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2017年5月 3日 (水)

憲法的価値と未来社会

憲法的価値と未来社会

 憲法記念日なので、自分の心覚えのためこれは、2011年9月6日の記事ですが、憲法記念日なので、自分の心覚えのためもあって再掲します。
 率直にいって、自己の不明をはじますが、私は、これを書いた頃から憲法のことを真剣に考え始めたように思います。
 ともかく、憲法というものは、これを前提に政府が組織され、また平均的な社会的合意のレヴェルを代表している訳ですから、もちろん、違う意見があったとしても、十分に読んでおきたいと考えています(今はアメリカ憲法との比較読みに興味をもっています)。


 未来ということを考えた場合、私たちには、憲法があります。私は、いわゆる戦後のベビーブームの世代ですので、知らず知らずに憲法を、社会の未来、その理想を述べたものと考えることに馴れてきました。

 私などがそういう世代の最後に属するのかもしれませんが、いまの子供たちをみていると、私たちがともかくも「未来」「理想」を社会的に承認されたものとしてもてたというのは幸せであったと感じます。

 社会が理想を承認しているというのは、ぎゃくにいえば自己のいる社会への肯定感をもてるということです。もちろん、この肯定感の維持は憲法自身がいうように「不断の努力によって実現するほかはない」ということですが。

 日本国憲法には13条・14条に「個人の尊重と特権の否定、法の下の平等」、そして25条から28条に社会的な生存・教育・勤労の権利・義務が規定されています。これは個人権と社会権の基礎です。私は、このことの意味は重大だと考えます。これによって社会の理想はほぼ尽くされているからです。社会の理想というのはそれほど複雑なものではなく、単純なものです。

 もちろん、個人権と社会権を媒介する実態的な領域は、所有と財産権にあります。社会の構成のされ方の中心は所有と財産権にありますから、未来社会論ということになれば「所有」の実態がどうであるかが基本問題です。しかし、これも憲法26条の財産権の不可侵と「公共の福祉」による制約という規定が重要です。この財産権の不可侵と公共の福祉による制約の関係、つまり憲法上の制約が財産権の内容の構成にどこまで踏みこんでいるかは議論がありえますが、しかし、私は法的な規定としてみれば、財産権それ自体は本源的には不可侵のものとされなければならないのは当然のことであると考えます。

 そして、ぎゃくにいえば、財産権の不可侵と開放性は、かならずしも二律背反ではないでしょう。財産の開放性は私的権限の制約をふくみます。この点でも、基本的には日本国憲法は、未来社会論を考える上での必要な規定を揃えていると考えています。少なくとも子どもを前にして未来を語る分には、これで十分です。国の憲法を理想として語ることに何も制約はありません。

 もう一つ、個人権と社会権を媒介するより精神的な領域については、19条から21条に規定された思想・信条・表現の自由が規定されています。これも未来社会論を考える上で重要であることはいうまでもありません。私は、そのうちでも決定的なのは、表現の自由、広い意味での情報の自由であると考えます。これは社会的情報の共有化の原則につらなります。これは、この情報共有化原則は、現代の情報革命が社会的情報の私的所有を許容しないという傾向をもっていることに対応させて考えることができます。

 このように憲法は、個人権と社会権を規定した上に、さらに所有の不可侵と制約、情報の自由と公開原則を規定しているということになりますと、私は、少なくとも条文のみみれば、これは未来社会の社会構成の原則とほとんど区別はつかないと考えています。ワイマール憲法以来、世界各国の憲法で実現されてきた、このような憲法原則は、未来社会を考える上での憲法的合意となっています。それは未来にむけた社会の変革を考えていく上で、根本的な意味をもっているものと思います。これはロシア型の国家社会主義とは根本的に異なるものですが、一つの社会主義原則と考えてよいものだと思います。

 私などの考え方では、基本的には日本国憲法の原則は、社会の未来を、広い意味での「社会主義」と考えることになっているということです。これはフランス革命の「自由・平等・博愛」のスローガンが最初からもっていた傾向でもあります。エンゲルスは、社会主義について『空想から科学へ』という論著を出していますが、これをもじっていえば、未来社会論としては、すでに『空想から憲法へ』という時代になっていると思います。

 20世紀の歴史は、スターリンや毛沢東による犯罪的な国家共産主義によって非常に暗い道への迷い込みがありました。これは帝国主義や軍国主義の犯罪性や暗さ、あるいはナチズムや大東亜共栄圏のもった暴力の暗さより、考えようによっては、さらに暗いものです。「われ人生の半ばにして小暗き道に踏み入りぬ」という訳で、それは地獄への道でした。ソ連圏を中心とした二〇世紀の自称「社会主義」国家が、実際上、全体主義国家の一類型に過ぎなかったということは曖昧にできることではありません。私は、二〇世紀の自称社会主義は、国家によって総括された集団的所有が重層的に構成する社会、一つの独特な階級的・敵対的な社会構成であったと考えています。

 しかし、それだけに、「社会主義」自身については、社会の理想については逆に真剣に考えざるをえないはずです。

 日本国憲法13・14条は個人的所有の保障と特権的所有の否定です。また15条は公務員の任命・罷免権をうたったもので、特権的門地の否定と通ずる規定です。「国家階層制を完全に廃止して、人民の高慢な主人たちをいつでも解任できる公僕とおきかえ、見せかけの責任制を真の責任制とおきかえた」というパリコミューンについてのマルクスの評価に通ずるものがここにはあります。

 そして、25条から28条の規定は、教育をふくめ社会的な労働の尊厳に関わるもので、これは28条の勤労者の団結権をふくめて広く考えれば、労働の具体性・専門性にもとづくアソシエーションを社会のもっとも重要なシステムとして位置づけるということになっていると思います。

 日本国憲法にはさらに「戦争放棄」の規定があり、これが民族と国際性に関わる原則としてきわめて重大であることはいうまでもありません。

 私は歴史学者ですので、こういう憲法の許容する未来社会構想からふり返って、過去の世界、つまり歴史的な社会構成を考えるということがあってよいと思います。

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