた教科書検定訴訟でも中心的な役割を果たされ、教科書をめぐって中国と韓国の間で問題が起きたときも、必ず必要な発言をしました。
 『20世紀日本の歴史学』は歴史学のアカデミズムの通史です。アカデミズムというとあまりよいイメージでないかも知れませんが、それは「職業としての学問」ということです。永原さんは職業人の責任として、歴史教育のあり方や社会に対する歴史の情報の提供の仕方について学界の責任を取るということを、非常に強く意識されていた。
 歴史学が社会的に負っている課題と責任とは何か、それを担うために我々がどういう方法を組み立てなければいけないか、どういう形で議論を展開しなければいけないかを、経験を通じて書いた。これは、永原さんでなければ書けない本です。そして、その特徴は、じつは、歴史学のアカデミズムに対して見方が非常に厳しいことです。中心にいたからこそ、そうみえるのでしょうが、日本の歴史学がどうしても無思想になり、史料の細部を分析するだけに陥りがちであることを、厳しく批判しています。
 ――厳しいということでいえば、たとえば『20世紀日本の歴史学』の中で、網野善彦さんの歴史観に関して、それは一種の空想的浪漫主義であり、日本浪漫派の歴史観に通底する、という評価をされています。その点に関して、どのようにお考えですか。
 保立 このところ、黒田俊雄さん、石井進さん、網野さん、永原さんと、戦後歴史学を担った中世史家が次々に亡くなっています。我々にとってはとてもきついことです。私などは、彼らの関係を目撃した最後の世代に属するのかもしれません。本当に仲がよく、互いに信頼しあっていて、しかも相互にメチャクチャにいいあうのです。
 見ていて羨ましいというのが第一でしたが、なぜ、こういう人間関係が可能なのかということはずっと不思議でした。やはり戦中から戦後への一番大変な時代を共有したことが、決定的だったのだと思います。我々はそんな歴史的経験をもっていません。歴史が大きく動き、その中で歴史学と学問が行動せざるをえないという時代には生きていないわけです。
 私的な話ですけれども、青山の永原さんのお墓にお参りをした時に、奥様の話をうかがいました。網野さんが亡くなった後、永原さんが山梨の網野家にお墓参りをしたときに、泣いたというんですね。奥様は「私は永原が泣くのを初めて見ました」と言われていました。それは網野さんも同じで、笠松宏至さんが永原さんにガンが発見された直後に、それを聞いて、網野さんに電話で伝えたところ、網野さんが絶句して、異様といってよいほど取り乱されたそうです。
 網野さんは永原さんの高校の後輩で、史料の読み方、論文の書き方などは永原さんに教わったといいますから、ほとんど兄弟の関係のような感じだったのだと思います。そういう関係には立ち入れないものを感じます。そもそも、こんなことを伝聞でいう資格はないのですが、五〇年以上、肝胆相照らすという関係で学問をしてきた研究者同士の関係が独特なものとなることくらいはわかります。
 浪漫主義というのは一面では、永原さんが熟知する網野さんの人柄なのだと思います。それは網野さんは本当に魅力的な人でしたから。ただ、他面で、要するに永原さんは、網野さんをだしにして、歴史学が陥りがちな傾向、つまり「無思想」でなければ浪漫主義になる、いわゆる歴史主義の陥穽をいいたかったのだと思います。若い頃から言いあっていたのではないですか。網野さんにしたら、「まったくもう」という感じでしょうけれど。
 ともかく、我々は、網野さんと永原さんの両方を乗り越えなければいけない。そういう立場にありますから、表面でなく、内容に踏みこんで二人一緒に批判することになります。そして、そういう観点から二人の仕事を見てみると、表面的にはまったく違うかのようですが、実は意外と似たところが多いんです。


 永原史学の特徴と方法

 ――永原さんの歴史学の特徴とはどのようなものだったのでしょうか。
保立 二つあって、第一の特徴は、中世社会を構造論的に捉える立場で、『日本の中世社会』(本著作集第三巻に収録)や『日本中世の国家と社会』(本著作集第七巻に収録)などに典型的に表れています。永原さんはそれを、日本社会の集中的・求心的構造といわれますけれども、天皇制的な都市、首都による全国支配の構造がなぜ成立し、発展し続け、残り続けているのかを、執拗に問い続けたわけです。これが、永原さんの社会構造論の中心に据えられています。
 それから第二の特徴は、南北朝・室町時代の研究の開拓者だったことです。戦後中世史学というのは、石母田さんの『中世的世界の形成』で始まりましたから、平安・鎌倉時代が最初の舞台だったわけです。それに対して永原さんは、南北朝・室町・戦国時代を固有のフィールドとして、その時代の研究に責任を持ちました。永原さんが研究を始められた当時は、室町時代と戦国時代については、研究がそれほどありませんでしたし、史料も整っていませんでした。永原さんはそこを配慮しながら共同研究を組織しました。その功績がきわめて大きいことは、この時代の研究を知っているものの共通認識です。
 ――研究方法についても、永原さんの独自性を指摘されていますね。
保立 研究の方法としては、第一の側面として、経済史と社会構成の移行の理解をベースにおいて通史的な枠組みを描き出したことです。その中心となったのは、室町時代の経済発展の理解で、永原さんは、この時代の生産諸力の発展、商品経済と社会的分業の展開を高く評価します。
 耕地は安定化し、都市が発展し、それを基礎にして文化が民衆化する。永原さんは、明らかに、この段階を一三世紀以降のヨーロッパ封建制と同じような経済のテイクオフ、新しい技術と文明という脈絡で捉えています。これを封建制の第一段階というわけで、それをベースとして比較すると、平安時代はやはり古代であり、江戸時代は封建制の第二段階で別の社会ということになります。
 日本の社会構成論にとっては、中間の「中世」をどう捉えるかというのが、決定的な位置をもっているのですが、この点を永原さんがつかんだ訳です。その特徴は、封建制とは支配や抑圧の問題とイコールではなくて、むしろ室町時代はヨーロッパと似て、内乱と地域的な分権、それに庶民と村々が巻き込まれるような時期という意味で封建制概念を理解しています。そして戦乱を中心としてみると、大変暗い時期だけれども、同時に室町時代の社会は逆に不羈奔放で経済が発展するという二面的な把握です。暗黒といわれていた室町時代を中心において、ともかく鎌倉から戦国時代まで理解を通すために、経済史の方法が一番有効に働いたということだと思います。こうして、全体の通史が一応の枠組みとしてできたわけです。
 それから第二には、民衆史を大事にしたことが大きいですね。特に『下剋上の時代』(『日本の歴史』一〇、中央公論社、一九六五年)が有名ですけれども、民衆を主体にして室町時代を描いたわけです。『内乱と民衆の世紀』(『体系日本の歴史』六、小学館、一九八八年)では、室町時代は、貨幣と都市の魔力が本格的に始まった時代といわれています。文化にしても、連歌にしても、村々を中心に生産と交通・分業が発展し、その中で民衆が社会的な地位を向上させる。これは内藤湖南と鈴木良一さんの影響だと思いますが、『下剋上の時代』でマルク・ブロックを引用して、この時代の民衆心性の「野性」を論じていることも印象的でした。
 ――ブロックのマンタリテ、心性論への注目などというのは相当早いですね。
 保立 そうですね。我々は、永原さんというと端正な方と考えがちなのですが、永原さんは、実際には、室町期の民衆の野性的なところが好きなのではないかと思います。社会史の先駆ということですが、社会史研究との接点ということになると、いわゆる公共性の問題についての議論も重要です。これが第三の研究方法の特徴になるかもしれませんが、永原さんの仕事は、いわゆる階級史観でなく、公共性論だったということです。単純に階級原理から論ずるのではなく、社会的・公共的な機能を誰がどう果すかということを中心に、議論を組み立てるスタイルですね。
 室町時代の文化や経済の発達は、国家と支配層と中間層と民衆が一緒にやったことであって、すべてを階級原理で解くことはできない、前近代の民衆の構造を無媒介に階級原理で捉えたり、もっぱら戦うものとして捉えることは正しくないというわけです。庶民の動きはベースにあるけれども、他のさまざまな諸階層の動きが全体として絡まり合って歴史は動くと、明瞭にいわれています。
 ですから逆に、知識人や支配層、および国家の社会的責任を問うことになるわけですね。国家は、公共的機能をどこまで果たしてきたか。室町期の国家は結局それを果せなかった。だから、戦国大名が出てきたというのが、永原さんの把握です。


 永原慶二氏と網野善彦氏の共通点と相違点

 ――網野さんは、永原さんの仕事を強く意識されていたのでしょうね。
 保立 網野さんは、永原さんの『下剋上の時代』(中央公論社、一九六五年)をよく読まれていたと思います。この本は室町時代の非農業民や社会的分業を構造として明瞭に位置づけた初めての通史ですが、網野さんが『蒙古襲来』(小学館、一九七四年)でそれに対抗しようとしたことは明かです。
 我々から見て、お二人に共通するのは、何よりも、天皇制と日本社会の特質論です。網野さんのいう「日本論」ですね。永原さんの議論は『日本の中世社会』で明示されていますが、ようするに天皇制的な諸関係の根拠を、共同体間の世界と都市・社会分業に対する公共的支配に求めるわけです。網野さんも「無縁」の場、都市と境界領域に王権の根拠を求める訳です。二人とも、日本社会は東アジアやヨーロッパと比べて相当独特な社会であるが、それが何故なのかということを執拗に問い続けられたという姿勢の点でも同じです。というよりも姿勢が同じだから、相似する議論枠組みを取られたといった方がよいかもしれません。
 もう少し詳しく見ると、お二人の共通性は三つあります。一つは、室町時代を、網野さんも日本の歴史の「近世化」の画期とみます。それを「資本主義化」ともいえるなどといわれるので、永原さんは猛反発をするのですが、けれども実態認識としては、先ほどいいましたように、永原さんもそう違わないのです。ですから、全体の通史イメージについて、二人は意外と似ているというのが、私の昔からの考え方でした。
 それから二つ目に、領主と百姓の関係についてですけれども、網野さんは、領主と百姓の関係は単に支配だけではなくて、一種の契約関係だといわれます。永原さんは鎌倉時代以前についてはそんなことはいわれませんが、室町戦国期になると、農民は領主に対して庇護される代償として年貢を出すのだといわれます。つまり、領主と農民の関係には双務性があって、庇護に対して年貢を出すというかたちです。これは永原さんの公共性論からいって当然のことなのです。
 網野さんは、永原さんは暴力と強制で領主制を捉えると批判します。鎌倉期以前について永原さんがそう考えていたのは事実でしょうが、室町期をふくめて考えると、そんなに議論枠組みは違わないのです。もちろん、永原さんは、農奴支配を強調されます。封建制というべきかどうかは別として農奴的な人身隷属があったことは事実ですから、この点では、私は永原さんの見方が正しいと思います。
 それから三つ目ですが、永原さんも網野さんも、中田薫という戦前の法制史家の仕事を前提にしています。中田薫は、日本の中世社会がヨーロッパと似ていて、ヨーロッパの水準によって日本社会を理解できると指摘した研究者ですが、その中田薫をどう読むかということを、お二人は考え続けたわけですね。石母田さんの議論が中田を前提にしていたことはよく知られていますが、戦後歴史学論からいうと、お二人は石母田さんの仕事の根拠を、中田まで戻って問われようとしたということになると思います。

――ようするに中田薫の「職」論ですか。
保立 ええ、その通りです。荘園制の土地所有なり土地関係は「職」という言葉で表現されるわけですが、その職を持っている人びとの間を年貢が動き、職の間で年貢が分割される。その職というものをどう考えるのかを最初に打ち出して「日本中世=封建制」論を組み立てたのが中田薫です。
 単純化していうと、網野さんは年貢所当は租税であるという中田説を認めた上で議論をし、永原さんはむしろ地代であるとして議論を組み立て直しました。ただ、それが国家的な性格を持っているということは、永原さんも網野さんも共通していわれますので、見かけほどは違わないのです。私は、年貢所当というのは租税でもあり地代でもある、いわゆる「租税と地代の一致」と考えていますが、お二人の議論を乗り越えていく上での要点はここにあると考えています。

ーーけれども、理論の上での相違は大きいのではないかと思いますが。
 保立 理論的に一番大きい相違点は、生産諸力の発展をどう捉えるか、ということです。永原さんは、生産諸力が百姓の小経営と私的な所有の中で徐々に蓄積され発展していくというところを、非常に重視されるわけです。網野さんは、そういう私的な所有と経営の中での発展ではなくて、いわゆる「無縁」の場、つまり山野河海や、共同体と共同体の境界、都市的な場での生産諸力の発展を第一とするわけですね。
 私は、折衷するようですけれども、言われていることは両方とも正しいと考えます。農民経営と村落の内部での生産諸力の発展も重要だし、無縁の場も重要である。その意味では、永原さんと網野さんの言われていることは、互いに補い合うものなんですね。
 問題は両方の関係と組み合わせです。我々は、お二人の言っていることを、両方とも正しいと仮定した上で乗り越えることを考えます。その場合、率直に言って、論理が透明で、論理を通すことに全力を傾けるのが、永原さんです。それに対して、これは歴史学者として非常に重要な能力なのですが、新しい史料と、新しい史料の読み方を追求し、その面白さを感性的に理解するのが網野さんです。
 職人としては、網野さんの方をどうしても大事に思いますけれども、歴史学全体として考える場合には、永原さんのいわれるように、論理と分析が通っていない歴史学はあり得ないということは明瞭です。我々は、努力すればどちらももてる世代です。


 歴史学の職能と責務、そして課題

――永原さんは、アカデミズム実証主義史学の「無思想」を指摘され、現実に向き合う姿勢を説かれました。虫の目をもちながら鳥の目をもつといいますか、個々の史料の分析に入りながら、トータルな視野を失わない総合の学たることを見失うべきではない、ということなのですね。
 保立 日本の歴史史料は、ものすごくたくさんあるのです。ヨーロッパや中国よりもたくさんあるので、実際に研究していると「無思想」にならざるをえないんです。永原さんはそれをよくご存知で、その上で、全体の見通しと理論、方法と思想がなくては、これだけ大量の史料の分析はできないという発言を繰り返されました。
 職業として日本の歴史を専門にし、研究している者にとっては、『20世紀日本の歴史学』を読んでいるとその通りということになるわけです。それを永原さんは学史として書いてくれ、それを共有し、そこから再出発しようと呼びかけてくれた。そういうことができる人は、なかなかいないわけです。
 ――たくさんある史料を分析する、歴史家の理論と方法、思想が問題である、ということなのですね。
 保立 現在、東京大学史料編纂所が中心になって、学界の協力を得て、平安時代、鎌倉時代の文献史料の基本部分を、コンピュータにフルテキスト入力したところです。ほかの分野でも歴史学の情報化は進んでいます。永原さんも『20世紀日本の歴史学』で、そうした研究体制と研究条件の拡充について、昔では考えられないことだといわれていますが、これによって、大量の史料を一望のもとに、理論的、全体的に統括して分析できるようにしたいと思っています。
 ともかく、歴史学者は基本的には虫の目になりますので、その職業的な義務は果たしてきていると思います。アカデミズムの歴史学にまず必要なことは、歴史史料を保存し、それを誰もが読みやすい形にし、提供をすることです。歴史学に委ねられている社会的な職能に関わる問題については、着実に成果を積み上げてきています。

 
 グランドセオリーを作り直す、二一世紀の歴史学へ

――『永原慶二著作集』を踏まえながら、二一世紀の歴史学はどう展開されていくのか、今後の課題についておうかがいします。
 保立 歴史学者にとっては、具体的な史料から見えてくる具体的な事実と、その上で組み立てられるイメージが、どうしても第一になります。
 実際には、永原さんだってそうだったわけです。永原さんの最後の著作である『苧麻・絹・木綿の社会史』(著作集第八巻に収録)は、まさに社会史です。永原さんがおばあさんの作ってくれた麻の服をずっと使っておられて、それへの思いが、この本には明らかに見られるわけですね。
 特に、現代の歴史家としては、過去の具体的なイメージを提供するというのは、非常に重要なことです。今の日本社会はバチアタリ社会ですから、日本の風土と歴史、文化に即した過去のイメージが、大量に破壊されて消えていっています。それを残すことは、文化の多様性を残すことに直結します。文化の多様性というのは、世界史的に見ても非常に意味が大きいわけですから、その多様性を維持するために尽力するというのは、歴史学者の主要な役割になります。
 もちろんそれには、他のさまざまな学問分野の協力が必要になります。とくに自然環境保護、いわゆるサステナビリティについて、自然科学分野の研究者との学際的な協力が必要になります。
ーーしかし、それだけでは迂遠な話しのように思いますが。とくに自然科学者は本質的に理論家というか、明解な図式を要求しますから、善意だけでは難しいのではないですか。
 保立 それはその通りで、結局、歴史のグランドセオリーを、もう一度作り直すことを考えざるをえません。それがなければ、過去を認識できないからです。歴史学は、多様な事実を総合して、その上で理論的な解析を加えて、透明な論理的理解をえたいと考えます。その場合、現代社会に対する論理的な理解を、方法的につきつめ延長する形で、過去を理解するということになります。
 ただし、これまでは、現代の市民社会あるいは資本主義社会の理解を延長するかたちで過去を理解するというのが基本でした。ヘーゲル、マルクス、ウェーバーなどすべてそうです。
 しかし、現在は、それでは済まなくなっています。つまり、第一には「二〇世紀社会主義」、自称社会主義なるものの体たらくです。これがどのような「社会構成」であったのかを論理的に明示しなければ、所詮、歴史理論は無力です。そして、私見では、ようするにこれは、集団所有を基礎としながらも、上位の代表集団が特権的・階級的支配を展開するというマルクスの『資本制生産に先行する諸形態』に描かれた論理が現代に実現してしまったということです。これによって集団所有・共同所有がかならずしも協和的なものではなく、強い階級的な性格をもつことがありうるという、石母田さんの首長制論や戸田芳実さんの議論など、戦後歴史学の内部で議論されていたことが劇的に証明されてしまった訳です。
 従来、社会構造論、社会構成体論というと、私的所有を基準にして組み立てられた訳ですが、こういう論争史をふまえると、私的な階級的所有と集団的な階級所有が融合してシステムを作り上げている構造こそが問題となります。これが論理的な帰結です。それはいわゆる「アジア的社会構成」に限った問題ではなく、ほとんど通時代的な問題です。しかも網野さんのいうような「無縁の場」の位置、「無所有」、境界的所有の位置がきわめて重要です。社会構成というのは、それらの所有形態の組み合わせによって出来上がるものですから、非常に多様になる。しかもそれに自然的・歴史的条件(空間・時間条件)の多様性が加わるのですから、四つ五つの範疇ですむようなものではなく、数百の単位で考えなければならないというのが、私の考え方です。
 たとえば柄谷行人さんでさえ、『世界共和国へ』(岩波書店、二〇〇六年)で、依然として原始社会、古代社会、封建社会、資本主義社会という枠組みで議論しています。しかし、それはマルクス段階でもヨーロッパにおける社会構成の変遷の素描なので、世界史をそれで解こうなどというのは無理な話しです。所詮、スターリン型のロシア・マルクス主義のシェーマにすぎません。すべてやり直すほかないのです。
 第二に問題なのは、現代世界における国民国家ごとの社会構成の多様性です。もちろん、現代は、基本的には、社会構成論の問題としては資本主義一本でいけます。ですからグローバル資本主義なのですが、しかし、だからこそ国民国家ごとの社会構成の特徴は、これが同じ資本主義社会か、というほど違ってくる。それを規定しているのが各地域の前近代社会のあり方です。もちろん、そこで問題となるのは、前近代社会そのものではなく、近代化の過程で「創造された」要素もふくみます。
 現代の世界史はそういうが過去からの規定を受けて、さまざまな矛盾を抱え込んでいます。たとえば原住民の抑圧にもとづいて形成されたアメリカ「銃社会」の本質的な野蛮性が、前近代ユーラシアの中心であったイスラム世界と衝突している訳です。世界史の総体分析のために、前近代社会論が必須になってきているというのがグローバル化の帰結です。
ーーそういうグランドセオリーは本当にできるのですか。
 保立 『永原慶二の歴史学』での対談で、質問者が永原さんに、どのようなグランドセオリーを考えるべきかと何度か食い下がっているのですが、永原さんは、それを考えるのはあなたたち若い人の責任だと取り合いませんでした。これは仕方ないのかもしれないと思います。
 しかし、我々としても見通しは暗くはありません。永原・網野の世代と明らかに違うのは、ここ二〇年ぐらいの間に、ヨーロッパや東アジアの歴史研究者との関係が日常的になってきたことです。海外の研究者にメール一本で疑問をきけるというのは決定的です。
 それから、ヨーロッパ・アフリカから南アメリカまで、どの地域の歴史についても、基本的な研究文献が自国語で読め、研究者の層が厚いなどというのは世界中で日本だけです。たとえばアミンだとか、ウォーラーステインだとかがいますけれども、ほとんど講座派段階での議論レヴェルと同工異曲でたいしたことはありません。大塚久雄・宮崎市定・井筒俊彦などをもった日本の歴史学界の実力というのは、総合力でみれば世界トップです。とくにやはりアジアに属しているというのが強みで、その意味でも、最近、中国・韓国の研究者と歴史教材とか歴史意識の問題で共同作業が積み重ねられてきたことは大きいです。
 心配は、何しろ研究条件が貧困なこと。とくに、政府財務省が学術・大学の恒常予算をどんどん削っていますから、後継者が確保できない。私の職場でも、毎年、助教の人件費を一人分づつ切っていかないとならない。実際に首切りなどということはできませんから、その分、事業費を削っていく。だから新しい人は採用できない。私はもうすぐ定年ですけれど、私の跡のポストは採用できないといわれています。
 大変なのは若い人たちです。トラップにはまったようなもので、その上、学術自身が衰退していく。補給を絶たれれば、それは必然的です。いったい何を考えているのか。それこそ「戦後」作ってきたものをすべて崩壊させたいのか。
 けれども、新しい世界史のグランドセオリーを考えなければならない時期に入っているのは客観的な状況の問題ですから、これは必然的に進むとは思います。結局、学術・理論より人間の方が大事ですけれども。
ーー最後に読者に何か付け加えたいことがありますか。
 保立 『永原慶二著作集』が完結しましたので、永原さんが何を言われたかを点検することが可能になりました。網野さんの著作集も刊行中です。二一世紀の歴史家にとって、この二つはとても大切なテキストです。そしてそれのみでなく、広く読書人にとっても、津田左右吉や三木清、鈴木大拙らの著作集を座右に置くのと同様に、常に立ち返って読み直す価値のある仕事だと思います。
                                    (了)

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